第44話:絶対零度と業火の洗礼、粉砕されたエリートの誇り
「ひ、ひぃぃぃっ!? た、助けてくれぇぇっ!!」
「槍が……槍がない! 鎧が砕けた! 腕が、足が凍りついて動かないッ!!」
「神よ、聖母よ、救いたまえ……! ここは地獄だ、悪魔の巣窟だぁぁぁッ!!」
晩秋の澄み切った山林に、王都の誇る精鋭魔術兵と重装歩兵たちのみっともない絶叫が響き渡っていた。
彼らは、王都の選抜試験を最優秀の成績で突破し、豪奢な軽銀の甲冑と特注の魔導槍を与えられた、国家の誇るべきエリート戦士たちであった。地方の小競り合いを鎮圧する際には、その整然たる隊列と冷徹な魔導斉射だけで、数倍の敵軍を恐慌状態へと陥れてきた猛者たちである。
だが、いまやその面影は微塵も残っていなかった。
五十名の兵士全員が、武器を奪われ、防具を剥ぎ取られ、泥水の中に尻餅をついて無様に這いずり回っていた。
白猫――霜狼神フェンリルがただ前足を一歩踏み下ろしただけで放たれた、あの絶対零度の白霜。
それは兵士たちの黒革のブーツを地面の黒土ごとカチカチに凍結させ、足首から下を寸分の隙もなく拘束していた。足を無理に引き抜こうとすれば、凍りついた皮膚と肉が骨から剥がれ落ちかねないほどの極限の低温。
さらに、黒猫――冥界獣キマイラが放った、空間を切り裂くあの一撃の咆哮。
王都最高の鍛冶師と魔導技師が心血を注いで打ち上げた魔導槍も、魔力防壁を張るラウンドシールドも、すべてが飴細工のように砕け散り、微細な金属粉となって泥土の上をキラキラと虚しく覆っていた。
完全なる無力化。
牙を抜かれ、手足を縛られ、神話の生贄として祭壇に並べられた家畜のように、兵士たちはただ己の死を待つことしかできなかった。
恐怖のあまり過呼吸を起こして倒れる者、失禁して自らの股間を温かい液体で濡らす者、母の名を叫んで涙を流す者。
整然たる軍旅の誇りなど、最初から存在しなかったかのように、庭先は阿鼻叫喚のパニックに塗り潰されていた。
そして――。
その潰走のただ中、中央の泥濘に両膝をついたままのエティエンヌ・ボワイエの頭蓋の中では、猛烈なプライドと底知れぬ狂気が、どす黒い渦を巻いていた。
(……ありえない……ありえないありえないありえないッ!!)
エティエンヌは、泥水にめり込んだ自らの両拳を、爪が手のひらの肉を突き破るほど強く握りしめていた。
仕立て直したばかりの濃紺の高級魔道ローブは、跳ね上がった泥と氷の破片で無残に汚れ、胸元の金糸の刺繍は引きちぎれていた。
右目のレンズが斜めに割れた銀縁眼鏡の隙間から、血走った灰褐色の瞳がギラギラと狂乱の光を放っている。
額からは、冬の冷気とは裏腹に、ダラダラと脂汗が滝のように滴り落ち、唇は激しい怒りと屈辱で紫色に変色していた。
(我が輩は……エティエンヌ・ボワイエだぞ……!? 王都最高学府を史上最年少で首席卒業し、三十一歳にして魔法省の頂点、主席宮廷魔術師の座を射止めた、選ばれし最高峰の頭脳だぞ……!?)
