第34話:秋の長雨と、屋根の上の銀髪青年
しとしとと、切れ目のない細い雨が、山裾の木々を濡らし続けていた。
三日前から降り始めた秋雨は、山肌を覆う紅葉を黒く湿らせ、朝から昼へ、昼から夕暮れへと移ろう時間の境目を曖昧に溶かしていた。軒先からは絶え間なく雨垂れの音が響き、庭の飛び石は黒々と光り、清冽な冷気が濡れた縁側を滑るようにして古民家の奥へと忍び込んでくる。
「……冷えるわねぇ」
マノン・デュランは、ざっくりと編まれた厚手のウールショールを肩の上でかき抱き、小さく息を吐いた。白い吐息が、薄暗い室内の空気にふわりと溶けて消える。
居間の火鉢には炭が熾され、鉄瓶からはシュンシュンと細い湯気が立ち上っていた。鉄と灰の匂い、そして雨露を吸い込んだ古木特有の、どこか落ち着く湿った木の香りが部屋を満たしている。
いつもなら日向ぼっこを求めて庭先をうろうろしている毛玉たちも、今日ばかりは完全な休眠状態だった。
火鉢のすぐ脇に敷いた古い麻の座布団の上で、黒猫のクロが前足を胸元に完璧に折り込み、まん丸な黒い塊となって規則正しい寝息を立てている。
梁の上の乾燥ハーブの束の隙間では、黄色い小鳥のピピが羽毛を風船のように丸く膨らませ、くちばしを背中の羽に突っ込んでじっとしていた。
そして、新しく張り替えられたばかりの防腐香木の縁側の隅では、白猫のタマが、大きな純白の体を横たえ、時折ぴくりと耳の先端を動かしながら、庭の雨脚をぼんやりと見つめていた。
静かで、贅沢な、雨の日の午後。
王都の薬舗にいた頃は、雨の日といえば最悪だった。濡れた傘から滴る水滴で滑りやすくなった床を何度もモップで拭き、湿気で固まりやすくなった粉薬の瓶にシリカゲルを詰め替え、雨宿りついでに理不尽な文句を言いに来る客の頭痛薬を調合する――そんな忙殺の日々。
それに比べれば、温かい火鉢の傍らで、針仕事や読書をして過ごす雨の日は、天国のような平穏だった。
――ポタ。
不意に、澄んだ静寂を裂くように、硬質な音が響いた。
「……ん?」
マノンは、繕い物をしていた手を止めて耳を澄ませた。
軒先の雨垂れの音とは違う。もっと近く、頭の上から聞こえてくるような、妙に響く水音。
――ポタ、リ。
――ポチャン。
音の出所は、居間の北側――台所へと続く薄暗い板張りの廊下の奥だった。
マノンはショールを押さえながら立ち上がり、素足の裏にひんやりとした木の冷たさを感じながら廊下へ向かった。
暗がりの中、北側の天井の羽目板の隙間から、一筋の細い水滴がぷっくりと膨らみ、やがて自らの重みに耐えかねて落ちていくのが見えた。
――ポタッ。
飴色に磨き上げられた廊下の板の上に、十円玉ほどの大きさの濡れ染みができていた。
そのすぐ横の天井板は、じわりと手のひら大の濃い湿り気を帯び、繊維の奥から水分が滲み出している。
「あらら……。雨漏りかしら」
マノンは思わず眉を下げ、天井を見上げた。
築年数の経った古民家だ。ガスパールが直してくれた縁側は完璧だったが、屋根の瓦までは手が回っていなかった。ここ数日の激しい秋雨と吹き抜ける山風で、北側の古い平瓦がどこか一枚、ズレるか割れるかしてしまったのだろう。
マノンは急いで台所へ行き、使い古した素焼きの深いボウルと、吸水性の良いボロ布を二枚持ってきた。
落ちてくる水滴の真下にボウルを置き、底に折りたたんだ布を敷く。
コトン、と柔らかな布が水滴を受け止め、甲高い水音は鈍い湿った音へと変わった。
「困ったわね……。雨はまだ降り止みそうにないし、このままじゃ天井裏の梁が腐っちゃうかもしれないわ」
マノンは腕を組み、小さくため息をついた。
土間のかまどの裏に、前の住人が残していった古い竹梯子があるのは知っている。けれど、この雨の中で濡れた瓦の上に登るのは、あまりにも危険だ。足を滑らせて屋根から落ちでもしたら、山奥の一人暮らしでは助けを呼ぶこともできない。
「とりあえず、屋根裏に上がって金盥でも置いてこようかしら……」
