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第43話:怒れる霜と冥府の爪、森を揺るがす神威

――ピシ、ピシリ……。


大気を灼き焦がす紅蓮の熱波が渦巻く庭先に、あまりにも不気味な、乾いた氷裂音が小さく木霊した。


王都魔法省主席宮廷魔術師、エティエンヌ・ボワイエは、泥水に両膝をついた姿勢のまま、金縛りに遭ったかのように身動き一つ取れずにいた。

頭上を見上げれば、樹齢数十年の柿の木を覆い尽くさんばかりに翼を広げた、天を焦がす炎の巨鳥――幻鳥フェニックスの神聖なる幻影。その灼熱の神気だけで、特注の銀縁眼鏡のレンズには無残なヒビが入り、吸い込む空気は喉の粘膜をチリチリと焼き焦がしていた。


だが、その耐え難い焦熱の只中にあって、エティエンヌの背筋を突如として駆け上がったのは――内臓の芯まで凍りつかせるような、刺すような絶対零度の悪寒であった。


(な……なんだ……? この、相反する力は……!?)


熱いのか、寒いのか。

皮膚の表面が火傷を負うほどの熱風に晒されながら、毛穴の一つ一つからは氷の針を突き立てられたような激痛が走る。相反する二つの極限の神気が衝突し、庭の空間そのものが軋みを上げて激しく歪み始めていた。


音の発生源は、庭の正面――あの素朴な木造平屋の縁側であった。


職人が釘を一本も使わずに組み上げたという、真新しい防腐香木のウッドデッキ。

その引き戸が、内側から音もなく、数センチほど細く引き開けられていた。

薄暗い室内の隙間から、まるで夜霧のように、冷たく重い白煙がツゥと滑り出てくる。それはただの煙ではない。空気中の水分が一瞬にして過冷却され、微細な氷晶となって零れ落ちているのだ。


カタ、と。

引き戸の隙間から、まず姿を現したのは――ひとつの、丸い足先であった。


泥一つついていない、純白の毛並みに覆われた太い前足。

続いて、引き戸がガラリと完全に押し開かれ、その主がのっそりとウッドデッキの上へと踏み出してきた。


「グルルルルルルル……ッ」


地殻の底を揺るがすような、凄まじい重低音の唸り声。

そこにいたのは、中型犬ほどもある異様に立派な体躯を誇る、一匹の白猫であった。

だが――。

エティエンヌの知る「愛玩動物」の姿など、そこには欠片も残っていなかった。


全身の純白の毛並みは、まるで何千本もの氷の針のように逆立ち、首周りの分厚い鬣(たてがみ)からは、触れるものすべてを永久凍土へと沈める白銀の冷気が、オーロラのような光の帯となって立ち上っている。

そして、その双眸。

伏し目がちだった金色の瞳は爛々と見開かれ、縦に細く引き絞られた瞳孔の奥底には、万物を凍結粉砕する絶対の殺意が宿っていた。


白猫の背後に、立ち昇っていた。

天を衝くほど巨大な、白銀の巨狼の幻影。

古代の神話において、神々の黄昏を招き、世界を氷河期へと叩き落とした生ける天災――『霜狼神フェンリル』の真なる神格が、そこにあった。


「フェ……フェンリル……!? ほ、本当に、現世に存在していたというのか……!?」


エティエンヌの喉から、掠れた悲鳴が漏れ出た。

報告書の文字で読んだ時とは、質量が違いすぎた。

知性、論理、魔導理論――人間が積み上げてきた概念のすべてが、その巨獣が放つ圧倒的な存在感の前に、紙屑のように無力化されていく。


タマ(フェンリル)は、非常に、極めて不機嫌であった。

今朝、心優しい主であるマノンが、薄味で柔らかく茹でた極上の豚肉を朝食に分けてくれた。

出汁の染みた滋養を腹いっぱいに収め、マノンの『波長ゼロの無害気質』に包まれながら、火鉢の前の特等席で至福の微睡みを貪っていたのだ。

それなのに。

外で騒がしい喇叭を吹き鳴らし、主が留守の隙を狙って庭へ土足で踏み込み、あまつさえ屋根の上の黄色い同居鳥(ピピ)に向かって下品な紫電の罠を仕掛けた無礼者ども。


(我が主の安らかな巣を……よくも汚してくれたな、羽虫どもが)


タマは金色の瞳を冷酷に細めると、香木のウッドデッキから、庭の黒土へと向けて――トン、と。

右の前足を、ただ一歩だけ踏み下ろした。


パキィィィィィィンッ――!!


