第45話:籠いっぱいの大根と、呑気な「ただいま」
ざく、ざく、と、小気味よい乾いた音が、山裾の木漏れ日の中に響いていた。
背中に背負った竹籠が、歩みを進めるたびにギシ、ギシと心地よい軋み声を立てる。
肩に食い込む麻の肩当て布からは、ずっしりとした重み――大地が育んだ命の重みが、心地よい疲労感となってマノン・デュランの全身に伝わってきていた。
籠の中に収まっているのは、先ほどマルタおばあちゃんの畑で抜いたばかりの、太く瑞々しい三本の大根である。青々とした立派な葉が、マノンの頭の上でピンと空を仰ぎ、歩調に合わせて楽しげに揺れていた。
両手には、籠に入り切らなかった特大の一本を、まるで愛しい赤ん坊でも抱くかのように、前掛け越しにしっかりと抱え込んでいる。
表面についた湿った黒土の冷たさと、微かに鼻をくすぐる大根特有の青く爽やかな辛味。それが、マノンの歩みをどこまでも軽やかにしていた。
(ふふ、本当に立派な大根。おばあちゃん、あんなに太いところを惜しげもなく持たせてくれちゃって……)
マノンは、緩やかな登り坂の山道を鼻歌まじりに進みながら、今夜の夕餉の段取りを頭の中で組み立てていた。
台所へ戻ったら、まずはこの特大の大根を井戸水で綺麗に洗い流そう。
葉元を切り落とし、細かく刻んで塩もみをしてから、胡麻油とお醤油で香ばしく炒めるのだ。マルタおばあちゃんに教わった通り、仕上げに少しだけ干し肉の細切れを混ぜれば、それだけで白いご飯が何杯でも食べられる最高の常備菜になる。
実の方は、厚切りの輪切りにして面取りをし、隠し包丁を入れて米のとぎ汁でコトコトと下茹でだ。出汁には昆布と干し椎茸を使い、弱火でじっくりと煮含める。
もちろん、留守番をしてくれているタマとクロ、そしてピピの分も忘れてはならない。
大根の先の方の柔らかい部分をすりおろし、出汁でさっと煮てアクを抜いてから、茹でた鶏のささみをほぐして混ぜてあげよう。猫たちだって、季節の変わり目には消化の良い温かいものを食べたほうが胃腸に優しいはずだ。
(タマたちは、ちゃんとお昼寝してお留守番できているかしら。……急に変な突風が吹いてきたから、縁側の雨戸がバタバタ鳴って怖がっていなきゃいいけれど)
そんな他愛のない心配を胸に、マノンは最後の雑木林のカーブを曲がり、自宅の敷地へと続く一本道へと足を踏み入れた。
――その瞬間。
ふわり、と。
マノンの鼻先を、極めて不快で奇妙な匂いがかすめた。
「……ん? なにかしら、この匂い」
マノンは足を止め、小さく鼻をひくつかせた。
いつもの清冽な針葉樹の香りでも、黒土の匂いでもない。
まるで、金属を強火のフライパンで空焚きしたかのような焦げ臭い鉄の匂いと、強い雷が落ちた直後のようなオゾンのツンとした刺激臭。さらには、どこかの貴族が撒き散らしたかのような、鼻が曲がりそうに濃厚で下品な香水の残り香が、晩秋の乾いた空気の中に淀んでいた。
「あらあら……。誰か近所で、変な野焼きでもしたのかしら? 山火事にならなきゃいいけれど」
首を傾げながらも、マノンは我が家を目指して歩みを早めた。
柊の生垣が見えてくる。
手入れの行き届いた素朴な門柱。
そして――その門柱をくぐり、庭先へと視線を向けた、まさにその刹那であった。
***
一方その頃。
庭先の中央は、まさに「現世の終わり」を告げる破滅の特異点と化していた。
泥水に額を擦り付け、絶望に白目を剥いていたエティエンヌ・ボワイエは、すでに自らの死を確信していた。
頭上からは、天を呑み込む幻鳥フェニックスの白色光を帯びた浄化の熱波が降り注ぎ、肌をチリチリと焼き焦がす。
右手からは、霜狼神フェンリルの絶対零度の冷気が地を這い、足元の泥土を永久凍土へと凍てつかせながら、肉体を分子レベルで粉砕せんと牙を剥いている。
左手からは、冥界獣キマイラの放つ漆黒の壊死毒が霧となって立ち込め、魂そのものを腐食させんと喉笛を狙っている。
神話の三代厄災が、完全なる本気の殺意を以て、一人の矮小なエリート魔術師と、無力化された五十名の兵士たちを今まさに消滅させようとしていた。
空間が軋み、光が歪み、大気が断末魔の悲鳴を上げる。
あと一瞬。
瞬き一つの後には、この場所にあったすべての物質が、炭の一片すら残さず虚無へと消え去る――。
その、絶対の臨界点を迎えた、まさにその時だった。
――カラン。
