第52話:なんとなく重たい空気と、しょんぼりした耳
パアン、パアン、と。
湿り気を帯びた布地が風を孕んで打ち鳴らされる乾いた音が、庭先に規則正しく響いていた。
初冬の朝。古民家の南側に広がる真新しい防腐香木のウッドデッキには、長めの青竹の物干し竿が二本、清々しい緑色の肌を見せて渡されていた。
マノン・デュランは、井戸端の大きな木桶から引き上げたばかりの生成りのシーツを両手で持ち上げ、手首のスナップを利かせて勢いよく皺を伸ばした。
ピシッと布の繊維が整う心地よい音とともに、冷たい水滴の微細な飛沫がパッと朝の空気の中に弾け飛ぶ。
木綿の重み。冷たい地下水で洗い清められた繊維から立ち上る、どこか懐かしい清潔な土と水の匂い。手袋を外したマノンの両手は、冷水に晒されて林檎のように赤く染まっていたが、その表情には一片の曇りもなかった。
「よいしょ、っと……」
背伸びをして、竹竿の上にシーツを均等に広げる。
木製の洗濯挟みで端を二箇所、パチンと留める。
続いて、昨日まで敷いていた古い麻の座布団カバー、自分の普段着の木綿シャツ、そしてタマたちの抜け毛を丁寧に取り除いたウールの膝掛けを、順番に隙間なく並べていく。
王都の大手調剤薬舗で、朝から晩まで伝票と粉薬の山に追われていた頃には、平日の朝に太陽の下で洗濯物を干すことなど、夢のまた夢であった。
夜遅くに薄暗いアパートの狭い部屋の中で干した生乾きの服に袖を通すたび、胸の奥まで湿り気で重たくなっていたあの日々。
それに比べれば、かじかむ指先で冷たい水を絞り、広い青空の下に白い布を揺らすというこの素朴な家事の手触りこそが、何物にも代えがたい贅沢であり、自立した暮らしの証であった。
――しかし。
「……ん?」
最後の一枚、台所の布巾を干し終えたマノンは、ふと手を止めて顔を上げた。
おかしい。
いつもなら、洗濯物を干し終える頃には、南東の雑木林の梢から柔らかな朝陽が差し込み、庭の黒土をじんわりと温め始めているはずだった。
だが、今朝はいくら待っても、あたたかな日差しの温もりが肌に届かない。
それどころか、ウッドデッキの上に落ちる自分の影が、まるで夕暮れ時か嵐の直前のように、輪郭を失ってぼんやりと薄墨色に霞んでいるのだ。
「曇ってきたのかしら……? 今日は一日、晴れるって聞いていたのに」
マノンは手ぬぐいで赤くなった両手を拭きながら、物干し竿の向こう――北側の山並みへと視線を向けた。
「……うわあ、何あれ」
思わず、口から素直な呟きが零れ落ちた。
北に聳え立つ霊峰の頂。
その高く険しい稜線を覆い隠すように、異様な雲が湧き上がっていた。
初冬の日本海側から押し寄せてくるような重たい雪雲ではない。
それは、夕焼けの茜色を泥水で濁らせたような、あるいは古びた赤葡萄の搾りかすを空にぶちまけたかのような――毒々しいまでに鮮やかな、赤紫色の暗雲であった。
その雲は、風の流れに乗って流れるのではなく、まるで意思を持った巨大な生き物のように、モコモコと不気味に膨張を繰り返しながら、山肌を上から下へと呑み込むように侵食していた。
ヒュゥゥゥ……。
山裾から、一陣の冷たい突風が吹き下ろしてきた。
干したばかりのシーツがバタバタと激しく煽られ、マノンの栗色の前髪を乱暴に揺らしていく。
「――ッ! くさっ……!?」
マノンは思わず両手で鼻と口を押さえ、大きく眉をひそめた。
風に乗って鼻腔を直撃したのは、山の澄んだ空気とは正反対の、耐え難い悪臭であった。
梅雨時に何週間も締め切っていた古い納屋の、カビ臭い湿気の匂い。
そこへ、生臭いドブ泥と、茹で卵を何日も放置して腐らせたような硫黄の刺激臭を混ぜ合わせ、さらに錆びた鉄板を強火で空焚きしたかのような、ツンと喉の粘膜を刺す嫌な煙っぽさ。
