第1話:有給消化の果て、森の平屋を買いました
毎朝六時十五分、錆びた目覚まし時計のけたたましい金属音で跳ね起きる生活を、きっかり十年間続けた。
王都の中心街、大通りに面した『聖ルキア中央調剤薬舗』。それがマノン・デュランの戦場だった。
天井まで届く重厚な樫の木の薬棚には、何百種類もの乾燥生薬、鉱物粉末、蒸留精油の小瓶が所狭しと並んでいる。助手の制服である生成りの綿ワンピースに袖を通し、麻の前掛けをきつく結んだ瞬間から、息をつく暇もない一日が始まる。
処方箋の文字を血眼で確認し、乳鉢と乳棒で苦い粉末をすりつぶす。ミリグラム単位の狂いも許されない調合を指先が痛くなるほど繰り返しながら、同時にカウンター越しに飛んでくる怒声を処理しなければならない。
「まだ薬が出ないのか! こっちは熱があるんだぞ!」
「昨日の軟膏、効き目が薄いじゃないか。金を返せ!」
頭を下げ、愛想笑いを張り付け、胃をキリキリと痛めながら謝罪の言葉を並べる。昼食は冷え切った固い黒パンを三口で胃に流し込み、夕方には足が鉛のように浮腫んで靴の中で悲鳴を上げる。閉店後も帳簿の計算と欠品補充に追われ、四畳半の下宿に転がり込むのはいつも深夜、日付が変わる頃だった。
変化が訪れたのは、二十八歳の誕生日を迎えた翌週の火曜日だった。
いつものように洗面台の前に立ち、歯を磨こうとしてふと鏡を見た。
そこに映っていたのは、かつて祖母から「栗色の髪が綺麗だね」と褒められた面影など微塵もない、土気色の肌をした見知らぬ女だった。
目の下には濃い紫色の隈がこびりつき、頬はげっそりとこけ、唇は渇いてひび割れている。何より、光を失って濁った自分の瞳を見た瞬間、マノンの頭の中でぷつりと、細い糸が切れる音がした。
(……ああ、もう無理だ)
悲鳴でも絶望でもなく、それはあまりにも静かな諦観だった。
このままここにいたら、私は自分の手で自分の命を調合してすり潰してしまう。死んだように生きて、ある日ぽっくり倒れて、誰にも気づかれずに片付けられるのだ。そんな人生のために、十年間必死に耐えてきたわけじゃない。
その日の午後、マノンは十年分の有給休暇の残日数を記した書類と、退職届を薬舗の店主の机に叩きつけた。
店主は目を丸くし、次いで顔を真っ赤にして罵倒の言葉を並べ立てた。「恩知らずめ」「代わりなどいくらでもいる」「今辞めたら路頭に迷うぞ」。
けれど、マノンの耳にはその声が、遠い雑音のようにしか聞こえなかった。
十年間の激務と引き換えに手元に残ったのは、一度も使う暇がなかった莫大な退職金と、質素に暮らして貯め込んだ硬貨の詰まった革袋。
これで十分だ。誰の評価もいらない。誰の機嫌も取りたくない。私は、私の人生を買い戻す。
それからの行動は、我ながら呆れるほど早かった。
王都の下町にある怪しげな不動産屋の片隅で見つけた、一枚の黄ばんだ図面。
『西の辺境、フォレスト領・山裾の平屋古民家。築四十年、敷地広大(家庭菜園・裏山付き)。前所有者死去につき格安売却』
王都から乗り合い馬車に揺られること丸三日。文明の匂いなど欠片もしない、深い深い原生林の入り口にある物件だった。
普通なら若い独身女性が選ぶはずのない僻地だが、マノンにとっては願ってもない極楽浄土に見えた。人がいない。馬車の騒音がない。理不尽に怒鳴り込んでくる客も、嫌味を言う店主もいない。
マノンは貯金の三分の一をはたいてその平屋を買い取り、残りの二分の一を換金性の高い金貨にしてトランクの底に隠し、身の回りの最低限の荷物だけをまとめて王都を飛び出した。
***
「おいおい、嬢ちゃん。本当にここでいいのかい? 周りには何もないぜ。ここから一番近い麓の村まで歩いて半刻(一時間)はかかるぞ」
雇った荷馬車の御者が、心配そうに眉根を寄せて荷台を振り返った。
「はい、ここで大丈夫です。運んでくださってありがとうございました」
マノンは旅費を多めに包んで渡し、去っていく荷馬車の轍を見送った。
山あいを抜ける乾いた風が、マノンの栗色の髪をふわりと撫でていく。
