第58話:領主たちの落涙と、縁側のぬるま湯タオル
山肌を吹き抜ける風には、もはや一欠片の腐敗臭も混ざっていなかった。
先ほどまでフォレスト領全土を覆い尽くしていた、あの息苦しいまでに重苦しい赤紫色の毒煙は、跡形もなく大気から濾過され、初冬の澄んだ冷気の中には、針葉樹の瑞々しい芳香と濡れた落ち葉の匂いだけが満ち満ちていた。
北の第一防衛境界線から、霊峰の山頂に至る古代遺跡の調査を終えた辺境警備隊の調査班が、蒼白な顔で駆け戻ってきたのは、天変地異の霧散からわずか半刻後のことであった。
報告の内容は、理性ある人間であれば誰もが狂気の戯言として切り捨てるような、圧倒的な現実であった。
『山頂の古代遺跡、完全消滅。数千年間暴走を続けていた石造の古代瘴気炉は、何らかの超常的な切断衝撃波により、土台の巨石ごと微粒子レベルに粉砕。残留していた怨念毒の核は物理的に消滅せり。周辺の渓谷に溢れていた数千トンの泥流は、絶対零度の冷気によって瞬間凍結ののち昇華、現在はいっさいの汚染反応なし――』
その報告書を震える手で受け取った瞬間、領主代行ローラン・ド・フォレストは、息をすることすら忘れていた。
そして今、ローランは、辺境警備隊長のギルバート、副隊長のセリア、そして先遣の精鋭騎士数名とともに、山裾の小道を登っていた。
軍馬はすべて麓の街道に繋留させ、全員が泥まみれの甲冑の留め金を外し、兜を脱ぎ、腰の長剣や槍を道端の草むらへと置き去りにしてきていた。
武器を持つことなど、到底許されない。
これから足を踏み入れる場所は、ただの山奥の古民家ではないのだ。
国家の危機を、数千年の厄災を、わずか三分間の「神威の行使」によって塵芥に変えてしまった、現世の至高神が座す不可侵の神域なのだから。
「……ローラン様、足元にお気をつけください」
セリアが掠れた声で囁いた。
その声には、平時のような冷静な張りは欠片も残っていなかった。
副隊長として数々の死線を潜り抜けてきた彼女の双眸は、いまや奇跡を目撃した巡礼者のように潤み、膝は一歩踏み出すたびに微かに震えていた。
二メートルを超える巨躯を誇るギルバート隊長に至っては、顔中の筋肉を強張らせ、まるで薄氷の上を素足で歩く大熊のように、音を立てないよう息を殺して歩を進めていた。
やがて、木立の隙間から、見慣れた素朴な景色が姿を現した。
手入れの行き届いた柊の生垣。
素朴な二本の木製門柱。
そして、秋に腕利きの村大工・ガスパールが命を削って施工したという、樹齢五百年の防腐香木で組み上げられた、あの美しいウッドデッキ。
その庭先には、先ほどまで世界を滅ぼさんとしていた厄災の余波など、微塵も存在していなかった。
青竹の物干し竿には、陽光をいっぱいに浴びた生成りのシーツがふわりと風を孕んで白く輝き、庭の片隅の山柿の木からは、数羽の山鳥たちが長閑な囀りを響かせている。
「あ……」
ギルバートの喉から、押し殺したような小さな息が漏れた。
生垣の外側、雑木林の木陰に身を潜めたローランたちの目に飛び込んできたのは――あまりにも、あまりにも神聖で、そして常軌を逸した「儀式」の風景であった。
ウッドデッキの縁に、腰を下ろしている一人の小柄な娘。
生成りの木綿シャツの上に、鶯色の手編みウールベスト。白い麻のエプロンを締め、栗色の三つ編みを肩に垂らした、あの元・調剤助手の娘――マノン・デュランであった。
そのマノンの足元。
庭の踏み石の上に、どっしりと座り込んでいたのは。
「…………っ!!」
ローランは胸元を掻きむしり、息を呑んだ。
白銀の神話。
極北の永久凍土を統べ、先ほど谷筋を埋め尽くしていた数万トンの瘴気泥流を一瞬で絶対零度の氷塊に変えて粉砕した、あの『霜狼神フェンリル』。
その神話の巨獣が――いまや中型犬ほどの白猫の姿に魔力を圧縮し、マノンの足元で、信じがたいほど素直に、お行儀よくちょこんと前足を差し出していたのだ。
マノンの手には、使い古された木綿のタオルが握られていた。
湯気が立ち上る真鍮のたらいから引き上げられたそのタオルは、人肌に温められたぬるま湯をたっぷりと含んでいる。
