第36話:親戚のアル君と、不可侵聖域の完成
領主館の最上階、重厚な絨毯が敷き詰められた執務室の窓ガラスを、激しい秋雨が斜めに叩き続けていた。
暖炉の薪はパチパチと乾いた爆ぜる音を立て、室内には良質な蜜蝋の蝋燭の甘い香りが満ちている。本来であれば、領主代行であるローラン・ド・フォレストが最も集中して執務に没頭できる、静謐な夕暮れ時の風景であるはずだった。
だが、その静寂は、無遠慮に開け放たれた扉の軋み音によって無残に引き裂かれた。
「……ローラン様」
部屋の入口に立ち尽くしていた人影を認めた瞬間、ローランの手から羽根ペンがポロリと滑り落ち、書きかけの決算書の上に濃いインクの染みを作った。
「ギ、ギルバート……!? 貴様、一体どうしたというのだ、その無様な姿は……!」
ローランが椅子を蹴立てて立ち上がるのも無理はなかった。
そこに立っていたのは、王国屈指の剛勇として国内外に武名を轟かせる辺境警備隊長、ギルバート・アルノーその人であった。
しかし、その威容は見る影もなく崩壊していた。
二メートル近い巨躯を包む牛革のレインケープは泥水にまみれ、まるで激流にでも呑まれたかのように頭から爪先までぐっしょりと濡れそぼっている。短く刈り込んだ濃密な髪からは絶え間なく冷たい雨水が滴り落ち、絨毯の上に黒い水たまりを広げていた。
何より異様だったのは、その表情であった。
数々の修羅場をくぐり抜け、どんな強大な魔獣を前にしても眉一つ動かさなかった歴戦の猛者が――まるで、この世の理がすべて裏返る瞬間を目撃してしまったかのように、瞳の焦点を完全に失い、白く抜けた顔で呆然と虚空を見つめていたのである。
「ギルバート! 敵襲か!? 山で何があった! 神獣が暴れ出したのか!?」
ローランは机を迂回し、泥に濡れるのも構わずギルバートの肩を力任せに揺さぶった。
背後で控えていたセリア副隊長もまた、顔色を変えて駆け寄ってくる。
「隊長! しっかりしてください! 愛用の双眼鏡はどうされたのですか!? 怪我を負われたのですか!?」
「……セリアか」
ギルバートの唇が、乾いた音を立てて微かに動いた。
首をぎこちなく傾げ、まるで錆びついた甲冑のように緩慢な動作でローランとセリアを見下ろす。
「……双眼鏡は、落とした。泥の中に、な。……拾う気力も、起きなかった……」
「な……!?」
ローランの背筋に、氷の刃を突き立てられたような悪寒が走った。
あの武骨で道具を何より大切にするギルバートが、愛用の観測機器を泥に捨てて逃げ帰ってきたというのか。それほどの恐怖、それほどの絶望が、あの山奥の平屋で起きたというのか。
「報告しろ、ギルバート!」ローランは声を荒らげた。「何を見たのだ! 包み隠さずすべてを話せ!」
ギルバートは濡れた両手を持ち上げ、自らの顔を乱暴に覆った。
指の隙間から、掠れた、呻き声のような息が漏れ出る。
「……信じてもらえんだろうが、ありのままを話す」
ギルバートは虚ろな瞳のまま、絞り出すように語り始めた。
「屋根の上に……人影があったのだ。あの平屋の、北側の屋根の傾斜にな。雨漏りがしていたらしい。……立っていたのは、二十歳前後の銀髪の青年だった」
「青年だと?」ローランは眉をひそめた。「あそこにはマノン殿一人しか住んでいないはずだ。王都からの刺客か? それとも不審な侵入者か?」
「違う……! 断じて違う!」
ギルバートの声が裏返り、巨躯が激しく震えた。
「あいつの全身から立ち上っていたのは……絶対零度の神威そのものだった。……あの金色の双眸、あの凍結の波動。間違いない……普段、縁側でマノン殿に腹を梳かれ、涎を垂らしているあの巨大な白猫――古代神獣『霜狼神フェンリル』の化身だ!!」
「なっ……!?」
セリアが息を呑み、胸元を押さえた。
ローランの眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれる。
「フェンリルの……化身!? 神獣が、人の姿をとって現れたというのか!?」
「そうだ」ギルバートは悪夢を反芻するように首を横に振った。「だが……本当の地獄はそこからだ。神獣は、咆哮するでもなく、領都を凍らせる術を編むでもなかった。……割れた平瓦を自らの手で持ち上げ、その絶対零度の神気を用いて……寸分の狂いもない『氷の補修瓦』を錬成し、雨漏りの隙間へと器用に填め込んだのだ」
「……は?」
ローランの口から、間抜けな呼気が漏れた。
「大工仕事だ」ギルバートは泣きそうな顔で続けた。「神話の厄災が、自ら屋根に登って雨漏りの修繕を行っていたのだ! ガスパールすら慄いたあの巨獣が、器用に瓦の噛み合わせを調整し、隙間を凍らせてシーリングしていたのだぞ!?」
「ま……待て、ギルバート」ローランはこめかみを押さえ、必死に理性を保とうとした。「落ち着け。幻覚魔法の類に当てられたのではないか? 神獣が日曜大工など……そんな莫迦な話があるはずが……」
「莫迦な話はまだ終わらん!!」
ギルバートは絶叫に近い声を上げた。
「勝手口から、マノン殿が出てきたのだ! エプロン姿で手ぬぐいを振り回しながら、屋根の上のフェンリルに向かって、こう叫んだのだ!
