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第49話:紫色の暗雲と、山鳴りの予兆

霜柱を踏みしめるザクッという小気味よい音が、白く凍てつく早朝の練兵場に響いていた。


初冬の鋭利な寒気が、剥き出しになった首筋を氷の刃のように撫でていく。吐き出す息は濃い白煙となって立ち上り、短く刈り込んだ顎髭の先には、微かな朝露の凍結が白い粒となって張り付いていた。

フォレスト領辺境警備隊隊長、ギルバート・アルノーは、両手で握りしめた鍛錬用の素振り用大剣を、寸分の狂いもなく上段から正中線へと振り下ろした。


――フッ!


空気を裂く鋭い風切り音とともに、鉄の塊のような重厚な刀身がピタリと水平で静止する。

二メートル近い筋骨隆々の巨躯から発せられる熱気が、冷え切った大気と触れ合い、肩口から陽炎のようにゆらゆらと立ち上っていた。


「……九百九十八、九百九十九……千」


最後の一振りを振り抜き、ギルバートは静かに大剣を下ろした。

肩で息を整えながら、首に巻いた分厚い手ぬぐいで額の汗を乱暴に拭う。

王都から乗り込んできたあの傲慢な主席宮廷魔術師エティエンヌ・ボワイエが、山奥の古民家で「熱中症の重症患者」としてマノンの手厚い介抱(冷たい井戸水と自家製梅干しと塩結び)を受け、法悦の涙を流しながら王都へ帰還してから、早数週間が経過していた。


あの事件の後、エティエンヌが魔法省へ提出したという「全力の虚偽(擁護)報告書」のおかげで、王都からの不穏な介入は完全に立ち消えとなっていた。

そればかりか、エティエンヌからは定期的に「巡礼の証」と称して王室御用達の最高級アールグレイ茶葉が届き、領主館には国庫から巨額の「辺境防衛特別助成金」が無条件で振り込まれるという、奇妙極まりないボーナスタイムが続いていたのである。


(まったく……世の中、何が起きるか分からんものだ)


ギルバートは口元に微かな苦笑を浮かべ、腰の革水筒の水を喉へと流し込んだ。

山奥のあの素朴な平屋。

エプロン姿で大根を抱え、世界を滅ぼす神獣たちを侍らせながら、ただただ丁寧に日々の暮らしを営む、不思議な調停者の娘・マノン。

あのお方の存在によって、長年フォレスト領を脅かしていたあらゆる外敵や厄災の影は、ことごとく春の雪のように融解し去っていた。

領主代行のローランは胃薬を手放し、妹のレオノールは毎週のようにツヤツヤの肌で山から手作りのお菓子を持ち帰り、副隊長のセリアも憑き物が落ちたように穏やかな笑顔を見せるようになっている。


平和そのものであった。

辺境警備隊始まって以来と言ってもいい、完璧なる平穏と安息の日々。


――だが。


ゴ……ン……。


ギルバートの足裏を通じて、大地の奥底から、極めて微細な、けれど鉛のように重たい「振動」が伝わってきたのは、まさにその時であった。


「……ん?」


ギルバートは水筒を持つ手を止め、眉根をピクリと跳ね上げた。

風の音ではない。

練兵場の地面に敷き詰められた砂利が、チリチリと微かに跳ね、足裏の骨を直接揺らすような不快な重低音。


ゴゴゴゴゴゴ……ッ。


音は次第に、明確な地鳴りへと変わっていった。

遠い。遥か彼方、北に聳え立つ霊峰の、さらにその奥深く――人跡未踏の険しい連峰の頂の底から、何かが呻き声を上げているような、地脈の軋み。


「隊長! 今の揺れは……!?」


詰所の兵舎から、副隊長のセリアが長剣の鞘を押さえながら駆け出してきた。

その背後からは、非番だった隊員たちも武器を手に、血相を変えて練兵場へと姿を現す。


「地震……でしょうか? しかし、揺れの周期が不自然です。まるで、地底で何かが脈打っているような……」


「……いや、地震ではない」


ギルバートは大剣を木製の立て掛け台へと戻し、手甲をはめた右手を地面へと直接押し当てた。

歴戦の戦士として、数々の巨大魔獣の足音や地中潜行の振動を皮膚で感じ取ってきた彼の鋭敏な感覚が、大地の異常を捉えていた。

震えているのは、断層ではない。

大地の底を流れる「魔力鉱脈」そのものが、激しい拒絶反応を起こし、痙攣するように暴れ狂っているのだ。


バサバサバサバサッ――!!


突如として、頭上の空を切り裂くような、凄まじい羽音が天蓋を埋め尽くした。


「なっ……!?」


セリアが息を呑み、天を仰ぐ。

北の山林の梢から、無数の山鳥たちが、まるで山火事から逃げ惑うかのように一斉に飛び立っていたのだ。

カラス、ヤマバト、キジ、小型の野鳥たち。普段ならば縄張りを争い、決して群れることのない異なる種類の鳥たちが、狂乱の叫び声を上げながら、ひしめき合って南の空へと向けて一直線に逃げ去っていく。

その数は、数百、いや数千羽にも及んでいた。黒い雲のように空を覆い尽くす鳥の群れが、フォレスト領の街の上空を慌ただしく通過していく。


異変は、空だけにとどまらなかった。


ガサガサッ! ドカドカドカッ!


