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第57話:澄み渡る秋空と、泥だらけの肉球

ことり、と素朴な木椀を台所の配膳台の上に置くと、そこからふわりと、生姜と出汁の優しい湯気が立ち上った。


大鍋の底に残っていたのは、ちょうど大人の一食分にぴったりの特製おじやであった。

三匹の小鉢にそれぞれ適量を取り分け、綺麗に平らげてもらった後の鍋肌には、昆布と干し椎茸の琥珀色の出汁をたっぷりと吸い込んだ麦飯と、ふわふわの半熟卵が、温かな余熱を保ったまま静かに寄り添っていた。

マノン・デュランは、使い込まれて角の丸くなった木べらで鍋底をなぞるようにすくい上げ、自分のための漆塗りの椀へと移した。

仕上げに、小鍋に残しておいた澄んだ清湯(チンタン)をひと回し注ぎ入れ、スプーンの背で軽く表面を整える。


「……いただきます」


マノンは居間の敷居をまたぎ、防腐香木のウッドデッキへと向かった。

縁側の端、日だまりの温もりが残る木の一枚板の上に腰を下ろし、両手で温かい椀を包み込む。

木肌を通してじんわりと伝わってくる人肌の温もりが、冷水や井戸水で冷え切っていたマノンの指先を、解きほぐすように温めていく。

木彫りのスプーンで、ふっくらと花開いた米粒ととろりとした卵をひとすくいし、唇を寄せてフーフーと息を吹きかけた。


――ハフッ、ハフッ……。


口に含んだ瞬間、マノンの頬が思わず緩んだ。

滋養の塊。

昆布の深いグルタミン酸と、椎茸の凝縮された森の香り、そして叩き割った鶏ガラから滲み出た濃厚な油のコクが、すりおろした生姜の爽快な辛味と混ざり合い、喉を通るたびに胸の奥をスーッと清らかに洗い流していく。

丸麦のぷちぷちとした歯ごたえが楽しく、噛み締めるほどに穀物の甘みが広がる。

熱いものが食道を通り、胃の腑へと滑り落ちていく感覚。

落ちた場所から、まるで小さな火鉢が灯されたかのように、身体の深部からぽかぽかとした心地よい温気が湧き上がり、首筋や背中の強張りがほどけていくのが分かった。


「……ふう。美味しい……。やっぱり、弱った胃腸には生姜とおじやが一番ね」


マノンは小さく息を吐き、もう一口、木のスプーンを口へと運んだ。

タマたちがあんなに勢いよく、お皿までピカピカに舐め尽くしてくれた理由がよく分かる。身体が芯から冷え切っていた時に、この滋味あふれる温かさは、何物にも代えがたい特効薬だったはずだ。


