第51話:辺境伯の覚悟と、届かぬ救難信号
領主館の正面中庭に、重々しい蹄の音と、擦れ合う甲冑の金属音が陰鬱に響き渡っていた。
初冬の鈍色の空は、北から湧き上がる赤紫色の暗雲によって完全に覆い尽くされ、昼間だというのに黄昏時のような不気味な薄暗がりが敷地全体を沈めていた。
吹き抜ける風は冷たく、湿り気を帯び、鼻腔を突く腐敗臭は刻一刻と濃密さを増している。石畳の隙間に生えていたわずかな雑草すら、風に含まれる微量な瘴気に触れたのか、黒く縮れて萎れ始めていた。
整列しているのは、辺境警備隊の本隊、そして領主直属の近衛兵たち――総勢百二十名。
彼らの顔には、布と木炭の粉末を幾重にも重ねて縫い合わせた特製の防毒マスクが装着されていた。ゴーグルの曇ったレンズの奥から覗く瞳には、これから向かう場所が完全なる死地であることを理解している者特有の、研ぎ澄まされた諦念と悲壮な光が宿っている。
中庭の石段の上。
領主代行ローラン・ド・フォレストは、深紅の裏地がついた黒革の外套を羽織り、自らの腰に佩いた実戦用の長剣を、カチリと音を立てて確かめた。
「閣下、騎馬隊の輜重、ならびに防毒濾過薬の配分、すべて完了いたしました」
階段の下から、ギルバート隊長が太い声で報告を上げる。
二メートルを超える巨躯を漆黒の重装甲冑で包み、背には愛用の巨大な両手剣を背負っている。その屈強な顔にも防毒マスクがかけられていたが、剥き出しになった太い眉と鋭い眼光は、数千の魔獣を屠ってきた百戦錬磨の猛者そのものであった。
その隣には、副隊長のセリアが愛馬の手綱を握り、引き締まった表情で直立している。
「よく整えてくれた、ギルバート、セリア」
ローランは低く、よく通る声で応じた。
眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たい冬の空気の中に立つ兵士たちを見下ろす。
二十七歳。学問と内政を好み、机の上で数字と法律を弄ることを領主の務めとしてきた頭脳派の青年貴族。だが、いまその全身から立ち上っていたのは、辺境の過酷な大地で民の命を背負い続けてきたフォレスト家の血に眠る、純粋なる武人の気迫であった。
「――お兄様っ……!!」
張り詰めた静寂を切り裂いて、悲痛な叫び声が中庭に響いた。
館の玄関ホールの重厚な両開き扉が開き、そこから一人の少女が、裾を踏みそうになりながら必死の形相で駆け下りてきた。
淡い金色の髪を乱し、胸元を押さえながら息を切らして駆け寄ってきたのは、妹のレオノールであった。
普段の彼女であれば、貴族令嬢としての淑やかな歩みを崩すことなど決してない。だが、いまの彼女は身に纏った藍色のシンプルなワンピースの汚れすら気に留めず、青ざめた顔で石段を駆け上がり、ローランの腕へとすがりついた。
「お兄様! 出陣なさるだなんて……本当なのですか!? 自ら最前線へ向かわれるなど、そんな無茶なこと……っ!」
レオノールの華奢な両手が、ローランの革鎧の胸当てをぎゅっと握りしめる。
指先が小刻みに震えていた。
澄んだヘーゼル色の双眸には、大粒の涙が溢れそうになり、見る間にその美しい輪郭を歪ませていく。
「前線の防壁はすでに砕け散り、魔術師団の皆様すら倒れたと伺いました! あのような禍々しい毒の霧の中へ、お兄様自らが行かれる必要がどこにあるのですか!? 民を逃がすためなら、警備隊の皆様にお任せして、お兄様は後方で指揮を執るべきです!」
