第54話:生姜香る大鍋、金色に透きとおる特製おじや
大かまどの火力を細く絞ると、薪の爆ぜるパチパチという甲高い音が、低く穏やかな呼吸のようなパチ、パチという小気味よいリズムへと落ち着いていった。
分厚い鋳鉄鍋の底を舐める楢の炎は、いまや淡い橙色の熾火となって、鍋全体を一定の柔らかな熱で包み込んでいる。
水面からは、昆布と干し椎茸、砕いた鶏ガラ、すりおろし生姜、刻み甘草、そして乾燥ナツメの滋養が溶け合った、息を呑むほど澄んだ黄金色の湯気が、土間の梁へ向けてまっすぐに立ち上っていた。
「スープは完璧ね。……次は、お米の準備をしなくちゃ」
マノン・デュランは、台所の角に置かれた古い杉のおひつへと歩み寄った。
赤みを帯びた杉の柾目が美しい木蓋を持ち上げると、杉特有の清々しい木の香気とともに、昨晩炊いておいたご飯が姿を現した。
ふっくらと炊き上げた白米に、ぷちぷちとした丸麦を二割ほど混ぜた麦飯である。ひと晩置かれた冷やご飯は、余分な蒸気が杉の木肌にほどよく吸い取られ、米粒のひと粒ひと粒が適度に引き締まり、しっとりとした艶を保っていた。
普通のおじやであれば、このまま熱い出汁の中へ放り込んで煮込むところだろう。
だが、マノンはしゃもじを手に取り、深い竹ざるの上へと冷やご飯をサラサラと移し始めた。
(弱り切った胃腸におじやを作る時は、絶対にこのひと手間を省いちゃダメなのよね)
幼い頃、熱を出して唸るマノンの枕元で、祖母が何度も言い聞かせてくれた教えが、指先の動きにそのまま重なる。
冷やご飯をそのまま煮汁に入れてしまうと、米の表面についた粘り気がスープ全体に溶け出し、汁が重たく濁ってしまうのだ。粘り気が強すぎると、喉越しが重くなり、吐き気や胃もたれを起こしている時にはそれだけで胃壁への負担になってしまう。
マノンは竹ざるを井戸端の木桶の上へと運び、手押しポンプで汲み上げたばかりの冷たい地下水を、柄杓ですくってザルの中のご飯の上からさらさらと回しかけた。
――サラサラサラ……。
澄んだ冷水が米粒の間を滑り落ちていく。
マノンは冷たさに指先をきゅっと窄ませながらも、ざるの中のご飯を両手で優しく、米粒を押し潰さないよう撫でるようにして解していった。
固まっていたご飯が、冷水の中でひと粒ずつほどけていく。
白く濁った余分なデンプンの膜が水とともに流れ落ち、ざるの底から切られていく。
ひと粒ひと粒が独立し、まるで洗いたての真珠のように角が立ち、表面がきらきらと光を反射する。
「よし、これでぬめりは取れたわ」
しっかりと水気を切ったざるを両手で持ち、マノンは大鍋の前へと戻った。
鍋の中央では、黄金色の清湯が、極弱火の熱を受けてプツリ、プツリと小さく愛らしい泡を立てていた。
マノンはざるを傾け、洗いたてのご飯を、雨粒を撒くようにして鍋全体へと均一に滑り込ませた。
――パラパラ、サラサラ……。
冷たい米粒が熱い黄金スープへと触れた瞬間、ジュゥと微かな吐息のような音が立ち、スープの温度が一瞬だけ下がる。
沈んでいった米粒たちは、鍋底で団子状に固まることなく、澄んだ液体の中を軽やかに泳ぎ、散らばっていった。
マノンは平たい木べらを鍋肌に沿わせ、底が焦げ付かないよう、底からふわりと持ち上げるようにして、静かに、ゆっくりと一度だけかき混ぜた。
黄金色に透き通るスープの中で、白い米粒と丸麦、細かくすりおろされた生姜の微粒子、そしてふっくらと戻った赤いナツメの実が、まるで水底の花畑のように美しく広がっていく。
「ここから……じっくり、米の花を咲かせるのよ」
マノンは木べらを置き、重厚な鉄の蓋を鍋の上に被せた。
ただし、完全に密閉はしない。蒸気が逃げる隙間を指一本分だけ空け、斜めにずらして蓋を置く。
吹きこぼれを防ぐためであり、余分な水分を緩やかに飛ばしながら、出汁の旨味だけをご飯の芯へと凝縮させるためだ。
――コト、コト、コト……。
――プツ、プツ、プツ……。
隙間から、シュルシュルと細く白い蒸気が吹き出し始めた。
静かな土間に響くのは、極弱火で煮込まれる鍋の、一定の穏やかな呟き。
熱がゆっくりと米粒の奥深くまで浸透していく。
