第42話:黄金の小鳥と、傲慢な捕獲結界
紫電の火花が、乾いた大気の中でパチパチと爆ぜる耳障りな音を立てていた。
上空十メートルに展開された巨大な魔法陣は、王都魔法省が総力を挙げて編纂した古代魔導の結晶――【神聖雷光捕縛檻】。
紫紺の光脈が幾重にも交差し、同心円を描く緻密な幾何学模様が、歯車のように噛み合って回転を加速させていく。術者の魔力を吸い上げるたびに魔法陣は脈動し、その中心点から、大蛇の如くうねる数十本の雷光の鎖が、標的である柿の木へと向けて一斉に射出された。
「逃がさんぞ、雑鳥め! 我が輩の計算の前に、いかなる魔導生物とて抗う術などないのだ!!」
エティエンヌ・ボワイエは、黒檀の魔導杖を振り下ろしながら、確信に満ちた哄笑を漏らした。
雷光の鎖は、対象の肉体を物理的に縛り上げるだけでなく、接触した瞬間に神経系へ高圧電流を流し込み、魔力回路を強制的に麻痺させる三重の拘束術式が組み込まれている。いかに敏捷な飛行魔獣であろうと、網の目のように空間を埋め尽くす雷の追尾から逃れることなど不可能だ。
包囲する五十名の魔術兵たちもまた、勝利を確信して口元を緩めていた。
地方の貧乏貴族が怯えていた「魔女の使い魔」など、所詮はこの程度。中央の最高峰の魔導を前にすれば、手も足も出ずに捕獲される哀れな小鳥にすぎない――誰もがそう信じて疑わなかった。
紫電の鎖が、柿の木の枝先を取り囲み、空間を押し潰すように収束していく。
雷圧の熱風が、枝先に残されていた数少ない橙色の柿の実を撫で、その瑞々しい果皮をジューッと嫌な音を立てて黒く焦がした。
まさに、その瞬間であった。
枝先で羽を休めていた黄色い小鳥――ピピの黒真珠のような瞳に、微かな、けれど底知れぬ冷淡な光が宿ったのは。
(……チッ)
ピピ――数百年周期で炎の転生を繰り返し、太古の神話より霊峰の頂に座してきた伝説の神鳥『幻鳥フェニックス』は、頭上から迫り来る紫色の光の檻を、心底からめんどくさそうに見上げていた。
そもそも、ピピの機嫌は朝からすこぶる良好だったのだ。
今朝、心優しい主であるマノンが、縁側で朝食の残りの丸パンの端を、指先で細かくほぐして手のひらに乗せてくれた。
マノンのあの『波長ゼロの無害気質』がたっぷり染み込んだパンくずは、口に含むだけで、何千年ものあいだ全身を焼き苛んできた業火の残留熱を、春の雪解け水のようにスーッと鎮めてくれる至高のエリクサーであった。
お腹いっぱいパンくずを食べ、マノンの柔らかい指先で喉元をコチョコチョと優しく掻いてもらい、至福の喉鳴らしを堪能した。
主が麓の村へ野菜を貰いに出かけた後は、日当たりの良い柿の木の枝にとまり、晩秋の乾いた風を浴びながら、心地よい微睡みの中にいたのだ。
それなのに。
なんなのだ、この騒々しく無礼極まりない泥人形どもは。
(我が主が今朝、竹箒で丹念に掃き清めたばかりの庭の黒土を、薄汚い鉄沓で踏み躙っただけでも万死に値するというのに……)
ピピの小さな胸の奥で、苛立ちの火種がパチリと爆ぜた。
マノンは、庭の手入れにとても気を遣っている。
毎日、落ち葉を拾い、飛び石を拭き、雑草を抜いて、小さな平屋の周りをいつも清潔で心地よい空間に保とうと、心を込めて家事を楽しんでいるのだ。
その主の健気な労働の結晶を、下品な軍勢が土足で踏み荒らしている。
そればかりか――。
(……あそこの熟れかけた柿の実は、我が主が『もう少し甘くなったら、もいで干し柿の追肥にしましょうね』と楽しみにしていた実ではないか)
ピピの細いくちばしが、微かに尖った。
雷光の余波で黒焦げになった柿の実。
主が楽しみにしていた収穫を、この分不相応な愚か者どもは、ただの自己満足の魔術の余波で台無しにしたのだ。
許しがたい。
白猫のタマ(フェンリル)や黒猫のクロ(キマイラ)なら、今頃居間の畳の上で「主の帰りを待つのが最優先」と怠惰に丸くなっているだろうが、ピピは短気な神鳥である。
ましてや――。
(……我が頭上でチカチカと鬱陶しい光を撒き散らすこの玩具。なんなのだ、これは?)