練兵場の外郭を取り囲む木柵の向こう、街道沿いの雑木林から、激しい下草を掻き分ける音が響いた。

飛び出してきたのは、冬毛を蓄えた野生の大鹿の群れであった。

続いて、立派な牙を生やした巨大な山猪の群れ、さらには普段なら滅多に人里に姿を現さないはずの銀狼や山猫までもが、人間たちの存在に目もくれず、泡を吹き、目を血走らせながら、街道を猛烈な勢いで横切って南の平原へと逃走していく。


「獣たちが……山を下りてくる……!?」

「おい、あいつら、俺たちを見ても威嚇すらしないぞ!」

「何かに……怯えているのか!?」


隊員たちの間に、ざわめきと動揺が広がっていく。

野生動物が、天敵である人間や街の気配すら無視して逃げ惑う。

それは、山全体を丸ごと焼き尽くすような火山の大噴火か、あるいは――それ以上の「絶対的な終末」が迫っている時にしか見られない、異常行動であった。


「総員、武装を解くな! 周囲の警戒を怠るな!」


ギルバートの怒号が練兵場に響き渡った。

大男は身を翻し、詰所の監視塔の梯子へと駆け上がった。一段飛ばしで最上階の観測台へと駆け登り、腰から引き抜いた真鍮製の遠眼鏡を目元へと押し当てる。


「……っ!!」


レンズの焦点を北の霊峰へと合わせた瞬間、ギルバートの息が喉の奥で詰まった。


初冬の澄み切った群青の青空。

その北の稜線の彼方――霊峰の最高峰を取り囲むように、禍々しい「変色」が始まっていた。


モクモクと立ち上っていたのは、火山灰の煙ではなかった。

それは、夕焼けの茜色とも、雷雲の黒とも違う――毒々しいまでに鮮やかな、赤紫色の暗雲であった。

まるで、傷口から溢れ出た腐敗した血潮が天へと滲み出したかのような、異様な濁りを持った霧の奔流。

その赤紫色の雲は、風の流れを完全に無視して生き物のように蠢き、渦を巻きながら、青く澄み渡っていた冬の空を、北から南へと向けてじわじわと貪り喰うように侵食していた。


そして――。

風向きが変わった。

北の山頂から吹き下ろしてきた突風が、監視塔の上に立つギルバートの顔面を直撃した。


「……ウッ……!?」


ギルバートは思わず手甲で鼻と口を覆い、顔を歪めた。

初冬の清冽な木枯らしの匂いなど、微塵も残っていなかった。

鼻腔を突き刺したのは、数百年放置された墓石の底から湧き出たかのような、饐(す)えた腐敗臭。

湿気てカビの生えた古布と、生臭い硫黄、そして焼け爛れた金属を擦り合わせたような、耐え難い悪臭の塊。


それだけではなかった。

その風を吸い込んだ瞬間、舌の奥底に、焼け付くようなビリビリとした痺れが走った。

皮膚の表面がチクチクと針で刺されたように粟立ち、頭蓋の奥でキリキリとした鈍痛が脈打ち始める。


(この感覚……まさか……魔力酔いだと……!?)


ギルバートの背筋に、冷たい汗が噴き出した。

ただの毒ガスではない。

風に乗って領内へと押し寄せてきているのは――濃縮された「瘴気」そのものであった。

それも、並の魔獣が放つ毒気などという生易しいレベルではない。数千年のあいだ圧縮され、腐敗し、凝縮された怨念の澱が、大気そのものを汚染しながら流出してきているのだ。


「隊長! 何が見えますか!?」


監視塔の下から、セリアの緊迫した叫びが届く。

ギルバートは遠眼鏡を下ろし、青ざめた顔で梯子を滑り降りた。

地面に着地するなり、軍靴を鳴らしてセリアと隊員たちの前へと仁王立ちになる。


「……神代の封印が、破れた」


「え……?」

セリアの瞳が、見開かれた。


「北の霊峰の最深部、古代遺跡の結界だ」

ギルバートは唇を噛み締め、低く重々しい声で告げた。

「古文書の記録にある……数千年前、神代の戦いで世界を滅亡の淵に追いやった古代文明の負の遺産――『古代瘴気炉』だ。……何らかの原因で外殻の結界に亀裂が入り、地底に封印されていた圧縮瘴気が溢れ出している」


その言葉を聞いた瞬間、歴戦の警備隊員たちの顔から、一斉に血の気が引いていった。

古代瘴気炉。

それは、お伽話や神話の類として語り継がれる、最悪の古代超兵器の残骸であった。

神代の人類が、無尽蔵の魔力を引き出すために惑星の底から汲み上げた原初のエネルギー。だが、その制御に失敗し、高濃度の怨念と毒気を撒き散らす魔の炉心と化して暴走したため、太古の神獣たちによって地底深くへと封印されたと伝えられている。


