第41話:包囲された平屋、無人の庭に響く愚かな呪文
踏み荒らされた湿った黒土と、砕け散る落葉の音が、静寂に包まれていた山林に不快な金属音とともに響き渡っていた。
フォレスト領の北側、霊峰の懐深くに位置するその平屋の周囲を、五十名の重装歩兵と魔術兵が、一切の死角を残さぬよう扇状に展開していた。
軽銀の甲冑がガチャリと音を立て、抜き身の魔導槍の穂先が、秋の木漏れ日を浴びて冷酷な光を放つ。兵士たちの足取りは訓練され、寸分の乱れもなく、木立の幹や生垣の隙間を縫って敷地の外周を完全に塞ぎ止めていた。
「配置完了! 北側尾根、南側進入路、東西の林道、すべて遮断いたしました!」
小隊長の一人が、低く鋭い声で報告を上げる。
その包囲網の中央、一段高くなった小道の上に、四頭立ての金ぴか馬車が静かに停車していた。
ステップが下ろされ、濃紺の豪奢な魔道ローブを翻して地面へと降り立ったのは、王都魔法省主席宮廷魔術師、エティエンヌ・ボワイエその人であった。
「……ふん。他愛のないことだ」
エティエンヌは銀縁眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、冷たい灰褐色の瞳で眼前に広がる光景を睥睨した。
敷地を囲むのは、手入れされているとはいえ、ただの背の低い柊の生垣。
門扉と呼べるような頑丈な防壁すらなく、木製の簡素な門柱が二本、長閑に立っているだけだ。敷地内に足を踏み入れれば、そこにあるのは茅葺き屋根の平屋がぽつんと一軒。
天を衝くような魔導結界の塔もなければ、血の匂いを漂わせる儀式の祭壇もない。
庭の片隅には井戸があり、軒下には干し柿が吊るされ、新しく張り替えられたらしい木製の縁側が陽光を浴びて淡い光沢を放っているばかり。
どこからどう見ても、人里離れた山奥でひっそりと暮らす貧民か、世捨て人のあばら家にすぎなかった。
「これが……古代神獣を操り、国家転覆を企む魔女の根拠地だと? 笑わせてくれる」
エティエンヌの口元が、歪んだ嘲笑の形に引き攣った。
領主代行のローランや、あの筋骨隆々の警備隊長ギルバートが、青ざめた顔で「手ぶらで行け」「神獣の怒りで国が滅びる」などと必死に警告してきた姿を思い出すだけで、腹の底から滑稽な笑いが込み上げてくる。
所詮は田舎者どもだ。
山奥の奇妙な現象や、偶然迷い込んだ野生動物の威容に腰を抜かし、勝手に神話の怪物を重ね合わせて怯えていただけなのだ。中央の洗練された魔導体系に触れたこともない無能どもが、恐怖を紛らわせるために「調停者」などという大層な神輿を担ぎ上げ、貢ぎ物で媚び諂っていたにすぎない。
「全兵、魔導槍の安全弁を解除。索敵魔方陣を展開せよ。……屋内の不穏分子を燻り出す」
エティエンヌの冷徹な命令を受け、十名の魔術兵が一斉に杖を掲げた。
淡い青紫色の索敵パルスが、波紋のように平屋の建物へと放たれる。
壁を透過し、屋根裏を走査し、床下の空間を網羅する魔力の波。
しかし――。
「報告! 生体反応、感知されません!」
「屋内に人間の気配なし! ……完全に、無人です!」
兵士たちの困惑した声が返ってきた。
エティエンヌは眉をピクリと動かし、自らも胸元のペンダントに指を触れて魔力探査の感覚を研ぎ澄ませた。
確かに、人の息遣いがない。
台所のかまどの火は消え、居間の火鉢には灰が被せられ、生活の残熱だけが微かに漂っている。
「……逃げ出したか」
エティエンヌは吐き捨てるように呟き、深く鼻を鳴らした。
進軍の喇叭を鳴らし、街道を堂々と行軍してきたのだ。その物々しい響きを聞きつけ、山奥に潜んでいた小娘が恐怖のあまり裏山へと逃げ散ったとしても不思議ではない。
あるいは、領主館の腰抜けどもが事前に密使でも走らせて逃亡を促したのか。
「所詮はその程度の小娘よ。神獣を使役する調停者などと、口先だけのペテン師が。……王都直轄魔導軍団の足音を聞いただけで、尻尾を巻いて遁走するとはな。手間を取らせおって」