「レオノール……」
ローランは、自らの胸元に縋りつく妹を見つめ、痛ましそうに眉をひそめた。
かつて、領主一族の重圧に押し潰され、自らを無力だと責めて白装束で山奥へ生贄に向かおうとしていた妹。
あのお方の――マノンの古民家で温かいスコーンとハーブティーを振る舞われ、もふもふたちに抱きしめられて、ようやく人間らしい笑顔と温もりを取り戻した、かけがえのない妹。
その妹が、いま、自らの身を案じて泣いている。
ローランは手甲を外し、素肌の手を伸ばした。
冷え切った自らの手のひらで、震える妹の頭を、優しく、慈しむように撫で下ろす。
「泣くな、レオノール。……お前が心配してくれるのは、心から嬉しい。だが、これは領主代行としての私の、決して譲れぬ義務なのだ」
「でも……っ!」
「聞いてくれ」
ローランは妹の肩を優しく掴み、その目線を自らの瞳と真っ直ぐに合わせさせた。
眼鏡の奥の藍色の瞳には、一片の揺らぎもなかった。
「王都へ発信した最高度の救難信号は……事実上、届かなかった。王都軍の先遣隊がこの地に足を踏み入れるのは、早くても一週間後だ。……その頃には、この街も、大地も、すべてが腐敗の底に沈んでいる。我らを助けてくれる者など、この地上のどこにもいないのだ」
ローランは静かに首を横に振った。
中央の官僚主義を責める気はなかった。辺境の独立性を守るために自らが張り巡らせた政治的防壁のツケが、いま回ってきたにすぎない。己の蒔いた種は、己の手で刈り取らねばならないのだ。
「私たちが時間を稼がねばならない。ほんの半日でも、数刻でもいい。領都の民が南方の安全な街道へ逃げ延びるための盾となる。……民が背後から泥流に呑まれるのを、安全な後方から指をくわえて眺めるような生き恥を、フォレスト家の当主が晒すわけにはいかないのだ」
「お兄様……」
「そして――何よりもだ、レオノール」
ローランの声が、一段と低く、研ぎ澄まされた響きを帯びた。
視線をわずかに北の山並み――赤紫色の暗雲が渦巻く、あの山裾へと向ける。
「あのお方の……マノン様の庭が、あの瘴気の進路の直線上にある」
「――っ!!」
レオノールの息が、喉の奥で止まった。
マノン様。
その名を耳にした瞬間、レオノールの脳裏に、あの木漏れ日に満ちた温かな縁側の風景が鮮烈に蘇った。
手入れされた庭。
軒下に揺れる手作りの干しハーブのカーテン。
膝の上で喉を鳴らす大きな白猫のタマ、不器用に肉球を重ねてくれた黒猫のクロ、肩の上で歌う黄色い小鳥のピピ。
そして何より、泥まみれの自分を優しく抱きしめ、「よく頑張ってここまで登ってきたわね」と微笑んでくれた、あの心優しき娘の笑顔。
「あそこが……呑み込まれてしまうのですか……!?」
「ああ。古代遺跡から溢れ出た泥流は、最短の谷筋を通ってマノン様の敷地へと直撃する。……もし、あのお方の庭にまで瘴気が届いてしまえば、どうなると思う?」
ローランの問いに、レオノールは戦慄した。
マノン自身が危険に晒されることへの恐怖。
そして――あのお方の平穏を脅かされた時、あの庭に侍る神話の三代厄災が、一体どれほどの暴虐を解き放つか。
フェンリルの絶対零度。キマイラの猛毒。フェニックスの浄火。
