第53話:おばあちゃんの知恵袋、弱ったお腹に効くスープ
土間の引き戸をぴたりと閉ざした瞬間、外の冷たい風切り音と、あの饐えた硫黄の悪臭がふっと遠のいた。
居間の薄暗がりの中、麻の座布団の上で丸まる白猫のタマと、茶箪笥の隙間に蹲る黒猫のクロ、そして梁の止まり木で羽を膨らませる黄色い小鳥のピピ。三つの愛しい命が、浅く重たい息を吐きながら、じっと耐えるように目を伏せている。
「待っててね。今、お腹の中からぽかぽかになるご飯を作ってあげるからね」
マノン・デュランは、小声で優しく語りかけながら、古い木綿の毛布を箪笥から引き出し、タマの背中へとそっと被せてやった。
指先に触れる毛並みは、微かな湿り気と冷えを帯びている。マノンが背中を丸めるタマの耳の付け根を親指の腹で優しく撫でてやると、タマは細めた金色の瞳をわずかに震わせ、掠れた声で「ふにゃ……」と短く喉を鳴らした。普段の豪快なヘソ天からは想像もつかない弱々しさに、マノンの胸がきゅっと痛む。
(絶対に、治してあげるわ)
マノンは袖を肘の上まで二度折り返し、白い麻エプロンの腰紐をきゅっと力強く締め直した。
王都の大手調剤薬舗で働いていた十年間、マノンが扱っていたのは、貴族たちが法外な金貨を積んで買い求めるような、人工的に魔力を濃縮した高価な丸薬や化学合成薬ばかりだった。
しかし、薬効が強すぎる薬は、往々にして身体の小さな動物や、弱り切った胃腸には劇薬となりかねない。胃粘膜を荒らし、肝臓に負担をかけ、かえって体力を奪ってしまうのだ。
本当に身体が弱っている時に必要なのは、そんな攻撃的な薬ではない。
――マノン、熱を出した時はね、無理に肉や固いものを詰め込んじゃいけないよ。
――まずは、大地の出汁と、陽の光を吸った根っこの力で、冷えた胃の腑を温めてあげるんだ。
脳裏に蘇るのは、幼い頃、風邪をこじらせて寝込むたびに、枕元で看病してくれた田舎の祖母の温かな皺だらけの手だった。
大黒柱のすすけた匂い、土間のかまどから立ち上る白い湯気、そして、すりおろした生姜と出汁の香りが家中に満ちていくあの安心感。
薬舗で体系的に学んだ生薬学の知識と、祖母から受け継いだ昔ながらの家庭の知恵。その二つが、マノンの頭の中で鮮やかなレシピとなって結実していく。
(季節の変わり目の冷えに、山からの悪い煙にあてられたことによる急性胃腸炎。……消化器官の血流が極端に落ちて、体温調節機能が麻痺しているわ。必要なのは、消化の負担が限りなくゼロに近く、内臓の芯に直接届く滋養と、体内の毒素を外へ押し出す利尿・発汗の生薬……!)
方針は決まった。
マノンは土間の踏み石を軽やかに踏みしめ、大かまどの前へと向かった。
まずは、火熾しだ。
かまどの焚口に残っていた古い灰を十能で手早く掻き出し、空気の通り道を確保する。
奥に積んでおいた薪の中から、よく乾燥した杉の小枝と、薄く削いだ松の割り木を選び取った。火付きの良い針葉樹を井桁に組み、その中心に丸めた古新聞と乾燥したトウモロコシの皮を滑り込ませる。
火打ち金をカチリと鳴らすと、火花が綿火口に吸い込まれ、細い煙が立ち上った。
すかさず竹の火吹き竹をあて、フッ、フゥーッと長く均一な息を吹き込む。
ボッ――。
赤い炎の舌が小枝を舐め、パチパチと軽快な爆ぜる音を立てて燃え広がった。
そこへ、火持ちの良い硬質な楢の太薪を二本、隙間を空けて投入する。
立ち上る橙色の炎が、かまどの口を赤々と照らし出し、土間のひんやりとした空気が一気に暖かな熱気を帯び始めた。
「よし、いい火ね」
かまどの上に据えたのは、前の住人が残していった、大人が両手を回しても抱えきれないほどの特大の鋳鉄鍋であった。
底が深く、分厚い鉄の肌は長年の油と熱で黒光りしている。熱伝導は緩やかだが、一度温まれば驚異的な蓄熱性を発揮し、中の食材にじんわりと均一に熱を通す名鍋だ。
マノンは井戸端へ行き、手押しポンプを力強く上下させた。
ギィコ、ギィコ、ジャァァッ!