息を吸い込むだけで、舌の奥底が苦く痺れ、喉の奥がイガイガと痛痒くなるような不快な気体。
「なんなのかしら、この匂い……。山奥の炭焼き小屋で、濡れた腐木でも燃やしちゃったのかしら? それとも、どこかの古い温泉の源泉でも吹き出しちゃったのかしらねぇ……」
マノンは首を傾げながら、パタパタと手で顔の前の空気を払った。
まさか今この瞬間、その赤紫色の暗雲の下で、領主代行ローランやギルバート隊長率いる百二十名の決死隊が、数千年の封印を破って溢れ出した古代の超兵器『古代瘴気炉』の汚染泥流を食い止めるため、命懸けの防衛戦を繰り広げているなどとは、夢にも思っていなかった。
「せっかく洗ったシーツに、こんな変な煙の匂いがついたら嫌だわぁ。……少し様子を見て、風が止まないようなら取り込んで部屋干しにしなくちゃね」
マノンは小さくため息をつき、空になった洗濯籠を抱え直した。
だが――。
庭の匂い以上に、マノンの胸をざわつかせたのは、敷地内の「静けさ」であった。
(……静かすぎるわね)
ふと、周囲を見回す。
いつもなら、この時間は庭先が一番賑やかであるはずだった。
マノンが洗濯物を干し始めれば、白猫のタマが「にゃーん」と甘えた声を出しながらシーツの裾に飛び込んできて足元に絡みつき、黒猫のクロが生垣の影からピョンと飛び出して風に揺れる布の端を前足でチョイチョイとつつき、黄色い小鳥のピピは竹竿の端にとまって「ピピッ♪」と楽しげに囀りながら羽繕いをする。
それが、毎朝の決まった長閑な風景だったのだ。
それなのに。
今朝は、庭のどこを見渡しても、毛玉たちの姿が見当たらなかった。
鳴き声一つ響かない。
ただ、不快な風の音と、物干し竿の軋む音だけが虚しく響いている。
「タマ? クロ? ピピ? ……どこへ行ったの?」
マノンは洗濯籠をデッキに置き、ウッドデッキの引き戸へと歩み寄った。
硝子戸に手をかけ、からりと開け放つ。
「みんなー、朝ご飯の続き、食べるでしょう? ……あら?」
居間に足を踏み入れた瞬間、マノンの足がピタリと止まった。
薄暗い居間の隅。
ガスパールが組み直してくれた飴色の板壁のすぐ脇、風通しの悪い部屋の最も奥まった日陰に――彼らはいた。
「……タマ?」
マノンは思わず息を呑み、膝をついた。
火鉢の横に敷かれた麻の座布団の上。
いつもなら、太い四肢を豪快に投げ出して仰向けになり、純白の腹をこれ見よがしに晒して「ヘソ天」で眠りこけているはずの白猫・タマ。
その巨体が、いまや見たこともないほど小さく、固く縮こまっていたのだ。
前足を胸元の奥底へと深く折り込み、首をすくめ、背骨のラインを山のように丸めている。
何よりも痛々しかったのは、その耳だった。
普段はピンと三角に立っている自慢の白い耳が、まるで頭蓋骨に張り付くかのように、ペタリと完全に真横へと伏せられていた。いわゆる、極度の警戒と体調不良を示す「イカ耳」の状態。
ふかふかだったはずの純白の毛並みは、冷たい汗をかいたかのように湿り気を帯びて束になり、背中が不規則に、ピクン、ピクンと痙攣するように波打っている。
「グル……ゥ……フシュー……」
喉の奥から漏れ出ているのは、いつもの甘やかな至福の喉鳴らしではなかった。
まるで、胸の奥底に鉛の塊を詰め込まれたかのような、重苦しく、浅く荒い呼吸の音。
マノンが近づいた気配に気づいたのか、タマは重そうに瞼を持ち上げたが、その金色の瞳は濁ったように潤み、焦点が定まらず、すぐに力尽きたように再びぎゅっと閉じられてしまった。
「まあ……! どうしたのタマ、息が荒いじゃないの……!」
マノンは心臓を掴まれたような衝撃を受け、慌ててタマの丸まった背中へと手を伸ばした。
