第50話:崩れた古代結界、絶望の防衛線
石造りの重厚な軍議室を支配していたのは、鉄の錆びた匂いと、焼け焦げた羊皮紙の異臭、そして絶え間なく吐き出される浅い呼吸の音であった。
領主館の最奥、厚さ一メートルを超える石壁に囲まれた作戦司令室。
中央に据えられた巨大な黒樫の作戦机には、フォレスト領全域の精密な地形図が広げられていた。本来ならば軍馬の移動や補給路を示す青い木駒が整然と並んでいるはずのその地図の上に、いまや不吉極まりない真紅の木杭が、まるで毒針のように次々と打ち込まれていた。
北の霊峰の山頂から、谷筋を伝って領都へと伸びる三本の河川沿い。そのすべてが、赤く塗り潰されつつある。
「――第三観測点、沈黙! 魔力通信班、応答途絶いたしました!」
「第二防護結界塔、過負荷により炉心が融解! 接続していた術者三名が昏倒、吐血により治療室へ搬送されます!」
「北の谷沿いの第一防衛線、後退を余儀なくされました! 前線部隊より悲鳴にも似た撤退要請が入っております!」
伝令兵たちの引きつった叫び声が、部屋の冷たい石壁に反跳する。
扉が開閉するたびに、廊下から漂い込んでくるのは、外気から侵入してきた饐えた腐敗臭であった。初冬の清冽な寒気の中に、湿った土の生臭さと、古びた硫黄が混ざり合ったような、喉の奥をツンと刺す不快な毒気。
部屋の隅に置かれた換気用の小型魔導具すら、吹き込む瘴気の濃度に耐えかねてカラカラと悲鳴のような軋み音を立て、やがてプスプスと黒い煙を上げて機能を停止した。
「……静かにしろ。状況を整理する」
作戦机の最前列に立つ領主代行、ローラン・ド・フォレストの低く研ぎ澄まされた声が、騒然とする軍議室を冷徹に切り裂いた。
普段ならば銀縁眼鏡の奥に理知的な光を湛え、どんな財政危機や隣領との外交摩擦にも決して動じぬ若き指導者。だが、いま地図を見つめるローランの横顔は、死人のように青ざめていた。
上着の襟元は乱暴に緩められ、握りしめた木製の指示棒は、指先の力だけでミシリと音を立てて軋んでいる。眼鏡のレンズの奥の双眸は、過度の緊張と疲労で細かく充血していた。
「セリア、前線の実情を報告しろ。誇張も省略もいらん。現実に何が起きている」
ローランの鋭い視線が、部屋の入口に立つ女性騎士へと注がれた。
辺境警備隊副隊長、セリア・クローデル。
先ほどまで領都北側の外郭防壁で迎撃指揮を執っていた彼女は、泥と黒ずんだ煤にまみれた革鎧姿のまま、肩で荒い息をついていた。
その短く切り揃えられた青灰色の前髪は冷たい汗で額に張り付き、頬には何らかの腐食性の液滴を浴びたのか、小さな火傷のような赤い斑点が幾筋か刻まれている。腰に佩いた愛刀の鞘は、激しい衝撃を物語るように泥水に濡れ、佩帯の革ベルトには微かに焦げた跡すらあった。
「……報告いたします、ローラン閣下」
セリアの声は、掠れていた。
いつもの凛々しく澄んだ美声は影を潜め、砂を噛んだような重苦しい響きで作戦机の前に進み出る。
「北の霊峰の頂……神代の戦いの跡地に眠る古代遺跡の結界は――完全に、修復不能なレベルで崩壊いたしました」
セリアの言葉が落ちた瞬間、軍議室にいた数名の高級将校たちから、短く息を呑む音が漏れた。
「数千年の長きにわたり、古代の超文明が地底深くに押し込め、圧縮し続けていた超高濃度の残留毒素――【古代瘴気炉】の汚染流出です。外殻の封印壁が内側からの過圧力によって爆砕し、炉心から溢れ出た原初の瘴気が、まるで決壊したダムの泥流のように、谷筋を呑み込みながら猛烈な勢いで下ってきております」
「泥流、だと……?」
将校の一人が震える声で問い返した。
「瘴気とは、大気中を漂う気体ではないのか!?」
「気体などという生易しい質量ではありません」
セリアは首を横に振った。その瞳には、肉眼で地獄を目撃してきた者特有の、底知れぬ戦慄が宿っていた。
「濃縮されすぎた怨念と毒気が物理的な質量を持ち、黒紫色のヘドロの津波となって地表を這い回っているのです。……そして、最も恐ろしいのは、その汚染の伝播速度です」
セリアは作戦机の地図の北端、険しい渓谷が交差する要衝を指差した。