洗われてぬめりを失った米粒は、まるで乾いた大地が春の雨を吸い込むように、昆布と椎茸の旨味、鶏ガラの脂のコク、そして生姜と甘草のエキスを、その中心(デンプン構造)へと余すところなく吸い上げていくのだ。
米粒の角が少しずつ丸みを帯び、ふっくらと膨らみ、先端が十字に優しく花開いていく。
五分、十分。
時間が経つにつれ、蓋の隙間から溢れ出る湯気の香りが、劇的な変化を遂げていった。
先ほどの鮮烈な生姜の刺激臭は、加熱されることで角が取れ、どこまでも丸く、甘く、スパイシーで温かな芳香へと昇華されている。
そこへ、煮込まれた米の甘いデンプンの匂いと、大根おろしの優しい蒸気が重なり合い、土間全体の空気が、まるで何重もの温かい毛布で包まれたかのような、圧倒的な安心感で満たされていく。
「そろそろいいかしらね」
マノンは麻布を手に取り、鉄の重たい蓋をそっと持ち上げた。
――フワァァァァァンッ……!
立ち上った純白の蒸気のカーテンが、マノンの顔を温かく包み込んだ。
鍋の中を見下ろしたマノンの口元が、思わず綻ぶ。
見事な炊き上がりであった。
スープは決してドロドロに濁ることなく、琥珀色に澄んだ透明感を保ったまま、適度なとろみをご飯に纏わせていた。
米粒はひと粒ひと粒がふっくらとスープを吸い込んで二倍近くに膨らみ、麦の粒はぷっくりと弾けそうなほど瑞々しく輝いている。米とスープの比率は完璧で、サラサラと喉を通る絶妙な水分量を保っていた。
「そして……最後のお仕上げね」
マノンは棚から、小さな籠を取り出した。
中に入っていたのは、宿場町の商人ヴェロニカが「領内の契約農家から今朝届いたばかりの初卵だよ」と届けてくれた、平飼い地鶏の産みたて卵であった。
薄茶色の殻はザラリとした確かな質感を持ち、手のひらに乗せると、まだ生みの親の体温が残っているかのようにずっしりとした重みがある。
コン、と平たい小鉢の縁で殻を叩く。
パカッと二つに割ると、中からトロリと滑り落ちてきたのは、息を呑むほど鮮やかな濃い山吹色の黄身であった。
黄身は丸々と盛り上がり、指先で摘んでも崩れそうにないほどの弾力を持っている。周囲を取り囲む白身も、二重の濃厚な盛り上がりを見せ、鮮度の高さを雄弁に物語っていた。
マノンは二本の菜箸を手に取ると、小鉢の中でシャカシャカと素早く動かした。
完全に混ぜ切ってしまわないのがコツだ。
白身のコシを完全に断ち切らず、黄身と白身がマーブル状に混ざり合う程度に、ざっくりと十数回だけ箸をくぐらせる。白身の淡白な喉越しと、黄身の濃厚なコクの、両方の食感を残すためである。
「いきますよ……」
大鍋の火力を、ほんの一瞬だけ中火へと強める。
鍋肌のスープがチリチリと細かな泡を立て、全体が小さく波打ち始めた。
その対流の波を見極め、マノンは溶き卵の小鉢を高く掲げた。
菜箸を小鉢の縁に添え、箸を伝わせるようにして、細い糸のように溶き卵を回し入れていく。
――ト、ト、ト、トロロロロ……ッ。
鍋の外周から内側へ向けて、綺麗な「の」の字を描くように、均一に卵を注ぎ落とす。
熱い黄金スープの海へと落ちた黄色い卵液は、瞬時に熱を吸い、まるで満開の菜の花が水面にパッと咲き誇るかのように、ふんわりと柔らかく波打って広がっていった。
白身は透き通るような純白の薄氷の膜となり、黄身は鮮やかな黄金色のフリルとなって、ふっくらとした米粒の上を優しく覆い隠していく。
注ぎ終えた瞬間、マノンは躊躇なく火を完全に止めた。
そして、素早く鉄の蓋を隙間なくピタリと密閉した。
「ここからは……余熱の魔法ね」
火にかけ続ければ、卵はすぐに火が通りすぎてボソボソと硬くなってしまう。
厚手の鋳鉄鍋が蓄えた圧倒的な余熱だけで、蒸らすこと数十秒。
蓋の密閉された暗闇の中で、卵は半熟の、最も滑らかで最もとろけるような「黄金の羽衣」へと変化していくのだ。
土間に、訪れた静寂。
パチ、と炭が爆ぜる音だけが、息を潜めるように響く。
マノンは心の中で静かに数を数えた。
一、二、三、四……二十、二十一、二十二……。
「……よし!」
三十を数え終えたところで、マノンは勢いよく蓋を取り去った。
――ボワッ!
