第31話:領主館の驚天動地と、ツヤツヤの妹
カチ、コチ、カチ、コチ。
領主館最上階、重厚なオーク材の扉で閉ざされた執務室の壁で、振り子時計が冷酷に時を刻み続けていた。
「まだか……まだ何の報告も入らないのか、ギルバート!」
領主代行ローラン・ド・フォレストは、執務机の前を狂った獣のように往復していた。
一歩踏み出すごとに、高級な羊毛絨毯が擦れる鈍い音が響く。
普段ならば銀縁の眼鏡の奥に常に冷徹な理知の光を湛え、どんな財政難や隣国との軋轢にも眉一つ動かさぬ鉄面皮の青年貴族が、いまや見る影もなく取り乱していた。
上着のボタンは胸元まで乱雑に外され、撫でつけられていた濃紺の髪は幾度も自らの指で掻きむしられたせいで無残に逆立っている。青白い額にはびっしりと冷や汗が浮き、手にした懐中時計の蓋を、開けては閉じ、閉じては開ける動作を無意識に繰り返していた。
「ローラン様、お気を確かに……。セリア副隊長が同行しております。あの機転の利くセリアのこと、万が一の兆候があれば、レオノール様を担いででも離脱を図るはずです」
執務室の壁際に直立する辺境警備隊長ギルバート・アルノーが、低く重々しい声で宥めるように言った。
王国屈指の剛勇として恐れられる二メートル近い巨漢の戦士。しかし、そのギルバートの分厚い掌もまた、腰の佩刀の柄を白くなるほど強く握りしめ、微かに震えていた。
相手は、世界を二度滅ぼしかけた三代厄災――霜狼神フェンリル、冥界獣キマイラ、幻鳥フェニックスである。
『万が一の兆候』が現れた時点で、人間の命など瞬き一つの間に消滅する。逃げる隙など爪の先ほども存在しないことは、軍人である二人が誰よりも痛烈に理解していた。
「離脱だと!? できるはずがないだろうが!!」
ローランは机を激しく叩いた。卓上のインク壺が跳ね、黒い染みが決算書の上に飛び散る。
「あの子は……レオノールは、自ら『生贄』になる覚悟で向かったのだぞ! 飾り気のない白のドレスを纏い、遺書めいた手紙まで残して……! なぜだ、なぜ私は力づくで馬車を止めなかった!? 当主の権限で地下牢にでも閉じ込めておけばよかったのだ! 妹一人守れずに、何が生贄だ! 何が領民の平穏だ!!」
ローランの喉から、血を吐くような自責の呻きが漏れた。
もし妹の身に何かが起これば、自分は正気でいられる自信がなかった。
調停者が求めるならば、領地の全財産でも、領主の首でも差し出す覚悟はあった。だが、なぜよりによって、十六歳で母を失い、病弱な父の代わりに自分が必死で守り育ててきた、あの心優しい妹でなければならないのか。
(神獣に喰い殺されたのか……? それとも、あの白銀の冷気で永遠の氷像に変えられてしまったのか……。あるいは、調停者の怒りを買い、骨の一片すら残らず消滅させられたのか……!?)
最悪の光景が、止めどなく脳裏を明滅する。
想像するだけで肺腑が凍りつき、胃の奥が雑巾のように絞り上げられる。
先日のリンゴタルトで奇跡的に全快したはずの胃が、ストレスの極限によって再びキリキリと激痛を訴え始めていた。
その時だった。
ドタドタドタッ――!
重厚な静寂を破り、廊下の向こうから複数の慌ただしい足音が響いてきた。
革靴が石畳を激しく蹴り飛ばす音。
ローランの全身の筋肉が、一瞬で硬直した。ギルバートが即座に抜剣の構えを取る。
「報告ッ! 通用門より緊急報告ッ!!」
扉が外から乱暴に押し開かれ、息を切らした当直の若い衛兵が転がり込んできた。顔面を蒼白にし、膝をついて叫ぶ。
「も、戻られました! レオノール様とセリア副隊長を乗せた馬車が、先ほど館の裏庭へと帰還いたしました!!」
「――ッ!?」
ローランは衛兵の言葉が終わるのも待たず、執務机を蹴立てて駆け出した。
「ローラン様!」と叫ぶギルバートを置き去りにし、廊下へと飛び出す。
生きている。帰ってきた。
だが、どんな姿で?