「瘴気の濁流に触れた動植物が、例外なく変異を起こしております。山林の大樹は数秒で葉を落として黒く炭化し、草花は腐食性の毒液を滴らせる棘へと変貌しました。逃げ遅れた鹿や猪、熊といった野生生物は、体内に過剰な瘴気を取り込んだことで理性を完全に焼き切られ、筋繊維を異常発達させて狂暴化……自らの骨を突き破って現れた黒い外骨格を纏い、動くものすべてを貪り食う異形の怪物へと成り果てております」
「それだけではないな?」
ローランが指示棒の先を地図の谷沿いへと滑らせる。
「外郭防壁に配置していた迎撃部隊が、接触後わずか十分で後退を余儀なくされた理由は何だ。精鋭の歩兵隊が、野生動物の暴走ごときに後れを取るはずがない」
「……瘴気そのものが、受肉しているのです」
セリアの唇から零れ出たその言葉に、軍議室の空気が再び凍りついた。
「高密度の魔力毒が、古代の怨念を核として凝集し、不定形の魔獣を形成しております。決まった形を持ちません。液状の泥の巨躯から無数の触手や牙を生やし、我々の物理攻撃をすべて泥のように受け流すのです。……剣で斬れば刃が腐食し、槍で突けば柄から毒気が伝わって兵の腕を侵食します。さらに、奴らが歩いた後には高濃度の毒溜まりが残り、大気中に死の胞子を撒き散らしているのです」
「くそっ……!」
壁際に控えていたギルバート隊長が、分厚い手甲で壁の石柱をドンと叩いた。二メートル近い巨躯を怒りで震わせ、奥歯をギリリと軋ませる。
「魔術部隊はどうした! 遠隔からの火炎斉射で焼き払えんのか!? 接近戦が無理なら、術式で谷ごと吹き飛ばせば済む話だろうが!」
「無理です、隊長……」
部屋の隅、簡易ベッドの上に倒れ込んでいた老魔術師が、弱々しく首を振った。
領都詰めの魔術師団を率いる団長であり、王都の魔導院でも教鞭を執った経験のある熟練の術者。しかし、その老人の顔色は土気色に濁り、胸元には先ほど吐き出した鮮血が黒く乾いてこびりついていた。
ローブの袖から覗く腕の血管は、毒気にあてられたようにドス黒く浮き上がり、指先は小刻みに震えている。
「あ……あれは、魔法などという人間の知恵が通用する相手ではありません……。大気中のマナそのものが、古代の瘴気によって根底から汚染されておるのです……。術式を編もうと精神を集中させた瞬間、体内の魔力回路にドス黒い毒泥が逆流してまいります……。詠唱を完了させることすら適わず、術者自身の神経が内側から焼き切られてしまうのです……!」
老魔術師は激しく咳き込み、再び口端から血の泡を零した。
傍らの衛生兵が慌てて布で拭い、気つけ薬の小瓶を口元へ運ぶが、老人の呼吸は荒く乱れたままだった。
「防壁の結界を展開しようとした若い魔術師たちも……三人中二人が過負荷で意識を失いました。……残る者たちも、激しい目眩と嘔吐、魔力酔いによって立つことすらままなりません。……申し訳ございません、ローラン閣下……我ら魔術師団の手には……負えませぬ……」
老人の悲痛な呻きが、軍議室の床へと力なく落ちていく。
魔術師団の完全なる機能不全。
それは、中遠距離からの支援砲撃も、領都を守る魔導防壁の展開も、すべて不可能になったことを意味していた。
残されたのは、防毒マスク越しに息を詰まらせながら、泥まみれの白兵戦に耐える警備隊の歩兵たちだけ。だが、その兵士たちですら、瘴気の毒気にあてられて次々と倒れ、前線は刻一刻と後退を強いられているのだ。
「……王都への緊急要請はどうなっている」
ローランは感情を押し殺した、冷え切った声で通信兵に問うた。
「はっ……! 先ほど、緊急通信魔導具を通じて、王都魔法省および国王御前会議へ最高度の【破滅級災害特報】を発信いたしました。……ですが……」
通信兵は羊皮紙の受信記録を見つめ、絶望に唇を震わせた。
「王都からの返電によれば……中央軍の派遣を決定したとしても、重装魔導騎士団の編成と輜重部隊の手配、そして山越えの街道行軍を含めれば……先遣隊の到着ですら、最短で【一週間】を要するとのことであります……」
「一週間だと……!?」
将校の一人が、耐えかねたように悲鳴を上げた。
作戦机を両手で叩き、血走った目でローランを見つめる。