世界を二度滅ぼしかけたあの天災たちが、主の危機に呼応してその全霊を解放すれば、領都の壊滅どころか、この大陸全土が神々の戦火によって消滅しかねない。
「あのお方の庭に、瘴気の一片たりとも近づけてはならない」
ローランは強く、確信を込めて言った。
「だが、レオノール。……我らの方から、あのお方を災厄に巻き込むわけにはいかないのだ」
「え……?」
「あのお方は、世俗の権力争いや理不尽な人間関係に疲れ果て、ただ穏やかに暮らすためにあの山奥へ越していらした。……あのお方のあの慎ましくも豊かな暮らしは、誰にも脅かされてはならない絶対の聖域なのだ。それを、領地の危機だからとすがりつき、あのお方の慈悲に甘えて盾にするような真似を、誰が許すというのだ」
ローランは自らの胸板を拳で叩いた。
痛いほどの誇りと、あのお方への純粋極まりない敬意。
「神獣たちを頼るのではない。あのお方の御手を煩わせるのではない。……我ら人間が、あのお方からいただいた数々の恩義に報いる時が、いま来たのだ。あのお方の敷地の境界線の手前で、我ら人間の肉体と盾をもって、あの忌まわしい濁流を食い止める。……それが、至高の調停者様を守護する、フォレスト領の騎士の誇りだ」
ローランの言葉には、一片の迷いも打算もなかった。
死ぬかもしれない。いや、生きて帰れる可能性の方が遥かに低い。
それでも、己の命を賭して守るべき価値のある「平穏」を、彼らは知ってしまったのだ。
「レオノール。お前はすぐに、セリアの部下たちと共に、安全な南方へと避難しろ。民の避難誘導の先頭に立ち、フォレスト家の娘として民を励ますのだ。……お前にしかできない、重大な役目だ」
「お兄様……私……」
レオノールの瞳から、再び涙が溢れ出した。
だが、その涙は先ほどまでの絶望と動揺の涙ではなかった。
兄の覚悟を受け止め、自らもまた、あのお方の愛した誇り高い人間として立ち上がるための、熱い決意の涙。
レオノールは自らの両手で涙を乱暴に拭い去ると、ドレスの裾をキュッと握り締め、真っ直ぐに兄の瞳を見つめ返した。
「……分かりました、お兄様。私は逃げません。民の皆様を、最後の一人まで安全な場所へ導いてみせます」
「ああ。よく言った、我が誇り高き妹よ」
ローランは柔らかく微笑むと、再び手甲をはめ直し、身を翻した。
黒革の外套を風に翻し、石段を力強く降りていく。
「全軍、馬に跨がれ! これより我らは北の谷筋、マノン様邸手前の第一防衛境界線へと進軍する! 目標は瘴気濁流の完全阻止! 一歩も退くな、我らがフォレスト領の最後の盾である!!」
「「「オォォォォォッッッ!!」」」
百二十名の決死隊から、地鳴りのような鬨の声が上がった。
死への恐怖をねじ伏せ、守るべきもののために魂を燃え上がらせた男たちの咆哮。
ローランは愛馬の黒馬の鞍へと飛び乗り、長剣を抜き放った。
白銀の刀身が、暗雲の下で鈍く閃く。
「出撃ッ!!」
蹄の音が石畳を激しく叩き、中庭の鉄柵の門を突き抜けていく。
砂埃を巻き上げ、百二十騎の軍列が、赤紫色の暗雲が渦巻く北の山裾へと向けて、矢のように街道を駆け抜けていった。
見送るレオノールは、胸の前で両手を固く組み、去りゆく兄の背中へ、そしてその先にある山奥の平屋へと向けて、一心に祈りを捧げ続けた。
***
――ガタガタガタッ、ドカドカドカッ!