王都の大理石の宮殿で、老獪な貴族たちを手玉に取り、宰相すら一目置く権力を手中に収めてきた男。
地方の泥臭い平民や、筋肉ばかりで脳みその足りない騎士どもを、常に虫けらのように見下してきた絶対のエリート。
その自分が。
こんな、地図の端の寒村の、名もなき古民家の庭先で。
ただの黄色い小鳥のひと羽ばたきで渾身の結界を粉砕され、白猫の足踏み一つで部下を無力化され、黒猫の欠伸のような咆哮で魔導兵器を塵にされたというのか。
認められるはずがなかった。
そんな現実を受け入れれば、自らが三十一年間積み上げてきた誇りも、名誉も、魔導という学問そのものの価値すらも、すべてが砂上の楼閣であったと認めることになってしまう。
「……認めん……。断じて、認めんぞ……ッ!!」
エティエンヌの喉から、獣のような濁った怨嗟が漏れ出た。
まだだ。まだ終わってはいない。
相手が神話の幻獣であろうが、太古の厄災であろうが、魔力を持った生物であることに変わりはないのだ。
生物である以上、己の持ち得るすべての魔力を注ぎ込んだ絶対的な破壊の極大魔法を至近距離から直撃させれば、肉体ごと跡形もなく消滅させられるはずだ。
相手を殺せばいい。
この忌まわしい三匹の怪物を、そしてこの平屋ごと、領地の北山すべてを地図から消し去るほどの業火で焼き払ってしまえば、自らの失態を知る者はいなくなる。
王都へ戻り、「反逆の魔女と古代魔獣を、壮絶な死闘の末に討ち滅ぼした」と報告すれば、自分は王国を救った唯一無二の英雄として讃えられるのだ。
「我が輩が……負けるはずがないのだぁぁぁッ!!」
エティエンヌは泥の中から跳ね起きるようにして、右手に握りしめていた黒檀の魔導杖を振り上げた。
杖の柄を握る指先が白く軋む。
さらに、左手で自らの胸元を鷲掴みにし、首から下げていた純銀のペンダントを引きちぎった。
中に入っていたのは、王宮の宝物庫から極秘裏に持ち出してきた禁忌の魔導遺物――『紅蓮竜の心臓石』。
術者の全魔力回路を強制的に暴走させ、寿命と引き換えに通常の数十倍の破壊魔力を瞬時に引き出す、禁断の増幅触媒であった。
「喰らえ……! 我が知性のすべて、我が魔導の極致を以て、塵芥へと還るがいいッ!!」
エティエンヌは詠唱すら省略し、自らの精神力と心臓石のエネルギーを直接連結させた。
ドクンッ! と胸の奥で心臓が破裂しそうなほどの激痛が走る。
血管が浮き上がり、眼球の毛細血管が切れて視界が真っ赤に染まる。
黒檀の杖の先端に、禍々しいまでの超高密度の黒赤色の魔力球が凝縮され始めた。
王都魔法省が禁呪に指定する、最高位広域殲滅魔法――【終焉の劫火球】。
山一つを溶岩の海へと変え、城壁ごと都市を融解させるという、人間が扱いうる最大最強の破壊兵器。
「死ねぇぇぇぇぇぇッ!!」
エティエンヌが狂気の哄笑とともに、その黒赤色の太陽を柿の木の上、そして平屋の縁側へと向けて解き放とうとした――まさに、そのコンマ一秒前のことであった。
――チチッ。
あまりにも短く、あまりにも可憐な、小鳥の舌打ちのような音が耳朶を打った。
「……え?」
エティエンヌの思考が、唐突に凍結した。
柿の木の枝先。
天を覆う炎の巨鳥の幻影を背負った、あの黄色い小鳥――ピピが。
自らの魔導杖の先端に凝縮されていた黒赤色の禁呪の火球を、心底から侮蔑しきったような、冷徹極まりない金色の双眸で、ただ――『ジロリ』と、一瞥したのだ。
視線。
ただの、視線であった。
術を放ったわけでもない。翼を羽ばたかせたわけでもない。
ただ、不滅の業火を司る原初の神鳥が、人間が作り出した不完全で下品な破壊の炎に対して、その神格の絶対的な格の違いを、無言の眼光だけで突きつけた。
その瞬間。
――ジューッ……!