地下深くの水脈から汲み上げられたばかりの古井戸の水は、冬の冷気を含んでキリリと澄み渡り、木桶の縁を叩いて飛沫を散らした。
この水には、山肌の豊かな腐葉土と花崗岩の層を数十年かけて潜り抜けてきた、純粋な大地のミネラルがたっぷりと溶け込んでいる。
桶を抱え上げ、大鍋へと惜しげもなく注ぎ入れる。
チャプン、と清冽な水が鉄の底を満たしていく。
そこへ、マノンが台所の棚から持ち出してきたのは、素焼きの甕に仕込んであった「出汁の素」であった。
「昨晩から水出ししておいて、本当によかったわ」
甕の蓋を開けると、中には幅広の立派な乾燥昆布と、傘の肉厚な乾燥椎茸が、澄んだ水に浸かってふっくらと戻っていた。
昆布の表面には、白い旨味の粉が綺麗に溶け出し、水そのものが琥珀色を帯びてとろみを湛えている。戻った干し椎茸は、大人の手のひらほどもある立派な天日干しのもので、傘の表面の亀裂の奥から、凝縮された森の香気と濃厚なグアニル酸の香りを放っていた。
昆布と椎茸を戻し汁ごと、大鍋の井戸水へと静かに滑り込ませる。
弱火のかまどの上に置かれた水の中で、昆布がゆらりと揺れ、出汁の粒子が水分子の隙間へと解き放たれていく。
沸騰させてはならない。昆布の出汁は、水温が六十度前後の微温の状態でじっくりと時間をかけて煮出すことで、嫌なぬめりや雑味を出さず、純粋なグルタミン酸の旨味だけを抽出できるのだ。
「これに……動物性のコクと、骨髄の力を合わせるのよ」
マノンが木箱から取り出したのは、先週、宿場町の行商人ヴェロニカから安く譲ってもらっていた、地元の平飼い地鶏の新鮮な鶏ガラであった。
山野を元気に走り回って育った健康な鶏の骨は、太く引き締まり、髄の奥まで滋養が詰まっている。
マノンはまな板の上に鶏ガラを置くと、重厚な出刃包丁の背を構えた。
ガツン! バキッ!
小気味よい音が土間に響く。
太い大腿骨と背骨を力強く叩き割り、骨の奥にある赤黒い骨髄を露出させる。
そのまま鍋に入れてはならない。骨の断面には余分な血やアクが残っているからだ。
マノンはボウルに汲んだ冷水の中に砕いた鶏ガラを浸し、指先で骨の隙間に入り込んだ血の塊や余分な皮下脂肪を、丁寧に、手早く洗い落としていく。
指先が凍えるような冷水での下処理。だが、この一手間を惜しまないことこそが、雑味のない、水晶のように澄み渡った極上の清湯を生み出すのだ。
綺麗に血抜きされた鶏ガラを、昆布と椎茸が泳ぐ大鍋の中へと投入する。
ジュゥ……と微かな水音が立ち、薪の火力をほんの少しだけ強める。
やがて、鍋の底から極小の泡がチリチリと立ち上り始めると、表面に灰褐色の細かいアクが薄い膜となって浮き上がってきた。
マノンは真鍮製の目の細かい灰汁取りお玉を手に取り、鍋肌に沿って円を描くように、浮いてきたアクを一滴も残さず、丹念にすくい取っていく。
サッ、サッ。
すくい取っては小鉢の水で落とし、またすくい取る。
無駄のない、研ぎ澄まされた職人のような手つき。
十分、二十分と丁寧にアクを引き続けるうちに、鍋の水面は淀みを完全に失い、底に沈む昆布の緑と椎茸の茶色がくっきりと透けて見えるほど、清純な黄金色の液体へと変貌していった。
立ち上る湯気からは、昆布の海の香りと、椎茸の大地の滋味、そして鶏骨から溶け出した芳醇な脂の甘みが混ざり合い、鼻腔をくすぐるだけで胃の腑がじんわりと温まるような、深い深い出汁の芳香が漂い始める。
「うん、綺麗に澄んだわね。……ここからが、私の本領発揮よ」
マノンはエプロンで手を拭き、土間の勝手口から裏庭へと足を踏み出した。