――と、そこで。


「……あら?」


スプーンを口に含んだまま、マノンはふと顔を上げた。


違和感。

先ほどまで、あんなに鬱陶しく肌を刺していた「不快な空気」が、いつの間にか完全に消え去っていたのだ。


鼻をひくつかせてみる。

湿気たカビと、生臭い硫黄が混ざり合ったような、あの喉の奥をイガイガと刺激していた嫌な悪臭が、跡形もなく消えている。

代わりに肺腑を満たしたのは、初冬の澄み切った、どこまでも清らかな針葉樹と濡れた落葉の、瑞々しい大地の匂いであった。


さらに、視線を上空へと向ける。


「……あらいやだ。嘘みたいに晴れてるじゃないの」


マノンは目を丸くして、お椀を持ったまま天を仰いだ。

さっきまで、北の山並みを覆い隠し、黄昏時のように庭全体を不気味な薄暗がりへと沈めていた、あの禍々しい赤紫色の暗雲。

それが、まるで手品のように、影も形もなくなっていたのだ。


頭上に広がっていたのは、抜けるように高く、どこまでも青く透き通った、見事な冬の青空であった。

一筋の濁りもない群青の天蓋から、暖かな黄金色の陽光が燦々と降り注ぎ、竹竿に干された生成りのシーツを真っ白に照らし出している。

風は穏やかな微風へと変わり、物干し竿のシーツをサワサワと心地よい音を立てて揺らしていた。

日光を浴びたシーツからは、洗い立ての木綿特有のお日様の匂いが立ち上り、先ほどまでの心配が嘘のように、清々しい洗濯日和が戻ってきていた。


「もう……山の天気って、本当に変わりやすいんだから」


マノンは苦笑交じりに首を横に振った。

突然、嵐のような嫌な風が吹いてきたかと思えば、あっという間に雲一つない日本晴れ。

炭焼き小屋の不完全燃焼の煙か、どこかの硫黄谷の噴気が、一瞬だけ風に乗って吹き下ろしてきただけだったのだろう――マノンの頭の中では、その程度の他愛のない自然現象として、完全に処理されていた。


「これなら、シーツも夕方までにしっかり乾くわね。取り込まなくてよかったわ」


ホッと胸を撫で下ろし、マノンはおじやの最後の一口をスプーンですくい、喉へと流し込んだ。

胃の腑がじんわりと温まり、全身に満ち足りた幸福感が広がっていく。

お椀を縁側の隅に置き、両手を膝の上で揃えて、のんびりと庭先の木漏れ日を眺める。


――ガサッ、ガサガサッ。


その時。

庭の境界を囲む、柊(ひいらぎ)の生垣の奥から、下草を踏み分ける音が響いた。


「ん……?」


マノンが視線を向けると、生垣の枝の隙間から、ぬっと何かが顔を覗かせた。

中型犬ほどもある、異様に立派な白猫の頭。

タマだ。


続いて、生垣の下の小さな隙間を器用にくぐり抜けて、黒猫のクロが姿を現した。

さらに頭上、パタパタと軽やかな羽音を響かせて、柿の木の枝先へと舞い降りてきたのは、黄色い小鳥のピピであった。


「ピピッ♪」


ピピが、鈴を転がすような高らかな声を上げた。

ウッドデッキの前に並んだ二匹の猫は、マノンと目が合うと、ピタリと足を止めた。


「タマ? クロ? ……ピピも」


マノンはパチクリと目を瞬かせ、縁側から身を乗り出した。

つい十分前まで。

居間の座布団の上で毛布にくるまり、耳をペタリと伏せて「ウゥ……」と苦しそうに丸くなっていたタマ。

茶箪笥の隙間に潜り込み、鼻をカサカサに乾かしてだるそうに突っ伏していたクロ。

止まり木で羽を膨らませて縮こまっていたピピ。


その三匹が、いまや嘘のように背筋をピンと伸ばし、四肢に力強い活力を漲らせてそこに立っていたのだ。

タマの太い尻尾は天に向けてピンと垂直に立ち、金色の瞳は爛々と輝いている。

クロの毛並みは濡れた黒曜石のような艶を取り戻し、足取りには微塵の淀みもない。

ピピに至っては、柿の木の枝の上でパタパタと小気味よく翼を羽ばたかせ、元気いっぱいに首を左右へ傾げている。


――しかし。

マノンの視線は、その元気になった姿の、さらに「下」へと向けられた。


「……あ」


マノンの口から、呆れと驚きが混ざり合った声が漏れた。


タマの足元。

普段なら、雪のように真っ白で、マノンが毎朝のブラッシングで丁寧に手入れしている純白の前足と後ろ足。

その四本の足先が――まるで黒い靴下でも履かせたかのように、湿った黒土と泥でべったりと汚れていたのだ。

肉球の隙間には腐葉土の細かな木屑が挟まり、歩くたびに庭の飛び石の上に、ペタッ、ペタッと鮮やかな泥の肉球スタンプを押している。


クロも同様であった。

黒い毛並みだから泥こそ目立たないものの、その背中から腰にかけて、チクチクとした枯れ葉の破片や、どこかの藪を突き破ってきたような細かい枯れ枝が何本もくっつき、左の脇腹には蜘蛛の巣のような白い繊維まで絡みついていた。