「そんな……あれは、ただの伝説では……!?」

「伝説ではない! 現に、あの赤紫の雲を見ろ!」

ギルバートは北の空を指差した。


すでに、赤紫色の暗雲は北の稜線を完全に覆い尽くし、太陽の光を遮って、山肌全体を不気味な薄暮のような闇へと沈め始めていた。

遠くの山林から、バキバキと木々がなぎ倒されるような破壊音が、風に乗って響いてくる。

瘴気に触れた野生動物たちが狂暴化し、あるいは瘴気そのものが不定形の魔獣となって群れを成し、谷沿いを雪崩のように下り始めているのだ。


「このまま瘴気の泥流が山裾を呑み込めば、麓の開拓村は数刻と持たずに壊滅する! いや、それだけではない……風に乗ってこの領都全体が毒霧に包まれれば、数万の民が魔力中毒で命を落とすぞ!!」


ギルバートの言葉に、セリアがハッと息を呑んだ。

王都からの特使や、神獣の機嫌取り外交とは、全く質の異なる脅威。

対話の余地のない、悪意と破壊そのものが、物理的な津波となって領地へ押し寄せてきているのだ。


「……セリア!」

「は、はっ!!」

「直ちに【第一種警戒態勢】を発令しろ! 警鐘を乱打し、全住民を地下シェルターおよび領主館の内郭へと避難させろ! 第一小隊、第二小隊は直ちに馬を飛ばし、麓の村々の住民を強制退去させろ! 荷物は捨てさせろ、命だけを持って走らせるのだ!」


「了解いたしました! 迎撃部隊の配置はどうなさいますか!?」


「迎撃……だと?」

ギルバートの顔に、苦渋の影が差した。

相手は軍隊ではない。目に見える敵を斬り伏せることはできても、大気を満たす毒霧を剣で両断することなど不可能なのだ。

「全隊員に防毒マスクを装着させろ。領都北側の外郭防壁に魔導障壁を展開し、少しでも瘴気の流入を遅らせる。……俺は直ちに領主館へ向かい、ローラン閣下と迎撃方針を協議する!」


「ははっ!!」


セリアが踵を返し、詰所の中へと駆け込んでいく。

次の瞬間、詰所の鐘楼から、耳を聾するような甲高い警鐘の音が、乱打となって領都の空へと鳴り響いた。


カン! カン! カン! カン!


緊急事態を告げる、連続した鋭い鐘の音。

街の通りからは、住民たちの悲鳴や、避難を促す兵士たちの怒号、荷車を引く車輪の軋みが一斉に湧き起こり、先ほどまでの穏やかな朝の静寂は、一瞬にして戦時体制のパニックへと塗り替えられていった。


ギルバートは愛馬の背へと飛び乗り、手綱を強く引いた。

馬が嘶き、前足を宙に跳ね上げる。

領主館へと向けて石畳を蹴り出すその刹那――ギルバートは、ふと、北の山裾へと視線を向けた。


(……あのお方の、屋敷は……!?)


ギルバートの胸を、鋭い冷たい棘が突き刺した。

北の山裾。

あの素朴な平屋の古民家。

柊の生垣に囲まれ、庭先には柿の木が立ち、縁側には手作りの干し柿が吊るされている、あのマノンの聖域。


古代遺跡から溢れ出した瘴気の泥流が山を下るとすれば――その進路の、まさに直線上にある。

あの清らかな、丁寧な暮らしの庭に、このドス黒い腐敗の毒気が直撃するのだ。


(マノン様……! 神獣フェンリルに、キマイラ、不死鳥……!)


神獣たちであれば、この程度の毒気で命を落とすことはあるまい。

だが、マノン様は?

あのお方は、神々を従える至高の調停者でありながら、その肉体は、手作りのスコーンを焼き、大根を抱えて微笑む、か弱い一人の人間の娘なのだ。

もし、あのお方の庭が瘴気に汚され、あのお方の身に万が一のことがあれば――。

それこそ、神獣たちの怒りによって、世界そのものが二度と修復不可能な形で破壊し尽くされるのではないか。


「くそっ……! 手を出してはならぬ【不可侵聖域】だが……民を逃がした後は、俺が一人で山へ駆け上がってでも、あのお方を……!」


ギルバートは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、愛馬の脇腹を蹴った。

蹄の音が石畳を叩き、領主館の坂道へと駆け上がっていく。


頭上を見上げれば、冬の青空はすでに半分が赤紫色の暗雲に呑み込まれ、太陽は毒々しい光の輪となって霞んでいた。

肌を刺す冷たい風の中に、微かな腐敗臭と、肌を焼くような魔力酔いの気配が、刻一刻と濃密さを増していく。


フォレスト領に、そして山奥のモフモフたちとマノンの平穏に――。

かつてない、神代の災厄の爪が、音を立てて迫りつつあった。

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