第35話:ギルバート隊長の視界不良(※衝撃の真実)
じとじとと降り続く冷たい秋雨が、頑丈な牛革のレインケープの肩口を重く濡らしていた。
フォレスト領の北側、平屋の古民家を取り囲む深い雑木林の尾根筋。大樹の太い幹に身を潜め、冷たい雨露に打たれながら息を殺していたのは、辺境警備隊隊長ギルバート・アルノーその人であった。
三十五歳。二メートル近い筋骨隆々の巨躯に、歴戦の無数の刀傷を刻んだ王国屈指の剛勇。数々の凶悪な魔獣をその剛腕と大剣の一撃で両断してきた男である。
だが、現在、彼の胸中を支配していたのは、かつて体験したどんな戦場よりも重苦しい、胃の腑を雑巾のように絞り上げられるような焦燥と当惑であった。
(……セリアのやつめ。あそこを『心のオアシス』などとぬかしおって……)
ギルバートは口髭の端についた冷たい雨粒を舌で舐め取り、苦々しく奥歯を噛み締めた。
先週、妹レオノールを護衛して山奥へ乗り込み、無事に生還した副隊長のセリア。
あいつは帰還直後こそ「胃の痛みが消えた」と放心していたが、今や週末の訪問を心待ちにし、マノンから貰ったスコーンの包み紙を胸ポケットに忍ばせて恍惚とした表情を浮かべる始末だ。
領主代行のローランすら、妹のツヤツヤの肌と手作り菓子の美味さに当てられ、判断能力を著しく低下させている。
だが、警備隊長である自分まで腑抜けるわけにはいかない。
あそこには、現世を二度滅ぼしかけた三代厄災が集結しているのだ。いつ何時、あの小娘の機嫌が損なわれ、あるいは魔獣どもの本能が暴走して領都が壊滅するか分かったものではない。故に、こうして非番の日に自ら泥にまみれ、定期的な周辺警戒と遠隔偵察を行っていたのである。
雨脚がわずかに強まった。
木々の葉を打つ雨音がざわざわと重奏を奏で、白い雨煙が山裾の視界を白く霞ませていく。
古民家の屋敷からは、細い煙突から立ち上るかまどの煙と、微かに漏れ出る炭の温かな匂いが漂ってくるばかりで、庭先には人影一つない。
白猫も、黒猫も、小鳥も、悪天候を嫌って屋内に引っ込んでいるのだろう。一見すれば、山深い里のどこにでもある、雨に煙る長閑な平屋の光景にすぎない。
――ズゥン……。
その時であった。
大気を震わせるような、地鳴りにも似た極めて微細な圧力が、ギルバートの鼓膜の奥をツンと突いた。
「……ッ!?」
歴戦の直感が、全身の毛穴を一瞬にして逆立たせた。
ただの雨の冷気ではない。
肺腑に吸い込んだ空気が、まるで針の束を飲み込んだかのように喉の奥をチクチクと刺す。肌の表面の産毛が凍りつき、ケープを伝い落ちていた雨粒が、空中で微小な氷の粒へと姿を変えてパラパラと音を立てた。
冷気。
それも、極北の永久凍土の底から湧き上がるような、絶対零度の神威。
白銀の災厄――霜狼神フェンリルが放つ、霊的波長そのものだ。
(フェンリルが……目覚めたのか!? 何事だ、屋敷の中で何か異変でも起きたのか!?)
