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第32話:目つきの悪い黒猫と、控えめな肉球

山裾を吹き抜ける風が、日ごとに冬の気配を色濃く孕むようになっていた。

庭の隅に立つ山柿の木はすっかり葉を落とし、枝先に残された小ぶりな橙色の実だけが、晩秋の柔らかな朝陽を浴びて琥珀色の露玉のように光っている。


からりと心地よい音を立てて引き戸を開けると、ガスパールが丹精込めて組み上げた防腐香木のウッドデッキが、爽やかな朝露にしっとりと濡れていた。

マノンは厚手のウールで編んだショールをきゅっと肩にかき抱き、箒を手にして庭先へと降り立った。


サッサッ、と竹箒が掃き清められた黒土の上を滑る。

乾燥した落葉の立てるカサカサという軽やかな音と、土の匂い、そして香木が放つ清冽な針葉樹の芳香が混ざり合い、朝の肺腑を心地よく満たしていく。

掃き集めた落ち葉の小山を竹籠にまとめていると、縁側の手すりの上で日向ぼっこをしていた黄色い小鳥――ピピが、パタパタと短い羽を羽ばたかせてマノンの肩へと舞い降りてきた。


「ピピッ♪」

「おはよう、ピピ。今日も風が冷たいけれど、お日様が当たるとぽかぽかして気持ちがいいわね」


マノンが指先で黄色い丸い頭をちょんちょんと撫でてやると、ピピはくすぐったそうに細い目をさらに細め、金糸の羽毛をふわりと膨らませてマノンの首筋に頬をすり寄せてきた。

ウッドデッキの中央では、白猫のタマがすでに大きな純白の体を丸め、前足を器用に胸元へ折り畳んで二度寝の態勢に入っている。

そして――。

香木の太い柱の影、日陰になった敷石の隙間から、二つの鋭い光がじっとこちらを見つめていた。

黒猫のクロだ。

片耳の先が小さく欠けたその頭を低くし、引き締まった漆黒の四肢を揃えて、油断なく庭の外へと視線を配っている。相変わらず目つきは鋭く、野良上がりの凄みがあるが、その太い尻尾の先は、ウッドデッキの縁に触れるか触れないかのところで、パタ、パタと小刻みに揺れていた。


「ふふ、クロもお外の見張り番、ご苦労様ね」


マノンが声をかけると、クロは「ふにゃ……」と低く短く喉を鳴らし、そっぽを向いて毛繕いを始めた。素直に甘えてこないところが、いかにもツンデレな猫らしくて愛らしい。


その時だった。

カラカラ、と。

木立の向こうの山道から、規則正しい軽やかな車輪の軋みと、馬の蹄の音が聞こえてきた。


「あら……? もういらしたのかしら」


マノンが箒を立てかけて庭の生垣へと歩み寄ると、雑木林の木漏れ日を抜けて、一台の簡素な一人乗り幌馬車が姿を現した。

御者台で手綱を握っているのは、先週と同じ、辺境警備隊のセリアだった。

きっちりと整えられた青灰色の短髪に、動きやすい革の軽装。だが、先週のような顔面蒼白で胃を押さえる悲愴感はどこへやら、馬車を止めて飛び降りてくるその足取りは驚くほど軽快で、軍服の胸元からは胃薬の包みすら見当たらなかった。


「マノン様、おはようございます! 先週に引き続き、お邪魔いたします!」

「セリアさん、おはようございます。朝早くから山道を登ってきてくださって、ありがとうございます」


マノンが笑顔で会釈を返すと、馬車の幌の隙間から、一人の少女がひょっこりと顔を覗かせた。


「マノン様……!」


客車のステップを降りてきたのは、近隣の領主令嬢、レオノールだった。

その姿を目にした瞬間、マノンは思わず感嘆の吐息を漏らした。

先週の痛々しい白装束のようなドレスとは打って変わり、今日のレオノールは、実に可愛らしく、活動的な装いをしていたのだ。

深い藍色に染められた上質なウールのワンピースに、襟元には小さな白い立ち襟。腰には細い革ベルトを巻き、足元には歩きやすそうな編み上げの革ブーツを履いている。飾り立てたフリルや貴金属は一切身につけていないが、その仕立ての良さと、何より少女自身の内側から溢れ出るような輝きが、素朴な衣服を何倍にも引き立てていた。


