第2話:縁側の焼き立てパンと、生垣のお尻
ち、ち、ち、と高い調子で啼く小鳥のさえずりで、マノンはゆっくりと瞼を開けた。
耳を劈くような目覚まし時計のベルの音もなければ、階下から響く薬舗の店主の怒鳴り声もない。締め切った雨戸のわずかな隙間から、細い針のような白銀の朝の光が差し込み、宙を舞う埃の粒をキラキラと照らしている。
薄い藁布団の上で、ぐうっと両腕を天井へ伸ばした。
背骨が一つずつ心地よい音を立てて伸びていく。十年ものあいだ、朝起きるたびに胃の奥に鉛を呑み込んだような重苦しさを感じていたのが、嘘のように消え去っていた。頭の芯が驚くほど軽くて、清々しい。
「……そっか。もう、急いで行かなくていいんだ」
声に出して呟くと、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
マノンは掛け布団を跳ね除け、身軽に起き上がった。寝間着の上から昨日の生成りの麻エプロンを引っ掛け、帯を腰の後ろできゅっと結ぶ。
土間に降りてサンダルを突っかけると、朝の冷気が足首をひやりと撫でた。
ガラガラと音を立てて雨戸を開けると、眩いばかりの朝陽が一気に居間へと流れ込んできた。昨晩、腕が痛くなるまで水拭きした飴色の床板が、黄金色の光を浴びてしっとりと輝いている。庭の草木にはびっしりと朝露が宿り、まるで無数の小さな硝子玉を散りばめたようだった。
深呼吸をすると、湿った針葉樹と冷たい山の空気が肺いっぱいに満ちていく。
まずは庭の古井戸へ向かい、昨日のようにレバーを上下させて冷水を汲み上げた。手桶に張ったばかりの氷のように冷たい地下水に両手を浸し、顔を洗う。
ピシッと肌が引き締まり、思わず「んっ」と小さな声が漏れた。手ぬぐいで顔を拭うと、視界が一気に鮮明になる。
「さあ、朝ご飯にしましょう」
マノンの口元が、自然と緩んだ。
昨晩のうちに、台所の片隅で小さな仕込みをしておいたのだ。
素焼きの大きな深鉢。その中に、王都の下町で買ってきた目の粗い準強力粉と、ほんの少しの塩、干し葡萄から起こした自家製の乾燥酵母、そして井戸水を合わせ、粉っぽさがなくなるまで木べらでざっくりと捏ねておいた丸パンの生地だ。
夜のあいだ、秋の冷え込みの中でじっくりと時間をかけて低温発酵させた生地は、鉢の中でふっくらと二倍ほどに膨らんでいた。
濡れ布巾をそっと持ち上げると、ぷんと甘酸っぱい酵母の香りと、熟成された豊かな小麦の香りが鼻腔をくすぐる。
指先に打ち粉をつけ、生地の中央をぽすんと突いてみる。指を抜いても穴が塞がらない、完璧な発酵具合だった。
マノンは嬉しくなりながら、土間の片隅に鎮座している古い薪オーブンへと向かった。
前の住人が残していってくれた、武骨な鋳鉄製のオーブンだ。昨日のうちに煙突の煤を払い、焚口の灰を綺麗に掻き出しておいた。
乾燥した杉の小枝と枯葉を丸めて焚口の奥に敷き、火打ち石を打ち合わせる。カチッカチッと乾いた金属音が響き、火花が枯葉に落ちると、チロチロと頼りない小さな赤い舌が生まれた。ふう、ふう、と優しく息を吹きかけると、煙が立ち上り、パチパチと音を立てて小枝へ燃え移っていく。
そこへ、少し太めの広葉樹の薪を二本、火を塞がないよう交差させて滑り込ませた。
ゴオオ、と煙突へ向かって空気が吸い込まれる低い吸気音が鳴り、力強い炎が鉄の炉を温め始める。薪が爆ぜる芳ばしい木の匂いが、土間のひんやりした空気に混ざり合っていった。
オーブンが温まるのを待つあいだに、手際よく調理を進める。