マノンは眉を八の字に下げ、まるで泥遊びをして帰ってきた我が子を叱る母親のような、呆れと愛情の入り混じった優しい表情を浮かべていた。
「はい、右足拭くよー。……もう、どこまで走り回ってきたのやら。次は左足ね。……いい子、いい子」
マノンの柔らかな声が、静かな庭先に響く。
マノンはタオルの温かな布地でフェンリルの太い前足を包み込み、指の腹で肉球の隙間に入り込んだ黒土を、丹念に、慈しむように拭い去っていた。
触れられるたび、タマ(フェンリル)は金色の瞳をトロンと蕩けさせ、喉の奥から「グルルルル……ゴロゴロゴロゴロ……ッ」と、大地を微振動させるほどの至福の重低音を響かせている。
頭をマノンの膝の上に完全に預け、顎を突き出し、まるで天上の極楽を享受しているかのように涎を垂らしそうになっていた。
古代の超兵器を一撃で凍結粉砕した、あの神話の爪先。
触れるものすべてを永久凍土へと叩き落とすはずの絶対零度の肉球を、人間の小娘が、湯気の立つ古タオルで一枚ずつ丁寧に拭い清めているのだ。
「……神だ……」
ローランの隣で、ギルバートがガクガクと顎を震わせながら、掠れた声で呟いた。
「古代の厄災を粉砕した直後の神獣が……爪に付着した現世の泥を……あのお方の手によって、洗い清められておられる……。なんという光景だ……。神話のどの絵画にも、これほどの神威と慈愛を描いたものは存在せんぞ……」
だが、信じがたい光景はそれだけでは終わらなかった。
「はい、タマはおしまい! 上がっていいわよ」
マノンがポンとお尻を叩いてやると、フェンリルは名残惜しそうに「にゃあ〜ん」と情けない声を漏らし、ウッドデッキの上へと飛び乗って、日向の特等席でゴロリと腹を晒した。
続いて進み出てきたのは、黒猫の姿をした『冥界獣キマイラ』であった。
山頂の巨大な石造瘴気炉を、土台ごと三条の爪撃で両断し、微粒子レベルで消滅させたあの漆黒の凶獣。
そのキマイラが、マノンの前に進み出ると、誇り高き首をすっと垂れ、自らの前足をマノンの手のひらの上へと、恐る恐る、けれど甘えるように乗せたのだ。
「ふふ、クロちゃんは足の裏、そんなに汚れてないわね。偉いわ」
マノンが褒めながらタオルで肉球を包んでやると、キマイラは太い鍵尻尾をピンと立て、嬉しそうに小刻みに震わせた。
さらにマノンが腰から取り出したのは、無数の金属ピンが並んだスリッカーブラシであった。
キマイラの背中にくっついていた枯れ葉や小枝を素手でつまみ取ると、マノンはその金属ブラシを、キマイラの首筋から背中へと向けて、力強く滑らせ始めたのだ。
――ジョリ、ジョリ、ガシガシッ!
静かな庭先に響き渡る、小気味よいブラッシングの音。
金属の針が、神代の凶獣の背毛を情け容赦なく掻き分けていく。
並の人間であれば、その皮膚に触れただけで冥府の壊死毒に侵されて即死するはずの漆黒の毛並み。
それを、マノンは何の防護具もつけず、素手で豪快に梳き上げ、抜けた黒い冬毛を丸めて、ポンとキマイラの頭の上に乗せてみせた。
「はい、クロちゃんもピカピカよ。男前になったわね」
キマイラは目を細め、喉を「ゴルルルル……」と爆音で鳴らしながら、マノンのエプロンの裾に頭突きをして甘え、ウッドデッキの上へと飛び上がっていった。
そして屋根の上からは、上空の暗雲を一瞬で焼き払った幻鳥フェニックス(ピピ)が舞い降り、自慢の尾羽の煤をマノンの指先で優しく拭き取ってもらい、嬉しそうに「ピピピィ♪」と歌いながら首筋へ擦り寄っている。
「……………………」
木陰からその一部始終を見届けていたローランは、ついに自らの両膝を支えきれなくなった。
ドスン……。
湿った黒土の上へ、音もなく両膝が落ちた。
泥がズボンの布地を濡らすのも構わず、ローランは両手を地面につき、その場へと崩れ落ちた。
銀縁眼鏡の奥から、堰を切ったように熱い大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って冷たい地面をポタポタと濡らしていく。
「あのお方が……」
ローランの肩が、激しく上下に震えた。
「あのお方が、すべてを……すべてを察してくださっていたのだ……」