ピピは、眼前に迫る紫電の鎖を一瞥した。
人間どもは「最上位の古代魔導」などと誇らしげに喚いているようだが、神話の時代から生き続けるフェニックスから見れば、赤子が積木を積み上げて喜んでいるような、あまりにも拙く、あまりにも底の浅い魔力操作にすぎなかった。
術式の構成に無駄が多く、魔力の循環はガタガタと軋み、何より属性の純度が低すぎて泥水のように濁っている。
(この程度の粗大ゴミで、我を縛る気か? ……片腹痛い)
紫電の鎖が、ピピの黄金の羽毛まであと数寸――触れればその柔らかな肉体を黒焦げに焼き尽くさんと迫った、まさにその刹那。
ピピは、小さくため息をつくように、右の翼を――パタッと、ただ一度だけ、羽ばたかせた。
本当に、何気ない、スズメが埃を払うかのような、軽やかなひと羽ばたきであった。
だが――。
――バヂィィィィィィッッッ!!
鼓膜を叩き割るような、凄絶極まりない破砕音が山林に木霊した。
「――なっ!?」
エティエンヌの息が止まった。
何が起きたのか、彼の研ぎ澄まされたはずの動体視力では、何一つ捉えられなかった。
ピピの翼から放たれたのは、突風ですらなかった。
それは、空間そのものを震わせる、あまりにも高密度な「霊威の波紋」。
その不可視の波紋が触れた瞬間、柿の木を取り囲んでいた数十本の雷光の鎖が、まるで薄氷を巨大な鉄槌で叩き割ったかのように、粉々に破砕されたのだ。
砕け散った紫色の魔力片が、チリチリと空中で光の粉となって蒸発していく。
それだけでは終わらなかった。
ピキ、ピキピキピキッ――!
上空十メートルに展開されていた巨大な多重魔法陣の中央に、突如として無数の亀裂が走った。
まるで、巨大な硝子の鏡の上に、空から大岩が降ってきたかのような亀裂。
歯車のように整然と回転していた幾何学模様が、軋みを上げて急停止し、次の瞬間――。
――ドガァァァァァンッ!!
凄まじい魔力暴発の閃光とともに、最上位捕縛結界【神聖雷光捕縛檻】が、土台の術式ごと、文字通り木っ端微塵に粉砕されたのである。
「ぐ、あああっ……!?」
展開していた術式を力づくでへし折られた反動が、術者であるエティエンヌの肉体を直撃した。
黒檀の魔導杖から火花が吹き出し、エティエンヌは喉の奥に鉄の味を感じながら、たまらず三歩、四歩と無様に後退した。
足元がもつれ、黒革のブーツが泥の中にめり込む。
「ば……馬鹿な……!? 我が輩の、我が輩の最上位結界が……一瞬で……!?」
エティエンヌは震える指先で眼鏡を直そうとしたが、その指がガチガチと痙攣して定まらない。
周囲の魔術兵たちも、あまりの衝撃波に吹き飛ばされ、尻餅をついて呆然と天を仰いでいた。
何が起きたのだ。
術が弾かれた? 相殺された?
違う。そんな生易しいものではない。
人間が何日もかけて構築した渾身の術式を、あの黄色い小鳥は、まるで顔に止まった羽虫を手で払うかのように、ただの「ひと羽ばたき」で叩き折ったのだ。
そして――真の悪夢は、結界が砕け散ったその後に、幕を開けた。
ピチ、ピチ……。
静まり返った庭先に、火花が爆ぜる微かな音が響いた。
柿の木の枝の上。
先ほどまで丸っこく愛らしかった黄色い小鳥の全身から――陽炎のような、淡い紅蓮のオーラが、ゆらりと立ち上り始めたのだ。
「ピ……ピピ……」
小鳥のくちばしから漏れ出たのは、もはや愛らしいスズメの囀りではなかった。
それは、地殻の底で煮えたぎるマグマが、岩盤を溶かしながら呻き声を上げるような、重厚にして神聖極まりない「神威の唸り」。
ゴオオオオオオオオッ……!