捏ね鉢から生地を取り出し、木製の作業台の上へ。手のひらで優しく押して余分なガスを抜き、包丁で手頃な手のひらサイズに四つに切り分ける。
切り分けた生地の端を内側へ巻き込むようにして、きゅっきゅと丸めていく。手のひらの中で転がすたびに、生地の表面がつやつやと張りを帯び、ふっくらとした愛らしい球体になっていく。濡れ布巾をかけて少し休ませているあいだに、今度は小鍋の準備だ。
二口のかまどの片方に、小さな鉄鍋を置く。
引っ越しの荷物の中から取り出したのは、王都を出る前に肉屋の店先で手に入れた、豚バラ肉の燻製――しっかりと塩漬けにされ、樫の木の煙で燻された分厚いベーコンの塊だった。
親指ほどの厚みに贅沢に切り落とし、油を引かずに熱した鉄鍋へ投入する。
ジューッ、と耳をくすぐる小気味よい音が響き、あっという間に食欲をそそる芳醇な燻製香と豚の甘い脂の匂いが立ち込めた。
ベーコンからじわりと透明な脂が染み出してきたところへ、乱切りにした根菜たちを放り込む。
道中の宿場で買った白カブ、小ぶりの人参、それに皮を剥いて一口大に切った男爵芋。
木べらでざっと油を回し、野菜の表面に艶が出たところで、汲みたての井戸水をひたひたになるまで注ぎ入れる。
味付けは、ほんの少しの粗塩と、薬舗の店先で安く分けてもらっていた乾燥ローリエの葉を一枚だけ。
余計な調味料はいらない。良質な肉の塩気と出汁、それに野菜本来の甘みがあれば、それだけで極上のスープになることを、マノンは幼い頃に祖母の台所で教わっていた。
鍋の蓋をして、かまどの熾火でコトコトと煮込み始める。
その頃には、薪オーブンの鉄板がしっかりと熱を蓄えていた。
マノンは丸めておいたパン生地の表面に、よく研いだナイフでスーッと十文字の切れ目を入れた。鉄板に並べ、オーブンの重い扉を開けて滑り込ませる。
バシッ、と鉄の扉を閉めると、あとは熱と薪の力に任せるだけだ。
十数分が過ぎた頃、台所と土間は、夢のように幸せな匂いで満ち満ちていた。
小鍋の蓋の隙間から、プシュプシュと白い蒸気が吹き出し、コトコト、コトコトとリズミカルな煮沸の音が響いている。
そしてオーブンからは、小麦が香ばしく焼き上がる、あの甘く香ばしい匂い。
厚手の布で手を包み、オーブンの扉をゆっくりと引いた。
「わあ……っ」
思わず歓声がこぼれた。
十文字に入れた切れ目がぷっくりと綺麗に割れ、表面はこんがりと濃い狐色に色づいている。
木べらで取り出したパンの底を指先で軽く叩いてみると、コンコンと乾いた良い音が返ってきた。外側はパリッと香ばしく、中は驚くほどふんわりと焼き上がっている証拠だ。
小鍋の火を止め、おたまですくうと、角の取れた根菜が透き通るような琥珀色のスープの中で柔らかく揺れた。ローリエの清涼な香りが、豚肉の濃厚な旨味を上品に引き締めている。
木製のお盆の上に、焼き立ての丸パンを二つ。
ぽってりとした素朴な陶器の深皿に、湯気を立てる具だくさんのスープをたっぷりと注ぎ、木のスプーンを添える。
マノンはそのお盆を両手で大切に抱え、南向きの縁側へと向かった。
縁側の引き戸を開け放ち、飴色に光る板の上に腰を下ろす。
秋の爽やかな風が、ふわりと前髪を揺らした。空は吸い込まれそうなほど青く高く、遠くの山並みが朝の光に洗われて鮮やかに稜線を描いている。
マノンは行儀悪く足をぶらぶらと揺らしながら、まずはスープをスプーンですくった。
フーフーと息を吹きかけ、そっと口に含む。
「……あたたかい……」