静寂と狂気が極限まで張り詰めた空間を裂いて、驚くほど場違いな、乾いた木沓の音が響いた。
そして。
「――ただいまー! タマ、クロ、ピピ、マルタおばあちゃんから立派な大根いっぱい貰ったよー!」
木漏れ日の回廊を突き抜けて響き渡ったのは。
山鳥のさえずりのようにどこまでも明るく、春の陽だまりのようにどこまでも呑気な、一人の娘の通る声であった。
「――っ!?」
エティエンヌの心臓が、恐怖とは全く別の衝撃で激しく跳ね上がった。
声。
人の声だ。
この、触れるものすべてを消滅させる神威の嵐の真っ只中にあって、なんの防御結界も持たぬ生身の人間が、あろうことか鼻歌交じりに話しかけてきたのだ。
泥まみれの顔を、恐る恐る上げたエティエンヌの視界。
ヒビ割れた銀縁眼鏡の向こう側に飛び込んできたのは――あまりにも、あまりにも現実離れした光景であった。
門柱の脇に立っていたのは、一人の小柄な娘であった。
栗色の髪を後ろで緩く三つ編みに束ね、手編みの鶯色のウールベストに、生成りの木綿シャツ。
背中には、青々とした立派な葉を噴水のように広げた太い大根が突き出た大きな竹籠。
そして両腕には、泥のついた丸々と太い巨大な大根を一本、大切そうに抱え込んでいる。
化粧気のない素朴な頬は、秋の山道を登ってきたせいでほんのりと桜色に染まり、その唇には、家族の待つ我が家へ帰り着いた安堵と喜びに満ちた、満面の笑顔が咲き誇っていた。
調停者、マノン・デュラン。
神話を統べるはずのその主は――どう見ても、近所の畑から野菜を貰って帰ってきたばかりの、ただの素朴な田舎娘そのものであった。
だが。
真の怪異は、その直後に訪れた。
マノンが一歩、庭の敷地内へと足を踏み入れた、その瞬間――。
――スゥッ……。
音が、消えた。
いや、大気を引き裂いていた神獣たちの殺気と魔力圧が、まるで熱した鉄板の上に落とされた水滴が蒸発するかのように、一瞬にして「消滅」したのだ。
マノンの全身から放たれたのは、目に見える光でも、肌を刺す魔力でもなかった。
それは、世界そのものを完全に凪がせる、圧倒的な『波長ゼロの無害気質』。
あらゆる魔力毒を中和し、あらゆる狂気と興奮を鎮静化させ、万物をあるべき平穏へと引き戻す、絶対の無害化波動。
その見えない波が庭全体をサァーッと吹き抜けた瞬間。
上空を覆い尽くしていたフェニックスの巨大な炎の幻影が、陽炎のようにフッと掻き消えた。
大地を凍てつかせていたフェンリルの白銀の冷気が、朝露のようにサラサラと霧散していった。
空間を腐食させていたキマイラの黒泥の瘴気が、煙のように虚空へと吸い込まれて消え去った。
天変地異の終末世界が。
神話の最終戦争が。
たった一人の娘が「ただいま」と笑っただけで――凄まじい勢いで、元の長閑な田舎の日常へと、強制的に巻き戻されたのである。
「ピピッ♪」
柿の木の枝先から、愛らしい鈴の音のような声が響いた。
見れば、先ほどまで太陽を宿していたはずの神鳥は、短い翼をパタパタと羽ばたかせ、ふんわりと丸い黄色いスズメの姿に戻って、マノンの肩の上へと吸い込まれるように飛び移っていた。
そして、マノンの首筋に金糸の胸毛をすり寄せ、「待ってたよ!」と言わんばかりに甘えた声で喉を鳴らしている。
「にゃ〜ん」
ウッドデッキの上から、蕩けきった情けない鳴き声が聞こえた。
大地を永久凍土に変えようとしていた白銀の巨狼はどこへやら、中型犬ほどもある白猫のタマが、太い尻尾をピンと垂直に立ててトコトコと駆け寄り、マノンの足首に自らの純白の頬を力任せにスリスリと擦り付けていた。
前足を交互に踏み鳴らし、早くも喉を「ゴロゴロゴロゴロ……」と重低音で鳴らし始めている。
「ふにゃ」
縁側の影から、黒猫のクロが素早く滑り出てきた。
世界を滅ぼす猛毒の獣は、マノンのエプロンの裾に黒い鼻先をちょんと押し当てると、抱えられた大根の泥の匂いをフンフンと物珍しそうに嗅ぎ、満足そうに目を細めてマノンの足の甲の上にちょこんと前足を揃えた。
神威の欠片もない。
殺意の残滓すらない。
そこにいたのは、ただ大好きな飼い主の帰宅を喜んで足元に群がる、三匹の愛らしいモフモフたちだけであった。
「……………………」
泥水の中に這いつくばったまま、エティエンヌは完全に顎を外していた。
思考が、理性が、世界観が、凄まじい轟音を立てて粉微塵に崩壊していた。
(な……なんだ……? いま、何が……起きたのだ……!?)