マノンが呟き、居間へと戻った、まさにその瞬間だった。
ふわり、と。
薄暗い居間の空気が、微かな冷気を伴って白く揺らめいた。
「……え?」
縁側の端。
先ほどまで丸くなって雨を眺めていたはずの白猫――タマの身体から、淡い白銀の光の粒子が、まるで夜霧のように立ち上っていた。
それは、蛍の光のように優しく、けれどどこか神聖な静けさを湛えた光だった。
光の粒子がタマの輪郭を包み込み、引き伸ばし、空間そのものが一瞬だけゆらりと歪む。
そして――光の帳がサラサラと砂のように崩れ落ちた後には。
そこには、一人の青年が立っていた。
年の頃は二十歳前後だろうか。
すらりと伸びた長身に、驚くほど均整の取れたしなやかな肢体。
身に纏っているのは、氷の結晶を織り込んだかのような、飾り気のない深い灰色のチュニックとズボン。
何よりも目を奪うのは、その色彩だった。
雨の薄明かりを浴びて淡く透き通るような、色素の薄いサラサラとした銀髪。
陶器のように白く冷たい肌。
そして、わずかに伏せられたその涼やかな双眸は、タマと同じ、どこまでも澄み切った気高い金色を湛えていた。
人間離れした、息を呑むほどの美貌。
触れれば指先が凍りつきそうなほどの冷徹な静寂を纏いながら、青年は音もなく畳を踏みしめ、マノンへと視線を向けた。
「……屋根か」
低く、耳の奥に心地よく響く、澄み渡るような声だった。
山深い氷河の底から響いてくるような、けれど不思議と耳に痛くない、静謐な響き。
青年はマノンの手元にあるボロ布と、北側の廊下を一瞥すると、短く告げた。
「危ないから、お前はそこにいろ」
言うが早いか、青年は足音一つ立てずに身を翻した。
羽毛よりも軽く床を蹴ると、居間の太い大黒柱を足場にし、まるで重力など存在しないかのように身軽に天井の梁へと飛び移る。
そのまま、屋根裏の点検口の蓋を音もなく押し開け、すらりとした長身を滑り込ませて、あっという間に暗がりの中へと消え去っていった。
静まり返る居間。
火鉢の炭が、パチリと小さく爆ぜる。
残されたマノンは――。
「……あら」
驚いて腰を抜かすでもなく、悲鳴を上げるでもなく、ただパチクリと丸い瞳を瞬かせただけだった。
「あら、アル君。来てくれたのね」
マノンは手元のショールを直すと、ふわりと相好を崩した。
マノンの脳内辞書において、いま起きた超常現象は、極めて平和的かつ合理的に処理されていた。
(※マノンの認識:
タマを拾ってしばらくした頃から、たまにふらりとどこからともなく手伝いに現れる、親戚筋の無口な青年『アル君』。
タマがどこかの部屋へ引っ込んだのと入れ違いに、いつも玄関や勝手口から音もなく入ってくる、ちょっとシャイで無口な男の子。
猫が光って青年に変身した? まさか。雨の日の薄暗がりで、タマが奥へ走っていった残像と、アル君が入ってきた姿が重なって見えただけに決まっている。あの子、足音が全くしないから、いつも神出鬼没なんだものねぇ)
王都のブラック薬舗で十年間、理不尽な現実の数々を「まあ、世の中には不思議なこともあるわよね」と受け流し続けてきたマノンの適度な図太さと鈍感力は、神話の神獣の完全変身すら、ただの「親戚の男の子の訪問」へとあっさりと昇華させていた。
「もう、あの子ったら。濡れるから気をつけてねって言おうとしたのに、相変わらずせっかちなんだから」
マノンは苦笑いしながら、台所の茶箪笥へと向かった。
北側の屋根の上に直接登ったのなら、冷たい秋雨に打たれるのは確実だ。
いくら若いとはいえ、あんな薄着で雨に濡れたら、一晩で風邪を引いてしまう。
「上がってきたら、すぐに頭を拭けるようにしなくちゃね」
マノンは清潔な綿の手ぬぐいを二枚、火鉢の端の熱気でほんのりと温めるようにして広げた。
さらに、冷え切った身体を内側から温めるための「おやつ」の準備に取り掛かる。
台所の木棚から取り出したのは、裏山で採れた新鮮な生姜の塊だった。