そして――何よりマノンを安堵させたのは、その表情だった。

先週、死人のように蒼白だった頬には、朝露を浴びた林檎のように健康的な桜色が差し、ヘーゼル色の双眸は、まるで宝箱を開ける直前の子供のようにキラキラと澄み渡っていた。

一週間で、こんなにも人の顔つきは変わるものなのか。

王都の薬舗で、過労とストレスでボロボロになっていた患者たちが、田舎へ療養に出て見違えるように元気になって戻ってくる姿を幾度も見てきたが、レオノールの回復ぶりはそれ以上だった。


「まあ、レオノールさん! とっても素敵なお洋服ね。動きやすそうで、秋の山にとってもよくお似合いだわ」

「本当ですか……!? ふふ、今日はマノン様のお庭仕事をお手伝いさせていただきたくて、侍女に頼んで一番動きやすいお散歩用の服を出してもらったんです!」


レオノールは胸の前で両手を合わせ、ぱっと花が咲くような満面の笑顔を浮かべた。

十九歳の高貴な深窓の令嬢。本来ならば領主館の奥深くで侍女たちにかしづかれ、刺繍や読書をして過ごすはずの少女が、泥仕事をする気満々で山奥の古民家へとやってきたのだ。

その腕の中には、深緑色の絹布で丁寧に包まれた、小さな木箱が大切そうに抱えられていた。


「あの、マノン様。これ……先週のスコーンとハーブティーの、ほんのお礼です。兄がお付き合いのある東方の茶商から仕入れたものだそうで……私には詳しいことは分からないのですが、とても香りが良いお茶だと聞きましたので、もしよろしければ、マノン様と一緒にいただきたくて……」


おずおずと差し出された木箱。

マノンは包みを受け取り、蓋をそっと開けた。

中に入っていたのは、細かな金細工が施された真鍮の茶筒だった。蓋をわずかに捻って隙間を作った瞬間――。


「――っ!」


秋の冷たい空気が、一瞬で気品あふれる芳香によって塗り替えられた。

マノンの鼻腔をくすぐったのは、まるで満開の野薔薇と、熟したマスカットの果実を同時に煮詰めたかのような、圧倒的な密度の気品ある香りだった。

茶葉は細く撚られ、銀色の若芽(ティップ)が贅沢なほどに散りばめられている。

王都の大手調剤薬舗で、貴族向けの嗜好品生薬の検品も任されていたマノンの鑑識眼が、瞬時にその正体を弾き出した。


(これ……東方の秘境、標高二千メートルの高地で、初夏の朝霧の中でのみ手摘みされるという幻のダージリン・ファーストフラッシュ……!?)


王都の一流ホテルの特別室でしか振る舞われない、一缶で平民の半年分の給金が吹き飛ぶような国宝級の紅茶葉。

だが、レオノールは「ちょっといいお茶」としか聞かされていないのか、純粋にマノンと美味しいお茶を飲みたいという無垢な瞳でこちらを見上げている。

(※レオノール視点:兄ローランが『何が何でもあのお方に献上しろ、手土産としてこれ以上のものはない』と血眼で蔵から引っ張り出してきた最高級品だが、兄が必死すぎて怖かったので適当に誤魔化して持ってきた)。


「……ふふ、とってもいい香り。こんなに素晴らしいお茶を持ってきてくださるなんて、嬉しいわ。早速、淹れましょうね」


マノンは野暮な詮索を胸の奥にしまい込み、満面の笑顔で二人をウッドデッキへと招き入れた。


***


土間のかまどから、鉄瓶の湯気が勢いよく立ち上っていた。

手押しポンプで汲み上げたばかりの、キリリと冷たい古井戸の地下水。これを強火で一気に沸騰させ、空気をたっぷりと含んだ熱湯を準備する。


マノンは居間の茶棚から、白い素焼きのティーポットと、先週と同じ素朴な白い陶器のカップを取り出した。

まずは熱湯をポットとカップに注ぎ、器全体をしっかりと温める。器が冷えていると、注いだ瞬間に湯の温度が下がり、茶葉の香りが開ききらないからだ。

温まった湯を捨て、真鍮の茶筒から、木のスプーンで二杯分の茶葉をポットの底へと滑り込ませる。

乾いた茶葉が、温められた陶器の底に触れた瞬間、パッと花のような青い芳香が立ち上った。


「いきますよ」


沸騰してボコボコと大粒の泡を立てる鉄瓶を高く掲げ、ポットの注ぎ口へ向けて、一気に熱湯を注ぎ落とす。


――ジャァァァッ!


