第40話:マルタおばあちゃんの畑と、泥つき大根の恵み
山肌を染め上げていた紅葉が散り敷き、木々の梢が冬の青空を透かして見えるようになった晩秋の朝。
庭の隅の山柿の木はすっかり葉を落とし、残された橙色の実をついばみに来た野鳥たちの羽音が、カサリと小気味よく響いていた。
古民家の台所では、朝の片付けを終えたマノン・デュランが、麻のエプロンを外して身支度を整えていた。
動きやすい生成りの木綿シャツの上に、祖母の手編みである鶯色のウールベストを重ねる。足元には厚手の靴下と、履き慣らして革の柔らかくなった茶色の短靴。そして壁の竹釘から下ろしたのは、細く割いた青竹を丁寧に編み込んだ、深型の大きな背負い籠であった。
肩紐を通す麻の帯には、重い荷物を背負っても肩に食い込まないよう、古布を幾重にも縫い合わせた柔らかな当て布が当てられている。背負ってみると、キシリと竹が鳴り、背中に心地よいしなりが伝わってきた。
「さてと……お留守番、お願いできるかしら」
マノンが居間に向かって声をかけると、火鉢の前の特等席から、二つの丸い影が反応した。
ウッドデッキに敷いた藁座布団の上では、白猫のタマが豪快に横倒しになり、太い純白の四肢を無防備に投げ出していた。マノンの声にピクリと片耳を動かし、細めた金色の瞳をわずかに開けて「グルルゥ……」と甘えたような低い喉鳴らしを漏らす。お腹の毛並みは朝のブラッシングのおかげで綿飴のようにふわふわで、日だまりの温もりを吸い込んでほんのりと温かい。
その隣の敷炭の箱の影では、黒猫のクロが前足を胸元に器用に折り畳み、端正な香箱座りを決めていた。相変わらず片耳の欠けた目つきの鋭い顔立ちだが、マノンと目が合うと、太い鍵尻尾の先をパタン、パタンと二度だけ床に打ちつけてみせた。
そして、梁の隙間に吊るされた乾燥ハーブの束の間からは、黄色い小鳥のピピがひょっこりと顔を覗かせ、「ピピッ♪」と鈴を転がすような短い囀りを返してくれた。
「ふふ、みんなのんびりしていて羨ましいわね。麓のマルタおばあちゃんのところへ行って、お野菜を分けてもらってくるわ。お昼過ぎには戻るから、喧嘩しないでいい子にしているのよ」
マノンは火鉢の炭が爆ぜて外へ飛び出さないよう、真鍮の火消し蓋を少しだけずらして空気穴を狭め、土間の引き戸を静かに引いた。
カチリ、と外掛けの木製閂が下りる。
平屋に残された三匹の神獣たちが、主の足音が門を離れていくのを合図に、それぞれ静かに目を細めて日向ぼっこの二度寝へと落ちていくのを、マノンは長閑な気分で見守りながら歩き出した。
まさかその数刻後、王都の主席宮廷魔術師率いる完全武装の軍勢が、自らの留守を狙ってこの平屋を包囲しようとしているなどとは、露ほども知らずに。
***
山裾から麓の開拓村へと下る小道は、昨日の雨を吸った落葉が幾重にも敷き詰められ、まるで分厚い絨毯の上を歩いているかのように柔らかかった。
ざくっ、ざくっ、と靴底が湿った枯葉を踏みしめるたび、熟成した腐葉土の濃密な香りと、雨上がりの澄んだ冷気が鼻腔をくすぐる。
木立の隙間からは、晩秋の柔らかな陽光が幾筋もの光の帯となって差し込み、風に揺れる木々の影が地面に美しい縞模様を描いていた。
「〜〜♪ 〜〜♪」
マノンは背負い籠の肩紐を両手で軽く握り、自然と口元から零れ出る鼻歌に歩調を合わせていた。
王都の薬舗で働いていた頃は、道を歩くことすら苦痛でしかなかった。石畳を急ぎ足で行き交う馬車の車輪の軋み、泥水を跳ね上げる荷車、すれ違う人々の苛立ちに満ちた視線。四六時中、頭痛と胃痛に苛まれ、足元ばかりを見て俯いて歩いていたあの日々。
それに比べれば、小鳥のさえずりと風の音しか聞こえないこの山道は、歩いているだけで胸の奥が洗われるようだった。
道端には、遅咲きの野紺菊が淡い紫色の可憐な花を咲かせ、藪の奥にはルビーのように赤く透き通ったカラスウリの実が、蔓にぶら下がって陽光を浴びている。
「あ、あそこの木、山栗がまだ落ちているかしら。帰りに少し拾っていこうかしらね」