鼻腔を満たしたのは、王都のあの鼻を突く石炭の煙や馬糞の悪臭ではなく、湿った黒土と青々とした針葉樹、そして太陽の光を浴びた乾いた草の匂いだった。肺の底まで澄んだ空気を吸い込むと、十年分の毒素が喉から吐き出されていくような錯覚を覚える。
目の前に佇むのは、今日から自分の城となる平屋の木造家屋だった。
手入れされていない庭には腰の高さまで雑草が生い茂り、生垣の柊はあちこち枝が伸び放題になっている。外壁の杉板はところどころ風雨に晒されて灰色に変色し、軒先の瓦には苔が生えていた。
けれど、建物の骨組みは驚くほどしっかりしていた。
敷居を跨いで土間に足を踏み入れると、ひんやりとした古い木の匂いと、長い間締め切られていた部屋特有の埃っぽい空気が混ざり合って漂ってくる。
「お邪魔します……じゃなくて、ただいま、ね」
誰もいないがらんどうの空間に、自分の声が小さく反響した。
土間には頑丈な石造りのかまどが二口。奥には板張りの台所があり、さらにその先には八畳ほどの居間と、小さな寝室が二つ。そして居間の南側には、庭に向けて大きく開かれた、幅の広い立派な縁側が続いていた。
縁側の引き戸を開け放つと、視界いっぱいに眩いばかりの緑が飛び込んでくる。手入れのされていない庭の向こうには、どこまでも続く雑木林と、秋の澄み渡る青空。
ギシ、と床板を踏みしめながら縁側に腰を下ろしてみる。
板は少し日焼けして乾燥していたが、腐って抜けるような気配はない。前元の持ち主が、きっと大切に手入れしながら暮らしていたのだろう。手のひらで撫でると、乾いた木の温もりがじんわりと伝わってきた。
「よし。まずは、お掃除からね」
マノンは大きく息を吐き、袖をまくり上げた。
今日から誰の指図を受ける必要もない。すべてを自分の手で、自分の納得のいく形に整えていくのだ。
トランクから作業用の古着を取り出して着替え、手ぬぐいで髪を後ろにきゅっと束ねる。
まず向かったのは、庭の片隅にある手押しポンプ付きの古井戸だった。
サビついたレバーを握り、呼び水を注いで何度も上下させる。キイキイと耳障りな金属音が静かな山に響き、十数回ほど上下させたところで、ごぼり、と重い水音が管の底からせり上がってきた。
ジャ、と勢いよく吐き出されたのは、驚くほど透明で冷たい地下水だった。
木製のバケツに水を汲み、手を浸してみる。思わず声が出るほど冷たい。手のひらをすぼめて一口含んでみると、かすかな鉱物の甘みを含んだ清らかな味がした。王都の濁った水道水とは比べものにならない、生きている水だ。
古びた手ぬぐいを水に浸し、両手で固く絞る。
ジャッと布目をねじるたびに、冷たい水滴が土間に弾け散る。
マノンは雑巾を両手で平たく押さえつけ、居間の畳から拭き始めた。
一拭きするごとに、長年積もっていた白っぽい埃が取れ、い草の枯れた、けれどどこか懐かしい香りがふわりと立ち上る。
続いて板張りの廊下と縁側へ。
木目に沿って、腰を落としてぐっ、ぐっと体重をかけながら雑巾を滑らせていく。
最初の一往復で、手ぬぐいはあっという間に真っ黒になった。バケツの冷たい水で何度もすすぎ、また固く絞る。雑巾の絞り汁が灰色から濁った茶色へ、そして少しずつ澄んだ色へと変わっていく。
その単調な作業の繰り返しが、マノンのすり減った神経を不思議と解きほぐしていった。
薬舗にいた頃は、どんなに正確に粉薬を調合しても、どんなに丁寧に包み紙を折っても、患者から返ってくるのは不満や催促ばかりだった。どれだけ努力しても、心の中はいつも濁った泥水が溜まっていくようだった。
けれど、この床は違う。
自分が力を込めて拭けば拭くほど、埃を脱ぎ捨て、しっとりとした飴色の木肌を現してくれる。嘘をつかない。裏切らない。自分が手をかけた分だけ、目に見える形で綺麗になって応えてくれるのだ。
「ふう……っ」
気がつけば、額にはうっすらと汗が滲み、両腕は心地よい疲労感に包まれていた。
水拭きを終えた縁側は、西に傾き始めた柔らかな太陽の光を浴びて、鈍い光沢を放っている。