――『アル君ーー! 終わったら温かい生姜湯淹れてあげるからねー!』――とな!!」
「………………」
執務室の空気が、完全に凍結した。
暖炉の火の爆ぜる音すら、どこか遠い世界の出来事のように思えるほどの、圧倒的な静寂。
「アル……君……?」
セリアが、魂の抜けたような声で呟いた。
「そうだ、アル君だ!」ギルバートは両手で己の頭を抱え込んだ。「あの孤高にして冷酷なる絶対零度の王が、マノン殿に『アル君』と呼ばれた瞬間、不器用そうに耳を赤くして頷き、屋根から飛び降りたのだ! そしてマノン殿の前に大人しく頭を差し出し、手ぬぐいでガシガシと犬のように頭を拭かせ、文句一つ言わずに土間へと招き入れられ……二人で仲良く生姜湯をすすっていたのだぞッ!!」
ギルバートの告白は、そこで途切れた。
これ以上言葉を紡げば、己の精神の最後の防壁が決壊してしまうと本能が知っていたからだ。
二メートルの巨漢が、濡れた床に膝をつき、肩を震わせて項垂れている。
ローランは動かなかった。
ただ、窓の外へとゆっくりと視線を向けた。
雨脚の向こうに煙る、北の山並み。
世界の均衡を覆す三代厄災が群れ集い、その頂点に君臨する神獣フェンリルが、人の姿をとって屋根を直し、小娘の手作りの生姜湯をすすって照れているという、あまりにも狂気じみた聖域。
(……神獣が、人の姿となり……)
ローランの頭蓋の中で、何重にも張り巡らされていた政治的計算、軍事的策略、領主としての防衛計画が、音を立てて砂のように崩れ去っていった。
妹レオノールがツヤツヤの肌で持ち帰ってきた、奇跡のスコーン。
偏屈大工ガスパールが涙を流して生涯を捧げた、無音のウッドデッキ。
そして今、世界を滅ぼす氷狼が、屋根の雨漏りを直して手ぬぐいで頭を拭かせているという現実。
敵対など論外。
服従すら生ぬるい。
あそこにあるのは、人間のちっぽけな権力や武力、あるいは国家という枠組みなど、最初から何の意味もなさない、完全に隔絶された別次元の「調停の領域」なのだ。
「……ローラン様?」
青ざめたセリアが、恐る恐る声をかける。
ローランは静かに息を吸い込んだ。
眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
その瞳から、ここ数ヶ月間彼を苛み続けていた焦燥、恐怖、疑念の影が、完全に消え去っていた。
まるで、深い吹雪の夜を抜けて、雲一つない満天の星空を仰ぎ見た巡礼者のような――澄み切った、完全なる「悟り」の光が、そこには宿っていた。
「……神獣が人の姿となり、小間使いのように仕えているのだな」
「はっ……」ギルバートが泥まみれの顔を上げる。「マノン様は彼を『親戚のアル君』と呼び、手作りの生姜湯を振る舞っておられました……」
「もうよい」
ローランは穏やかに、けれど絶対の確信を込めて首を横に振った。
「すべてを理解しようとするな」
「……は?」
「理解しようとするから、心が壊れるのだ」
ローランは自らの執務机へと戻り、インクで汚れた決算書を脇へ退けると、領主の最高権限を示す純白の特注羊皮紙を中央に広げた。
「あのお方が何者であるか、なぜ神獣たちが喉を鳴らし、雨漏りを直しているのか。そんな人知を超えた神の領域を、我ら矮小な人間が推し量ろうとすること自体が、神威に対する最大の冒涜なのだ」
ローランは新しい羽根ペンを手に取り、朱色の封蝋用インクに浸した。
迷いのない、流麗にして力強い筆跡が、羊皮紙の上に神聖なる布告を刻みつけていく。
「ローラン様、それは……?」
セリアの問いに、ローランは顔を上げず、研ぎ澄まされた声で告げた。