エティエンヌの肉体の内側で、生肉が鉄板の上で焼き焦げるような、凄惨な音が響き渡った。
「――ぎゃああああああああっっっっっ!?!?!?!?」
エティエンヌの口から、人間の声とは思えない絶叫が迸った。
ピピの金色の眼光が触れた刹那、エティエンヌが体内で暴走させていた禁呪の魔力流が――逆流したのだ。
神鳥の神威という絶対的な「炎の始祖」の前に、エティエンヌの拙い火属性の魔力は、恐慌をきたして術者へと牙を剥いた。
心臓石から引き出されていた膨大なエネルギーが、逃げ場を失ってエティエンヌ自身の全身の毛細魔力回路へと雪崩れ込む。
過負荷。完全なる許容量オーバー。
エティエンヌの皮膚の下、血管に沿って巡らされていた目に見えぬ魔力の神経網が、パチパチと音を立てて内側から焼き切れていく。
バチバチッ、ボッ!
エティエンヌの両腕の皮膚が裂け、毛穴から青白い火花と焦げた煙が噴き出した。
右手に握っていた黒檀の魔導杖は、先端の深紅の鉱石ごと粉々に破裂し、純銀のペンダントの心臓石は、神鳥の威光に当てられて一瞬にして真っ白な灰へと還元され、指の間からサラサラと泥の中へ零れ落ちた。
「我が輩の……我が輩の、魔力が……!? 回路が……燃えて……消える……ッ!?」
エティエンヌは両手で自らの頭を抱え、泥土の上を転がり回った。
全身を焼き鏝で撫で回されているかのような激痛。
だが、肉体の苦痛以上に彼を打ちのめしたのは、自らの魂の芯から、魔術師としての命そのものであった「魔力」が、完全に枯渇し、二度と繋がらないほど木っ端微塵に焼き切れてしまったという、絶対の喪失感であった。
宮廷魔術師としての地位。
最高峰の頭脳。
他者を見下し、支配するための力。
そのすべてが、いま、一羽の小鳥の「一瞥」によって、跡形もなく消滅したのだ。
「あ……が……っ、ごふっ……」
エティエンヌは泥水を吐き出しながら、ピクピクと痙攣する四肢で、這いつくばるようにして顔を上げた。
もはや立ち上がる力すらなかった。
割れた眼鏡は泥にまみれて視界を塞ぎ、冷たい泥水が口の中に流れ込んでくる。
魔力を完全に失った彼の肉体は、ただの三十一歳の、体力のない青白い貧弱な男のそれに成り果てていた。
そして、その泥まみれの視界の先に広がっていたのは――。
真なる、逃げ場のない「終末の神域」であった。
ゴオオオオオオオオオッ……。
頭上。
柿の木の梢を覆い尽くす、黄金と紅蓮の光。
幻鳥フェニックスの幻影が、その巨大な翼を広げ、大地を丸ごと呑み込む太陽の如き熱波を湛えて見下ろしている。その神々しい瞳には、魔力を失った哀れな虫けらに対する、何の感慨もない冷徹な光だけが宿っていた。
ズズズズズズズ……ッ。
右手。
白霜の敷き詰められた庭先で、白猫――霜狼神フェンリルが、純白の巨躯を低く沈めていた。
背後に聳え立つ巨大な白銀の巨狼の幻影が、牙を剥き、吐き出す白い息だけで周囲の空気をダイヤモンドダストへと変えていく。
一歩でも動けば、その肉体ごと魂を永久凍土の氷塊へと変えて粉砕してやると言わんばかりの、絶対零度の圧力。
ドロリ、ドロリ……。
左手。
香木のウッドデッキの影から這い出た、黒猫――冥界獣キマイラ。
獅子と毒蛇と山羊の三頭の幻影が、黒泥の瘴気となって宙を蠢き、エティエンヌの心臓を狙って舌なめずりをしている。触れれば骨の一片すら残さず溶かし尽くす、冥府の壊死毒が、足元の泥水をジュクジュクと泡立たせていた。
三方向からの、完全なる死の包囲陣。
狼。獅子。不死鳥。
神話の時代より語り継がれる三代厄災が、一切の手加減を捨て、本物の神威を剥き出しにして、泥水に這いつくばる一人の男を睨み据えていた。
「あ…………ああ…………」
エティエンヌの額から、絶望の冷汗が滝のように流れ落ち、泥水と混ざり合って地面を濡らした。
震える指先が、泥を無意味に掻きむしる。
奥歯がガチガチと音を立てて衝突し、舌を噛みそうになる。
(これが……現実……)
エティエンヌの脳裏に、幾重にも重なる後悔と絶望が、冷酷な刃となって突き刺さっていた。
(これが、辺境の……現実だというのか……!?)
