第56話:ほんの数分のゴミ拾い、粉砕された古代瘴気炉
――ジュッ、ジュジュッ……!
刀身に触れた黒紫色の粘液が、肉を焼くような不快な音を立てて白煙を吹き上げていた。
フォレスト領北側、霊峰の谷筋を扼する第一防衛境界線。
かつて美しいブナの原生林が広がっていたその渓谷は、いまや地獄の底をそのまま現世へと引きずり出したかのような、酸鼻を極める焦土と化していた。
「ぐっ……おおおおおっ!!」
領主代行ローラン・ド・フォレストは、両手で握りしめた鋼の長剣を渾身の力で薙ぎ払った。
刃が切り裂いたのは、かつて大鹿であった異形の怪物だ。肉を突き破って生え出た黒い外骨格の首が跳ね飛び、ドス黒い腐食性の体液が泥土の上へと撒き散らされる。
だが、手応えはない。
肉を断ったはずの刃先は、怪物の体内に渦巻く高濃度の瘴気によって瞬時に侵食され、まるで強酸を浴びせられたかのようにボロボロと刃こぼれを起こし、黒錆を浮き上がらせていた。
「閣下、下がってください! 前に出すぎては危険です!!」
横合いから割って入った巨躯が、巨大な両手剣を横一文字に薙ぎ倒した。
辺境警備隊長ギルバート・アルノーの豪腕から放たれた斬撃が、迫り来る二頭の変異獣をまとめて崖下へと叩き落とす。
だが、そのギルバートの漆黒の甲冑も、すでに無数の傷と腐食液の飛沫にまみれ、金属の輝きを失っていた。防毒マスクのフィルターからはシュー澄んだ吸気音ではなく、湿り気を帯びた荒い喘鳴が漏れ出ている。
「引けるか……! ここを抜かれれば、背後には……あのお方の庭があるのだぞ!!」
ローランは血走った瞳で、防毒ゴーグルの奥から前方の地獄絵図を睨み据えた。
絶望。
その二文字以外で、目の前の光景を言い表す術をローランは持ち合わせていなかった。
谷の奥から押し寄せてきているのは、数十、数百という軍勢ではない。
山頂の古代遺跡で数千年の封印を破り、暴走を始めた『古代瘴気炉』――そこから際限なく吐き出される濃縮怨念毒の、物理的な「津波」であった。
高さ十メートルを超えようかという、泡立つ黒紫色の泥流の壁。
大樹を根こそぎ薙ぎ倒し、巨岩を呑み込んでドロドロに溶かしながら、重低音の地鳴りを立てて谷筋を埋め尽くすように雪崩れ込んできている。
そのヘドロの波頭からは、古代の怨念が受肉した無数の不定形魔獣が触手を伸ばし、狂暴化した野生動物の残骸が、濁流の上を津波のようにひしめき合って疾走していた。
「防衛ライン、維持不能です!!」
「第三小隊、全員の武器が腐食損壊! 魔力中毒により半数が戦闘不能!!」
「結界が持ちません! あと三十秒で……泥流の直撃を受けますッ!!」
泥まみれの騎士たちの悲痛な絶叫が、濁流の轟音にかき消されていく。
百二十名の精鋭が、命を捨てて築き上げた防波堤。
だが、天災そのものの質量を前にして、人間の肉体と鋼の刃など、小石一つ分の抵抗にすらならなかった。
大気を満たす腐敗臭は防毒マスクの限界を超えて肺胞をチリチリと焼き、兵士たちは次々と膝をつき、口端から泡を吹いて倒れていく。
「……ここまで、なのか……」
ローランの指先から、力が抜けかけた。
折れかけた長剣の切っ先が、泥水の中へと落ちる。
王都からの救援は届かない。奇跡を起こす術者もいない。
この泥流が自分たちを呑み込み、谷を抜ければ――その直線上にある、あの素朴な平屋の古民家が、丹精込めて手入れされたあの美しい庭が、一瞬にしてこのドス黒いヘドロの底へと沈む。
(マノン様……申し訳、ございません……。我ら人間の力では……あのお庭の平穏を……守り抜くことすら……)
ローランが絶望の涙を滲ませ、迫り来る黒紫色の津波を見上げ、死を覚悟した――まさに、その刹那であった。
――キィィィィィィィィン……ッ!!