そっと指先を毛並みに埋める。
熱い。いや、冷たい。
表面の毛先は冬の冷気で凍えるように冷え切っているのに、皮膚の奥底からは、まるで風邪の熱を発散しきれずに燻らせているかのような、嫌な微熱がじんわりと伝わってくる。
「タマちゃん、お耳が冷たくなってるわ……。お腹が痛いの? 頭が痛いの?」
マノンが首筋から後頭部にかけて、優しく指の腹で撫でてやると、タマは「クゥン……」と押し殺したような小さな鼻鳴らしを返してきた。
普段なら「もっと撫でろ」と頭突きをしてくるはずの頭が、力なくマノンの手のひらに沈み込み、重たく預けられたまま動かない。
異変は、タマだけではなかった。
「……クロ? クロもそこにいるの?」
マノンが視線を巡らせると、居間の隅にある古い茶箪笥と壁の隙間――わずか三十センチほどの薄暗い隙間の奥に、二つの小さな琥珀色の光が揺れていた。
黒猫のクロだ。
普段なら、どんな時でも凛とした姿勢を崩さず、ウッドデッキの手すりの上で油断なく周囲を警戒しているはずのツンデレな黒猫が、まるで光を恐れるかのように、箪笥の裏の暗がりに深く潜り込んでいた。
その体勢は、完全な脱力状態であった。
漆黒の四肢をだらりと畳の上に投げ出し、顎を床の板に直接擦りつけるようにして突っ伏している。
自慢のビロードのような黒い毛並みは艶を失い、埃を被ったようにパサパサと逆立ち、太い鍵尻尾は力なく床の上に伸びたまま、ピクリとも動かない。
「クロちゃん、おいで。どうしたの、そんな暗いところで……」
マノンが隙間に手を差し伸べると、クロは微かに耳を動かした。
いつもなら「気安く触るな」とばかりにフンとそっぽを向くか、あるいは照れくさそうに控えめに肉球を重ねてくるはずのクロが――今朝は、マノンの差し出した人差し指に向けて、弱々しく、すがるように自らの黒い鼻先を押し当ててきたのだ。
――カサッ。
触れた鼻先の感触に、マノンはハッと息を呑んだ。
乾いている。
健康な猫であれば、朝露のようにひんやりとしっとり濡れているはずの鼻の頭が、まるで乾いた陶器のようにカサカサに乾燥していたのだ。
「お鼻が乾いちゃってる……! 熱があるんだわ……」
さらに、部屋の上空を見上げれば。
太い大黒柱から伸びる梁の上、いつもなら日当たりの良い場所を求めて飛び回っているはずの黄色い小鳥――ピピが、止まり木の隅でじっとうずくまっていた。
その姿は、痛々しいほどに真ん丸だった。
金糸のように美しいはずの羽毛を極限まで風船のように膨らませ、首を完全に胴体の中へと埋没させ、小さなくちばしを背中の羽毛の奥深くに突っ込んで、微動だにしない。
「ピピ……? ピピちゃんもお返事して……」
マノンが下から声をかけると、ピピはくちばしを羽からわずかに抜き、黒真珠のような小さな瞳をうっすらと開けた。
そして――。
「……ピ……」
掠れた、今にも消え入りそうな、弱々しい一声。
あの、エティエンヌの最上位結界を一撃で叩き割り、天を焦がす神威を誇った幻鳥フェニックスの面影など、どこにもなかった。
ただ寒さと怠惰に打ちひしがれ、巣の中で震える、か弱い小鳥の姿そのもの。
「ピピまで……!」
マノンの胸を、鋭い焦燥感が締め付けた。
***
――もちろん。
神獣たちのこの無様な惨状には、極めて明確な、神話的かつ生体的な理由が存在していた。
(……ぐ……頭が……割れるように……痛い……ッ)
麻の座布団の上で丸まるタマ――霜狼神フェンリルの頭蓋の中で、千年の霊性が激しい軋みを上げていた。
彼ら神獣は、高潔にして純度の高い原初のマナを糧として生きる、霊格の極致にある存在である。