「全軍、および領内全域への最高機密通達だ。各ギルド、町役場、警備隊のすべての詰所へ、即時発効の絶対遵守事項として布告する」
ペン先が走り、羊皮紙の末尾に、フォレスト辺境伯家の紋章印が、真紅の蝋とともに力強く圧された。
『――フォレスト領主代行令:
北の山裾、マノン・デュラン閣下の屋敷を中心とする一帯は、世界の均衡を司る【不可侵聖域】である。
何人たりとも、武器を携えて足を踏み入れることを禁ず。
何人たりとも、あのお方の慎ましき平穏を乱すような調査、接触、詮索を行うことを禁ず。
領民および騎士団は、あのお方の望む平穏をただ影より支え、誠意をもって接せよ。
誠意をもってあのお方に接する者には、神の慈悲が与えられるであろう――以上』
ローランは息を吹きかけ、インクを乾かした。
その顔には、領地を守り抜く責任を背負いながらも、絶対の守護神を得た男の、清々しい覚悟が漲っていた。
「セリア。この布告を直ちに複製し、領内全域へ回覧させろ」
「ははっ!」
「そしてギルバート」ローランは床に座り込む大男を見つめ、柔らかく微笑んだ。「湯を浴びて、暖かい服に着替えろ。今夜の夕食には、レオノールが持ち帰ったあのマノン殿特製の保存食……干し野菜の煮込みを出そう。美味いぞ。胃の腑の底から、生き返るような味がする」
ギルバートは呆然と主を見上げ、やがて、憑き物が落ちたように大きく息を吐き出した。
「……御意に、ございます」
領主館を支配していた暗い緊張の糸が、完全に断ち切られた瞬間であった。
恐怖による過剰警戒の時代は終わりを告げた。
フォレスト領はこれより、世界で唯一、神獣と調停者が穏やかに暮らす「奇跡の聖域」を全身全霊で守り育てる、揺るぎなき共生の道へと舵を切ったのである。
***
――サワサワ、と。
山裾を濡らし続けていた秋雨は、夕暮れを迎える頃にはすっかり上がり、西の空には燃えるような茜色と群青のグラデーションが広がっていた。
雨露をたっぷりと吸い込んだ木々の葉が、沈みゆく夕陽の光を浴びて、まるで無数のガラス細工のようにキラキラと輝いている。
トントン、と。
水気を弾いた真新しい防腐香木のウッドデッキを踏みしめ、マノンが居間から姿を現した。
その手には、湯気を立てる素朴な陶器の湯呑み。
中には、先ほどマルタおばあちゃんから分けてもらった野草をブレンドして焙じた、香ばしい自家製の番茶が満たされていた。
「ふう……すっかり晴れたわねぇ」
マノンは手すりに寄りかかり、夕暮れの澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
雨上がりの山特有の、濡れた黒土と落ち葉の清々しい匂い。
香木のデッキからは、針葉樹の清冽な芳香が立ち上り、雨に洗われた庭の草木を優しく包み込んでいる。
廊下のボウルはすでに片付けられていた。
屋根の上の雨漏りは完全に止まり、天井板はすっかり乾いて、何事もなかったかのように静まり返っている。
「グルルゥ……」
足元から、甘やかな喉鳴らしが響いた。
見れば、いつの間にかウッドデッキの中央に、白猫のタマがのそのそと歩み寄ってきていた。
あの銀髪の青年の姿など影も形もない。
中型犬ほどもある丸々とした純白の胴体、太い尻尾、そして愛らしい金色の双眸。
タマはマノンの足首にふかふかの頬をゴシゴシと力任せに擦り付けると、マノンの足の甲の上にどっしりと自らの体重を預けて座り込んだ。
「あら、タマ。起きてきたの?」
マノンは笑いながらウッドデッキの端に腰を下ろし、空いた左手でタマの分厚い背中をそっと撫でた。
――ふわり。
指先を埋めると、雨上がりのひんやりとした外気とは裏腹に、タマの毛並みは驚くほどぽかぽかと温かかった。