その瞬間、大地が悲鳴を上げた。

タマの肉球が土に触れたコンマ一秒後、接地点を中心として、肉眼で追えるほどの速度で純白の氷の結晶が爆発的に這い広がったのだ。


波のように押し寄せる、絶対零度の白霜。

初冬の冷気などという生易しいものではない。物質の分子運動そのものを強制停止させる、神話の凍結波。

庭の飛び石がパキパキと凍りつき、敷き詰められていた落葉が一瞬にして硝子細工のように硬直する。


「うわあああっ!?」

「足が……足が動かんっ!?」


最前列に布陣していた重装歩兵たちから、絶叫が上がった。

白霜の波が、兵士たちの黒革のブーツに触れた瞬間、靴底から甲冑のすね当てへと一気に氷が駆け上がったのだ。

冷気は軽銀の金属鎧を瞬時に冷やし尽くし、布のズボンを皮膚ごと凍りつかせ、地面へと完全に縫い止めていく。

逃げようと足を上げようにも、すでに足首から下は分厚い永久氷壁の一部と化していた。

五十名の兵士全員の足元が、寸分の狂いもなく、一瞬にして地面に凍結拘束されたのだ。


「ひ、ひぃぃぃっ! 魔力回路が凍りつく……! 魔法が、詠唱できんっ!!」


魔術兵たちが悲鳴を上げる。

フェンリルの冷気は肉体だけでなく、彼らが体内に巡らせていた魔力そのものすら凍結させ、術式の展開を完全に封じ込めていた。


だが――神獣たちの制裁は、これで終わりではなかった。


――スゥッ……。


白猫の足元から広がる白霜の輝きとは対照的に、平屋の縁側の下――濃密な漆黒の影の底から、もう一つの異形が音もなく這い出してきたのだ。


カサリ、と乾いた音がした。

影から滲み出るように現れたのは、引き締まった漆黒の四肢を持つ、一匹の黒猫。

片耳の先が小さく欠け、鋭い琥珀色の瞳を爛々と光らせている――『冥界獣キマイラ』。

普段なら、マノンの前で魚の血合いの煮付けを夢中で平らげ、令嬢レオノールの手のひらに照れくさそうに肉球を乗せていたあの黒猫が、いまや完全なる殺戮の化身へと変貌していた。


黒猫の周囲の空間が、ドス黒い瘴気の陽炎となって揺らめいている。

足元からは、触れるものすべてを腐食させる冥府の毒気が泥のように湧き上がり、凍りついた土の表面をジュクジュクと溶かしながら黒く染め上げていく。

その背後に立ち上っていたのは、虚空を噛み砕く三頭の猛獣――獅子の顎、猛毒の蛇頭、そして呪詛を吐く山羊の巨影。

かつて西の山脈で封印を破り、一夜にして数々の都市を更地へと変えた、神代の凶獣の真なる姿であった。


(脆弱な人間どもが……図に乗るのも大概にせよ)


クロの喉の奥から、低く、濁った威嚇の唸りが漏れた。

クロもまた、怒り狂っていた。

昨晩、主であるマノンが、怪我をした耳の後ろを特製の薬草軟膏で優しく撫でてくれたばかりだった。

痛みが消え、満ち足りた幸福感の中で眠っていた聖域。

そこへ、下品な金属鎧を着込んだ愚か者どもが武器を構えて踏み込んできたのだ。

もし、この連中の放った流れ弾が、あの心優しい娘の育てている裏庭の薬草畑に一筋でも傷をつけていたらどうするつもりだったのか。


許す理由など、爪の先ほども存在しなかった。


クロは、漆黒の四肢を低く沈めると――。

天を仰ぎ、その口を大きく裂くように開いた。


「――グオォォォォォォォォッッッ!!」


咆哮。

それは、音波などという生易しい現象ではなかった。

空間そのものを直接叩き割る、冥界の質量を持った純粋な衝撃波。


ドガァァァァァァァンッ!!


大気が爆縮し、不可視の衝撃の刃が、扇状に展開していた王都の軍勢へと向けて放射状に薙ぎ払われた。


「ぐわああっ!?」


兵士たちの悲鳴が重なり合う。

衝撃波が直撃した瞬間、五十名の兵士たちが構えていた装備に、信じがたい異変が起きた。


バキ、バキバキバキッ!

パリン、ガシャァァァァンッ!!


王都の最高技術を結集して鍛造されたという、特注の魔導槍。

何重もの防御術式が刻まれた、軽銀のラウンドシールド。

それらの強固な武具が、クロの咆哮の衝撃波に触れた瞬間――まるで、極限まで乾燥させた飴細工のように、脆く、あっけなく、微粒子レベルで粉々に砕け散ったのだ。


槍の穂先が粉砕され、柄がへし折れ、盾の破片がキラキラと光の塵となって空中に吹き飛ぶ。

兵士たちの身につけていた重厚な胸当てや兜にも一斉に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、留め具が吹き飛び、バラバラと地面の泥水の中へと崩れ落ちていった。