ギルバートは咄嗟に腰の真鍮製双眼鏡を引き抜き、接眼レンズを目元へと押し当てた。
倍率を合わせ、雨に煙る平屋の輪郭を捉える。
庭のウッドデッキには誰もいない。縁側の引き戸も閉ざされている。
だが、冷気の発生源は庭ではなかった。もっと上――。
「……なっ!?」
双眼鏡の円形視界の中に飛び込んできた像を捉えた瞬間、ギルバートは危うく声をもらしそうになり、自らの掌で口元を力任せに塞いだ。
屋根の上。
古民家の北側、濡れて黒ずんだ茅葺きと古い平瓦が敷き詰められた傾斜の途中に――『人影』があった。
あるはずのない、人影。
敷地内にはマノン一人しか住んでいないはずだった。侵入者の気配もなかった。周囲は警備隊の斥候が厳重に封鎖している。
ならば、あそこにいるのは誰だ。盗賊か? 王都からの刺客か?
否。
双眼鏡の焦点を限界まで絞り込んだギルバートの視界に映し出されたその姿は、人間の常識など遥か彼方に置き去りにするほど、異様にして神聖極まりないものであった。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
年齢は二十歳前後。
雨に打たれながらも、濡れた瓦の急勾配の上に、まるで平地に立つかのように寸分の揺らぎもなく直立している。
すらりと伸びた長身に、驚くほど無駄のない引き締まった肢体。
身に纏っているのは、飾り気のない深い灰色の簡素なチュニックとズボンだが、その布地からは、淡い白銀の冷気の陽炎が、絶え間なくゆらゆらと立ち上っていた。
何よりも、その頭髪と容貌。
雨露を吸って額にしっとりと張り付いているのは、光を透かすほどに色素の薄い、見事な銀髪。
陶器のように透き通った白い肌に、彫刻のように整った冷徹な目鼻立ち。
そして――伏せられたその涼やかな双眸は、雨の薄暗がりの中でも鮮烈な光を放つ、神々しいまでの黄金色。
(あ……あいつは……ッ!?)
ギルバートの心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに跳ね上がった。
見覚えがある。
いや、あの顔立ちそのものを見たことがあるわけではない。
だが、あの金色の瞳の奥に宿る、底知れぬ絶対零度の深淵。
そして、青年の周囲数メートルの空間にだけ、降り注ぐ雨粒がすべて白い雪片へと変わり、屋根瓦の上でパキパキと霜の花を咲かせているその現象。
間違いない。
あの神威。あの絶対的な凍結の霊格。
普段、マノンの縁側で丸くなってスリッカーブラシで腹を梳かれ、涎を垂らしているあの巨大な白猫――古代神獣『霜狼神フェンリル』の本体そのものだ。
(ば……化身……ッ!? フェンリルが、人の姿を……とっているだと……!?)
ギルバートの脳天を、雷光が直撃した。
神話の古文書には確かに記されていた。極位の神獣は、数千年の霊性を経て人の器を模倣する『人化の術』を修めると。
だが、それは人間を欺くためか、あるいは世界を滅ぼす儀式の際に執る、究極の戦闘形態であるはずだ。
なぜ、そんな伝説の権能が、こんな寒村の古民家の屋根の上で発動しているのだ?
ついに神獣が本性を現し、あの小娘を喰らい殺して領地を凍土に変えるための侵略を開始したのか――!?
ギルバートは息を呑み、大剣の柄を握り直した。
全軍に非常警報を発令せねばならない。領都の防衛線を即座に後退させ、全領民を南方へ避難させねば――。
そう決断し、双眼鏡を下ろそうとした、その刹那。
レンズの向こうで、信じがたい光景が繰り広げられた。
「……ん?」
ギルバートの眉根が寄る。
銀髪の青年――人化したフェンリルは、天を仰いで咆哮するでもなく、両手を掲げて氷嵐の魔法陣を展開するでもなかった。
青年はおもむろに、濡れた屋根の上にすっと膝をついた。
そして――足元にあった、ヒビの入った古い平瓦を、自らの細く長い指先で、ひょいと持ち上げたのだ。
(……は?)
ギルバートの思考が、微かに脱線しかけた。
瓦?
瓦を持ち上げたのか、今、あの神話の巨獣が?