エティエンヌの胸中に、手応えのなさからくる苛立ちと、それ以上の優越感が広がった。
戦うまでもない。姿を現す度胸すらない矮小な存在。
こんなあばら家など、自らの放つ業火の呪文一つで灰燼に帰してやれば、反逆の証拠隠滅を口実に領主フォレスト家を完全に失脚させることができる。
手柄は確定したようなものだった。
だが、その時。
「……閣下、あれを」
傍らに控えていた副官の魔術兵が、庭の東側、古民家の脇に立つ一本の大樹を指差した。
葉をすっかり落とした山柿の木。
枝先に残された小ぶりな橙色の実のすぐ隣、細い小枝の先端に――何かがいた。
「ん……?」
エティエンヌは銀縁眼鏡の奥の焦点を絞り、その枝先へと視線を向けた。
そこに止まっていたのは、一羽の小さな鳥であった。
大きさは、街の路地裏や庭先で見かける雀と大差ない。
丸々とした可愛らしい体躯に、ふんわりと膨らんだ綿毛のような羽毛。
ただ、その色彩は異様だった。
陽光を浴びるその羽毛は、まるで最高品質の金糸を紡ぎ合わせたかのように眩い鮮黄色を放ち、頭頂部から背中にかけては、淡い山吹色のグラデーションが走っている。そして、雀にはあるはずのない、優美に長く伸びた二本の尾羽が、晩秋の乾いた風に揺れて、サラサラと絹のリボンのように揺らめいていた。
小鳥――ピピは、軍勢に包囲されていることなど露ほども気にしていない様子だった。
細いくちばしを胸元に突っ込んで器用に羽繕いをし、時折、パタパタと短い翼を羽ばたかせて羽毛を膨らませる。
そして、黒真珠のような小さな丸い瞳をクリクリと動かし、首を右へコテン、左へコテンと傾げながら、眼下に整列する物々しい銀色の兵士たちを、まるで珍しい虫の行列でも眺めるかのように、呑気に見下ろしていたのである。
「ピピッ♪」
鈴を転がすような、あまりにも場違いな愛らしい囀りが、静まり返った庭先に響き渡った。
「鳥……? ただの野鳥か?」
副官が拍子抜けしたように呟く。
「……待て」
エティエンヌは片手を挙げ、副官を制した。
その瞳が、獲物を狙う蛇のように細く引き絞られる。
エリート宮廷魔術師としての鋭敏な感覚が、その小鳥の放つ「微細な違和感」を捉えていた。
一見すれば、ただの黄色い小鳥だ。
だが、注視すればするほど、その輪郭の周囲の大気が、まるで真夏の陽炎のように微かに歪んでいるのが見て取れる。
風が吹くたび、長く伸びた尾羽の先端から、肉眼では辛うじて捉えられるかどうかの、極めて微細な黄金色の光の粒子が、火の粉のようにパラパラと零れ落ちては虚空へと溶けて消えているのだ。
さらに、その尾羽が揺れるたび、肌を刺すような微弱な魔力の波長が、エティエンヌの魔力感知器官をチリチリと刺激していた。
「……なるほど。そういうことか」
エティエンヌの口元に、冷徹な計算が宿った。
「逃げ出した小娘の、使い魔だな」
「使い魔、でありますか?」
「そうだ。あの尾羽の魔力光を見ろ。何らかの遠隔視覚魔法、あるいは術者への通信術式が組み込まれている。あの小娘は、山奥へ身を隠しながら、あの鳥の目を介して我々の動きを監視しているのだ。下等な魔女がよく使う、小賢しい姑息な手口よ」
エティエンヌは自らの推理の完璧さに、満足げな笑みを深めた。
神獣フェンリルだの、冥界獣キマイラだのといった大層な怪物は、影も形もない。
残されていたのは、逃走した術者が置いていった、連絡用のちっぽけな雑鳥が一羽。
これが、あのフォレスト領主たちが震え上がっていた現実の正体なのだ。
「ふん……まずはあの雑鳥を捕獲し、その魔力回路を強制解析してやる。術者の潜伏先など、我が輩の手にかかれば数分で逆探知できるわ」
エティエンヌは愛用の黒檀の魔導杖を右手に握り直した。
杖の頭部に嵌め込まれた深紅の魔導鉱石が、術者の昂揚に呼応するように、ドクン、ドクンと怪しげな光を明滅させ始める。