マノンが首筋から背骨に沿ってゆっくりと手のひらを滑らせると、タマは金色の目を限界まで細め、前足を交互に香木の床へ押し当てるようにして「ふみ、ふみ」とリズミカルに踏み鳴らし始めた。
「ゴロゴロゴロゴロ……グルルルル……ッ」
至福の重低音が、ウッドデッキを通じてマノンの骨髄を心地よく揺らす。
タマはマノンの膝の上に器用に両前足を乗せ、重たい頭をマノンの太ももの上へと預けてきた。
完全な無防備。
触れるものを凍結させる古代神獣の矜持など微塵も感じさせない、ただの飼い主の温もりを独占したがる甘えん坊の猫の姿。
「ふふ、アル君も照れ屋だから、手伝いが終わるとすぐ帰っちゃうのよねぇ」
マノンはお茶を一口すすりながら、遠い山並みに目を細めた。
「せっかく生姜湯を飲んで温まったんだから、夕ご飯も食べていけばよかったのに。……でも、雨漏りもすっかり直してくれて、本当に助かっちゃったわ。あの子、ぶっきらぼうだけど、本当にお手伝いが上手なんだから」
膝の上のタマが、ピクンと片耳を動かし、わずかに気まずそうに目を逸らしたのを、マノンは気づかない。
そこへ、足元から小さな影が寄り添ってきた。
黒猫のクロだ。
クロはタマの反対側、マノンの左脇へと静かに腰を下ろすと、前足を揃え、マノンのエプロンの裾に黒い鼻先をちょんと押し当ててきた。
屋根の破風の上からは、黄色い小鳥のピピが舞い降りてきて、マノンの右肩の上へとちょこんと着地する。ピピは羽毛についた微細な雨露をパパッと弾き飛ばすと、くちばしでマノンの耳たぶを優しく甘噛みして挨拶をした。
右肩に小鳥の温もり。
左脇に黒猫の柔らかな気配。
そして膝の上には、ずっしりとした白猫の圧倒的なもふもふの重み。
「……ん、重たいけれど、あったかいわね」
マノンは目を細め、三匹の家族たちを順番に優しく撫でた。
王都で心身をすり減らし、理不尽に耐え続けていたあの日々が、まるで前世の記憶のように遠く霞んでいく。
ここには、自分を縛り付ける理不尽な人間関係も、無理難題を押し付けてくる上司もいない。
ただ、自分の手で丁寧に入れたお茶があり、雨漏りを直してくれる親切な近所の人(※神獣の化身)がいて、自分を心から慕ってくれる可愛い友人(※領主令嬢)がいて、そして、こうして寄り添ってくれる愛しい命がある。
「さ、タマ、クロ、ピピ。お日様も沈んじゃったし、お家に入りましょうか」
マノンが立ち上がろうとすると、タマは名残惜しそうに「にゃあ……」と甘えた声を漏らしながら、重たい体を起こした。
マノンは縁側の引き戸を開け、暖かなランプの灯る土間へと足を踏み入れる。
「今夜はね、雨で身体が冷えちゃったから、大鍋で具だくさんの温かいおじやにしましょうね。マルタおばあちゃんの採れたて白カブと、甘いお葱、それに生姜を少し効かせて……タマたちの分は、味付けする前に柔らかい鶏ささみをたっぷりほぐして入れてあげるからね」
その言葉を聞いた瞬間、タマの尻尾がピーンと立ち上がり、クロの琥珀色の瞳がパッと輝き、ピピが「ピピッ! ピピピィ♪」と歓喜の歌を囀った。
夕闇が、静かに山裾の平屋を包み込んでいく。
外の世界では、領主が下した「不可侵聖域」の布告によって、国家規模の絶対的な守護体制が完成しつつあった。
だが、その世界の中心にいるマノンは、大鍋から立ち上る優しい出汁の香りに包まれながら、ただ目の前の愛しい夕餉の支度に、幸せそうに目を細めているだけであった。
辺境の山奥に、何者にも侵されぬ絶対の平穏と、優しき勘違いの聖域が――いま、完全に、そして永遠に確立されたのである。




