第3話:大きな白猫と、ぬるま湯ミルク
草露に濡れた庭の土を踏みしめるたび、しゃく、しゃくと柔らかな感触がサンダルの底から伝わってくる。
マノンは両手に嵌めた厚手の綿軍手を一度パンと打ち合わせ、腰を落としながら慎重に生垣へと近づいた。
正面から見ると、事態の滑稽さはさらに際立っていた。
柊の生垣は、人の背丈ほどの高さがある。その枝がもっとも密生している地上三十センチほどの隙間に、見事なまでにまん丸の白い塊がすっぽりとめり込んでいた。
左右に激しく振られる太い尻尾。宙を必死に蹴り続けるたくましい後ろ足。
近づく足音に気づいたのか、生垣の向こう側から「フシャーッ!」と鋭い威嚇の息の音が漏れ聞こえてきた。どうやら中にいる主は、恥ずかしさと恐怖のあまりパニックの極致にあるらしい。
「はいはい、怖がらなくていいよ。今すぐ出してあげるからね」
マノンは穏やかな、少し低めの落ち着いた声で話しかけた。
王都の薬舗で、興奮した患者や怯える子供の相手をするときに無意識に使っていた調子だ。動物相手でも、甲高い声を出すより、低く静かな音で語りかけるほうが警戒心を解きやすい。
まずは生垣の状況を観察する。
柊の葉は硬く、縁にはギザギザとした鋭い棘が無数についている。このまま無理に引っ張れば、白くて柔らかな毛皮を巻き込み、皮膚を深く切り裂いてしまう危険があった。
マノンは軍手越しに、猫の腰回りに食い込んでいる太い枝を指先で探った。
一本、二本。枝が二股に分かれた頑丈な分岐点に、ちょうど猫の骨盤と分厚い腹肉ががっちりと噛み合ってしまっている。
「なるほどね、ここで突っかかっちゃったのね。……痛かったね、ちょっと待っててね」
マノンは枝のしなりを確認しながら、まずは猫の背中側を押さえつけている細枝を一本ずつ手で掴み、折らないよう優しく外側へと押し広げた。
パキリ、と微かな音を立てて枝の緊張が緩む。
次に、もっとも厄介な下側の太枝だ。マノンは足を踏ん張り、両手の親指と掌底を枝の根元に当てて、ぐっと全体重をかけて押し下げた。
ギィ、と生木がきしむ。
「よし、隙間ができたわよ。……よいしょっと!」
マノンは空いた片腕を差し入れ、猫のふかふかとした下腹部にそっと腕を回した。
その瞬間、触れた掌から驚くほど上質な、まるで極上の絹と羽毛を撚り合わせたような滑らかな毛並みの感触が伝わってきた。野良猫特有の脂っぽさや砂埃のざらつきなど微塵もない、信じがたいほど清潔で密集した純白のアンダーコート。
ぐっと腕に力を込め、後ろ足の付け根を支えながら、慎重に手前へと引き抜く。
――スポンッ。
小気味よい音とともに、ついに白い塊が生垣から抜けた。
「うわっ……重たい……っ!」
思わずマノンの口から本音の悲鳴が漏れた。
腕の中に収まったその生き物は、マノンの予想を遥かに超える重量感を持っていた。ずっしりとした手応え。米袋で言えば、ゆうに十キロ近くはある。
中型犬……いや、少し小柄な柴犬よりも明らかに重く、骨格が太い。
マノンはよろけそうになる足を踏ん張り、庭の柔らかな草の上にそっとその体を降ろした。
助け出された生き物は、着地と同時に素早く身を翻し、低い姿勢をとった。