そしてピピの、あの美しく長く伸びた二本の尾羽の先端。

そこには、どこかの煤煙をかすったのか、微かに黒い灰のような粉がパサパサと付着していたのである。


「……………………」


マノンは、飛び石の上に押されていく泥の足跡と、猫たちの気まずそうに目を泳がせる顔を、交互に見つめた。

タマは、マノンの視線が自分の足先に注がれていることに気づいたのか、ピクッと右前足を宙に持ち上げ、そっと後ろへ引っ込めようとした。

クロはツンとあごを反らし、「我は何もしておらぬが?」とでも言いたげにそっぽを向いたが、太い鍵尻尾の先が落ち着かなそうにパタン、パタンと地面を叩いている。


マノンの頭の中で、状況が瞬時に組み立てられた。


(……さっきまで、あんなにしょんぼりしてお腹を壊していたのに……)


あの特製おじやを食べさせた直後、マノンは「少し身体を休めていなさいね」と言い残して台所の片付けに向かったのだ。

そのわずか数分の隙を突いて。

この子たちは、お腹が温まって急激に元気を取り戻した途端、じっとしていられなくなって庭の生垣をくぐり抜け、裏山の雑木林へと冒険に飛び出して行ったのだ。


(元気になったのは嬉しいけれど……!)


野生動物を追いかけ回したのか、それとも落ち葉の山に飛び込んでプロレスごっこでもしたのか。

泥だらけになって、枯れ葉まみれになって、満足そうに帰ってきたその姿。

人間の子供だって、熱が下がった途端に「治った!」と外へ駆け出して泥だらけになって帰ってくることがある。それと全く同じ、現金で無邪気な悪戯。


「もう……! タマ! クロ! ピピ!」


マノンは腰に手を当て、プンプンと頬を膨らませて立ち上がった。

縁側の手すりに手をつき、見上げるようにして叱りつける。


「まあまあ、なんて格好をしてるの! ご飯を食べたら急に元気になって、裏山を駆け回ってきたのね!? お腹が治ったのはよかったけれど、足が泥だらけじゃないの!」


「グル……ゥ……」

タマが、耳を少しだけ横に倒し、情けない小さな唸り声を漏らした。

先ほど、山頂の古代瘴気炉を粉砕する際、絶対零度のブレスの余波で跳ね上がった土煙を、ほんの少し足先で踏んでしまったのだ。

神獣の全盛期の力をもってしても、泥の汚れまでは消し去れなかったらしい。


「ふにゃ……」

クロもまた、背中の枯葉を気にしながら、バツの悪そうに小さく鳴いた。

山頂の祭壇へ飛び移る際、谷沿いの枯れ木を勢いよく蹴り飛ばした時にくっついた枝葉である。


「ピピッ……」

ピピは柿の木の枝の上で、小さく首を縮こまらせた。

上空の暗雲を一撃で焼き払った際、舞い上がった煤の粒子を尾羽にかすってしまったのだ。


世界を滅ぼすはずだった古代超兵器を、わずか三分で物理的に消滅させてきた神話の守護神たち。

王国の精鋭騎士たちが命を捨てて挑んでも傷一つつけられなかった厄災の根源を、塵芥(ちりあくた)のように粉砕してきた絶対強者たち。

その彼らが、いま――エプロン姿の小柄な娘の前に並ばされ、まるで泥遊びをして帰ってきて怒られている子供のように、揃って小さく縮こまっていた。


「そんな泥だらけの足でウッドデッキに上がったら、せっかくガスパールさんが作ってくれた新しい床が台無しになっちゃうでしょう! そこでストップ! 一歩も動いちゃダメよ!」


