第30話:膝の上の温もり、解かれた呪縛
どれほどの時間が流れたのか、レオノールには分からなかった。
しゃくりあげる声が次第に小さくなり、激しく上下していた胸の波立ちが落ち着いた頃、あたりには再び、秋の澄んだ山風が木々を揺らすサワサワという優しい音だけが満ちていた。
「……ひぐっ、……す、すみま……せん……」
レオノールは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をマノンのエプロンから恐る恐る引き離した。
我に返った瞬間に押し寄せてきたのは、顔から火が出るほどの強烈な羞恥心だった。
フォレスト辺境伯家の直系たる身でありながら、あろうことか初対面の娘の胸に顔を埋め、子供のように喚き散らして泣き濡れてしまったのだ。しかも、マノンの清潔な白い麻の前掛けの中央には、自分の涙と涙痕がくっきりと大きな染みとなって残ってしまっている。
「申し訳、ございません……! 私、取り乱して……お召し物を汚してしまって……!」
慌てて謝罪の言葉を紡ごうとするレオノールの目の前に、ふわりと湯気を立てる柔らかな布が差し出された。
「いいのよ、気にしないで。お洋服なんて洗えばいくらでも綺麗になるんだから」
マノンはちっとも嫌そうな顔をせず、台所から持ってきたばかりの、ぬるま湯で固く絞った手ぬぐいをレオノールの両手に握らせてくれた。
ほんのりと温かい蒸気から、清らかな井戸水と清潔な布の匂いが立ち上る。
「まずは、お顔を拭いてさっぱりしましょうね。鼻をかむ紙もここにあるから、思いっきりかんでいいのよ。涙を流した後は、お顔がパリパリに突っ張っちゃうから」
まるで風邪を引いた妹を看病するかのような、手慣れた自然な気遣い。
レオノールは言われるがまま、温かい手ぬぐいを顔に押し当てた。
じんわりとした温もりが、泣き腫らして熱を持っていた瞼や鼻の頭を優しく包み込み、冷えた皮膚の強張りを解いていく。小さく鼻をかみ、息を整える。
胸の奥底を黒く塞いでいた重たい澱が、涙と一緒にすべて流れ落ちてしまったかのように、身体が驚くほど軽くなっていた。
――ズズッ。
その時、静かなウッドデッキの上に、かすかな摩擦音が響いた。
セリアの息が、喉の奥でピシリと凍りついた。
マノンの背後、座布団のすぐ脇に横たわっていた白銀の巨躯が、音もなく身じろぎしたのだ。
(し、神獣フェンリルが……動いた……!?)
セリアは反射的に腰の剣の柄頭に指を滑らせかけたが、即座に己の右手を左手で押さえつけて押し留めた。抜けば死ぬ。だが、抜かねば目の前で主が喰い殺されるかもしれない――その極限の葛藤の中で、セリアの額からタラリと冷や汗が垂れ落ちる。
白猫の姿をとった神獣フェンリルは、純白の太い四肢をゆっくりと伸ばすと、のっそりと立ち上がった。
金色の双眸が、座布団の上に小さく丸まっているレオノールをじっと見据えている。
その体躯から漏れ出る、大気を凍結させる絶対零度の気配。
先ほどまでのマノンの温もりによって霧散していたはずの冷気の圧力が、わずかに庭の空気を揺らした。
(来る……! 泣き叫んで神域の静寂を乱したレオノール様を、排除する気か……!?)