柊の落ち葉を撒き散らしながら、マノンから二歩ほど距離を取り、前足を突っ張って背中の毛を逆立てる。
その姿を正面から捉えた瞬間、マノンは思わず息を呑んだ。
「……猫、よね……? やっぱり」
姿形は、間違いなく猫だった。
しかし、その存在感はマノンの知るいかなる飼い猫ともかけ離れていた。
体長は優に八十センチを超えている。胸板は分厚く、四肢の筋肉は毛皮の下でしなやかな鉄線のように引き締まっている。耳の先端にはピンと尖った美しい房毛が生えており、額から鼻筋にかけてのラインは、野性味を残しながらも陶器のように気高い。
何より印象的だったのは、その瞳だった。
濡れた宝石のように澄み渡った、深みのある黄金色。瞳孔は縦に細く引き絞られ、じっとマノンの一挙手一投足を観察している。
そして――。
「グルルルルル……ッ!」
低く、大気を微かに震わせるような重低音が、その喉の奥から響き渡った。
威嚇だった。犬の唸り声にも似た、腹の底に直接響くような低い警戒音。
耳をぴったりと真横に寝かせ、俗に言う「イカ耳」の状態で、唇の端を吊り上げて鋭い白い牙を覗かせている。その気迫は、普通の人間であれば悲鳴を上げて腰を抜かすほどに圧倒的なものだった。
だが、十年間にわたって理不尽に激昂する王都のクレーマーたちと対峙し続けてきたマノンの神経は、この程度の威嚇ではびくともしなかった。
むしろ、マノンの目には、その恐ろしげな態度の裏側にある本質がありありと見えていた。
(耳をペタンと倒して、尻尾を足の間に巻き込んでいる……。怒っているんじゃなくて、ものすごく怖がっているんだわ)
野良猫は、自分が窮地に陥ったときほど大きく見せようとして威嚇するものだ。
生垣に頭を突っ込んで身動きが取れなくなっていたところを、見知らぬ人間に触られたのだから、パニックになるのも無理はない。
マノンは背筋を伸ばしたまま動かず、目を細めて視線を少しだけ逸らした。猫の世界では、目をじっと見つめ続けるのは敵対の合図だ。
「怖がらせてごめんね。でも、生垣から出られてよかったわ。怪我は……うん、棘の擦り傷もなさそうね」
軍手を外し、両手を広げて何もないことを示す。
大きな白猫は、マノンの穏やかな態度に拍子抜けしたのか、あるいは喉の奥から漏れ出る自分の唸り声が途切れるほど困惑したのか、金色の瞳を瞬かせた。
スウ、と白猫の鼻先が微かに動く。
マノンの体から放たれている、あらゆる興奮や魔力毒を静かに中和する「波長ゼロ」の無害な空気。それに触れた白猫の全身から、ピンと張り詰めていた殺気が、ほんの少しだけ抜け落ちるのが分かった。
そして、マノンのお腹が、くぅ、と小さく鳴った。
同時に、白猫のお腹からも――ぐぎゅるるる、と、地鳴りのような猛烈な音が響いた。
「ふふっ」
マノンが思わず吹き出すと、白猫はハッとしたように口を閉じ、耳をピクピクと動かして気まずそうに視線を泳がせた。
「お腹が空いているのね。ちょっと待っててね、いいものがあるから。逃げないで待っててくれたら嬉しいな」
マノンは白猫を驚かせないよう、ゆっくりとした足取りで縁側へと戻り、土間の台所へと入っていった。
***
台所へ戻ったマノンは、素早く腕まくりをした。