立ち上ったのは、先ほどまでとは比較にならないほど芳醇で、甘やかな湯気の爆発であった。
鍋の中には、息を呑むほど美しい黄金の世界が広がっていた。
ふんわりと蒸らされた卵は、まるで朝露を吸った雲のように柔らかく、ぷるぷると微かに震えていた。
その隙間から覗く、スープを吸って黄金色に染まった米粒たち。
すりおろし生姜の清涼な香りが、卵の濃厚でまろやかな甘い湯気によって包み込まれ、角の一切ない、鼻腔の奥深くまで染み渡る至高の芳香となって漂っている。
余計な調味料の濁りは微塵もない。
大地の滋味と、太陽の恵みと、出汁の力だけで編み上げられた、命を救うための特製おじや――ここに完成であった。
「ふう……すっごく上手にできたわ!」
マノンは額の汗を袖で拭い、満足そうに満面の笑顔を咲かせた。
だが、調理が終わっても、マノンの仕事は終わらない。
ここからが、動物たちに食事を与える際の一番大切な工程であった。
「猫ちゃんも小鳥ちゃんも、人間みたいに熱いものは食べられないものね」
いわゆる「猫舌」。
動物の口腔粘膜は人間よりも遥かに繊細で、熱すぎるものを与えれば火傷を負い、余計に食欲を減退させてしまう。
ましてや今、彼らは弱り切って胃腸が冷え固まっているのだ。熱すぎず、冷たすぎず、体温よりほんの少しだけ温かい「人肌」の温度こそが、最も身体に優しく、最も負担なく吸収される。
マノンは膳棚から、素焼きの小ぶりの深鉢を三つ取り出した。
使い込まれて丸みを帯びた、素朴な赤土の器。
木のお玉を手に取り、鍋の底から静かにおじやをすくい上げる。
タマの器には、ふっくらとした米粒と柔らかな卵、そして出汁のスープを多めに、二杯分。
クロの器には、少し控えめに一杯半。生姜の繊維が偏らないよう、バランスよく均等によそう。
そしてピピの器には――小鳥の小さなくちばしでも食べやすいよう、米粒を数粒と、とろりと滑らかな卵のスープを中心に、浅くすくって入れた。
器を並べると、三つの小鉢から、ホカホカと愛らしい湯気が立ち上る。
マノンは身を屈め、小鉢の真上へと顔を近づけた。
「ふぅー……ふぅー……」
唇を尖らせ、両手で小鉢を回しながら、優しく、丹念に息を吹きかけていく。
マノンの唇から放たれる吐息。
それは単なる冷ますための空気ではなかった。
彼女の全身から自然と漏れ出る、あの『波長ゼロの無害気質』。
あらゆる魔力毒を中和し、万物をあるべき平穏へと還す絶対の浄化波動が、息とともに小鉢の中のおじやへと、惜しげもなく注ぎ込まれていく。
熱い湯気が少しずつ和らぎ、スープの表面に張った薄い膜が、ほんのりと落ち着いた艶を帯びていく。
指先を器の底にあて、温度を確かめる。
熱くはない。かといって冷たくもない。
掌を包み込むような、じんわりとした、心地よい人肌の温もり。
「よし……ちょうどいい温度ね」
マノンは三つの小鉢を、磨き上げられた長方形の木製お盆の上へと丁寧に並べた。
エプロンを整え、両手でお盆をしっかりと持ち上げる。
足音を忍ばせ、抜き足差し足で、静まり返る居間の引き戸へと向かった。
***
ガラリ……。
重たい木製の引き戸が、静かに横へと引かれた。