完全なる武装解除。

傷一つつけられることなく、ただ手にしたすべての武器と防具だけを、一瞬にして消滅させられたのだ。


「あ……あ、ああああ……っ!?」


副官の魔術兵が、自らの両手を見つめながら腰を抜かした。

握りしめていたはずの愛用の魔導槍は、すでに影も形もない。手のひらに残っているのは、細かく砕けた金属の粉末だけであった。


「槍が……盾が……粉々に……!?」

「な、なんだこの化け物は……っ!? 咆哮一発で、中央の特注魔導兵器を全滅させただと……!?」


兵士たちは武器を失い、足元を白霜で凍りつかされ、ただの無力な的と化していた。

恐怖のあまり失禁する者、歯の根が合わずにガチガチと音を立てる者、神への祈りを口走る者。

先ほどまでの勇壮な進軍喇叭の誇りなど、どこにも残っていなかった。

ここにあるのは、絶対強者の爪先に踏み躙られた、哀れな虫けらたちの阿鼻叫喚だけであった。


そして――。


「…………っ、あ…………」


泥水に手をついたエティエンヌ・ボワイエは、完全に魂を抜かれたように口を半開きにしていた。


見渡せば、そこは完全なる「世界の終末」であった。


頭上には、天を覆い尽くし、太陽の如き業火を宿して見下ろす黄金の神鳥(ピピ)。

右手には、大地を永久凍土へと変貌させ、冷酷な金色の双眸で眉間を射抜く白銀の巨狼(タマ)。

左手には、空間を腐食させる黒泥の瘴気を纏い、骨を噛み砕く三頭の幻影を蠢かせる漆黒の猛獣(クロ)。


三方向からの、完全なる包囲。

狼、獅子、不死鳥。

神話の時代より世界を二度滅ぼしかけた三代厄災が、完璧な布陣を敷き、たった一人の哀れな宮廷魔術師を取り囲んでいた。


逃げ場はない。

抗う術もない。

自慢の魔導理論? 王都の権威? 主席宮廷魔術師の栄誉?

そんなものが、この神々の爪先の前で、一体何の役に立つというのか。


(あ……ああ……あ……)


エティエンヌの脳裏に、数刻前の光景が、鮮血のような鮮烈さで蘇っていた。


領主館の貴賓応接室。

額に青筋を立てて必死に懇願していた、領主代行ローランのあの叫び。

『手を出せば、神獣たちの怒りによってこの領地はおろか、王国全土が壊滅するのです!!』


そして、二メートルの巨躯を誇る警備隊長ギルバートが、拳を握りしめて語った、あの血を吐くような忠告。

『せめて、兵を連れて行くな。武装を解き、武器をすべて捨て、手ぶらで参られよ』

『木箱いっぱいの新鮮な果物でもいい。上等な牛肉の塊でもいい……誠意の贈り物を携えて、たった一人で向かうのだ』

『それこそが、あの聖域へ踏み込み、生きて帰るための、唯一絶対の作法なのだ!!』


(あれは……狂人の妄言などでは……なかった……)


エティエンヌの唇から、血の泡のような掠れ声が漏れた。

彼らは、自分を陥れようとしていたのではなかった。

馬鹿にしていたのでも、保身に走っていたのでもなかった。

彼らは――知っていたのだ。

この山奥に潜む「本物の神話」の恐ろしさを。

そして、その絶対の死線から、自分たちのような愚か者が生きて帰るための、唯一の生存ルートを、慈悲をもって教えてくれていたのだ。


それを。

自分は、鼻で笑い飛ばした。

『くだもの!? ぎゅうにく!? お茶菓子を貰って帰ってこいだと!?』と、腹を抱えて嘲笑し、忠告を踏みにじり、大軍を率いてこの神域へと土足で踏み込んできた。


(死ぬ……っ)


ヒビの入った眼鏡の奥で、エティエンヌの瞳が狂乱の涙で濡れた。

全身の震えが止まらない。

奥歯がガチガチと音を立て、胃の腑が極度の恐怖で雑巾のように絞り上げられる。


見上げれば、三匹の厄災たちの瞳に、最後の審判の光が宿っていた。


ピピのくちばしの奥で、超高熱の白色光が臨界点へと達しようとしている。

タマが低く唸り、庭の空気を絶対零度の氷嵐へと変えるべく前足を振り上げる。

クロが漆黒の牙を剥き出しにし、侵入者の魂ごと空間を噛み砕かんと身を沈める。


解き放たれれば、自分たちの肉体など、一瞬にして分子レベルで蒸発し、魂の一片すら残らずこの世から消滅する。

終わりだ。

自らの底知れぬ傲慢と愚行によって、自分は今日、ここで、神話の生贄となって消え去るのだ――。


エティエンヌが絶望の底で呻き、死の裁きを受け入れようと目を固く閉じた、まさにその刹那であった。


ざくっ、ざくっ。


森の小道から、あまりにも場違いな、長閑な足音が響いてきたのは。


「〜〜♪ 〜〜♪」


澄み渡る晩秋の空の下。

小鳥のさえずりのように軽やかな、呑気な鼻歌が、死線に沈む庭先へとふわりと流れ込んできたのである。

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