マノンの厳しい号令が飛ぶ。

タマは持ち上げていた右前足をピタッと止めたまま、片足立ちのような間抜けなポーズで固まった。

クロもその場にお行儀よく前足を揃えてフリーズする。

主の言いつけは絶対であった。


「はぁ……全く、手がかかるんだから」


マノンはため息をつきながらも、その口元には、安堵の笑みが隠しきれずに零れていた。

あんなに弱り切って、息を荒げていた家族が。

たった一杯のおじやで、こうして叱られるほど元気に走り回れるようになったのだ。

泥で汚れたことなど、命が無事であったことに比べれば、笑ってしまうほど些細なことだった。


「待っててね。今、拭くものを持ってくるから、絶対に動かないのよ!」


マノンはパタパタと足音を響かせ、土間の台所へと駆け戻っていった。


***


土間に戻ったマノンは、腕まくりをして手早く準備を整え始めた。


(泥がついたからって、冷たい井戸水でいきなり洗っちゃダメね)


病み上がりの身体である。

せっかく温かいおじやで内臓の芯を温め、血流を呼び戻したばかりなのだ。ここで冷水をバシャバシャとかけてしまえば、足先から急激に身体が冷え、再び胃腸が固まってしまいかねない。

何より、猫は濡れることを極端に嫌う生き物だ。


マノンは棚の下から、平たい真鍮製のたらいを取り出した。

井戸端へ行き、ポンプで汲みたての冷たい地下水を三分目ほど注ぐ。

そこへ、かまどの上に据えてあった鉄瓶から、グラグラと沸き立つ熱湯をトクトクトクと少しずつ注ぎ足していった。


手を入れて、温度を確かめる。

熱くはない。かといってぬるすぎもしない。

大人の手首をつけて、じんわりと心地よい温もりが広がる、およそ三十八度から四十度弱の「極上のぬるま湯」。


「よし、ちょうどいいわね」


続いて、茶箪笥の引き出しから取り出したのは、使い古して柔らかくなった木綿の古タオルであった。

何度も洗濯を繰り返され、表面の毛羽立ちが落ち、驚くほど吸水性が高くて肌触りの優しい麻混じりのタオル。

これを二枚、ぬるま湯の中にしっかりと浸す。

お湯を吸って重たくなったタオルを両手で持ち上げ、ギューッと力任せに絞った。

水分がポタポタと垂れない程度、けれど繊維の奥に温かな湿り気と蒸気をたっぷりと含んだ状態。

蒸しタオルのような温もりから、湯気がふわりと立ち上る。


「これなら、泥も綺麗に浮いて、足先もぽかぽか温まるはずだわ」


マノンは絞った温かいタオルを片手に、乾いた拭き上げ用のタオルをもう一枚肩に掛け、さらに腰の籠から愛用の「スリッカーブラシ」を抜き取った。

細い金属のピンが無数に並んだ、換毛期のお手入れ用のあのブラシである。


「よし、お待たせ!」


マノンは再びウッドデッキへと戻ってきた。


庭先を見下ろすと、タマとクロは言いつけを忠実に守り、飛び石の上で微動だにせず待機していた。

タマは依然として右前足を浮かせたまま、プルプルとわずかに震えながら耐えている。

クロは背筋を伸ばし、置物のように静止していた。


「ふふ、いい子で待ってたわね。……さあ、タマからおいで」


マノンはウッドデッキの縁に膝をつき、腰を下ろした。

トントン、と自分の太ももの前を叩く。


タマは待ってましたとばかりに、のそのそと前足を動かし、縁側へと歩み寄ってきた。

そして、マノンの足元の踏み石の上に、どっしりと自らの純白の巨体を腰掛けさせたのだ。


「はい、右足見せてごらん」


マノンが手を差し伸べると、タマは素直に、泥のついた右前足を「どうぞ」とばかりにマノンの手のひらの上へと乗せてきた。