じわり、と身体の隅々まで染み渡るような滋味。
カブは口の中でとろりとほどけ、人参の素朴な甘みと、じっくり煮出されたベーコンのコクが舌の上いっぱいに広がる。余計な雑味は一切ない。塩とローリエと水、そして素材の命がそのまま溶け出したような、身体が心の底から求めていた味だった。
続いて、まだ素手で持つのが熱いほどの丸パンに指をかける。
パキリ、と表面の薄い皮が心地よい音を立てて割れ、中から真っ白な湯気が立ち上った。
焼きたてのパンの断面は、気泡を抱いて絹のように柔らかく輝いている。
ちぎったパンの端を、惜しげもなくスープの皿へと浸した。
じゅわっ、と琥珀色のスープをたっぷりと吸い込んだパンを、口の中へ放り込む。
カリッとした香ばしさと、スープを含んでとろけるような生地の甘み。噛み締めるたびに小麦の素朴な風味が弾け、スープの塩気と完璧な調和を奏でる。
「んんーっ……!」
美味しさのあまり、マノンは縁側で足をパタパタと揺らし、目を細めて天を仰いだ。
王都にいた頃の朝食といえば、薄暗い下宿の部屋で、水で無理やり流し込むパサパサの黒パンだった。急いで飲み込まなければ遅刻してしまうという焦燥感に追われ、味など感じたことすらなかった。
それが、いまはどうだろう。
青空の下、自分が丹精込めて作った温かいスープと、焼き立てのパンを、誰にも急かされることなく味わっている。
自分の咀嚼する音と、小鳥の声と、風の音しか聞こえない。
世界にはこんなにも贅沢な時間があったのだと、二十八歳になって初めて知った気がした。
もう一口パンをちぎり、スープに浸そうとした、その時だった。
ガサリ。
庭の静寂を破って、不意に何かが擦れ合うような重たい音が響いた。
風の音ではない。
マノンはパンを持ったまま手を止め、まじまじと庭の隅へと視線を向けた。
敷地の東側、隣の雑木林との境界を区切っている柊の生垣。
濃い緑色の棘のある葉が密生しているその生垣の根元あたりが、不自然に激しく揺れていた。
ガサガサ、ボキリ。
小枝がへし折れる音とともに、何かがもがいている。
「え……? 何かしら、猪……?」
マノンは身を硬くし、息を殺して様子を窺った。
山奥の古民家だ。野生動物が出ても何ら不思議ではない。もし凶暴な肉食獣だったら、すぐに家の中へ逃げ込んで雨戸を閉めなければならない。
だが、生垣の葉を押し分けて突き出してきた「それ」を見た瞬間、マノンの警戒心は別の感情へと上書きされた。
――ぽてん。
生垣の隙間から飛び出してきたのは、驚くほど巨大で、驚くほど真っ白な、丸々とした「お尻」だった。
「……え?」
マノンは思わず瞬きを繰り返した。
白くて、丸くて、信じられないほど毛並みが豊かなお尻だ。純白の羊毛のように密生した毛は、朝の光を浴びて白銀色にきらきらと光り輝いている。
そしてその中央からは、まるで大人の腕ほどもある極太でフサフサの尻尾が生えており、それが焦ったように左右へ激しくビタン、ビタンと振られていた。
下の方では、これまた異様に太くてたくましい二本の後ろ足が、空を掻くようにジタバタとじたばた宙を蹴っている。
肉球は大きく、引き締まった黒褐色。けれど、生垣の枝にがっちりと腰が引っかかってしまっているらしく、いくら後ろ足をバタつかせても、前にも後ろにも進めていないようだった。
「フゴッ、フゴッ……ウグゥ……ッ!」
生垣の向こう側――おそらく頭が突っ込んでいる側から、くぐもった、情けない唸り声が漏れ聞こえてくる。
(……な、何あれ……?)