「閣下、ただの小鳥であれば、弓兵に射落とさせますか?」
副官の問いに、エティエンヌは侮蔑の眼差しを向けた。
「愚か者が。物理的に破壊してしまえば、術式回路の解析ができんだろうが。……我が輩が直々に、最高位の捕縛結界を以て生け捕りにしてやる。中央の魔導の緻密さ、その目に焼き付けておくがいい」
エティエンヌは小道から庭先へと、傲慢な足取りで一歩を踏み出した。
その足元、手入れされた黒土を黒革のブーツが踏み躙る。
柿の木の枝の上で、ピピが再び「ピピ?」と小首を傾げた。逃げ出そうともせず、ただ興味深そうに、自分へ向かって杖を突きつけてくる派手な服の人間を見つめている。
「無知なる獣め。己が何に狙われているかも分からんとは、哀れなものだな」
エティエンヌは冷笑を浮かべ、魔導杖を天へと掲げた。
深呼吸を一つ。
肺腑に魔力を充填し、王都の最高学府で選ばれし者のみに伝承される、最上位古代魔導捕縛結界の長大な詠唱を開始した。
「――虚空を統べる紫電の鎖よ、我が理知の命に従い、天蓋の檻を編み上げよ」
エティエンヌの口から紡ぎ出されたのは、厳格にして重々しい古代語の呪文であった。
その声が空気を震わせた瞬間、平屋を取り囲んでいた晩秋の長閑な空気が、一変して禍々しい紫色へと染まり始めた。
バチッ、バチチッ……!
乾いた紫色の雷光が、エティエンヌの杖の先端から四方へと迸る。
大気が激しく軋みを上げ、地面の小石が重力を失ったかのようにフワリと浮き上がる。
エティエンヌの背後に控える五十名の魔術兵たちが、その圧倒的な魔力密度に息を呑み、畏怖の眼差しで自らの指揮官を見つめていた。
さすがは史上最年少の主席宮廷魔術師。展開される術式の規模と緻密さは、地方の魔術師など束になっても届かない次元の高さであった。
「――逃走の理を断ち、抵抗の脈動を縛り、対象の魔力核を零へと圧し折れ!」
エティエンヌの詠唱が熱を帯びていく。
風が吹き荒れ、彼の濃紺のローブを激しく羽ばたかせた。
柿の木の上空――地上十メートルほどの空間に、直径五メートルにも及ぶ巨大な多重魔法陣が、眩い紫色の雷光とともに虚空へと焼き付けられた。
魔法陣の幾何学模様は、まるで精密な歯車のように互いを噛み合わせ、複雑な回転を繰り返しながら、中心部へと凄まじい質量の大気圧を凝縮させていく。
それは、並の大型魔獣であれば、展開された余波だけで全身の骨を圧迫粉砕されるほどの、絶対捕縛の領域展開。
紫色の雷光が、パキパキと音を立てて柿の木の梢を焦がし始めた。
枝先に残っていた橙色の柿の実が、雷圧の熱でジューッと音を立てて表面を黒く変色させていく。
しかし――。
その絶対の死線、雷光の檻の真下に囚われているはずの黄色い小鳥は。
「ピ……?」
ピピは、頭上に展開された紫色の巨大な魔法陣を、丸い瞳で見上げていた。
逃げ惑うことも、怯えて羽を震わせることもない。
ただ、自らの頭上で騒がしくパチパチと音を立てる紫色の光を、まるで「なんだか目障りな光の玩具だな」とでも言いたげな、心底から退屈そうで、不機嫌そうな眼差しで見つめていたのだ。
その小さな黒い瞳の奥底で、かつて霊峰の頂を数千年間照らし続けた、神聖なる原初の紅蓮の光が――静かに、琥珀色の火花となって小さく爆ぜたのを、エティエンヌは気づかない。
「終わりだ、雑鳥め! 我が檻の中で、己の無力さを呪うがいい!!」
エティエンヌは狂気じみた勝利の笑みを浮かべ、杖を振り下ろした。
紫色の魔法陣の中心から、雷光を纏った幾十本もの魔導の鎖が、獲物を捕食する大蛇のように、一斉にピピの小さな体へと向けて射出された。
「――【神聖雷光捕縛檻】、収束せよッ!!」
エティエンヌの傲慢な叫び声が、山奥の庭先に轟き渡った瞬間。
世界の理を完全に踏み外したエリート魔術師の運命は、取り返しのつかない終末の扉を、自らの手で勢いよく押し開けていたのであった。