勢いよく落ちた熱湯がポットの中で激しい対流を生み出し、沈んでいた茶葉が、まるで目覚めた妖精のように一斉にくるくると舞い踊り始めた。ジャンピングだ。

素早く蓋を閉め、厚手の麻布で作ったティーコージー(保温カバー)を上からふわりと被せる。


「三分間、このままじっと待つのよ。焦ってポットを揺らしちゃダメ。茶葉が自分の力でお湯の中で開いて、美味しいエキスを全部吐き出すのを、静かに見守るの」


マノンがウッドデッキの座布団に腰を下ろしながら微笑むと、向かいに座るレオノールは、真剣そのものの面持ちでコクコクと頷いた。

王宮のお茶会では、侍女たちが奥の給仕室で淹れたお茶が、銀のトレイに乗せられて運ばれてくるのが当たり前だった。

湯を沸かし、器を温め、茶葉が踊る様子を目の前で見つめ、香りが立ち上る時間を待つ――そんな、お茶を淹れるという行為そのものを五感で楽しむ贅沢を、レオノールは生まれて初めて知ったのだ。


やがて、三分が経過した。

マノンは麻布を外し、素焼きのポットを持ち上げた。

カップの上に目の細かい茶こしを渡し、静かに傾ける。


トクトクトクトク……。


澄んだ琥珀色――いや、秋の夕陽を溶かし込んだかのような、淡く紅い黄金色の液体が、白いカップの底を満たしていく。

その瞬間、ウッドデッキ一面に、息を呑むほど鮮烈な香気が爆発した。

若葉の清々しい爽快感と、マスカットを思わせるフルーティーな甘み。

温められた防腐香木の針葉樹の匂いと溶け合い、平屋の周りの空気が、まるで神話の果樹園のそれへと変貌していく。


「まあ……なんて綺麗な色……!」

レオノールが両手でカップを包み込み、感嘆の声を上げた。

一口含むと、心地よい渋みと、それを遥かに上回る芳醇な甘みが舌の上を滑り落ち、喉の奥から鼻腔へと、気品ある花々の香りが突き抜けていく。


「美味しい……! 私、今までこんなに香り高い紅茶を飲んだことがありません……!」

「お湯が汲みたての井戸水だから、茶葉がしっかり呼吸できたのね。本当に素晴らしいお茶だわ」


マノンも一口すすり、幸せそうに目を細めた。

お茶請けには、今朝オーブンで素朴に焼き上げておいた、ライ麦と蜂蜜の堅焼きビスケットを添えた。甘さを抑えた素朴な焼き菓子が、極上紅茶の繊細な風味を邪魔することなく、見事に引き立てている。


セリアもまた、手すりに寄りかかりながらカップを両手で持ち、無心でお茶をすすっていた。

その口元は完全に蕩けきり、「ああ……美味い……胃に染み渡る……。領主館のすべての茶葉をこれに買い換えるべきだ……」と、ぶつぶつと至福の呟きを漏らしている。


そんな、極上の木漏れ日のお茶会の中。


――サワリ。


ウッドデッキの西側、香木の柱の陰で、小さな黒い影が動いた。


「……あ」


レオノールが、カップを持つ手を止めた。

ヘーゼル色の瞳が、柱の横へと吸い寄せられる。


そこにいたのは、黒猫のクロだった。

引き締まった漆黒の毛並み。片耳の先が小さく欠け、琥珀色の瞳は細く、鋭く引き絞られている。

先週は遠巻きに様子を伺っていただけの黒猫が、今日は、座布団に座るレオノールから二メートルほどの距離まで、音もなく歩み寄ってきていたのだ。

座布団の上では、すでに白猫のタマがレオノールの太ももに顎を乗せて完全に熟睡し、スースーと穏やかな寝息を立てている。

クロは、そのタマの無防備な姿を一瞥すると、低く「フン」と鼻を鳴らし、前足をきっちりと揃えて、ウッドデッキの上に腰を下ろした。

視線はレオノールの手元――ビスケットの皿と、彼女の膝へと向けられている。


(クロちゃん……)


レオノールの胸が、トクンと跳ねた。

先週、自分を包み込んでくれた大きな白猫のタマも大好きだった。

けれど、あの少し離れた場所から、不器用そうにこちらを見守っていた黒猫の姿が、ずっと心に残っていたのだ。

どこか人を寄せ付けない孤高の雰囲気を纏いながらも、耳をピクピクと動かしてこちらの様子を気にしていた、あのツンデレな佇まい。


(触ってみたい……。でも……)