土間に敷いた茣蓙の上に腰を下ろし、井戸水で顔を洗う。冷たい水が火照った肌をきゅっと引き締め、思わず「ぷはっ」と息を吐き出した。薬舗でいつも貼り付けていた作り笑いではなく、自然と口元が緩んでいた。
荷解きはまだ途中だが、今日寝るための藁布団だけは寝室の畳の上に広げ、王都から持ってきた麻のシーツを掛けた。
お腹が、ぐう、と小さく鳴った。
そういえば、朝から何も口にしていなかった。
土間のトランクから、道中の宿場で買い求めておいた素朴な堅焼きのライ麦パンと、ひとかけらの硬質チーズを取り出す。
包丁を出すのも億劫で、パンを素手で半分にちぎった。素っ気ないほど硬く、口の中の水分をすべて奪っていくような粗末なパンだ。
それを、井戸水で淹れた白湯をすすりながら、前歯で少しずつ噛み砕く。
噛めば噛むほど、ライ麦の素朴な香ばしさと、チーズの微かな塩気が舌の上に広がっていく。
「……おいしい」
ぽつりと、声が漏れた。
王都の薬舗の裏口で、怒鳴り声に怯えながら喉に詰め込んでいた高級な菓子パンよりも、いま、埃を払ったばかりの静かな縁側で食べるこの硬いパンのほうが、何百倍も身体に染み渡っていく。
縁側の端に腰を掛け、足をぶらぶらと揺らした。
山裾を染める夕暮れは、息を呑むほど美しかった。
茜色から紫、そして藍色へと溶け合っていく空のグラデーション。雑木林の木々が黒い影絵となって夕焼けを切り取り、秋の冷気を含んだ乾いた風が、縁側をすうっと吹き抜けていく。
チチ、とねぐらへ帰る小鳥の短い鳴き声。
ざわざわと葉を擦り合わせる梢の音。
それ以外、世界には何もない。
誰も私を急かさない。
明日の朝、怒鳴られる心配もない。
処方箋の束に追われることも、誰かの悪意を受け止める盾になる必要もないのだ。
「……終わったんだ、本当に」
膝の上に置いた自分の両手を見る。
十年間、乳棒を握りしめ、強い消毒液で荒れ果ててアカギレだらけになった、不格好な指先。
よく頑張ったね、と心の中で呟いた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
ぽた、と。
綺麗に拭き上げたばかりの縁側の床に、丸い染みが落ちた。
慌てて手の甲で拭おうとしたけれど、一度決壊した涙は次から次へと溢れ出し、止まらなくなってしまった。
しゃくりあげるような声を出して、マノンは子供のように膝を抱えて泣いた。
悔しかったこと。怖かったこと。痛かったこと。
誰にも言えずに胸の奥底へ押し込めて、麻痺させていた十年分の痛みが、涙と一緒に身体の外へと流れ出していく。
けれど、その涙は少しも苦しくなかった。
枯れ果てていた心に、ようやく柔らかな雨が降ったような、どこまでも静かで温かい涙だった。
ひとしきり泣き終えた頃には、空には一番星が白く瞬いていた。
鼻をすすり、前掛けの端で乱暴に顔を拭う。
夜の帳が下りた山裾はひんやりと冷え込み始めていたが、胸の奥には、火鉢に炭を一つ置いたような確かな熱が灯っていた。
(明日は、まず庭の雑草を抜こう)
鼻をぐずぐずさせながら、マノンは立ち上がった。
朝起きたら、古い薪オーブンに火を入れてみよう。昨日のうちに仕込んでおいた丸パンの種を焼いて、野菜をたくさん入れた温かいスープを作ろう。
自分のためだけに、丁寧に時間を使って、温かいご飯を作って食べるのだ。
雨戸を一枚ずつ閉めていき、最後の一枚を滑り込ませる前、マノンはもう一度だけ庭の暗がりに向かって小さく微笑んだ。
「おやすみなさい」
冷たい板戸の閂を下ろし、静まり返った平屋の奥へ戻る。
寝室の藁布団に潜り込むと、干したばかりの麻シーツが心地よい冷たさで肌を包み、やがて自分の体温でふわりと温まっていった。
十年間で初めて、目覚まし時計の針を気にすることなく、マノンは深い深い眠りへと落ちていった。
――この時のマノンは、まだ知る由もなかった。
明日、自分が丁寧に淹れる朝食の匂いと、無自覚に垂れ流している「心地よい気配」に釣られて、庭の生垣に“とんでもない珍客”が頭から突っ込んでくることになるなどとは。