調剤薬舗で働いていた経験から、動物に対する栄養管理の基礎知識は頭に入っていた。特に猫の消化器官は繊細だ。人間用の味付けの濃い料理や、冷たすぎる飲み物は絶対に与えてはならない。
「まずは水分補給ね」
引っ越しの道中で買っておいた、ガラス瓶入りのヤギミルク。
冷蔵庫などない時代だから冷暗所に置いてあったものだが、それでも秋の朝の空気で冷え切っている。これをそのまま与えれば、冷たい刺激で確実に下痢を引き起こしてしまう。
マノンは小さな手鍋に井戸水を少量沸かし、そこにヤギミルクを注ぎ入れた耐熱の深皿を浸して湯煎にかけた。
指先を浸し、熱くも冷たくもない「人肌」のぬるま湯程度に温まったのを確認して火から下ろす。ほんの少しだけ白湯を足して濃度を薄め、飲みやすく整えた。
そして、メインディッシュだ。
「取っておいてよかったわ」
今朝、具だくさんスープを作る際、マノンは味付けをする前の段階で、ブロックベーコンの隣にあった「スープ用の豚肩肉」の塊から、脂身の少ない赤身の部分を二切れほど切り落とし、塩を入れない真水で柔らかくなるまで下茹でしておいたのだ。
まだほんのりと温かいその茹で豚肉を作業台のまな板に乗せる。
包丁で細かく刻むのではなく、清潔に洗った指先を使って、肉の繊維に沿って細かく細かく裂いていく。こうすることで肉の断面が広がり、豚肉本来の甘い香りがふわりと立ち上る。猫の小さな顎でも咀嚼しやすく、喉に詰まらせる心配もない。
素朴な平皿の真ん中に、細かく裂いた山盛りの茹で豚肉。
その隣に、ぬるま湯で割ったヤギミルクの深皿。
お盆に乗せると、肉の素朴な湯気とともに、マノンが朝から醸し出している清らかな生活の匂いが混ざり合って漂った。
「お待たせ。まだそこにいてくれるかしら」
お盆を抱えて庭に戻ると、白猫はその場を動いていなかった。
逃げるどころか、前足を綺麗に揃えて行儀よく座り、耳をこちらへピンと立ててマノンの手元を凝視していた。その鼻先は、風に乗って運ばれてくる肉の匂いを捉え、ヒクヒクと小刻みに蠢いている。
マノンは白猫の正面、一メートルほど手前の草の上に腰を下ろした。
無理に近づいて押し付けることはしない。猫自身に選ばせるのだ。
地面にお盆を置き、お皿を白猫の目の前へと優しく滑らせる。
「はい、どうぞ。お腹に優しいぬるま湯ミルクと、味付けしていない茹でたお肉よ。冷たいとお腹壊しちゃうから、ちゃんと温めてあるからね」
白猫の金色の瞳が、皿の上の肉とミルクに釘付けになった。
喉をごくりと鳴らす音が、静かな庭に響く。
しかし、白猫はすぐには飛びつかなかった。慎重に、すり足で一歩前へと進み出る。首を長く伸ばし、皿の縁に鼻先を近づけ、入念に匂いを嗅ぎ始めた。
フン、フン、と荒い鼻息が肉を揺らす。
白猫――霜狼神フェンリルにとって、それは想像を絶する衝撃だった。
ただの肉ではない。ただの乳ではない。
この料理を作った少女の「波長ゼロの絶対中和体質」が、調理の過程で余すところなく食材に転移していた。
数千年間、フェンリルを苛み続けてきた脳を焼くような瘴気熱、体内で暴れ狂う過剰な魔力の濁流。それらを優しく包み込み、跡形もなく消し去る奇跡のエリクサーのような気配が、立ち上る湯気の中に満ち満ちていたのだ。
(こ……これは……っ!?)