外の空気は依然として薄暗く、赤紫色の暗雲が山裾を覆っていたが、マノンは気にも留めず、敷地の奥にある小さな家庭薬草園の畝へと小走りに向かった。
冬枯れの中、霜よけの藁を敷き詰めた一角に、寒さに耐えて青々とした葉を茂らせているハーブたちがある。
マノンは小さな花切り鋏を手に取り、丁寧に摘み取っていった。
まずは、胃腸の粘膜を保護し、抗炎症作用を持つカモミールの可憐な白と黄色の花。指先で触れるだけで、青林檎に似た優しい甘い香りが弾ける。
続いて、大地の奥底へ太く根を伸ばす甘草。その根を掘り起こし、泥を洗い落として小刀で細かく刻む。甘草に含まれるグリチルリチンは、胃痙攣を鎮め、すべての生薬の調和をとる「生薬の調停役」だ。
台所へ戻ったマノンは、素焼きの乳鉢にカモミールの花と刻んだ甘草を放り込み、すりこぎでトントンとリズミカルに擂り潰した。
細かく砕かれた薬草の繊維から、凝縮された植物の青い精油が滲み出る。
これを小鍋に入れ、少量の井戸水で極弱火でコトコトと煮出し、濃厚な薬草エキスを抽出する。黄金色の煮出し汁を目の細かい茶こしで濾し、大鍋の鶏ガラ出汁の中へと、細い糸のように回し入れた。
さらに、茶箪笥の引き出しから取り出したのは、赤褐色に美しく乾燥した「大棗」――乾燥ナツメの実であった。
薬舗時代、過労で胃腸を壊した客に必ず処方していた、滋養強壮と精神安定の妙薬。
マノンは小刀でナツメの実に四条の切れ目を入れ、果肉の甘みがスープに溶け出しやすいようにしてから、大鍋の中へパラパラと放り込んだ。ぷかぷかと水面に浮かぶ赤い実が、黄金色のスープの上で鮮やかな彩りを添える。
そして――仕上げの主役の登場であった。
「マルタおばあちゃんから貰った、とっておきの生姜ね」
竹籠の中から取り出したのは、大人の両手で包むほどもある、土つきの立派な大生姜の塊であった。
井戸水で泥を落とすと、瑞々しい黄金色の肌が露わになる。
マノンは金属性の包丁ではなく、銀のスプーンの背を取り出した。
シュルシュル、シュルリ。
スプーンの丸みを使って、表面の極薄い甘皮だけをこそげ落としていく。金属の刃で厚く剥いてしまわないのは、皮のすぐ内側の繊維にこそ、血行を促進し、胃腸の蠕動運動を促す辛味成分が最も凝縮されているからだ。
下処理を終えた生姜を、目の細かな銅製のおろし金の上へと押し当てる。
――シャリッ、シャリッ、シャリシャリシャリ……ッ。
静かな土間に、小気味よい擦過音が響き渡る。
すりおろすたびに、ツンとした鮮烈な辛味と、眠気を吹き飛ばすような清涼な香気が一気に弾け飛んだ。
すり鉢の底に溜まった、たっぷりの黄金色の生姜のすりおろし。
マノンは両手でそれをすくい上げ、繊維もろとも、大鍋の中央へと豪快に投入した。
ジュッ……と微かな音がして、生姜の辛味が鶏と昆布の濃厚な脂と出汁の海へと溶け込んでいく。
甘くスパイシーな香気が、立ち上る湯気とともに爆発的に広がった。
「これに、大根の酵素と……少しの塩ね」
先日収穫したばかりの特大大根の先端部分――辛味が少なく、消化酵素であるジアスターゼが豊富に含まれる部分を、これまた贅沢におろし金ですりおろし、たっぷりの大根おろしを汁ごと鍋へ加える。
熱を通すことで大根の辛味は柔らかな甘みへと変わり、スープ全体にとろりとした舌触りを与えてくれるのだ。
仕上げに、ヴェロニカから仕入れた最高級の天日塩を、指先でひとつまみ。
パラパラと散らされた大粒の塩が、熱いスープに触れてスッと溶けていく。
余計な調味料は一切使わない。
醤油も、みりんも、酒すらも入れない。