その彼らにとって、いま山頂の古代遺跡から決壊し、大気中に充満し始めている『古代瘴気炉の濃縮怨念毒』は――例えるならば、部屋中を腐敗した汚水と高濃度の排気ガスで満たされた上で、全身にまとわりつくドブ泥を浴びせられているような、筆舌に尽くしがたい汚染物質であったのだ。
呼吸をするたびに、体内の澄んだ魔力循環器官に、ヘドロのような粘り気のある毒気が入り込んでくる。
毛穴が詰まり、魔力回路が濁り、神経がドクドクと脈打って激しい頭痛と吐き気を催す。
二日酔いと悪性インフルエンザと魔力中毒を同時に発症したかのような、圧倒的な倦怠感。
(おのれ……古代の……粗大ゴミめが……ッ)
茶箪笥の隙間で突っ伏すクロ――冥界獣キマイラもまた、心の中で怨嗟の唸りを上げていた。
冥府の毒を司るキマイラですら、この数千年間濃縮され発酵した人工的な瘴気毒は、胸焼けがするほど不快極まりない異物であった。胃の腑がムカムカとし、四肢に力が入らない。
(主の……側にいれば……この娘の放つ『無害化の波動』で……辛うじて毒気は中和されるが……。それでも……外から吹き込む風が……あまりにも臭すぎる……ッ)
梁の上のピピ(フェニックス)も同様であった。
浄化の炎を身に宿す神鳥にとって、世界を汚染する瘴気は大敵である。体内の炎が濁った大気を焼き払おうと過剰に反応し、その反動で体力を激しく消耗していたのだ。
神獣たちの結論は一つであった。
『主の平穏な巣を汚すあのゴミ山を、今すぐにでも粉砕しに行きたい。だが――身体が重くて、だるくて、一歩も動けん……ッ!』
絶対強者ゆえの、霊的過敏症。
人間の騎士たちのように物理的な防毒マスクで防げる類のものではない。大気のマナそのものと同調して生きる神話生物だからこそ、環境汚染の直撃を受け、完全な機能不全に陥っていたのである。
――しかし。
そんな神話の事情など、元・調剤助手のマノンに知る由があるはずもなかった。
「……あ」
タマの体を心配そうに撫でていたマノンの視線が、縁側の隅に置かれた素焼きの小皿へと吸い寄せられた。
今朝、庭仕事の前にマノンが用意した朝ご飯の皿。
中に入っていたのは、茹でたての柔らかい豚肉の赤身を、細かく裂いて人肌のぬるま湯スープに浸した、タマたちの大好物の特製ご飯であった。
いつもなら。
お皿を床に置いたコンマ五秒後には、タマが掃除機のような勢いでガツガツと平らげ、クロが負けじと横から顔を突っ込み、お皿の底が鏡のようにピカピカになるまで綺麗に舐め尽くされているはずだった。
それなのに。
今朝の小皿には、丁寧に裂いた豚肉が、半分以上も手つかずのまま冷え切って残されていたのだ。
「ご飯を……残してる……」
マノンの声が、震えた。
王都の薬舗時代、実家で飼っていた老犬の看病をした経験、そして薬舗に持ち込まれる数々の生薬の知識が、マノンの脳裏を駆け巡る。
動物が、ご飯を食べない。
あの食いしん坊で、マノンが台所に立つだけで足元に擦り寄って「もっとくれ」と鳴き叫ぶタマが。
魚の煮付けの匂いだけで瞳を爛々と輝かせるクロが。
ご飯を残すなど、ただ事ではない。
「どうしよう……本当に、どこか悪いんだわ……!」
マノンは居間の床に膝をつき、両手で自分の頬を強く挟んだ。
深呼吸を一つ。
焦ってはダメだ。パニックになっても何も解決しない。
元・医療従事者として、冷静に目の前の症状を分析し、原因を究明しなければならない。
(落ち着いて、マノン。客観的な症状を整理するのよ)
マノンは指を折りながら、頭の中でカルテを組み立て始めた。
(症状その一:三匹同時の急激な食欲不振および全身の倦怠感。
症状その二:タマの浅く荒い呼吸と、耳の硬直(イカ耳)。
症状その三:クロの鼻腔の乾燥と、日陰への極端な潜伏行動。
症状その四:ピピの羽毛の過剰膨張と、発声の減退)
感染症?