心神を喪失し、廃人のようになっているのか。手足に壊死の毒や重度の凍傷を負っているのか。
どんな無惨な変わり果てた姿になっていようと、自分が一生をかけて妹のすべてを介護し、守り抜く。
ローランは歯を食いしばり、大理石の階段を一段飛ばしで駆け下りようとした――まさにその瞬間。
中央階段の踊り場から、パタパタと小気味よい、軽やかな足音が登ってきたのだ。
「え……?」
ローランの足が、踊り場の手前でピタリと止まった。
重傷者を運ぶ担架の軋み音ではない。
絶望に打ちひしがれた足取りでもない。
まるで、春の野原で花摘みを楽しんできた少女のような、弾むような、リズミカルな靴音。
そして、踊り場の角を曲がって姿を現したその人物を目にした瞬間――。
ローラン・ド・フォレストの二十七年間の人生で培ってきたすべての知性、教養、論理的思考、そして帝立大学を首席で卒業した明晰な頭脳のすべてが、凄まじい音を立てて完全停止した。
「……は?」
そこにいたのは、妹のレオノールだった。
間違いなく、今朝、死を覚悟した純白のシルクドレスを纏って出奔したはずの、実の妹だった。
確かに、ドレスの裾には山道を歩いた名残である黒土がわずかに付着していた。髪も少し乱れている。
だが――それ以外のすべてが、あまりにも異常だった。
(な……なんだ、あれは……!?)
ローランの視界の中で、妹の姿が信じがたい光を放っていた。
比喩ではない。本当に、発光しているように見えたのだ。
今朝出かける前の、あの死人のように青白く、恐怖で血の気の引いていた顔色はどこへやら。
レオノールの両頬は、まるで朝露を浴びた咲きたての薔薇のように、内側からポッと瑞々しい桜色に染まっていた。
肌は、まるで最高級の陶器に極上の乳液を何層も塗り重ねたかのように、キメの一つ一つがふっくらと潤い、信じがたいほどのハリとツヤを湛えている。毛穴など微塵も見当たらない。
そして何より、その双眸だった。
常に領主の娘としての重圧に怯え、どこか曇りがちだったヘーゼル色の瞳が、まるで夜空の満天の星屑をそのまま閉じ込めたかのように、キラキラと、眩いばかりの輝きを放っていたのだ。
それだけではない。
レオノールの背後に従うセリア・クローデルの姿もまた、狂気の一言に尽きた。
あの常に眉間に皺を寄せ、胃薬の包みを握りしめていた生真面目な女性騎士が、背筋をピンと伸ばし、軍服の襟元を正しながらも、その表情は完全に「極楽浄土の湯船に浸かって魂が抜けかけた人間」のそれだった。頬はほんのり上気し、唇の端はだらしなく緩み、その手には大切そうに抱えられた大きな麻布の包みがある。
「……レオ、ノール……?」
ローランは掠れた、間抜けな声を喉から絞り出した。
「お前……本当に、レオノールなのか……? 怪我は……呪いは……精神を魔獣に操られているのか……!?」
ローランがおずおずと手を伸ばし、妹の肩に触れようとした、その時。
「あ! お兄様!!」
満面の、一点の曇りもない太陽のような笑顔が咲き誇った。
レオノールは純白のドレスの裾を少しだけ持ち上げると、タタタッと小走りに駆け寄り、あろうことかローランの胸へと勢いよく飛び込んできたのだ。
「お兄様! ただいま戻りました!」
「ぐえっ!?」
抱きつかれた衝撃で、ローランの口から情けない蛙のような声が漏れた。
腕の中に収まった妹の身体は、驚くほど温かかった。
凍傷の冷気など爪の先ほどもない。それどころか、日向の陽光をたっぷりと吸い込んだ干し草のような、そして甘く香ばしい焼き菓子の匂いが、ふわりとローランの鼻腔を満たした。
「お、お前……無事なのか!? 神獣に喰われなかったのか!? 調停者の拷問を受けたのではないのか!?」
ローランは妹の両肩を掴み、狂ったように全身を検分した。
首筋、手首、顔の輪郭。どこにも傷一つない。それどころか、触れた指先から伝わってくるのは、十代の健康そのものの弾力と、吸い付くような肌の瑞々しさだけだった。
「拷問だなんて、とんでもありません!」
レオノールはむっとしたように小さな唇を尖らせ、それから再び瞳をキラキラと輝かせた。
「調停者様――マノン様は、とても、とてもお優しくて、素晴らしいお方でした!」
「……は?」
「迷子になって行き倒れかけていた私を優しく抱き起こしてくださって、暖かい縁側に上げてくださったんです! それに、カモミールと林檎の皮をブレンドした温かいお茶を淹れてくださって……私が泣いてしまった時も、ずっと、ずっと背中を優しく撫でてくださったんです!」