レオノールは喉を鳴らし、恐る恐るマノンを見上げた。


「あの……マノン様」

「ん? なあに、レオノールさん」

「あの……あそこにいる、クロちゃんも……撫でても、いいでしょうか……?」


蚊の鳴くような、消え入りそうな声だった。

背後でセリアの背筋が一瞬にしてピシリと凍りつき、カップを持つ手がカタカタと震え出したのが分かった。

(レオノール様……!? キマイラですぞ!? 一夜にして国境の要塞都市を灰にした、あの冥界の凶獣ですぞ……!?)という無言の悲鳴が、セリアの全身からダダ漏れている。


だが、マノンは「まあ」と嬉しそうに目を細めた。


「もちろんいいわよ。でもね、クロはタマと違って、ちょっと照れ屋で警戒心が強いの。だから、急に頭の上から手を出したり、上から覆いかぶさるように触ろうとすると、びっくりして逃げちゃうかもしれないわ」

「どうすれば……いいですか?」

「ふふ、猫ちゃんへのご挨拶をするのよ」


マノンは自分の人差し指をすっと伸ばし、空中で軽く曲げてみせた。


「まずは、指先を一本だけ、クロの鼻先に向けて、そっと差し出してみて。手のひら全体じゃなくて、指先だけね。猫ちゃんはね、鼻先を近づけて匂いを嗅ぎ合うのが『こんにちは』の挨拶なの。クロが匂いを嗅いで、安全だって分かってくれたら、触らせてくれるわよ」


「ご挨拶……」

レオノールは唾を飲み込み、自らの右手を膝から下ろした。

震える指先。

人差し指を一本だけ伸ばし、ウッドデッキの板を這わせるようにして、ゆっくり、ゆっくりと、座り込む黒猫の鼻先へと向けて伸ばしていく。


距離は、五十センチ。

三十センチ。

二十センチ――。


セリアは呼吸を止め、腰の剣の柄に脂汗の滲む指をかけた。

もしあの凶獣が牙を剥けば、たとえ相討ちになろうともレオノールを――。


その時。

黒猫――冥界獣キマイラの頭蓋の中で、千年の矜持が激しく軋みを上げていた。


(チッ……脆い人間の小娘めが……)


クロの琥珀色の瞳が、微かに揺らめいた。

本来ならば、冥府の深淵に座す我が前へ、気安く泥人形の如き四肢を伸ばすことなど、万死に値する無礼。爪の一振りでその華奢な指骨を粉砕し、魂を毒泥へと溶かしてやるのが本来の摂理である。

背後のセリアの怯え切った殺気も、手に取るように分かっていた。いつでも引き裂いてやれる。


だが――。

目の前に差し出された、レオノールの細い指先。

小刻みに震えながらも、そこには悪意も、敵意も、神獣の力を利用しようとする醜い欲望も、何一つ存在しなかった。

あるのは、ただ純粋な――「あなたと仲良くなりたい」という、ひたむきな畏敬と憧れの感情だけ。

そして何より、斜め後ろから、主であるマノンが「クロ、仲良くしてあげてね」と言わんばかりの、温かな『波長ゼロの無害波動』をふんわりと放ちながら、優しく見守っているのだ。


(……ここでこの小娘を傷つければ、あの娘が悲しむ。……それに、今夜の夕餉の、魚の血合いの煮付けが減らされるのは……断じて耐えられん……ッ!)