そんな他愛のないことを考えながら、緩やかな尾根沿いの小道を下ること半刻ほど。
雑木林がふっと途切れ、視界が一気に開けた。
そこは、霊峰の南斜面に拓かれた、すり鉢状の小さな開拓集落の奥庭であった。
石垣で段々に組まれた段々畑には、黒々とした豊かな土が耕され、その中央に、茅葺き屋根のこぢんまりとした平屋がぽつんと佇んでいる。
軒下には干し大根や唐辛子の束が幾重にも吊るされ、庭先の小さな土竈からは、細い青い煙がまっすぐに秋空へと立ち上っていた。
「マルタおばあちゃーん、こんにちは!」
マノンが生垣の木戸を開けて声をかけると、畑の畝の間で腰を丸めていた小柄な人影が、よっこいしょ、と声を上げて顔を上げた。
日に焼けた深い皺の刻まれた顔に、藍染めの手ぬぐいを姉さん被りにした古老――マルタであった。
七十代半ばを越えてなお足腰は達者で、手にした草削り鍬を地面に突き立てると、梅干しのようにくしゃりと顔を綻ばせて笑った。
「おお、マノンちゃんかい! よく登ってきたねぇ。ちょうど今、あんたに持たせてやろうと思って畑を弄っていたところだよ」
「お天気が良くて気持ちがよかったので、お散歩がてら歩いてきちゃいました。……これ、昨日焼いたんですけれど、よかったらお茶請けに召し上がってください」
マノンは背負い籠の底から、清潔な麻布で包んだ平たい小箱を取り出して手渡した。
包みを開けると、中には狐色に香ばしく焼き上がった厚焼きのスコーンが並んでいる。昨晩、ヴェロニカから安く譲ってもらったあの特級熟成干し肉の端切れを細かく刻み、庭のローズマリーと黒胡椒を練り込んでオーブンで焼き上げた、甘くない食事用のセイボリースコーンであった。
「まあまあ、いい匂いだこと! あんたの焼く粉菓子は、そこらの宿場のパン屋なんぞ足元にも及ばないくらい美味いからねぇ。爺さんの仏壇に供えてから、ありがたくいただくよ」
マルタは皺だらけの手で嬉しそうに包みを受け取ると、腰の籠に大切に収めた。
そして、履いていた藁草履の泥をトントンと落とし、手招きをした。
「さあ、おいで。初霜が降りて葉っぱが萎れちまう前に、一番太いやつを抜いちまおう。今年の土は夏場にしっかり肥やしを入れたからね、見事な出来だよ」
「わあ、楽しみです!」
マノンは背負い籠を庭の井戸端に下ろし、手袋をはめてマルタの後に続いて畑の畝へと足を踏み入れた。
ふかふかとした黒土は、歩くたびに足裏を柔らかく押し返してくる。
畝の上に整然と並んでいるのは、大人の腕ほどもある青々とした大根の葉の群生であった。ギザギザとした切れ込みのある葉は、太陽の光を浴びてピンと空へ向かって伸び、葉脈の隅々まで瑞々しい水分を湛えている。
その根元、盛り上がった黒土の隙間から、まるで腕相撲を挑んでくるかのように、真っ白で太い大根の首が十数センチも土の上へと顔を突き出していた。
「ほら、これなんかどうだい。首のところが綺麗な黄緑色になって、肌に艶があるだろう? 下が太くてずんぐりしているやつが、甘みが乗ってて一番美味いんだよ」
マルタが指差した一本は、マノンの太ももほどもある見事な太さの大根であった。
土の上に露出した白い肌には、朝露が玉になって光っている。
「抜いてみてもいいですか?」
「おうともさ。大根を抜くときはね、斜めに引っ張っちゃいけないよ。途中でポキリと折れちまうからね。葉っぱの付け根を両手でしっかり束ねて、腰を落として、真上へ向けて息を合わせて引くんだ」
「はい……!」
マノンは大根の前にしゃがみ込み、生い茂る葉の根元へと両手を深く差し入れた。
触れた葉の茎は、冷たい朝露に濡れて引き締まり、微かな産毛が手袋越しに心地よい摩擦を伝えてくる。
ぎゅっと根元を握り締め、膝を曲げて腰を落とす。
「ふん……っ!」
息を吐きながら、真上へとぐっと腕と背筋に力を込める。
ググッ……ズズズッ……。
黒土が大根の肌を締め付ける、重たい抵抗感。
大地の奥底にしっかりと根を張った野菜の、力強い生命の重みが両腕にずっしりとかかる。
さらに一息、ぐっと膝を伸ばした瞬間――。
――ズボォッ!!