「な……泣いただと……!?」
ローランの背筋が凍りついた。
神獣が巣食う地獄の庭先で、領主の娘が取り乱して泣いたというのか。そんなことをすれば、神域の静寂を乱したとして即座に八つ裂きにされてもおかしくない。
「セリア! 本当なのか!? 神獣たちは暴れなかったのか!?」
ローランが悲鳴のような声を上げると、背後のセリアが一歩前へ進み出て、直角の敬礼を返した。
しかし、その瞳は完全に陶酔の光に染まっていた。
「……報告いたします、ローラン様」
セリアの声は、いつもの引き締まった軍人のそれではなく、まるで聖堂で神託を授かった修道女のように敬虔で、穏やかだった。
「白銀の神獣フェンリル様は……泣きじゃくるレオノール様の足元へ自ら歩み寄り、そのふかふかの尻尾を足首に巻きつけ、頭を靴の上に乗せて温めておられました」
「………………はい?」
ローランの口が、半開きになった。
「黒猫の姿をとられた冥界獣キマイラ様は、手摺の影から穏やかに見守り、屋根の上の幻鳥フェニックス様は美しい鈴の音のような声で歌を捧げておられました。……神獣たちは、レオノール様を慰めておられたのです」
「し、神獣が……人間の小娘を……慰める……?」
ローランの頭蓋の中で、何千冊もの魔導古文書と軍事記録がガラガラと音を立てて崩壊していった。
絶対零度の天災が、人間の足首を暖める湯たんぽになり。
冥界の毒獣が優しく見守り、不死鳥が子守唄を歌う……?
ありえない。天地が百回ひっくり返ってもありえない光景だった。
「そして、お兄様! これを見てください!」
混乱で白目を剥きかけているローランの前に、レオノールが両手で一つの竹籠を差し出した。
清潔な白い麻布で包まれたその籠の隙間から、秋の冷え切った館の空気を一瞬で塗り替えるような、暴力的なまでの甘く香ばしい匂いが立ち上っていた。
「これ、マノン様が『お兄様にも分けてあげてね』って、持たせてくださったんです! 今朝、あの最新式のオーブンで焼き上がったばかりの、手作りのスコーンです!」
レオノールが、恭しく麻布をめくった。
――ふわぁぁぁぁぁっ!
その瞬間、踊り場全体に、甘酸っぱい野イチゴと濃厚な発酵バター、そしてこんがりと焼き上げられた極上の小麦の香気が満ち満ちた。
竹籠の中に並んでいたのは、見事な黄金色の焼き色を纏った、四角いスコーンが四つ。
真ん中には「オオカミの口」と呼ばれる美しい亀裂がパッカリと開き、付属の小さな陶器の小瓶には、宝石のように輝く真紅の野イチゴジャムがたっぷりと詰められていた。
「スコーン……?」
ローランは呆然と呟いた。
「調停者が……手ずから焼いた……菓子……?」
「はい! 私、マノン様の縁側で一ついただいたのですけれど……信じられないくらい美味しかったんです! 外はサクサクで、中はしっとりとしていて……一口食べた瞬間に、身体の奥の冷たいものが全部消えて、心がぽかぽか温かくなって……!」
レオノールは自らの頬に手を当て、うっとりと目を細めた。
「見てください、お兄様! 私、こんなにお肌がツヤツヤになったんです! マノン様の手作りジャムとお茶のおかげです!」
確かにツヤツヤだった。
ツヤツヤどころか、触れれば指が弾かれそうなほどの極上のハリと透明感。
生贄の覚悟で出て行った妹が、数時間後、王室御用達の超高級エステから帰ってきたかのような圧倒的な美しさを手に入れ、満面の笑顔で手作りクッキーの籠を掲げている。
(……理屈が……通らない……)
ローランの頭脳が、煙を上げて処理落ちを起こしていた。
なぜ死なないのか。
なぜ無傷なのか。
なぜ肌がツヤツヤなのか。
なぜ調停者は、領主の妹に手作りスコーンを持たせて笑顔で見送るのか。
これまで自分が胃を痛め、徹夜で練り上げてきた「対神獣・極秘忖度外交戦略」の数々が、すべてただの茶番だったのではないかと思えるほどの、圧倒的な日常の暴力。
「お兄様、どうぞ! 冷めないうちに召し上がってください!」
妹に促され、ローランは震える手でスコーンを一つ、指先でつまみ上げた。
ずっしりとした確かな重み。
指先を通して伝わってくるのは、まだ微かに残る温もりと、カリッとした表面の心地よい質感。
添えられた木のスプーンで、野イチゴのジャムを少しだけすくい、スコーンの割れ目へと乗せる。
ローランは覚悟を決め、口元へと運んだ。
前歯を立てる。
――サクッ、ホロッ……。
静かな廊下に、極上の破壊音が響いた。
(――ッ!?)