中型犬ほどもある巨体ゆえに、その前足はずっしりと重く、大人の女性の手のひらをすっぽりと覆い隠すほど大きい。


マノンは、温かい湿り気を帯びた古タオルを広げ、タマの太い足首をふわりと包み込んだ。


「――っ……」


タマの喉から、微かなため息のような息が漏れた。

温かい。

外気で冷え切っていた足先に、じんわりと人肌の蒸気が染み渡っていく。

マノンは決して擦るように乱暴に拭いたりはしない。

タオルの上から、指の腹で優しく揉み込むようにして、毛先にこびりついた乾きかけの黒土を、水分でふやかして浮き上がらせていく。


サッサッ、キュッ。


タオルを滑らせると、黒かった毛先から泥の粒がポロポロと剥がれ落ち、下から透き通るような白銀の毛並みが現れた。

続いて、マノンは親指の腹を使って、タマの肉球を優しく押し広げた。


「肉球の間にも、いっぱい土が入っちゃってるわねぇ……」


タマの肉球は、驚くほど柔らかかった。

冷気を操る神獣でありながら、その足裏のクッションは、まるで極上の求肥(ぎゅうひ)のようにぷにぷにと弾力があり、ほんのりと桜色を帯びて温かい。

指と指の隙間、肉球の付け根の細かな溝に入り込んだ泥を、タオルの角を使って、優しく、丹念にぬぐい去っていく。


「くすぐったい? もうちょっとで綺麗になるから我慢してね」


マノンが声をかけると、タマは金色の瞳をトロンと細め、喉の奥から「ゴロゴロゴロゴロ……ッ」と地鳴りのような重低音を響かせ始めた。

痛くも痒くもない。

ただひたすらに心地よい温もりと、大好きな主の優しい指先の感触。

タマはすっかりリラックスし、重たい頭をマノンの膝の上にコテンと預け、全身の力を抜いて涎を垂らしそうになっていた。


「はい、次は左足ね。……うん、綺麗になったわ。次は後ろ足……よいしょ」


四本の足を順番にぬるま湯タオルで拭き上げ、続いて肩にかけていた乾いたタオルで、余分な湿気をしっかりと吸い取る。

拭き終えたタマの足先は、泥の汚れなど微塵もなく、まるで降り積もったばかりの新雪のように、ふわふわと眩しい純白の輝きを取り戻していた。


「よし! タマはおしまい! 上がっていいわよ」


マノンがポンとお尻を叩いてやると、タマは満足そうに「にゃあ〜ん」と甘えた声を上げ、香木のウッドデッキの上へと軽やかに飛び乗った。

そして、日当たりの良い真ん中のスペースへ向かうと、ドスンと横倒しになり、早くも二度寝の体勢に入って前足をフミフミと宙で動かし始めた。


「さあ、次はクロちゃんね」


マノンが手招きすると、クロは音もなく踏み石の上へと進み出てきた。

クロはタマのように露骨に甘えたりはしない。

どこか澄ました顔で、片耳をピクリと動かしながら、そっと自らの前足をマノンの膝の上へと差し出してきた。


「ふふ、クロちゃんは足の裏、そんなに汚れてないわね。偉いわ」


褒められたクロの鍵尻尾が、ピクンと嬉しそうに跳ねる。

マノンは新しいタオルの面を出し、クロの引き締まった黒い足を丁寧に拭いてやる。

クロの肉球は、濡れた小豆のように黒光りし、タマよりも少し引き締まったしっかりとした弾力を持っていた。

指先を拭いてやると、クロは「フニャ……」と掠れた声を漏らし、マノンの手首に自分の顎をちょんと乗せてきた。ツンデレなりの、精一杯の甘えのポーズである。


「足よりも、背中ね。どこに入り込んだら、こんなに枯れ葉だらけになっちゃうのかしら」


マノンはクロの足拭きを終えると、腰からスリッカーブラシを抜き取った。

クロの背中についた大きな枯れ葉や小枝を指先で丁寧につまみ取り、絡みついていた蜘蛛の巣を払う。