「馬鹿な……! 一週間など待てるはずがありません! 現在の瘴気泥流の侵攻速度を計算すれば、今夜半には北の防衛線が完全に決壊し、明日の朝にはこの領都全体が毒霧に呑み込まれます! 一週間後など、王都軍が到着した頃には、このフォレスト領の数万の民は骨の一片すら残らず溶かされ、領地そのものが死の荒野と化しておりますぞ!!」
「分かっている!!」
ローランの鋭い怒号が、将校の悲鳴を力づくでねじ伏せた。
室内に、痛いほどの静寂が戻る。
ローランは激しく波打つ胸を押さえ、眼鏡のブリッジを押し上げた。
その指先は、氷のように冷たかった。
(一週間……。当然だ。中央の官僚どもが、辺境の一領地の危機に対して即座に全軍を動かすはずがない……)
先日のエティエンヌの件で、王都魔法省がこの地に干渉することを法的に禁じたのは、他ならぬ自分たちだ。
皮肉にも、あの完璧な政治的防壁が、いま緊急救援の足枷となって跳ね返ってきている。
自力で生き残るしかない。
だが――どうやって?
剣は腐り、魔法は封じられ、兵は倒れ、大地そのものが毒の塊となって押し寄せてきているのだ。
人間の力で、数千年前の古代超兵器の暴走を食い止める手段など、この世のどこにも存在しなかった。
「……ローラン様」
静まり返った室内で、セリアが進み出た。
その引き締まった横顔には、恐怖も、動揺も、もはや微塵も見当たらなかった。
あるのは、己の命の使い所を完全に定めた、武人としての澄み切った諦念と覚悟。
カチリ。
セリアの親指が、腰の佩刀の鍔を小さく弾いた。
静寂の軍議室に、刃と鞘が擦れ合う、冷たく乾いた金属音が微かに鳴り響く。
「……住民の避難は、急がせております。女子供を優先し、南方の街道沿いへと走らせております。ですが、この速度では避難の列すら背後から瘴気の濁流に呑み込まれましょう。……時間を稼ぐ必要があります」
セリアはヘーゼル色の双眸を真っ直ぐにローランへと向けた。
「私が……辺境警備隊の残余戦力を率いて、北の第二防壁の残骸に陣を敷きます。……物理結界が砕けようとも、我ら騎士の肉体と盾を重ね、折り重なって死線を築けば、数刻の時間は稼げます。……その間に、ローラン様はレオノール様をお連れし、南へお落ち延びください」
「セリア、貴様……!」
ギルバートが前に出ようとしたが、セリアは片手を挙げて隊長を制した。
「ギルバート隊長。貴方は民の避難誘導の殿軍をお務めください。……死に場所を選ぶのは、副隊長の私の特権です」
死を覚悟した騎士の、あまりにも静かで、あまりにも美しい決断。
軍議室にいた誰もが、その言葉の重みに息を呑み、胸を締め付けられる思いで俯いた。
勝つための作戦ではない。
ただ、民を一人でも多く逃がすために、自らの命を肉の防波堤として差し出すという、完全なる玉砕の宣言であった。
「……馬鹿を言うな」
ローランの唇から、震える声が零れ落ちた。
ローランは作戦机の上に置かれていた指示棒を、指の力だけでバキリとへし折った。
折れた木片が床に転がり、乾いた音を立てる。
「領主の妹を逃がすために、忠臣の命を使い潰すような真似が、この私にできると思うか。……断じて許さん。退却するならば全員だ。死ぬならば、私も共に防壁に立つ」
「ローラン閣下!」
「口を慎め、セリア! フォレストの名を背負う者が、民と騎士を見捨てて逃げ延びるなど、我が魂が断じて受け入れん!!」
ローランの激昂に、セリアは唇を噛み締め、静かに目を伏せた。
主従の絆。誇り高き辺境貴族の矜持。
だが、その誇りすらも、大気を通じて迫り来る濃厚な死の腐敗臭の前には、あまりにも儚く、あまりにも無力であった。
そして――。
ローランの脳裏を、ある一つの、致命的な思考が駆け巡った。
(……待て)
ローランの全身の血が、一瞬にして逆流した。
作戦机の上の地図。
北の山頂から、赤く塗り潰されながら下ってくる、あの瘴気の濁流の進路。
谷筋を伝い、森を呑み込み、領都へと向かって一直線に伸びるその破滅のルートの――まさに、その「直線上」にある、小さな空白地帯。
(……あのお方の……屋敷は……!?)