まるで湿った土が息を吐き出したかのような、豪快にして痛快極まりない破裂音が畑に響き渡った。
「わっ……!」
勢い余って後ろによろけそうになったマノンの腕の中に、信じられないほどの質量を持った大根が飛び込んできた。
抜けた。
土の底から引きずり出されたばかりの大根は、先端まで見事に太く、まっすぐに伸びていた。表面にはまだ湿り気を帯びた黒土がびっしりとこびりつき、細い白い髭根がピピッと四方に広がっている。
引き抜かれた瞬間の穴からは、掘り起こされたばかりの土の甘い芳香と、大根の瑞々しく青い辛味が、湯気のようにふわりと立ち上った。
「うわあ……っ! 重たい……! ずっしりとしていて、本当に立派ですね!」
マノンは泥がシャツにつくのも構わず、両腕で大きな大根を抱きかかえ、満面の笑顔で声を弾ませた。
腕に伝わってくるのは、ひんやりとした大地の冷気と、水分を極限まで吸い上げた野菜のずっしりとした手応え。
王都の八百屋の店先で、葉を切り落とされ、泥をきれいに洗い流されて萎びかけていた痩せた大根とは、まるで別の生き物のようだった。
「ひゃっひゃっ、いい音を立てて抜けたねぇ! 見事なもんだ。あんたは手先が器用なだけじゃなくて、筋もいい。……ほら、もう二本ばかり抜いていきな。背負い籠なら三本は入るだろう」
「ありがとうございます! こんなに立派な大根、冬の間のお料理が楽しみになっちゃいます!」
マノンは夢中になって、さらに二本、太く育った大根を引き抜いた。
ズボッ、ズボッ、と土から抜けるたびに、心地よい達成感が胸を満たしていく。
三本の大根を並べると、それだけで畑の片隅が豊かな収穫の祭壇のようになった。
***
井戸端へ戻り、汲みたての冷たい地下水で、大根の表面の泥を大まかに洗い落とす。
ざぶざぶと木桶の中で洗うたび、泥のベールが剥がれ落ち、下から透き通るような純白の肌が現れた。葉先を軽く払うと、青々とした葉の間から弾け散った水滴が、秋の木漏れ日を浴びてキラキラと輝く。
「さ、冷たい水で手が冷えただろう。縁側でお茶にしよ」
マルタに促され、二人は南向きの小さな縁側へと腰を下ろした。
使い込まれた木の一枚板の縁側は、長年の日差しと煤で飴色に光り、座るとじんわりとした温もりを返してくれる。
マルタが土竈の鉄瓶から注いでくれたのは、素焼きの湯呑みから立ち上る、深く香ばしい湯気であった。
「ドクダミとスギナ、それに焙じたハトムギと柿の葉を刻んで煎じたお茶だよ。山の手入れをしながら摘んで干しておいたのさ。苦みはあるが、身体の芯の毒気を綺麗に流してくれるんだ」
「いただきます」
マノンは両手で湯呑みを包み、ふう、と息を吹きかけてすすった。
喉を通る瞬間に広がるのは、野草特有の素朴な渋みと、深く焙煎された穀物の芳醇な香ばしさ。
薬舗時代に扱っていた高価な精製生薬とは違う、大地の力そのものを煮出したような、野趣あふれる滋味。
温かい液体が食道を滑り落ち、胃の腑に届いた瞬間、畑仕事で少し強張っていた肩の筋肉が、スーッと解きほぐされていくのが分かった。
「……ふう。美味しい……。身体の奥まで染み渡るようです」
「そうかい、気に入ってくれてよかったよ」
マルタはお茶を啜り、目を細めて縁側の前に広がる山並みを眺めた。
「大根はねぇ、捨てるところが一つもない野菜だからね。実を食べるのはもちろんだけど、マノンちゃん、その葉っぱをどう料理するか、知ってるかい?」
「はい! 祖母から教わったんです」
マノンは膝の上に置いた湯呑みを撫でながら、楽しげに語り始めた。
「大根の葉っぱはね、新鮮なうちに細かく刻んで、少し塩を振って水気をギュッと絞るんです。それから、熱したフライパンに胡麻油を引いて、ジャッと強火で炒めるんですよ。水分が飛んでパラパラになってきたら、お醤油と少しのお砂糖、それにたっぷりの炒り胡麻を絡めて……仕上げに鰹節や、もし手に入れば細かく刻んだ干し肉を少しだけ加えるんです」
「ほうほう!」
マルタが感心したように相槌を打つ。
「そうするとね、香ばしくて甘辛い、最高のご飯のお供になるんです。炊きたての白いご飯の上にたっぷりのせて食べると、葉っぱのシャキシャキした歯ごたえと胡麻油の香りで、何杯でもご飯が進んじゃうんですよ。王都にいた頃、食欲がない時でも、これだけは不思議と喉を通ったんです」