マノンは口元に手を当て、じーっとその白い塊を観察した。
大きさは、普通の中型犬……いや、下手をすれば大型犬の成犬ほどもある。
けれど、あの丸みを帯びたしなやかな骨格、太くて長い尻尾のしなり方、そして後ろ足の関節の付き方は、犬というよりも――。
「猫……? でも、あんなに大きな猫がいるかしら……?」
マノンの知る街の野良猫といえば、ゴミを漁って痩せこけた、小柄なトラ猫や黒猫ばかりだった。
だが、いま目の前で生垣に挟まっている白い塊は、どう見ても猫のフォルムをしている。それも、栄養状態が良すぎるのか、丸々と太っていて毛並みは極上、お尻の肉付きは信じられないほどふくよかだった。
ジタバタ、ジタバタ。
白い後ろ足が必死に空を蹴る。
太い尻尾が生垣の柊の棘に引っかかりそうになり、そのたびに「フニャァッ!」と裏返った悲鳴のような声が生垣の向こうから響く。どうやら、頭から勢いよく生垣に突っ込んだものの、肩とお腹の肉が引っかかって抜けなくなってしまったらしい。
(ふふっ……あはは、何やってるのかしら)
張り詰めていた空気が一気に抜け、マノンは思わず吹き出してしまった。
田舎の野良猫というのは、王都の猫よりもずいぶんと大柄で、ずいぶんと呑気なのだろうか。
もしかすると、マノンが縁側で食べている焼き立てのパンや、ベーコンとスープの香ばしい匂いに釣られて、森からふらふらとやってきたのかもしれない。そして、早くご飯にありつきたい一心で、生垣の隙間に頭から突撃し、そのまま自爆したのだ。
「まったく、食いしん坊さんねぇ」
マノンはスープのお皿を縁側に置き、立ち上がった。
あんなに激しくもがいていたら、柊の鋭い棘で皮膚を傷つけてしまうかもしれない。太くて立派な毛並みに傷がついたら可哀想だ。
――もちろん、マノンには知る由もなかった。
その生垣の向こう側で、頭を突っ込んでいる「それ」の正体を。
数千年の封印から目覚め、極北の永久凍土より山を越えて飛来した、神代の生ける天災。
触れるものすべてを絶対零度で凍結させ、かつて一つの古代王国を滅亡に追いやったと神話に語られる伝説の神獣――『霜狼神フェンリル』。
その神獣が、なぜこんな無様な姿を晒しているのか。
理由は極めて単純にして、フェンリルにとっては生死に関わる切実なものだった。
数千年のあいだ体内に溜め込みすぎた過剰な瘴気熱により、フェンリルは全身を灼かれるような激しい頭痛と狂気の発作に苦しんでいた。森を狂乱のまま彷徨っていたところ、突如としてこの山裾の平屋から、信じがたい「甘やかな波動」が風に乗って漂ってきたのだ。
それは、暴走する魔力毒を瞬時に中和し、魂の渇きを潤す至高の浄化の気配。
理性を完全に失った神獣は、本能の命じるままにその発生源へと猛ダッシュした。しかし、古民家を取り囲む柊の生垣に気づいた時にはすでに手遅れで、ブレーキが間に合わず、時速数百キロの勢いのまま頭からズボリと突っ込んでしまったのである。
そしていま、神獣の脳内はパニックに染まっていた。
(ぬ、抜けぬ……! 我が神力が、なぜかこの庭から漂う無気力な力場のせいで霧散し、力が入らん……! だ、誰か……いや待て、何者かが近づいてくる気配がする……! 我がこのような無様な姿を人間に見られるなど、神獣としての矜持が……ッ!)
そんな神獣の誇りなど露知らず。
マノンは土間へ戻ると、庭仕事用にトランクから出しておいた厚手の軍手を両手にはめた。
噛みつかれたり引っかかれたりしたら危ないからという、元・薬舗員らしい現実的な自衛措置である。
「よし。痛くないように、すぐ出してあげるからね」
サンダルを履き直し、マノンは縁側から庭の地面へと軽やかに飛び降りた。
朝露を踏みしめながら、白くて丸い、じたばたともがく巨大なお尻に向かって、ゆっくりと足を進めていくのだった。