そして、金属の細いピンが並んだブラシを、クロの首筋から背中、そして腰のラインへと向けて、スーッと滑らせた。


――ジョリ、ジョリ、ガシガシッ。


心地よいブラッシングの音が響く。

ブラシが通るたび、パサついていた黒い毛並みが整えられ、抜けた冬毛が綿菓子のようにブラシのピンに絡め取られていく。

冥界獣キマイラの背中を、容赦なくガシガシと梳き上げるマノンの手。

クロは顎をぐっと突き出し、目を細めて恍惚の表情を浮かべた。

喉の奥から「ゴルルルル……ゴロゴロゴロ……」と、タマに負けないほどの爆音の喉鳴らしが響き渡る。


「はい、クロちゃんもピカピカよ。男前になったわね」


マノンがブラシを抜き、丸まった黒い毛玉をポンとクロの頭の上に乗せてやると、クロは誇らしげに喉を鳴らしながら、ウッドデッキの上へと飛び上がった。

そしてタマのすぐ隣へと滑り込み、仲良く並んで丸くなり、互いの毛並みをペロペロと毛繕いし始めたのである。


「ピピッ♪」


最後に、柿の木の枝からピピが舞い降りてきた。

マノンの肩の上に着地すると、自慢の二本の長い尾羽を、マノンの目の前へとピラピラと差し出して見せる。

まるで「ここ、煤がついちゃったの。拭いて!」とアピールしているかのよう。


「あらあら、ピピちゃんも煤がついちゃったのね。じっとしててね」


マノンはタオルの清潔な端を指先に巻き、ピピの尾羽をそっとつまんだ。

金糸のように繊細な羽毛を傷つけないよう、指の腹で優しく滑らせる。

サッと拭き取ると、黒い灰の粉は綺麗に落ち、尾羽は再び、太陽の光を浴びてキラキラと黄金の光を放ち始めた。


「はい、ピピちゃんも綺麗になったわよ」


「ピピピィ♪」


ピピは嬉しそうに翼を震わせると、マノンの耳たぶに自分の小さなくちばしをチョンチョンと押し当て、甘えたように頬の毛を擦り寄せてきた。


「ふふ、みんな綺麗になってよかったわね」


マノンは立ち上がり、汚れたタオルを木桶の中へと放り込んだ。

ウッドデッキの上を見渡せば。

暖かな初冬の日差しの中、白猫と黒猫が寄り添って丸くなり、規則正しい寝息を立てている。

手すりの上では、黄色い小鳥が満足そうに羽繕いをしている。

干したばかりのシーツは、澄み切った青空の下で、乾いた風を孕んで白く輝いている。


平和。

これ以上ないほどの、穏やかで満ち足りた日常の風景。


――ふと。

マノンは、南側の山道の方へと視線を向けた。


遠くの雑木林の奥から、かすかに、ガシャガシャとした金属の擦れ合う音と、何頭もの馬の蹄の音が、風に乗って響いてきているような気がした。


「……ん? なにかしら、賑やかな音がするわね」


マノンは首を傾げた。

まるで行進でもしているかのような、大勢の足音。

だが、その音はまだ遠く、木々の葉のざわめきに紛れて判然としない。


「また、王都からの旅の人が迷い込んできたのかしら? ……まあ、こんなにお天気がいいんだもの、お散歩には最高の日ですものね」


マノンは呑気に微笑むと、空になった自分のお椀を持ち上げ、鼻歌まじりに台所へと向かった。


まさかその数分後。

山頂の壊滅を確認し、奇跡の真相を目撃して魂を震わせた領主ローランとギルバート隊長、そしてセリア率いる百二十名の騎士たちが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、この庭先へと向けて巡礼の如き足取りで登ってこようとしているなどとは、マノンは夢にも思っていなかったのである。

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