その瞬間、ローランの全身を、目に見えない衝撃波が貫いた。
サクサクとした表面が心地よく崩れ落ちた直後、内側から溢れ出してきたのは、粗挽き地粉の力強い香ばしさと、芳醇なバターのミルキーな甘み。
パサつきなど一切ない。驚くほどしっとりと口の中でほどけ、噛み締めるたびに小麦本来の素朴な旨味がじわりと滲み出てくる。
そこへ、野イチゴジャムの鮮烈な酸味が重なり合った。
砂糖の甘さに逃げない、朝露を浴びた野生の果実特有の、キュッと舌を刺激する気品あふれる酸味。
濃厚なバターのコクと、爽やかな酸味。
それらが完璧な黄金比で混ざり合い、咀嚼するたびに脳髄を甘美な快楽で満たしていく。
そして――嚥下した瞬間。
――ドクンッ!
ローランの胃の腑から、清らかな光の奔流が解き放たれた。
連日の心労によって、キリキリと痛み始めていた胃の粘膜が、まるで温かい絹の布で撫でられたかのように、一瞬で痛みを消失させた。
それどころか、徹夜続きで鉛のように重かった頭の奥の鈍痛が、朝風に吹き飛ばされた霧のように完全に消え去り、全身の血管に澄み渡るような活力と清涼感が満ち満ちていく。
「う……美味い……」
ローランの口から、掠れた吐息が零れ落ちた。
「なんだ、これは……身体の重みが……すべて消えていく……」
「でしょう!?」
レオノールが嬉しそうにパッと両手を叩いた。
「マノン様のお料理は、本当に魔法みたいなんです! 私、マノン様に『またいつでも遊びにおいで』って言っていただいたんです! お兄様、私、来週も行ってまいりますね!」
「……は?」
ローランの咀嚼が、ピタリと止まった。
「来週も……行く、だと……?」
「はい! 次はマノン様にお礼の品をお持ちして、縁側でお庭のハーブ摘みをお手伝いする約束をしたんです! タマちゃんもクロちゃんも、とっても可愛かったんですよ!」
タマちゃん(フェンリル)。
クロちゃん(キマイラ)。
国を滅ぼす二大厄災を「ちゃん付け」で呼び、来週の約束を楽しげに語る妹。
背後では、セリア副隊長が「はい、私もお供いたします。あの縁側は……我が心のオアシスです」と、恍惚とした表情で頷いている。
ローランは、手元に残った半分のスコーンを見つめ、次いでツヤツヤの笑顔を輝かせる妹を見つめた。
もはや、自分の知る世界の常識など、どこにも残っていなかった。
領主として、軍事の長として、この事態をどう解釈すべきなのか。
神獣を使役する調停者の館は、いつの間にか、妹の「週末のティーサロン」へとジョブチェンジしてしまったというのか――!?
「……セリア」
ローランは力なく呟いた。
「……はっ」
「……最高級の紅茶葉の手配を、大至急進めろ。……あの子が来週持参する、手土産だ」
「ははっ! 直ちに領内最高の茶商を走らせます!」
秋の木漏れ日が差し込む領主館の踊り場で、ローラン・ド・フォレストは、もう一口スコーンをかじりながら、天を仰いだ。
妹が無事だった安堵と、美味すぎるスコーンの多幸感、そして理解の追いつかない現実への困惑が混ざり合い、彼の明晰な頭脳は、心地よい降伏の白旗を掲げるしかなかったのだった。