鼓膜の奥を直接貫くような、どこまでも澄み切った、超高周波の金属音が天蓋を震わせた。
「……え?」
ギルバートが、息を呑んで空を見上げた。
音ではない。
それは、大気中のすべての分子が一瞬にして整列させられたかのような、圧倒的な霊威の胎動。
次の瞬間。
赤紫色の毒霧に覆われ、黄昏の如く濁りきっていた頭上の暗雲が――。
――ズバァァァァァァァッッッ!!
まるで、巨大な神の剣によって両断されたかのように、天空の端から端まで、一直線に切り裂かれた。
「な……っ!?」
兵士たちの喉から、声にならない喘ぎが漏れた。
裂け目の奥から差し込んできたのは、陽光などという生易しい光ではなかった。
神聖にして不可侵。
触れるものすべての穢れを焼き清める、眩いばかりの純金と紅蓮の光条。
その光の奔流の中心から、舞い降りてきたのは――。
「ピィィィィィィィィッッッ!!」
空気を震わせたのは、鈴を転がすような、あまりにも気高く、あまりにも美しい神鳥の啼く声。
翼を広げれば優に百メートルを超えようかという、天空を覆い尽くすほどの紅蓮の巨鳥――『幻鳥フェニックス』。
黄金の光粒子を粉雪のように撒き散らしながら、その神鳥は、押し寄せる黒紫色の暗雲のただ中へと、矢のような速度で突入した。
そして。
ほんの、たった一度だけ。
羽毛の埃を払い落とすかのように、その長大な両翼を――バサリと、羽ばたかせたのだ。
――ゴォォォォォォォォォッ!!
吹き荒れたのは、炎の暴風ではなかった。
それは、物質としての熱を超越した「原初の浄化波」。
その黄金の光波が触れた瞬間、フォレスト領全域を覆い尽くしていたあの赤紫色の毒霧が、数千年の怨念を宿していたはずの暗雲が――まるで、真夏の太陽を浴びた朝露のように、シュウシュウと音を立てて一瞬で蒸発していった。
一秒。
たった一秒の羽ばたきで。
上空の濁りは跡形もなく掻き消え、頭上には、吸い込まれそうなほどに青く、高く、澄み渡った初冬の青空が、何事もなかったかのように広がっていた。
「そ、空が……雲が一瞬で……!?」
ローランが呆然と呟く暇すら、世界の理は与えてくれなかった。
ドォォォォォォォンッ!!
今度は、大地が悲鳴を上げた。
背後の尾根から、二つの影が、音速を遥かに超える突風を伴って飛び出してきたのだ。
山林の木々が薙ぎ倒される暇すらない。
ただ白い閃光と、黒い雷光が、ローランたちの頭上を飛び越え、押し寄せる瘴気泥流の最前線へと、一直線に着地した。
ズドォォォォォォンッ!!
着地の衝撃だけで、幅数十メートルの谷筋の岩盤が大きく波打ち、跳ね上がった土砂が宙を舞う。
土煙を切り裂いて姿を現したのは、神話の書物にしか記されていないはずの、世界の頂点に座す二大巨獣であった。
左手に立つのは、体長十メートルを超える、白銀の巨狼――『霜狼神フェンリル』。
全身の純白の鬣はオーロラの如き燐光を放ち、剥き出しになった太い牙の隙間からは、大気の水分を一瞬でダイヤモンドダストへと変える絶対零度の冷気が、滝のように零れ落ちている。
右手に立つのは、漆黒の毛並みと筋骨隆々の四肢を誇る、冥府の魔獣――『冥界獣キマイラ』。
獅子の頭部、山羊の角、そして毒蛇の尾。三つの神格を背後に蠢かせ、触れるものすべてを虚無へと還元するドス黒い神気が、漆黒の炎となってその全身を包み込んでいた。
「フェ……フェンリル……キマイラ……!?」
ギルバートの両手剣が、ガシャンと音を立てて地面に落ちた。
歴戦の猛者が、直立不動のまま、魂を抜かれたように立ち尽くす。
山奥のあの庭先で、マノンの膝の上でヘソ天を晒し、スリッカーブラシで涎を垂らしていた、あの「タマ」と「クロ」の真なる姿。
だが――いま彼らが放っていたのは、甘えん坊の気配など爪の先ほどもなかった。
怒り。
神々の黄昏すら引き起こしかねない、純度百パーセントの絶対的な殺意。
『――我が主の、干したてのシーツに煤を吹きかけた下劣な泥が』
大気を直接震わせる、重厚な意思の波動。
タマ(フェンリル)が、前足を一歩、泥流の津波へと向けて踏み下ろした。
その口が、大きく開かれる。
「――グルオォォォォォォッッッ!!」
咆哮とともに放たれたのは、絶対零度のブレスであった。
白銀の光線となって撃ち出された冷気の奔流が、渓谷を埋め尽くしていた黒紫色の瘴気泥流を真っ向から迎え撃つ。
パキ、パキパキパキパキィィィィィィンッ――!!