ドクンッ、と心臓が跳ね上がった。
北の山裾。
手入れされた柊の生垣。
朝陽を浴びて清らかに輝く、樹齢五百年の防腐香木で組み上げられた、あの真新しいウッドデッキ。
そして、エプロン姿で屈託なく笑い、焼きたてのスコーンとハーブティーを振る舞い、大根を抱えて鼻歌を歌う、あの至高の調停者――マノン・デュランの平屋。
「セリア……!」
ローランの声が、先ほどの激昂とは全く違う、底知れぬ恐怖で上ずった。
「マノン様の……あのお方の屋敷の周辺はどうなっている!? 瘴気の濁流は、あそこを通過するのか!?」
セリアの顔が、さらに一段と青ざめた。
「……直撃、いたします」
セリアは震える唇で、残酷な事実を口にした。
「古代遺跡の崩壊地点から領都を結ぶ最短の谷筋……その出口に位置するのが、まさにマノン様の古民家です。……すでに周囲の雑木林は赤紫の毒霧に包まれ始め、野生動物たちも逃げ散っております。……あの泥流が谷を抜ければ、真っ先に呑み込まれるのは、あのお方の庭です……!」
「な……っ!?」
軍議室にいた全員の背筋を、氷水のような冷汗が滝のように流れ落ちた。
マノン様の屋敷が、直撃を受ける。
あの聖域が、世界を滅ぼす古代のヘドロによって踏み荒らされる。
もし、あのお方の庭が汚されればどうなる?
もし、あのお方の愛する日向ぼっこの平穏が、理不尽な天災によって破壊されればどうなる?
そして――何より。
あのお方の膝の上で喉を鳴らし、雨漏りを直し、縁側で仲良く昼寝を貪っている、あの神話の三代厄災――霜狼神フェンリル、冥界獣キマイラ、幻鳥フェニックスが、怒り狂ってその神威を全方位へ解放したら、一体どうなるのか。
(領都の壊滅どころではない……)
ローランの頭蓋の中で、最悪の黙示録が音を立てて組み上がっていった。
古代の瘴気炉の暴走だけでも、領地は滅びる。
だが、それに神獣たちの逆鱗が重なれば――この大陸そのものが、絶対零度と業火と壊死毒の衝突によって、地図の上から消滅するのだ。
「……行かねばならん」
ローランは震える手で、自らの執務机の上に置かれていた儀礼用の長剣を引き寄せた。
飾り気のない、実戦用の鋼の剣。
「ローラン様!?」
セリアが叫ぶ。
「あそこは先日の布告で、領主代行令による【不可侵聖域】に指定された場所です! 何人たりとも、武器を持って足を踏み入れることは禁じられております!」
「分かっている! あのお方を戦いに巻き込むことなど、最初から許されん!」
ローランは剣のベルトを腰に巻き、自らの外套を力強く羽織った。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
領主として。民を背負う者として。そして、あのお方の優しさに魂を救われた一人の人間として。
「あのお方の庭に、瘴気の一片たりとも届かせてはならんのだ。……我らが盾となる。領都の外郭防壁ではない。山裾の、あのお方の敷地の境界線の手前に、我らフォレスト領の全戦力を展開する!」
ローランは作戦机の地図を強く叩き、全将校を見回した。
「神獣たちを頼るのではない! あのお方に縋るのではない! 我ら人間の手で、命を賭して、あのお方の慎ましき平穏を守り抜くのだ! ……全軍出撃の号令を鳴らせ! 私自らが、最前線の防波堤となる!!」
若き領主代行の悲壮なる絶叫が、軍議室の空気を震わせた。
外では、赤紫色の暗雲が天蓋のすべてを覆い尽くし、山林を揺るがす不気味な地鳴りが、すぐそこまで迫りつつあった。