セリアが喉を詰まらせ、いつでも身を投げ出せるよう足の親指に全体重をかけた、その刹那――。
トス、トス、トス。
神獣は、音もなく香木の床を踏みしめて歩み寄ってきた。
そして、青ざめて身を強張らせるレオノールの真横まで来ると、躊躇うことなく、自らの長くて太い純白の尻尾を、レオノールの華奢な足首へと、ふわりと巻きつけたのだ。
「……え?」
レオノールが息を呑んだ。
シルクの靴下越しに伝わってきたのは、凍りつくような冷気ではなかった。
羽毛のようにふかふかで、驚くほど密度の高い極上の毛並みの感触。
それだけでは終わらなかった。
白猫は、大きな前足をレオノールの靴のすぐ脇に揃えてドサリと座り込むと――あろうことか、自らの重たい頭を、レオノールの足の甲の上へと、どっしりと預けてきたのだ。
ずしり。
米袋を乗せられたような、確かな重み。
顎の骨の硬さと、それを包む柔らかな皮膚の弾力が、薄い革靴を通してダイレクトに伝わってくる。
「……あ、たたかい……」
レオノールの口から、呆然とした声が漏れた。
触れるものすべてを永久凍土へと叩き落とすと恐れられた、極北の生ける天災。
その白銀の毛皮に、恐る恐る指先を触れさせてみる。
指先が凍傷で壊死することなどなかった。
冷たいどころか、天日干しにしたばかりの極上の羊毛布団のように、日向の匂いを吸い込んでぽかぽかと温かい。
白猫はレオノールの指が首筋に触れると、嫌がるどころか、金色の瞳をとろりと細め、自ら首を傾けてレオノールの手のひらに全体重を押し付けてきた。
「グルルルルル……ゴロゴロゴロゴロ……ッ」
地響きのような、重低音の喉鳴らし。
床板を通して伝わってくるその振動は、レオノールの足首を包み込み、冷え切っていたつま先を芯から温めていく。
「ふふっ」
お茶を淹れ直していたマノンが、その光景を見て嬉しそうに目を細めた。
「タマったら、やっぱりね。タマはね、泣いている人や落ち込んでいる人がいると、放っておけない優しい子なのよ。普段はマイペースで寝てばかりなのに、誰かが悲しそうにしていると、必ずこうやって体をくっつけて慰めに来てくれるの」
「な……慰めに……?」
レオノールは震える瞳で、自らの靴の上で目を細める白銀の神獣を見つめた。
天災が。
国を滅ぼす怪物が、人間の娘の涙に寄り添い、自らの体温を分け与えて慰めているというのか。
いや――目の前にいるのは、怪物などではない。
ただ、主の慈愛に包まれ、主の優しさをそのまま受け継いだ、心優しい一匹の家族なのだ。
「タマちゃん……」
レオノールは両手で、そっと白猫の耳の後ろを撫でた。
指先を埋めると、指の第二関節まで沈み込むほどの圧倒的な毛量。
タマは満足そうに「グルゥ……」と鼻を鳴らし、レオノールの足首に巻きつけた尻尾の先を、パタ、パタとリズミカルに振ってみせた。
胸の奥に、じんわりと温かい光が満ちていく。
自分は生贄などではない。
死ぬためにここへ来たのではない。
ただ、この温かな場所で、生きて、受け入れられている――その実感が、レオノールの凍りついていた心を完全に解き放っていた。
***
一方その頃。
ウッドデッキの端で直立していた辺境警備隊副隊長、セリア・クローデルは、文字通り「魂が天へと昇りかける」ような未曾有の体験の渦中にあった。
(……う、美味い……ッ。なんだこれは……本当に、この世の食べ物なのか……!?)
セリアは、手元の素焼きの小皿に乗ったスコーンの最後の一欠片を、震える指先でつまみ上げていた。
最初は、主であるレオノールを守るための毒味のつもりだった。
あるいは、極度の緊張で胃が破裂しそうになったため、無意識に手元の固形物を口へ放り込んだだけだった。
だが――一口かじった瞬間に広がった世界は、彼女の二十六年間の人生観を根本から覆すものだった。
ザクッ、と音を立てて砕けたスコーンの生地。
粗挽きの地粉の香ばしさと、贅沢に使われた発酵バターの甘く芳醇な香りが、噛み締めるたびに爆発するように鼻腔へと抜けていく。
パサつきなど微塵もない。舌の上でハラハラとほどけ、噛むほどに小麦本来の力強い甘みがジュワリと滲み出てくる。
そこへ重なる、ルビー色に透き通る野イチゴジャムの鮮烈な酸味。
裏山で朝露を浴びて実ったばかりの野生の果実を、最小限のきび砂糖で煮詰めたそのジャムは、市販のペーストのような人工的な甘ったるさが一切なく、野の息吹そのものの鋭く清涼な酸味を放っている。
そして、その酸味を優しく包み込む、真っ白な水切りヨーグルト。
井戸水で一晩かけて丹念に水分を抜かれたそれは、まるで極上のマスカルポーネチーズのようにねっとりと舌に絡みつき、濃厚なコクと爽やかな乳の酸味を添えていた。
温かいスコーンのサクサク感。
冷たいジャムとヨーグルトのとろける口溶け。
暴力的なまでの美味。
だが、真の奇跡は、その味の向こう側で静かに爆発していた。
ごくり、と嚥下した瞬間。
食道を通って胃袋へと落ちていったスコーンの塊から、眩いばかりの温かな光が、波紋のように体中へと広がっていったのだ。
(あ……あたたかい……。胃が……私の、胃が……!?)