音が、世界を支配した。
激突した瞬間、十メートルの高さを誇っていたヘドロの津波が、蠢いていた無数の変異魔獣たちが、泥流の飛沫の一粒に至るまで――寸分の猶予もなく、瞬時に凍結したのだ。
泥流は流れる形のまま、波頭を天へと突き上げた巨大な氷壁の彫刻へと変貌する。
それだけではない。
フェンリルの冷気は、物質の分子運動そのものを強制停止させる神話の力。
凍結した泥流の氷壁に、ピシッと一本の亀裂が走ったかと思うと――。
――バァァァァァァァァンッ!!
まるで、極限まで冷却された硝子の塊が爆発するかのように、何千トンもの瘴気の塊が、粉々の、目に見えぬ微細な氷の塵となって弾け飛んだのだ。
谷を埋め尽くしていた絶望の濁流が、わずか二秒で、ただのキラキラと宙を舞う光の粉となって蒸発した。
だが、神獣たちの「ゴミ掃除」は、これだけでは終わらなかった。
『――主が、朝餉もそこそこに、鍋にかじりついて看病してくださったのだ』
キマイラの漆黒の瞳が、谷の遥か上流――山頂付近で赤黒い瘴気を噴き上げ続けている、古代遺跡の石造構造物へと固定された。
『我が主の温かな手を煩わせた罪……微粒子となって償え』
――ドォッ!!
キマイラが大地を蹴った。
残像すら残らない。
漆黒の影が虚空を跳躍した瞬間、空間そのものが軋みを上げて歪み、キマイラの姿は一瞬にして山頂の古代遺跡の真上へと転移していた。
上空から見下ろすのは、数千年前の超文明が遺した負の遺産――『古代瘴気炉』。
巨大な石造の炉心は、内側からの過圧力で亀裂を広げ、いまなお大量の毒泥を大地へと垂れ流し続けていた。国家の魔術師団が総出で挑んでも傷一つつけられぬという、古代の超硬度石材で組まれた祭壇。
キマイラは、三本の巨大な鉤爪を、天へと振り上げた。
その爪先には、触れるものすべてを物理的にも概念的にも両断する、冥府の断頭術式が漆黒の刃となって凝縮されている。
そして――振り下ろされた。
「――断ち斬れ」
――ザンッッッ!!
空間を切り裂く、乾いた、あまりにも小さな音。
直後。
山頂の巨大な石造瘴気炉の表面に、三条の細い黒い光の線が走った。
一拍の静寂。
ズズ……ズズズッ……。
超古代の超兵器が、土台の巨石ごと、まるで豆腐を熱したナイフで撫で切ったかのように、滑らかにズレ落ちた。
それだけではない。
切断面から放たれた漆黒の衝撃波が、炉心の内側に渦巻いていた怨念の核を直接粉砕。
核を失った古代瘴気炉は、崩れ落ちる途中でパサパサと灰のように崩壊し、分子の結合を完全に失って、微風に吹かれた砂のようにサラサラと虚空へ溶けて消え去っていったのである。
物理的な、完全消滅。
数千年間、地底に封印され、王国を滅亡の淵へと叩き落とそうとしていた神代の厄災の根源が――。
たった一撃の爪によって、土台ごと、塵芥の一つも残さず、この世界から消滅させられたのだ。
***
上空から、黄金の光粒子を纏った小鳥が急降下してくる。
山頂から、漆黒の四肢を軽やかに躍らせた黒猫が着地する。
谷底で、白銀の鬣をサラサラと揺らした白猫が、小さく鼻を鳴らす。
三匹が揃った時、周囲の空間には、一筋の瘴気も、一欠片の毒泥も残っていなかった。
川のせせらぎが戻っていた。
枯れ果てかけていた木々の枝先には、ピピが放った浄化の光の余波によって、奇跡のように青々とした若葉が芽吹き始めていた。
大気は、初冬の澄み切った、どこまでも清らかな針葉樹の香りで満たされていた。
激突から、消滅まで。
繰り広げられた神話の戦闘時間は――わずか、三分足らず。
『……ふん。他愛のない粗大ゴミであったな』
『ああ。だが、主の言いつけ通り、爪を泥で汚さずに済んだのは重畳だ』
『急ぐぞ。……我が主が、自分のおじやを温め直し、縁側の席につくまでに、あと一分半しかない』
『急げ! 遅れて怪しまれたら、今夜のブラッシングの時間が減るぞ!』
三対の神話の瞳が、一斉に山裾の我が家へと向けられた。
彼らにとって、数千年の古代兵器を粉砕したことなど、道端の小石を蹴飛ばした程度の些事にすぎなかった。
何よりも重要なのは、愛する主が待つ、あの温かな縁側へ、何食わぬ顔で時間通りに戻ること。
シュパッ!