キマイラの誇りと、マノンの極上ご飯への執着が天秤にかけられ、コンマ一秒で後者が圧勝した。


クロは、フンッとあからさまに顔を横へ背けた。

目線を合わせず、まるで「お前など眼中にない」と言わんばかりのポーズを取る。

しかし――その首筋は微かに引かれ、拒絶の威嚇(シャー)を放つことはなかった。


レオノールの指先が、あと十センチのところで止まる。

届かない。

やっぱり、怖がらせてしまったのだろうか。拒絶されてしまったのだろうか――レオノールが悲しそうに眉を下げ、指を引っ込めようとした、まさにその刹那だった。


――スッ。


黒猫が、前足を動かした。

爪は、完璧に皮膚の奥へと格納されていた。

引き締まった黒い毛並みに覆われた、小さな前足。

その前足が、音もなく空中に持ち上げられ――そして。


ポスッ。


引っ込められそうになっていたレオノールの開かれた手のひらの真ん中へ、そっと、遠慮がちに、上から重ねられたのだ。


「――っ!!」


レオノールの呼吸が、喉の奥で止まった。


手のひらの皮膚に触れた、確かな感触。

それは、爪の鋭さでも、猛毒の熱気でもなかった。

ひんやりとした外気を含みながらも、奥底に確かな生命のぬくもりを湛えた、驚くほど柔らかく、弾力のある小さな塊。

黒褐色の、しっとりとした質感。

猫の足の裏――肉球だった。


クロは顔をそっぽに向けたまま、前足だけをレオノールの手のひらに預けていた。

まるで、「撫でさせてやるのではない、我が足置きにしてやっているのだ」とでも言い訳するかのような、不器用極まりないツンデレの極致。

太い尻尾が、ウッドデッキの上をパタン、パタンと、気恥ずかしさを隠しきれないように叩いている。


「あ……」


レオノールの瞳から、言葉を失った歓喜が溢れ出した。

指先をほんの少しだけ丸め、手のひらに乗せられた黒い前足を、下からそっと支え持つ。

親指の腹で、黒褐色の肉球の表面を、壊れ物に触れるかのように恐る恐る撫でてみた。


――ぷにっ。


指先を押し返してくる、極上の弾力。

焼きたての白玉団子のように滑らかで、けれど適度な湿り気と柔らかさを持った、至高の触感。


「まあ……っ!」


レオノールの頬が、一瞬にして真っ赤に染まった。

両目を限界まで見開き、胸を強く押さえながら、悶絶するようにその場に小さく身を縮こまらせた。


「ぷにぷにしていて……す、すごく柔らかいです……っ!! 冷たいのに、中がぽかぽかしていて……なんて愛らしいのかしら……っ!」


高貴な淑女の仮面など、完全に粉々に砕け散っていた。

十九歳の少女としての素顔を全開にし、肉球の感触に骨抜きにされ、蕩けきった表情で黒猫を見つめている。

クロは相変わらずそっぽを向いたまま、「フン……(騒がしい小娘め)」と小さく鼻を鳴らしたが、前足を引っ込めようとはせず、レオノールの手のひらに体重を預けたまま、じっと触らせていた。


「ふふっ」

その様子を見ていたマノンが、お茶のカップを置き、心底から嬉しそうに目を細めた。


「よかったわね、レオノールさん。クロはね、ちょっと照れ屋なのよねぇ。自分から甘えに行くのは恥ずかしいけれど、こうやって触ってもらうのは、本当は大好きなのよ」


「グルル……(余計なことを言うな、主よ)」

クロが不承不承に喉の奥を鳴らしたが、その耳の先は、わずかに照れくさそうにピクピクと動いていた。


ウッドデッキの上に、秋の暖かな木漏れ日が一面に広がっていく。

右膝には、すっかり熟睡して時折「ふにゃ……」と寝言を漏らす白猫タマの重み。

左手の中には、不器用に預けられた黒猫クロの、ぷにぷにとした柔らかな肉球のぬくもり。

肩のあたりからは、黄色い小鳥ピピが「ピピッ♪」と楽しげに囀る歌声が降り注ぎ、空気中には、極上のダージリンと焼きたてビスケットの甘やかな香りが満ち満ちている。


「幸せです……」

レオノールは、手のひらの肉球を愛おしそうに指先で慈しみながら、心の底からの吐息を漏らした。

「私……生まれてきて、こんなに穏やかで、満ち足りた時間を過ごしたこと……一度もありませんでした……」


領主の娘としての義務も、貴族社会の重圧も、すべてがこの香木の床の上では意味を失っていた。

ただ、大好きな人たちと、温かな生き物たちに囲まれて、美味しいお茶を飲む。

そのあまりにも素朴で、あまりにも贅沢な日常の奇跡が、レオノールの心を、どこまでも深く、優しく癒やしていく。


背後では、セリアが完全に脱力し、手すりに背中を預けたまま「……これが……世界を滅ぼす凶獣の肉球……。私も……死ぬ前に一度だけでいいから触ってみたい……」と、羨望の眼差しで遠くを見つめていた。


秋風が、山柿の木の枝を優しく揺らしていく。

領主館で首を長くして報告を待っている兄ローランの心労など、もはや誰も気にする者はいなかった。

山奥の古民家の縁側には、ただただ甘やかで、クスッと笑えて、最高に温かな「もふもふの奇跡」が、どこまでも長閑に続いていくのだった。

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