白猫の双眸がカッと見開かれた。
矜持も、警戒も、神獣としてのプライドも、猛烈な空腹と本能の歓喜の前に吹き飛んだ。
ペロリ、と一口、ぬるま湯ミルクを舐めた。
その瞬間、白猫の全身の毛がゾクゾクと波打った。
胃に落ちた温かいミルクが、まるで干上がった大地に染み込む清流のように、体内の熱毒を洗い流していく。痛みが消える。視界が澄み渡る。生まれて初めて味わう、完璧な安寧。
「フガッ……! ガツ、ガツガツッ……!」
次の瞬間、白猫はまるで大型の掃除機のような凄まじい勢いで皿にかじりついた。
もはや上品さのかけらもなかった。細かく裂かれた豚肉を、舌を器用に巻き込んで一度に大量に口へと放り込み、咀嚼する間も惜しむように飲み込んでいく。
肉を平らげると、今度はミルクの皿に顔を突っ込み、バシャバシャと音を立てて飲み干した。
勢い余ってお皿が草の上をズリズリと前へ滑っていく。白猫は前足でお皿を器用に引き寄せ、皿の表面に残ったわずかな肉汁の一滴、ミルクの白い筋の一筋に至るまで、ザリ、ザリと舌のヤスリで削り取るように舐め回した。
「ふふ、そんなに急いで食べたら喉に詰まっちゃうわよ。お皿まで食べちゃいそうね」
マノンは微笑みながら、空になったお皿をそっと引き取ろうと手を伸ばした。
その時だった。
ピカピカに舐め上げられた皿から顔を上げた白猫が、ふと動きを止めた。
金色の瞳が、マノンの顔をじっと見つめる。
そして――。
――ツン。
ひんやりと湿った黒い鼻先が、マノンの伸ばした指先に、吸い付くようにそっと触れた。
猫が相手に対して全幅の信頼を寄せたときに行う、最高の挨拶。
「……あ」
マノンが小さく声を漏らした瞬間、白猫は大きな体をぐっとマノンにすり寄せてきた。
頭を下げ、額をマノンの膝の上に思い切り押し付けてくる。
そのまま、ずっしりとした体重を預けながら、マノンのエプロンの裾に「ゴシ、ゴシ、ゴシ」と激しい勢いで頬を擦り付け始めた。
フェロモンを塗りたくり、「お前は私のものだ、絶対に離さない」と主張する、猛烈なマーキング行為だった。
「わ、わっ……ちょっと、くすぐったいわよ!」
マノンが笑い声を上げると、白猫はさらに甘えるように、マノンの手のひらに自分から頭をぐいぐいと潜り込ませてきた。
触れてくれ、撫でてくれ、もっとこの心地よい掌を寄越せ、と言わんばかりの猛烈なアピール。
マノンは観念して、軍手を外した素手で、白猫の耳の後ろの分厚い毛皮に指を埋めた。
指先を少し立てて、円を描くように優しく揉みほぐす。
「ゴルルルルルル……ゴロゴロゴロ……ッ」
今度は威嚇の重低音ではなかった。
大気を震わせるほどの、地響きのような大音量の「喉鳴らし」だった。
白猫はトロンと目を細め、口元をわずかに緩ませて、完全に脱力していた。
喉の下を撫でてやると、首をぐうっと限界まで伸ばして顎を突き出し、至福の表情を浮かべる。ピンク色の舌先が口の端から少しだけペロッとはみ出していた。
ざらりとした温かい舌が、お礼を言うようにマノンの手の甲を何度か丁寧に舐め上げる。
「よかった。美味しかったのね」
マノンは両手でその大きな丸い頭を包み込み、ふかふかの額に自分の額を軽くこつんと当てた。
毛並みからは、秋の陽だまりのような、どこか懐かしく温かい匂いがした。
全身真っ白で、丸々としていて、まるで搗きたての大きなお餅のようだ。
王都での十年間、孤独と疲労に押し潰されそうになっていたマノンの胸の中に、じんわりと温かな火が灯っていく。
「こんなに白くて、大きくて、丸いんだもの。……今日からあなたの名前は『タマ』ね」
白猫――神獣フェンリルは、そのあまりに素朴で庶民的な名前に一瞬だけ耳をピクリと動かした。
しかし、マノンの指先が極上の手つきで眉間を撫で下ろした瞬間、もはやどうでもよくなったらしい。
「グルルゥ……(ゴロニャン)」と甘えた声を漏らし、マノンの膝の上に重たい顎を完全に預けて、満足そうに目を閉じたのだった。
秋の柔らかな朝陽が、庭の二つの影を優しく照らし出していた。
マノンは膝の上の確かな温もりに微笑みながら、自分の新しい生活が、想像よりもずっと賑やかで温かいものになりそうな予感に胸を弾ませていた。
――だが、その平穏な庭を、裏山の深い木陰から血走った目で見つめている男たちがいることに、マノンはまだまったく気づいていなかった。