大人の手のひらほどもある立派な生姜は、土を洗い落とすと、瑞々しい黄金色の肌を覗かせる。
スプーンの背を使い、シュルシュルと表面の極薄い皮だけをこそげ落としていく。金属の包丁で厚く剥いてしまわないのは、皮のすぐ内側にこそ、体を温める薬効成分と爽やかな香気が一番詰まっているからだ。
トントントン、とおろし金の上ですり下ろす。
シャリシャリと繊維が擦れ合う小気味よい音が、雨の静寂に響く。
すり下ろした瞬間、ツンとした鮮烈な辛味と、目の覚めるような清涼な香りが土間に広がった。
「これに……きび砂糖と、少しの本葛ね」
小鍋に汲みたての井戸水を注ぎ、すりおろした生姜を絞り汁ごとたっぷりと投入する。
そこへ、ヴェロニカから安く譲ってもらったコクのあるきび砂糖を木のスプーンで二杯。
弱火にかけると、すぐに甘くスパイシーな香気が立ち上り始めた。
仕上げに、少量の水で溶いた本葛粉を細く垂らし、木べらで手早く円を描くようにかき混ぜる。
トロリ、と。
透明感のある琥珀色のとろみがついた瞬間、火から下ろす。
生姜の辛味を砂糖の優しい甘さで包み込み、葛のとろみで熱を逃がさない、昔ながらの養生食――特製のとろとろ生姜湯だ。
素焼きの小ぶりの深鉢に二つ、湯気を立てる生姜湯を注ぎ分ける。
コト、と鉢を盆に置いた、その時だった。
――トン。
羽毛が落ちるような、あまりにも微細な着地音が廊下で響いた。
「……終わったぞ」
いつの間にか、アルが梁から音もなく飛び降りてきていた。
天井裏の点検口の蓋は、寸分の狂いもなく元の位置にピタリと戻されている。
青年の姿を見上げたマノンは、思わず「まあまあ!」と声を上げた。
やはり、屋根の上に出て作業をしたのだろう。
サラサラとしていた銀髪は雨露を浴びてしっとりと額に張り付き、冷たい水滴が陶器のような頬を伝い落ちていた。チュニックの肩口も雨を吸って濃い灰色に染まり、吐き出す息は白く凍てついている。
手元を見れば、その細く長い指先は、氷の魔力を直接行使したせいか、淡い青紫色に冷え切っていた。
「瓦が二枚、割れていた。……隙間を塞ぎ、冷気で固めておいたから、もう雨は漏らない」
無駄のない、淡々とした報告。
外敵や人間に対しては絶対零度の殺気を放つ古代神獣フェンリルが、まるで近所の大工見習いのように真面目に雨漏りの修理を報告している。
しかも、その表情は極めて無愛想で、視線をわずかに斜め下へと逸らしたままだった。
「本当に!? 助かったわぁ、ありがとうアル君!」
マノンは火鉢で温めておいた乾いた手ぬぐいを両手に持ち、迷うことなく青年の前へと踏み込んだ。
青年はマノンが一歩近づいた瞬間、ビクンと肩を跳ねさせたが、逃げ出そうとはしなかった。
「ほら、頭を下げて。そんなに濡れちゃって……風邪引いちゃうじゃないの」
「……っ、子供扱いするな。我は……俺は、寒さなど……」
アルが低く不満げな声を漏らしたが、マノンは「はいはい、いいから」と笑って受け流し、背伸びをして手ぬぐいを青年の銀髪の上へとふわりと被せた。
――わしゃわしゃ、ぎゅっ、ぎゅっ。
マノンの細く温かい手のひらが、手ぬぐい越しにアルの頭を包み込み、優しく、けれどしっかりと水分を拭き取っていく。
濡れて束になっていた銀髪が、マノンの手の中で解きほぐされ、ふんわりとした柔らかさを取り戻していく。
マノンの体から放たれる、純度百パーセントの『波長ゼロの無害気質』。
頭皮を通じて注ぎ込まれるその圧倒的な温もりに触れた瞬間、青年の金色の瞳が、抗いがたい快楽にトロンと細められた。
「…………」
口をへの字に結んだまま、アルは静かに首をすくめ、マノンの手のひらへと自らの頭の重みを預けてきた。
普段、猫の姿でスリッカーブラシをかけられている時と全く同じ、無防備な甘え方。
色素の薄い白い耳の先が、手ぬぐいの下でほんのりと赤く染まっているのを、マノンは見逃さなかった。
「ふふ、やっぱりアル君も、寒かったんじゃないの。耳が冷たくなってるわよ」