ローランの頭蓋の中で、すべてのピースが、美しくも恐ろしいまでの必然性をもって結びついていた。
自分たち人間は、命を捨てて防波堤を築こうとした。
民を逃がすための時間を稼ぐため、百二十名の騎士たちが玉砕を覚悟して剣を構えていた。
その人間の拙くも必死な覚悟を、この山奥の聖域に座す至高の調停者が見落とすはずがなかったのだ。
あのお方は、我らを見殺しにはなさらなかった。
人間たちの覚悟を受け止め、手ずから大鍋で神薬を炊き上げ、自らの眷属である三代厄災たちに極上の滋養を授けて霊力を全盛期へと押し上げ、裏山へと解き放ってくださったのだ。
そして、わずか三分で古代の災厄を根源から消滅させ、領地の危機を救い給うた。
そればかりか――。
戦いを終えて戻ってきた神獣たちの爪の汚れを、自らの温かな手とぬるま湯タオルで洗い清め、ブラッシングを施し、その戦功を労っておられる。
なんという神徳。
なんという、果てしない慈悲の深さ。
「守護女神様だ……」
ローランは泥水に額を押し付け、嗚咽を漏らしながら声を絞り出した。
「あのお方は……我らを救うために、人知れず奇跡を起こし……そして何事もなかったかのように、日常の佇まいを保っておられる……。我らの傲慢や無力さを責めることすらなく、ただ、大いなる愛をもって世界を包み込んでくださったのだ……ッ!!」
セリアもまた、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き崩れていた。
かつて胃痛に苛まれ、神獣の影に怯えていた彼女の胸には、いまや絶対の帰依と感謝の念しか残っていなかった。
「マノン様……あのお方に、我らは何をお返しできるというのでしょう……。領地のすべてを差し出しても、この御恩の万分の一すら購えません……」
ギルバート隊長は、直立したまま天を仰ぎ、太い両腕で目元を乱暴に拭っていた。
歴戦の猛者の頬を、大粒の涙が幾筋も伝い落ちていく。
「全軍に通達を出せ……。今すぐ領主館の全備蓄を開放する。領民総出で……あのお方への感謝の誠を捧げるのだ。あのお方の愛するこの山奥の平穏を、我ら領民の総力を挙げて、未来永劫守り抜くのだ……ッ!!」
騎士たちの静かな嗚咽と祈りが、初冬の澄み切った森の静寂に溶けていく。
彼らにとって、マノン・デュランという娘は、もはや敬遠すべき恐るべき魔女などでは断じてなかった。
この過酷な辺境の大地に舞い降り、荒ぶる神々を鎮め、人々の魂を救済する、唯一無二の守護女神そのものとして、その心臓の奥底深くに刻み込まれていたのであった。
***
――その頃。
ウッドデッキの上では、すべてのお手入れを終えたマノンが、満足そうに両手を腰に当てていた。
「ふう、すっきりしたわね!」
たらいに残った泥水を庭の隅の排水溝へと流し、絞ったタオルを竹竿の端へと干す。
ウッドデッキの上を見渡せば、ピカピカに洗い清められた白猫のタマと黒猫のクロが、並んで日向ぼっこをしながら、互いの耳の後ろをペロペロと舐め合っていた。
手すりの上では、ピピが尾羽をサラサラと揺らしながら、心地よさそうに喉を鳴らしている。
三匹とも、先ほどの食欲不振と倦怠感が嘘のように、生き生きとした表情を取り戻していた。
「やっぱり、身体を温めて、美味しいものを食べて、綺麗にするのが一番の薬ね」
マノンは微笑みながら、縁側に置いてあった自分のお椀とお盆を持ち上げた。
ふと、北の山林を見上げる。
紅葉が終わり、冬支度を始めた木々の向こうに広がる空は、どこまでも澄み渡り、吸い込まれそうなほどに高い。
「変な風も止んだし、お洗濯もよく乾きそう。……今日のお夕飯は、マルタおばあちゃんから貰った大根の残りと、昨日のお出汁を使って、身体の温まる根菜うどんにでもしようかしらね」
マノンは鼻歌を口ずさみながら、軽やかな足取りで台所へと戻っていった。
まさかその日の夕方から夜にかけて、領主館と宿場町が未曾有の大騒動に包まれ、自分への「感謝の品」を取り揃えるために領地中の商人や職人たちが総動員され、明日の朝、玄関前が信じがたい光景になるなどとは――マノンは、露ほども知らなかったのである。