突如として、山林の空気が激変した。
晩秋の肌寒い木枯らしが、一瞬にして消滅する。
代わりに庭を満たしたのは、息を吸い込むだけで肺胞が焼け焦げそうになるほどの、凄まじい熱波の重圧であった。
柿の木の周囲の黒土から、白い水蒸気がボコボコと音を立てて噴き出し、地面に敷き詰められていた青草が一瞬にして水分を奪われ、カサカサの枯れ草へと変色していく。
「ひ……っ!?」
最前線にいた重装歩兵の一人が、悲鳴を上げて自らの甲冑を脱ぎ捨てようとした。
軽銀の鎧が、周囲の熱気によって一瞬でフライパンのように熱せられ、服の下の皮膚を焼き始めたのだ。
兵士たちの額から、滝のような汗が吹き出し、構えていた魔導槍の柄が熱電導で火傷を負わせる凶器へと変わる。
だが、誰一人として逃げ出すことはできなかった。
なぜなら――上空に現れた「それ」に、魂ごと縫い止められていたからだ。
「あ……あ、ああ……っ……」
エティエンヌの口から、掠れた、人間としての尊厳を失った喘ぎが漏れた。
見上げていた。
銀縁眼鏡のレンズ越しに、空を覆い尽くそうとしている「世界の破滅」を。
枝の上の小鳥の背後に、立ち上っていた。
紅蓮の炎と、黄金の神気を織り交ぜて編み上げられた、巨大な幻影。
それは、翼を広げれば優に五十メートルを越える、天を覆うほどの巨大な炎の鳥――古代神話に語られる不滅の巨神、『幻鳥フェニックス』の真の姿であった。
神々しいまでの二本の尾羽は、天空を貫く光の川となって棚引き、流れる炎の粉が、雪のように庭先へと降り注ぐ。
その頭上には、太陽そのものを模したかのような神聖な冠羽が燃え盛り、広げられた両翼からは、触れるものすべてを純粋な光へと還元する原初の浄化の炎が、轟々と音を立てて渦巻いていた。
小鳥の姿をしているはずの肉体の奥から、漏れ出しているのだ。
神の領域。
星が生まれた時に灯されたという、消えることのない始原の火。
(ば……化け物……っ!?)
エティエンヌの脳髄が、恐怖で沸騰しそうになっていた。
使い魔? 連絡用の雑鳥?
とんでもない。
自分が手を出したのは、王国の全軍を束ねても、歴史上のすべての魔術師をかき集めても、爪の先一つ傷つけることすら叶わない、神話の生ける天災そのものだったのだ。
ピキッ――。
甲高い、不吉な亀裂音がエティエンヌの顔面で響いた。
熱波の圧倒的な圧力に耐えかね、彼の誇りであった王都製の特注銀縁眼鏡の右レンズに、斜めに一本、鮮やかなヒビが入ったのだ。
視界が歪む。
ヒビ割れた硝子の向こうで、巨鳥の幻影を背負った黄金の小鳥が、ゆっくりと――寸分の狂いもなく、エティエンヌの眉間へと、その神聖なる金色の眼光を固定した。
『我が主が留守の間に、庭を踏み荒らした無礼者よ』
言葉ではない。
直接、頭蓋骨の内側に直接叩き込まれるような、圧倒的な意志の波動。
ピピの小さなくちばしが、わずかに開かれた。
その喉の奥底に、太陽の中心部にも匹敵する超高熱の白色光が、ジジジと音を立てて収束していく。
「あ……が……っ」
エティエンヌは膝の震えを止めることができず、ついにその場へドスンと両膝をついた。
自慢の濃紺の魔道ローブの裾が、泥水の中に浸かる。
だが、それを気にする余裕など微塵もなかった。
息ができない。
呼吸をするたびに喉が焼ける。
あの光が放たれれば、自分も、背後の五十名の兵士も、あの金ぴかの馬車も、一瞬にして蒸発し、炭の一片すら残さず虚無へと消え去る。
死ぬ。
自分は今、ここで、ただの小鳥の機嫌を損ねたという理由だけで、世界の理から消去されるのだ――。
エティエンヌが絶望の底で目を閉じ、死の閃光を待った、その刹那。
――ピシ……。
灼熱の庭先に、場違いなほど澄み切った、別の音が響いた。
平屋の縁側。
ガスパールが命がけで組んだ、あの防腐香木のウッドデッキの引き戸が――わずかに、数センチだけ、内側から音を立てて隙間を開けたのだ。
その隙間から、漏れ出してきたのは。
業火の熱波を一瞬で凍りつかせるような、絶対零度の冷気と――。
大地の底から這い上がる、触れるものを泥へと変える猛毒の瘴気。
神鳥の覚醒に呼応し、家の中で昼寝を貪っていた『他の二匹』が、ついにその重い瞼を開いたのであった。