昆布と椎茸のグルタミン酸、鶏ガラのイノシン酸、生姜の辛味、ナツメの甘み、薬草の芳香、そして天日塩のわずかな塩気。
素材そのものが持つ生命の力だけで編み上げられた、完全なる養生のスープ。
木べらで、ゆっくりと、鍋底をなぞるように大きな円を描いてかき混ぜる。
トロン……。
大根おろしと薬草のエキスが混ざり合い、スープは透き通った黄金色から、琥珀色の柔らかな光を帯びた、とろみのあるスープへと仕上がっていた。
鍋肌から立ち上る湯気は、まるで神話の果樹園と薬草園を煮詰めたかのような、圧倒的な優しさと力強さを放っている。
「……ふう」
マノンは木のスプーンでスープをひとすくいし、唇を寄せてフーフーと息を吹きかけた。
そっと、口に含む。
――トロン……。
舌の上に落ちた瞬間、マノンの両目がふわりと見開かれた。
優しい。
けれど、驚くほど力強い。
まず広がるのは、昆布と椎茸の奥深い大地の滋味。続いて鶏ガラの濃厚なコクが舌を包み込み、生姜の爽快な刺激がピリリと後味を引き締める。
甘草とナツメの丸い甘みが角をすべて包み隠し、大根の柔らかな繊維が喉を滑らかに滑り落ちていく。
嚥下した瞬間、喉の奥から食道、そして胃の腑へと落ちていったスープの熱が、まるで小さな太陽のように体内でポッと温かな光を灯した。
胃の腑がじんわりと温まり、指先と足先の毛細血管が一気に開き、全身の皮膚から強張りがスーッと解けていくのが分かる。
「……美味しい。これなら……絶対に、みんなの身体を助けてあげられるわ」
マノンは確信に満ちた笑顔を浮かべ、木べらを鍋の縁に置いた。
そして――。
大鍋から立ち上るその至高の芳香は、土間の引き戸の隙間をすり抜け、居間の薄暗がりの中へと、静かに、けれど抗いがたい力強さで流れ込んでいた。
***
「……グル……?」
麻の座布団の上。毛布を被って丸くなっていた白猫のタマ(霜狼神フェンリル)の鼻先が、ピクリと小さく跳ね上がった。
重たく閉ざされていた瞼が、わずかに持ち上がる。
湿った黒い鼻の穴が、ヒクヒクと忙しなく蠢いた。
肺腑に飛び込んできたのは、先ほどまで彼を苦しめていたあの赤紫の瘴気の腐敗臭ではなかった。
それを一瞬で吹き飛ばすほどの、鮮烈にして温かな香り。
生姜の爽やかな清涼感。
昆布と鶏骨が織りなす、抗いがたい肉の滋養の匂い。
そして何より――主であるマノンの、あの『波長ゼロの絶対浄化体質』が極限まで煮出され、溶け込んだ、魂を震わせるような甘やかな霊気の奔流。
(こ……この、匂いは……!?)
タマの金色の瞳孔が、カッと見開かれた。
茶箪笥の隙間からは、黒猫のクロ(冥界獣キマイラ)が、這いずるようにして顔をひょっこりと覗かせていた。カサカサに乾いていた鼻先を激しくひくつかせ、琥珀色の瞳を爛々と輝かせている。
梁の上では、羽を膨らませていた黄色い小鳥のピピ(幻鳥フェニックス)が、くちばしを羽から勢いよく引き抜き、「ピ……ピピッ!?」と驚嘆の声を上げて立ち上がっていた。
神獣たちの嗅覚を直撃したその香りは、彼らにとって、ただの美味しそうな料理の匂いではなかった。
それは――体内にこびりつき、霊脈を汚染していた古代の怨念毒を、触れた端から消滅させる、究極の「神薬の気配」そのものであった。
大鍋の前で、マノンはエプロンを翻し、茶碗を並べ始めた。
「さあ、みんな! 仕上げに、ご飯を入れておじやにするからね! もう少しだけ待っててね!」
マノンの明るい声が、土間から居間へと響き渡る。
弱り切っていた三匹の厄災の瞳に、極上の朝食を前にした本能の光が、いま再び、メラメラと力強く灯り始めていたのであった。