薄暗い居間の中に、土間の温かな光と、大鍋から漂う生姜の香気が、ふわりと流れ込んでくる。
「みんな……お待たせね」
マノンの柔らかな声が、静寂に沈んでいた部屋を包み込んだ。
畳の上。
座布団の上で毛布にくるまり、耳をペタリと倒して固く縮こまっていた白猫のタマ。
茶箪笥の隙間の暗がりに潜り込み、顎を床に突っ伏して身動きもしなかった黒猫のクロ。
そして梁の上の止まり木で、羽を風船のように膨らませてくちばしを背中に突っ込んでいた黄色い小鳥のピピ。
マノンがお盆を持って部屋に入ってきた瞬間、三匹の身体が、ピクリと同時に跳ね上がった。
タマの鼻先が、ヒクヒクと激しく蠢いた。
クロの欠けた耳が、ピンと前方を捉えた。
ピピの閉ざされていた瞼が、カッと見開かれた。
運ばれてきたのは、ただの食事ではなかった。
彼ら神獣の魂を数千年にわたって苛み、今まさに山頂から押し寄せて大気を汚染しているあの古代瘴気の腐敗臭を――跡形もなく、朝露のように洗い流してしまう、圧倒的な「命の匂い」であった。
生姜の清涼な香気が、濁っていた居間の空気を一瞬にして清め、鼻腔の奥にこびりついていた硫黄の悪臭を吹き飛ばす。
昆布と鶏ガラの出汁の香りが、冷え切っていた内臓を激しくノックし、停止しかけていた食欲の扉を力づくでこじ開けていく。
そして何より――小鉢から立ち上る湯気そのものが、マノンの無害化体質を極限まで含んだ、純度百パーセントの神聖な霊気の霧となって、部屋中へと広がっていたのだ。
マノンは三匹の真ん中、畳の上に静かに正座した。
お盆を畳の上に下ろし、三つの小鉢を、それぞれの足元へとそっと差し出した。
コト、コト、コト。
素焼きの器が畳に触れる、優しい音。
タマの前には、出汁をたっぷりと吸って黄金色に輝く、大盛りのふっくらおじや。
クロの前には、生姜と大根おろしが均等に散りばめられた、琥珀色のとろとろおじや。
ピピの前には、滑らかな卵と数粒の麦が浮かぶ、人肌の温かなスープ小鉢。
立ち上る湯気は、ほんのりと淡く、どこまでも優しかった。
熱く煮えたぎることはない。
口に含んだ瞬間、舌を火傷させることもなく、そのまま胃の腑へと滑り落ちていく、完璧に計算された人肌の温度。
マノンは膝の上に両手を揃え、三匹の痛々しい姿を、心底から愛おしそうに見つめた。
眉を八の字に下げ、まるで我が子の看病をする母親のような、どこまでも穏やかで、慈悲に満ちた声で囁いた。
「はい、タマ、クロ、ピピ。……身体がだるくて、食欲がないかもしれないけれどね」
マノンはタマの背中を、次いでクロの頭を、そしてピピの止まり木を、そっと指先で撫でた。
「無理して全部食べなくていいから。……一口だけでも、スープを舐めてみて? お腹の中からぽかぽか温まれば、きっと、少しだけ楽になるからね」
無理強いはしない。
残しても叱らない。
ただ、少しでも元気になってほしいという、純粋な祈りのこもった温かな眼差し。
差し出された三つの小鉢。
そこから漂う至高の香気と、主の無償の愛の波動に包まれながら――。
弱り切っていた三匹の厄災たちは、吸い寄せられるように、その黄金色に透き通るおじやの器へと、恐る恐る、顔を近づけていったのであった。