「いいねぇ、聞いただけで涎が出そうだ」
マルタは皺を深くしてカラカラと笑った。
「流石はマノンちゃんだ。若いのに、ちゃんと昔ながらの知恵を大切にしている。……実の方はどうやって食べるんだい?」
「今日みたいに採れたての瑞々しい大根なら、まずは厚めに輪切りにして、面取りをして、隠し包丁を入れてからコトコト煮物にしたいですね」
マノンは指先で宙に丸を描きながら、頭の中で台所の鍋を思い浮かべた。
「お米のとぎ汁で下茹でして透き通るまで柔らかくしたら、井戸水でさっと洗って。昆布と干し椎茸の出汁に、お醤油とお酒、それに少しの生姜を効かせて、弱火でじっくり煮含めるんです。火を止めて一度冷ますと、味が芯までギュッと染み込んで……食べる前にもう一度温め直すと、箸を当てただけでホロリと崩れるくらい柔らかくなるんです。仕上げに、柚子の皮の千切りをちょこんと乗せたら、冬のご馳走ですね」
「おお、そいつはたまらないねぇ。大根ってのは、煮崩れる寸前の、出汁をたっぷり吸い込んで重たくなったところが一番美味いんだ。皮も捨てちゃいけないよ。厚めに剥いた皮は、細切りにして天日に半日干してから、鷹の爪と一緒にきんぴらにすると、コリコリして酒の肴にも飯の友にも最高さ」
「まあ! 干してからきんぴらにするんですね! 水分が抜けて味が染み込みやすくなりそう。今夜早速試してみます!」
二人は湯呑みを傾けながら、他愛のない料理談義に花を咲かせた。
干し柿の揉み方、冬白菜の保存法、味噌の天地返しの時期。
誰の悪口も、権力の争いも、仕事のノルマもない。
ただ、目の前にある恵みをいかに美味しくいただき、身体を健やかに保ち、冬を暖かく乗り切るかという、慎ましくも豊かな暮らしの知恵の交換。
マノンにとって、この縁側で過ごす時間こそが、王都での激務で傷つき乾ききっていた魂を潤してくれる、何物にも代えがたい特効薬であった。
「……おや?」
ふと、マルタが茶碗を止め、北側の山裾へと視線を向けた。
風の向きが変わったのか、北の山林の上空から、一陣の冷たい突風が吹き下ろしてきたのだ。
バサバサバサッ、と遠くの尾根の木々から、驚いた山鳥たちが群れを成して一斉に飛び立ち、南の空へと逃げ去っていくのが見えた。
風の中に、かすかに混ざり合っていたのは――金属が擦れ合うような冷たい気配と、微かな魔力のざわめき。
「山の鳥たちが、えらい騒ぎようじゃないか。……風が荒れるかねぇ」
マルタが眉をひそめて呟いた。
マノンも湯呑みを持ったまま、北の空を見上げた。
確かに、自分の平屋がある方角の木立が、ざわざわと落ち着かなそうに揺れている。
「あら、本当ですね。……でも、雨雲は出ていないみたいですし、急な木枯出かしら。山の天気は変わりやすいですからね」
マノンは呑気に首を傾げ、手元の湯呑みの最後の一口を飲み干した。
まさか今この瞬間、自分の愛する平屋の庭先が、王都の魔術軍団によって完全包囲され、柿の木の上で日向ぼっこをしていたピピに向かって、傲慢な魔導捕縛陣が展開されようとしているなどとは、夢にも思わずに。
「さて! あんまり長居して、お留守番の猫たちが拗ねちゃったら大変ですものね。そろそろお暇しますね」
マノンは立ち上がり、井戸端に置いてあった竹背負い籠を背負い直した。
籠の中には、泥を洗ったばかりの太い大根が三本、青々とした立派な葉を勢いよく広げて収まっている。ずっしりとした重みが両肩にかかるが、それは豊かさと幸福の重みであった。
「気をつけてお帰り、マノンちゃん。大根の葉っぱ、黄色くならないうちに刻んじまうんだよ」
「はい! マルタおばあちゃん、ごちそうさまでした! またお茶を飲みに来ますね!」
マノンは元気に手を振ると、重たい大根の籠を背負いながら、軽やかな足取りで山道へと踏み出した。
頭上には、澄み渡る晩秋の青空。
鼻歌を口ずさみながら、夕飯の大根料理の献立に胸を躍らせるマノンの足取りは、どこまでも長閑に、そしてまっすぐに、これから神話の厄災とエリート魔術師の衝突によって阿鼻叫喚の地獄絵図と化すであろう、自らの我が家へと向かっていたのであった。