馬の蹄が、湿った土と腐葉土を激しく跳ね上げていた。
領都の外郭防壁を抜けて北へ進むにつれ、周囲の風景は、凄まじい速度でその様相を変貌させていた。
「……酷いな……」
馬を駆るローランの喉から、防毒マスク越しに呻くような声が漏れた。
眼鏡のレンズ越しに見るその光景は、もはや彼の知る美しきフォレスト領の山林ではなかった。
街道の両脇に立ち並んでいたはずの、黄金色の葉を誇っていたブナやナラの巨木群。
それらの大樹は、すべて葉を黒く焼き落とし、幹の表面から樹液の代わりにドス黒いヘドロのような液体をダラダラと滴らせていた。木肌は腐食して白骨のようにひび割れ、風が吹くたびに、まるで死者の骨が擦れ合うようなギシギシという不快な軋み音を立てている。
足元の草花は完全に死滅していた。
かつて遅咲きの野紺菊やリンドウが咲いていた道端は、泡立つ黒紫色の泥沼と化し、踏み込むたびにシュワシュワと腐食性の有毒ガスが立ち上る。
馬たちが狂乱して嘶きそうになるのを、騎士たちが手綱を必死に引いて抑え込んでいた。
――グチャリ、ズルリ。
前方の藪の奥から、湿った肉が引きずられるような、悍ましい音が響いた。
「敵影! 前方、街道の曲がり角に集結しております!」
先頭を走る斥候兵の鋭い叫び。
ローランが視線を凝らすと、赤紫の毒霧の向こうから、無数の「影」が這い出してくるのが見えた。
それは、かつて森の野生動物であったものの残骸であった。
体長三メートルを超える巨大な大鹿。だが、その頭部には角の代わりに、肉を突き破って生え出た禍々しい黒い外骨格の刃が何本も蠢いていた。皮膚は剥がれ落ち、露出した筋肉繊維はドス黒く脈動し、その口からは緑色の毒液が滝のように滴り落ちている。
さらに、その足元を這い回るのは、不定形の瘴気塊――ヘドロそのものが意志を持ったかのような泥の魔獣たち。無数の触手を蠢かせ、地面の石や枯れ木を呑み込みながら、ジュクジュクと音を立てて質量を増殖させていた。
「グルルルルル……ッ」
「ギシャァァァァッッ!!」
理性を完全に失った怪物たちが、侵入者である人間たちの気配を察知し、血走った黄色い眼球を一斉に向けてきた。
その数は、数十、いや百を超える。
しかも、背後の谷の奥からは、さらに濃密な赤紫色の雲とともに、無尽蔵の瘴気泥流が地鳴りを立てて押し寄せてきていた。
「総員、抜刀! 迎撃陣形を展開せよ!」
ギルバートが愛馬の上から身を乗り出し、背の両手剣を豪快に引き抜いた。
巨大な刀身が空気を切り裂き、気迫の咆哮を轟かせる。
「ここが我らの死線だ! この谷を抜ければ、すぐそこにあのお方の庭がある! 一歩たりとも怪物を下へ通すな! 骨を砕かれようと、肉を焼かれようと、フォレストの盾となりて立ち塞がれぃッ!!」
「「「オオオォォォッ!!」」」
騎士たちが一斉に長剣と槍を構え、馬首を揃えて突撃の体勢をとる。
ローランもまた、愛馬の脇腹を力任せに蹴り込み、最前列へと躍り出た。
手にした鋼の長剣を、迫り来る異形の怪物たちへと真っ直ぐに突きつける。
吸い込む空気は、防毒マスク越しでも喉を焼くほどに熱く、苦い。
大気を震わせる地鳴りは足元を揺らし、目の前に迫る死の気配は、かつてない質量で皮膚を突き刺していた。
絶望的な戦力差。
王都からの救援は届かない。奇跡を起こす魔術師もいない。
それでも――。
(マノン様……どうか、ご無事で……)
ローランは心の中で、あの穏やかな山奥の縁側を想い、強く祈った。
あのあたたかなスープの味を。
あの素朴な笑顔を。
自分たちがここで果てるとしても、あのお方の愛する日向ぼっこの光だけは、決してこの濁流に汚させはしない。
「突撃ィッ!!」
ローランの号令とともに、百二十騎の人間たちが、迫り来る神代の災厄の濁流へと向けて、真っ向から突撃を開始した。
激突の瞬間、金属の軋む音と怪物の咆哮が山林に轟き渡る。
――しかし。
命を賭して最前線で刃を振るうローランたち自身、この時、まだ知る由もなかったのである。
自分たちが命懸けで守ろうとしている、その背後の古民家において。
マノンが「なんだか嫌な匂いの風が吹いてくるわねぇ」と眉をひそめながら、愛する猫たちの体調を整えるために、巨大な大鍋で「特製おじや」の支度を呑気に始めようとしていることなど――。