自分は何をしてしまったのだ。
何を勘違いしていたのだ。
王都の温室で、机の上の魔導書をめくり、数字と理論を弄んでいただけの自分。
中央の権力闘争に勝ち誇り、己こそが世界の頂点に立つ選ばれし知性だと信じ込んでいた、哀れな井の中の蛙。
そのちっぽけな自尊心と野心を抱えて、自分は――触れてはならない、世界の神域へと足を踏み入れてしまったのだ。
領主代行ローランの、あの必死の懇願。
『手を出せば、神獣たちの怒りによってこの領地はおろか、王国全土が壊滅するのです!!』
警備隊長ギルバートの、あの血を吐くような忠告。
『せめて、兵を連れて行くな。武装を解き、武器をすべて捨て、手ぶらで参られよ』
『木箱いっぱいの新鮮な果物でもいい。上等な牛肉の塊でもいい……誠意の贈り物を携えて、たった一人で向かうのだ』
あの言葉のすべてが、真実だった。
真実どころか、彼らは自分に対して、神の怒りに触れて塵となる前の、最後の救いの手を差し伸べてくれていたのだ。
それを、自分は。
『くだもの!? ぎゅうにく!? お茶菓子を貰って帰ってこいだと!?』と、腹を抱えて嘲笑し、唾を吐きかけ、軍勢を引き連れてこの不可侵の聖域を土足で蹂躙した。
「我が輩は……我が輩は、なんという愚行を……」
エティエンヌの口から、血の混ざった涙とともに、震える懺悔が零れ落ちた。
傲慢の報い。
自らの愚かさが招いた、完全なる自業自得の破滅。
魔力回路は焼き切れ、武器は砕かれ、部下は全員凍結拘束され、自分自身は泥水の中に這いつくばるただの無力な虫けら。
もはや、命乞いをする言葉すら見つからなかった。
見上げれば、三匹の厄災の瞳に、最後の引導を渡す神威の光が満ちていた。
ピピが、くちばしを天へと向け、白色光の浄化の火炎を凝縮させる。
タマが、太い前足を振り上げ、大地ごと侵入者を凍結粉砕せんと冷気を圧縮する。
クロが、漆黒の牙を剥き出しにし、空間ごと魂を噛み砕くべく跳躍の体勢に入る。
あと一秒。
瞬き一つの後には、自分も、部下たちも、馬車も、この空間に存在した一切の痕跡が、この世から完全に消滅する。
(終わる……。我が輩の、人生が……ここで……)
エティエンヌは目を固く閉じ、絶望の中で泥水に額を擦り付けた。
死の冷気と業火が、自らの頭上へと振り下ろされる、まさにその刹那であった。
――ざくっ、ざくっ。
張り詰めた終末の静寂を切り裂いて、軽やかな、長閑な足音が響き渡ったのは。
「〜〜♪ 〜〜♪」
澄み渡る晩秋の青空の下。
小鳥のさえずりのように無邪気で、なんの屈託もない呑気な鼻歌が、死線に沈む庭先へと、ふわりと流れ込んできたのである。