マノンは手ぬぐいで青年の首筋や頬の水滴を丁寧に拭い去ると、居間の火鉢の前へと促した。
「さ、上がって上がって。今、ちょうど体が温まる生姜湯を作ったところなのよ」
ウッドデッキには上がらず、火鉢の前の座布団へと案内する。
アルはおずおずと長い脚を畳の上に折り、正座に近い姿勢で腰を下ろした。
マノンが盆の上から、湯気を立てる素焼きの深鉢を差し出す。
「熱いから気をつけてね。葛でとろみがついているから、冷めにくいけれど、口の中を火傷しないようにフーフーして飲むのよ」
アルは両手で鉢を受け取った。
氷のように冷え切っていた彼の長い指先に、素焼きの器の素朴な温もりがじんわりと移っていく。
立ち上る湯気からは、ツンとした生姜の鮮烈な香りと、きび砂糖の丸い甘い匂い。
アルは器を口元へと運び、マノンに言われた通り、唇を尖らせて「ふぅ、ふぅ」と不器用に息を吹きかけた。
そして、そっと一口含む。
――トロン。
滑らかな葛の舌触りとともに、熱い液体が口内に広がった。
直後に押し寄せてくる、生姜のピリリとした心地よい刺激と、コクのある黒蜜のような甘み。
嚥下した瞬間、喉の奥を通って胃の腑へと落ちていった熱の塊が、カッと体内で爆発した。
「……っ」
アルの金色の瞳が、微かに見開かれた。
何千年ものあいだ、極北の永久凍土で自らの放つ冷気に縛られ、内臓の芯まで凍てついていた神獣の肉体。
その氷河の底のような体内に、春の太陽のような温かな血潮が、ドクドクと力強く巡り始めたのだ。
指先が温かい。
首筋が温かい。
全身の毛穴が開き、雨の冷気によって強張っていた筋肉が、とろけるように解きほぐされていく。
「……美味い」
ポツリと、青年の唇から飾りのない本音が零れ落ちた。
「そう? よかったわぁ。ちょっと生姜を入れすぎちゃったかしらと思ったけれど、男の子にはこれくらい辛い方が効くわよね」
マノンも自分の分の生姜湯をすくい、ふうふうと息を吹きかけながら嬉しそうに微笑んだ。
火鉢の炭が小さく爆ぜる音。
外で降り続く、静かな秋雨の音。
廊下のボウルに落ちる雨漏りの水滴は、いつの間にか完全に止まり、静まり返っていた。
座布団の端では、黒猫のクロが薄く目を開け、生姜湯をすするアルの姿を「フン……抜け駆けしおって」と言わんばかりのジト目で睨みつけていたが、暖かい火鉢の熱気には勝てず、再び丸くなって眠りに落ちていった。
ピピも梁の上で、パタパタと羽を整え直している。
「アル君、いつも本当にありがとうね。急に来て、急に大工仕事を手伝ってくれちゃうから、お礼もろくにできなくて申し訳ないわ」
マノンが申し訳なさそうに眉を下げると、アルは生姜湯の器を両手で持ったまま、ふいと横を向いた。
相変わらず無口で、視線を合わせようとしない。
だが、その横顔には、かつて世界を震撼させた天災の冷徹さなど欠片もなく、ただ一人の少女の平穏を守り抜いたことへの、静かな誇りが滲み出ていた。
「……礼など、いらん。俺は……ただ、この場所が静かであれば、それでいい」
不器用な、低く澄んだ声。
「ふふ、照れ屋さんねぇ。……あ、そうだ、今夜はね、昨日マルタおばあちゃんから貰ったサツマイモと根菜で、具だくさんの豚汁を作ろうと思っているのよ。アル君も食べていくでしょう?」
マノンが屈託のない笑顔で尋ねると、アルは一瞬だけ躊躇うように視線を泳がせ――そして、小さく、本当に微かに、縦に一度だけ首を縦に振った。
「……ああ」
雨の日の古民家に、温かな生姜の香りと、穏やかな沈黙が満ちていく。
屋根の上の雨漏りは完璧に塞がれ、冷たい秋雨に包まれた山奥の平屋は、今日も誰にも脅かされることのない、絶対の温もりに守られていた。
そして――この時、古民家の周囲を取り囲む鬱蒼とした森の木陰で、冷たい雨に打たれながら双眼鏡を構えていた一人の屈強な男が、我が目を疑って泡を吹きかけていることなど、マノンもアルも、知る由もなかったのである。