セリアは左手を、自らの腹部へと当てた。
任務の重圧、神獣への恐怖、そして日頃の激務によって、常に錐で刺されるようにキリキリと引き絞られ、冷え切っていた胃の腑。
あの忌まわしい鈍痛が――消えていた。
消えていたどころではない。まるで初夏の清流で胃壁の隅々まで洗い清められたかのように、信じられないほどの爽快感と軽やかさが満ちていた。
長年、彼女の軍服の胸ポケットに常備され、一日に何度も噛み砕いていた特注の胃薬。
あの苦い丸薬が、まるで茶番であったかのように思えるほどの、完全なる治癒。
「……セリア?」
足元でタマを撫でていたレオノールが、ふと顔を上げてセリアを見つめた。
見れば、普段は鉄の規律を体現したように凛々しく無表情な女性騎士が、両手にスコーンの皿を持ったまま、瞳の焦点を完全に失い、口元を小さく開けて天を仰いでいたのだ。
その頬は林檎のように赤く染まり、目尻には感動のあまり滲み出た一筋の涙がキラリと光っている。
「セリア、大丈夫……? どこかお加減でも悪いの?」
「い、いえ……っ」
セリアはハッとして我に返り、慌てて口元を拭った。
しかし、その声はいつもの鋭さを完全に失い、蕩けきった猫のように情けなく上ずっていた。
「レオノール様……私、生まれて初めて知りました……。人間は……本当に美味いものを口にすると、恐怖すら忘れてしまうのですね……。それに……私の胃の痛みが、跡形もなく消え去りました……。あのお方は……マノン様は、やはり本物の……」
聖女だ。
至高の調停者にして、傷ついた魂と胃袋を救済する、奇跡の巫女。
セリアの胸の中で、マノンに対する認識は、もはや絶対的な崇拝の領域へと完全に昇格していた。
「ふふ、お代わりもありますからね。たくさん召し上がってください」
マノンが嬉しそうに笑いながら、竹籠から新しく焼き上がったばかりのスコーンを二つ、皿の上へと乗せてくれた。
さらに、冷めかけたカップを回収し、湯気を立てるポットから、黄金色のハーブティーをとくとくと注ぎ足してくれる。
立ち上るカモミールと乾燥林檎の甘やかな香り。
ウッドデッキの上には、いつの間にか穏やかな秋の陽光が燦々と降り注いでいた。
レオノールの足首には、白猫タマのふかふかの尻尾と重たい頭。
その少し離れた場所では、黒猫のクロが前足を揃えて香箱座りをし、レオノールの手元のジャムの匂いをスンスンと物珍しそうに嗅いでいる。
屋根の上では、黄色い小鳥のピピが、「ピピッ、ピピピィ♪」と心地よいリズムで歌を歌っていた。
神話の厄災に取り囲まれているはずの庭先。
死を覚悟して乗り込んできたはずの場所。
それなのに、いま流れている時間は、王都の一流ホテルのティーサロンすら足元に及ばないほど、どこまでも穏やかで、どこまでも甘やかで、贅沢なものだった。
「美味しいです……マノン様」
レオノールは両手で温かいカップを包み込み、心からの笑顔を浮かべた。
十九年間の人生で、一度も見せたことのなかった、肩の力を完全に抜いた、少女のような屈託のない笑み。
「様なんていりませんよ、レオノールさん。私はただのマノンです」
マノンは優しく目を細め、自らも縁側の端に腰を下ろして、お茶を一口すすった。
「山の上はこれからどんどん寒くなるけれど、お天気のいい日の縁側は、こうやって日向ぼっこするのに最高なんです。……またいつでも、遊びに来てくださいね」
「……! はい……! ぜひ、また伺わせてください!」
レオノールは胸の前で両手を握りしめ、力強く頷いた。
その瞳には、領民を守るための悲壮な覚悟ではなく、新しい大好きな場所を見つけた少女の、眩いばかりの希望の光が宿っていた。
秋の爽やかな風が、新しくなったウッドデッキを吹き抜けていく。
香木の清冽な香りと、焼きたてのスコーンの甘い匂い。
そして、足元から伝わる神獣の確かな温もり。
領主館で胃を痛めながら妹の身を案じているであろう兄ローランの心労など露知らず、山奥の古民家の縁側では、奇跡のように温かな、世界一優しいお茶会が続いていくのだった。