双眼鏡を凝視する。
青年は、手に持った割れた瓦の断面を、金色の瞳でまじまじと見分していた。
どうやら、長年の風雨と先日の嵐で、瓦の角が割れ、下地の防水杉皮の隙間から雨水が屋根裏へと染み込んでいたらしい。いわゆる、典型的な『雨漏り』の現場であった。
青年は低く短くため息をつくと、空いている左手を、割れて隙間のできた屋根の木枠へとそっとかざした。
キィィィン……。
大気すら凍りつくような、澄み切った高音が響いた。
青年の掌から放たれたのは、触れるものすべてを永久凍土へと叩き落とすはずの、絶対零度の極光。
だが、その破壊的な神威は、信じられないほど繊細に、ミリ単位の精度で制御されていた。
青年の手元で、空気中の水分が一瞬にして過冷却の氷へと凝縮される。
それは単なる氷の塊ではない。割れて欠落していた古い瓦の形状と寸分の狂いもなく一致するよう、緻密に、滑らかに成形された『氷の補修瓦』であった。
青年は、その氷の成形物を手際よく屋根の隙間へと滑り込ませ、周囲の古い瓦の噛み合わせに合わせてカチリと填め込んだ。
さらに、指先で瓦の継ぎ目をサッと撫でる。
隙間に入り込んでいた雨水が瞬時に凍結し、完全な氷のパッキンとなって隙間を塞ぎ、雨水の侵入路を完璧に遮断した。
水滴が、氷の瓦の上をツルツルと滑り、何事もなかったかのように雨樋へと流れ落ちていく。
雨漏りの修繕――完了。
(な……)
ギルバートの口から、間抜けな呼気が漏れた。
(な……な、何をやっておるのだ、あいつは……!?)
世界の終末を呼ぶ氷狼が。
神話の時代より語り継がれる絶対の厄災が。
人の姿をとって、何をしている?
瓦の補修……?
雨漏りの修理……?
大工仕事……だと……!?
神獣の至高の魔力が、日曜大工のシーリング剤代わりに使われている。
その事実を、歴戦の軍人であるギルバートの頭脳は、どうしても情報として処理することができなかった。
大工のガスパールですら、命がけで縁側を作っていたのだ。なぜその施主側の神獣が、自ら屋根に登って器用に雨仕舞い(あまじまい)をしているのか。
だが、ギルバートの脳髄に対する拷問のような衝撃は、これだけで終わらなかった。
ガラリ。
平屋の北側、台所の勝手口の引き戸が、長閑な音を立てて開いたのだ。
現れたのは、白い麻のエプロンを身につけた小柄な娘――至高の調停者マノンであった。
マノンは軒下から雨空を見上げると、屋根の上にいる銀髪の青年に向けて、ふわりと満面の笑顔を咲かせた。
そして、手にした清潔な手ぬぐいをパタパタと振りながら、山裾の雨音を突き抜けるような、明るく呑気な声を張り上げたのである。
「アル君ーー! 終わったら温かい生姜湯淹れてあげるからねー! 風邪引くから早く降りといでー!」
(ア……アル君……!?)
ギルバートの全身の血液が、逆流した。
アル君。
あの神話の巨獣を、今、この小娘は何と呼んだ?
アル君!?
親戚の甥っ子でも呼ぶかのような、あまりにも気安く、あまりにも日常的な呼び名。
そして、生姜湯……?
絶対零度を司る神獣に対して、生姜湯だと……!?