いや、昨日の夕方までは、三人とも大根の周りを元気に走り回り、手作りの夕ご飯を綺麗に平らげていた。急激すぎる。
食中毒?
昨晩食べさせたのは、マノン自身も食べた新鮮な根菜の煮込みと、火をしっかり通した鶏肉だ。マノン自身の胃腸には何ら異常はない。
ならば――原因は何か。
ヒュゥゥゥ……。
開け放たれた引き戸から、再び、あの生臭い硫黄とカビの混ざった不快な風が、ツゥと居間の中へと流れ込んできた。
その風が肌をかすめた瞬間、タマが「ウゥ……」と苦しそうに小さく身悶えし、クロが鼻を前足で覆うようにして顔を伏せた。
「……これだわ」
マノンの瞳に、確信の光が宿った。
(あの、北の山から吹いてくる変な風!)
初冬の急激な寒暖差。
そして、どこかの炭焼き小屋か鉱山から流れてきたらしい、あの硫黄とカビの混ざった有毒な煙。
人間よりも遥かに嗅覚が鋭く、身体の小さな猫や小鳥たちだ。あの劣悪な空気環境に晒され、変な風邪にあてられてしまったのだ。
(そうよ、季節の変わり目だもの! 寒さで内臓が冷え切っているところに、あんな不快な煙を吸い込んじゃったせいで、胃腸の働きが完全に止まりかけているんだわ! 人間だって、酷い悪臭と寒風の中に放り出されたら、頭痛と吐き気でご飯どころじゃなくなるもの!)
マノンの脳内で、すべてのピースが完璧に(そして相変わらず斜め上の方向へ)ガチガチと噛み合ってしまった。
世界を滅ぼす古代超兵器の怨念毒。
それはマノンの診断において、「季節の変わり目の冷えと、煙にあてられたことによる急性胃腸炎」として、完璧に処理されたのである。
「ごめんね、タマ、クロ、ピピ……。私、お外の風が変な匂いだったのに、すぐに窓を閉めてあげなかったから……」
マノンは申し訳なさそうに眉を下げ、タマの丸まった背中をもう一度、優しく、慈しむように撫でた。
触れられたタマが、弱々しく喉を鳴らし、マノンの手のひらに鼻先を擦り寄せてくる。
その無防備な信頼に、マノンの胸の奥底で、母親のような強い責任感の火がボッと燃え上がった。
「大丈夫よ。すぐに、楽にしてあげるからね」
マノンは立ち上がり、居間の引き戸をピシャリと閉ざした。
隙間風が入らないよう、木製の閂をしっかりと下ろす。
外の不快な煙と冷気を完全に遮断し、居間の中の空気を守る。
そして――。
生成りの木綿シャツの袖を、肘の上まで力強く捲り上げた。
「こういう時に、無理にお肉や硬いカリカリを食べさせちゃダメよ。消化器に負担をかけたら、余計に悪化しちゃうわ」
マノンの頭の中に、王都の薬舗で培った膨大な生薬の調合知識と、幼い頃、風邪を引いて寝込むたびに田舎の祖母が作ってくれた、あの温かな手料理の記憶が鮮烈に蘇っていた。
「まずは、内臓を芯から温めること。そして、身体の中に溜まった嫌な毒素を、汗とお小水で綺麗に外へ押し流してあげること……!」
弱った胃腸に負担をかけず、水分と栄養を同時に補給し、冷え切った身体の深部体温を優しく引き上げる、昔ながらの究極の養生食。
「待っててね、みんな。今、とびきり美味しくて、身体がぽかぽか温まる、特製のご飯を作ってあげるからね!」
マノンはエプロンの紐をきゅっと締め直すと、迷いのない足取りで、土間の大かまどへと向けて駆け出した。
北の山林では、領主軍が血を流して絶望的な防衛戦を繰り広げている。
だが、この山奥の平屋において、愛する家族の命を救うための――マノンの孤独にして絶対なる「台所の戦い」の火蓋が、いま切って落とされたのであった。