世界を滅ぼすはずの三代厄災が。
自分たち五十名の精鋭を瞬殺しかけたあの絶対の天災たちが。
大根を抱えた小娘が一言声をかけただけで、爪を引っ込め、牙を隠し、喉をゴロゴロ鳴らして足元に擦り寄っている……?
冷気も、業火も、瘴気も、この娘が庭に入ってきた瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように消え去った。
調伏? 支配? 使役?
違う。そんな言葉ですら生ぬるい。
この娘は――このマノンという娘は、神話の怪物を力でねじ伏せているのではない。
世界の理そのものを己の波長で塗り替え、神々をただの無力な愛玩動物へと堕落させているのだ。
(ば……化け物だ……)
エティエンヌの背筋に、先ほどの死の恐怖を遥かに凌駕する、底知れぬ戦慄が走った。
自分たちが戦おうとしていたのは、魔女などではない。
人知を超えた神の理そのものを、エプロン姿で無邪気に弄ぶ、真なる絶対者――。
だが。
そんなエティエンヌたちの魂の絶叫など、マノンの耳には微塵も届いていなかった。
「よしよし、みんな良い子でお留守番できたわねぇ。偉かったわね」
マノンは足元にすり寄るタマとクロの頭を、空いた片手で交互にポンポンと優しく撫で、肩のピピに頬を寄せて微笑んだ。
そして。
ようやく、大根から視線を上げ――庭先の異様な光景を、その丸い瞳に捉えたのである。
「……あら?」
マノンはパチクリと目を瞬かせた。
そこには、泥水の中に整然と(?)座り込み、武器も持たずに震えている五十名もの銀色の服を着た男たち。
そして庭の中央で、仕立ての良さそうな濃紺の服を泥まみれにし、眼鏡を割り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でこちらを見上げている、一人の青白い男の姿があった。
マノンの脳内で、王都の薬舗時代に培われた「善良な生活者の常識」が、猛烈な勢いで回転を始めた。
(……え? な、なにこれ? どういう状況かしら……?)
まず目についたのは、男たちの格好だった。
薄い銀色の、いかにも重たそうで通気性の悪そうな金属の服。
中央の男に至っては、分厚い布を幾重にも重ねた、見るからに暑苦しい長袖のローブを着込んでいる。
そして、全員の顔色の悪さ。
唇は紫色に引きつり、額からは滝のような汗(※冷や汗)を流し、過呼吸のように肩を激しく上下させ、手足をガクガクと痙攣させている。
王都の大通りでも、夏の盛りによく見かけた光景だった。
無理な旅程で街道を歩き通し、水分の補給を怠り、体温調節のできない厚着をしたまま山道を登ってきた旅人たちが、熱中症と脱水症状を起こして道端にバタバタと倒れ込み、薬舗へ担ぎ込まれてくるあの姿。
(……そうか! 分かったわ!!)
マノンの胸の中で、すべてのピースが完璧に(そして致命的な方向へ)噛み合ってしまった。
(王都からの旅の方たちね! 慣れない山道を、あんな重たい金属の服を着て登ってきちゃったんだわ! それで、水分も取らずに無理をして歩いたせいで、熱中症を起こして、足がもつれて泥の中に倒れ込んじゃったのね……! あそこの真ん中の人なんて、意識が朦朧として、お顔が真っ白じゃないの!)
武器が砕け散って金属粉になっているのは、「転んだ拍子にお弁当箱か何かを落として壊しちゃった」と解釈された。
足元が凍りついていた名残の泥の冷たさは、「山の泥水で身体を冷やそうとした」と解釈された。
そして、自分を見つめるエティエンヌの絶望と恐怖の眼差しは――「苦しくて助けを求めている、行き倒れの患者の視線」として、完璧に脳内変換されたのである。
「――あらあらまあまあ! 大変!」
マノンは手元の特大の大根を抱え直し、心底から心配そうな顔で駆け寄ってきた。
その足取りには、警戒も、敵意も、侮蔑も何一つない。
ただ、目の前で苦しんでいる行き倒れの人間を放っておけない、元・調剤助手の純粋極まりない職業倫理と、慈悲の心だけが溢れ出していた。
「旅の方たちですね!? こんな山奥まで登ってきて、熱中症で行き倒れちゃったのね! 今、すぐにお手当しますからね!!」
マノンのその屈託のない叫び声を聞いた瞬間。
泥水に這いつくばっていたエティエンヌ・ボワイエの頭蓋の中で、何かが完全に、決定的に、音を立てて砕け散ったのであった。