殺される。
いくら調停者といえど、人化して神格を剥き出しにしている神獣に対して、そのような無礼極まりない小間使い扱いをしては、あのプライド高き孤高の狼が激怒して――。
ギルバートが息を詰めて見守る中、屋根の上の青年――アルは、マノンの声を聞いた瞬間、ピクリと片耳(人間の耳)を動かした。
金色の瞳をわずかに見開き、勝手口のマノンを見下ろす。
その冷徹無比だったはずの美貌に、ほんの一瞬だけ、困惑と――そして、抗いがたい期待のような揺らぎが走った。
「…………」
青年は、フイと横を向いた。
あからさまに無愛想な態度で、相変わらず表情は崩さない。
だが、その首筋は、マノンの「生姜湯」という言葉を聞いてから、どこか落ち着かないように微かに強張っていた。
青年は音もなく屋根の上で立ち上がると、マノンに向けて、スッと静かに、一度だけ首を縦に振って頷いてみせたのだ。
そして――。
羽毛が宙を舞うように、青年は屋根の縁からふわりと飛び降りた。
十メートル近い高さなど意に介さず、泥水一つ跳ね上げることなく、勝手口の濡れ縁へと音もなく着地する。
「ほら、頭を下げて。そんなに濡れちゃって……」
マノンが手招きすると、あの長身の銀髪の青年は、嫌そうな顔をしながらも――大人しく、自ら腰を屈め、マノンの背丈に合わせて頭を差し出したのである。
わしゃわしゃ、ぎゅっ、ぎゅっ。
マノンは背伸びをしながら、温めてあった乾いた手ぬぐいを青年の銀髪に被せ、まるで濡れた犬の体を拭くかのように、両手で豪快に頭を拭き始めた。
青年はチュニックの襟元を掴まれたまま、手ぬぐいの下で目を細め、首をすくめ、完全に抵抗を放棄していた。
それどころか、マノンの手のひらが後頭部を優しく撫でるたびに、青年の喉の奥から、かすかに――本当に微かにだが、「グルル……」と喉を鳴らすような気配すら漂っていた。
そして、手ぬぐいの隙間から覗く青年の白い耳の先端が、恥ずかしそうに真っ赤に染まっているのを、双眼鏡のレンズは残酷なまでに克明に捉えていた。
「さ、上がって上がって。生姜湯が冷めちゃうわ」
「……子供扱いするな」
口では不満そうに呟きながらも、青年はマノンの背中について、大人しく土間の中へと吸い込まれていった。
パタン、と勝手口の引き戸が閉ざされる。
再び、秋雨の降りしきる静寂が戻ってきた。
屋根の上の氷の瓦は、何事もなかったかのように雨を受け止め、雨漏りは完全に防がれていた。
「……………………」
森の中。
大樹の陰で立ち尽くしていたギルバートは、微動だにしなかった。
全身の感覚が、完全に麻痺していた。
人化。
雨漏りの修理。
アル君。
生姜湯。
手ぬぐいでわしゃわしゃ――。
自分が見たものは、現実なのか?
数日前の長雨による湿気で、己の脳髄が腐って幻覚を見ているのではないか?
あるいは、あの調停者の領域に満ちる強力な精神汚染魔法によって、自分はすでに発狂してしまっているのか?
歴戦の猛者として、数々の死線をくぐり抜けてきたギルバート・アルノーの屈強な精神力。
それが、いま。
常識という名の土台ごと、音を立てて木っ端微塵に粉砕されていた。
カラン……。
握力を失ったギルバートの大きな右腕から、愛用の真鍮製双眼鏡が、力なく滑り落ちた。
双眼鏡は黒い泥水の中へと鈍い音を立てて落ち、対物レンズが泥で濁って塞がれる。
だが、ギルバートはそれを拾い上げようともしなかった。
ただ、雨水が滝のように顔面を伝い落ちるのも構わず、虚ろな両目で天を仰ぎ、掠れた声で呟いた。
「……報告書に……」
王国騎士として、辺境警備隊長として、領主ローランに提出せねばならない公的文書。
「……報告書に……なんと書けばいいのだ、私は…………」
冷たい雨が、打ちのめされた大男の肩を、容赦なく濡らし続けていた。
山奥の古民家から漂ってくる甘くスパイシーな生姜湯の香りが、彼の混乱しきった魂を、どこまでも優しく、そして無慈悲に包み込んでいた。