風が鳴った。
純白の巨獣も、漆黒の凶獣も、天を焦がす炎鳥も、一瞬にしてその神威を限界まで圧縮。
中型犬ほどの白猫と、目つきの悪い黒猫と、黄色い小鳥の姿へと擬態するや否や、脱兎の如き猛スピードで、裏山の獣道を通って古民家へと走り去っていった。
兵士たちには、一瞥すらもくれずに。
***
「……………………」
静寂。
耳が痛くなるほどの、絶対の静けさ。
第一防衛境界線に残された、百二十名の人間たち。
ローランも、ギルバートも、抜刀したままの騎士たちも、全員が石像のように硬直し、口を半開きにしたまま立ち尽くしていた。
さっきまで、ここには何があった?
十メートルの瘴気泥流の津波。
変異魔獣の大群。
死を覚悟した絶望の防衛線。
それが、いま――。
見上げれば、雲一つない、抜けるような青空。
足元には、雪解け水のように清らかに流れる小川。
頬を撫でるのは、爽やかで心地よい、初冬の柔らかな木漏れ日と木枯らし。
「……お、終わった……のか……?」
ギルバートの掠れた声が、静寂を破った。
大男の膝が、ガクガクと小刻みに震え始める。歴戦の戦士が、恐怖ではなく、あまりの現象の理不尽さと神聖さに、腰を抜かしかけていた。
「三分……だぞ……」
ギルバートは両手で自らの顔を覆った。
「王国軍が総力を挙げても一週間かかると言われた古代の超兵器を……あの御眷属どもは……まるで、庭の落ち葉を掃き集めるかのように……三分で消し去ったというのか……!?」
ローランは、震える手で眼鏡を押し上げた。
レンズ越しに見える、遥か山裾――木々の隙間に小さく見える、あの平屋の古民家の屋根。
そこから、細く、白い煙が、ぽっぽと呑気に立ち上っているのが見えた。
かまどの煙だ。
あのお方が、いま、自分のお昼ご飯を温めている煙。
「……マノン様」
ローランの膝が、ついに力尽きたように泥土の上へと折れた。
地面に両手をつき、熱い涙がボロボロと眼鏡のレンズを濡らして零れ落ちる。
「あのお方が……放たれたのだ……。我らが命を捨てて防壁に立っていることを知ろしめし……手ずから、三代厄災の神獣たちを解き放ち、我らを救ってくださったのだ……ッ!!」
兵士たちもまた、一人、また一人と武器を捨て、地面へと膝をつき始めた。
奇跡。
救済。
神の慈悲。
「ありがたや……調停者様……!」
「マノン様……現世の守護女神様……ッ!!」
祈りと嗚咽の声が、澄み渡る青空の下、静まり返った渓谷に満ちていく。
自分たちが命を賭して守ろうとした聖域の主は、そのはるか上空から、人知を超えた神威を以て、領地そのものを一瞬で救い出していたのだ。
――しかし。
号泣しながら祈りを捧げるローランたちの遥か下流、その古民家の台所において。
「あら、嫌な風が止んだわね。山の天気は本当に変わりやすいわ」
マノンが呑気に小鍋の蓋を開け、生姜香るおじやをお椀によそいながら、ふうふうと息を吹きかけていたことなど――この時の彼らには、知る由もなかったのであった。




