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第29話:ハーブの香りと、零れ落ちた涙

白い陶器のカップの縁から立ち上るひとすじの湯気が、秋の木漏れ日を浴びて淡い金色に透けていた。

指先を添えると、じんわりと心地よい熱が冷え切った皮膚を透過し、かじかんでいた骨の奥まで染み渡っていく。


レオノール・ド・フォレストは、膝の上に広がる純白のドレスを見つめたまま、激しい眩暈のような混乱の中に沈んでいた。

自らの身に起きている現実が、あまりにも理解の範疇を超えていたからだ。


(……私は、一体……何をしているのかしら……)


昨夜、自室の鏡の前で命を捨てる覚悟を決めた。

愛する兄のため、そしてフォレスト領の数万の民の盾となるため、世界を滅ぼす神獣と調停者の元へ「生贄」としてその身を捧げる。そう誓って、死装束の如き飾り気のない白のドレスを纏い、震える足で山道を登ってきたはずだった。

骨を砕かれ、魂を灼かれ、あるいは冷たい牢獄に繋がれる――いかなる無残な末路であっても受け入れようと、奥歯を噛み締め、唇から血を滲ませるほどの覚悟を固めていた。


それなのに。

いま、自分の目の前にある光景は、一体何なのだろう。


腰を下ろしているのは、昨日完成したばかりだという、真新しい香木のウッドデッキ。

手触りはどこまでも滑らかで、まるで初夏の陽だまりをそのまま閉じ込めたようにほんのりと温かい。木肌からは、針葉樹の清冽で甘やかな芳香が絶え間なく立ち上り、鼻腔をくすぐっている。

そして、手元には素朴な白いカップ。

その向こうには、黄金色に焼き上がったばかりの、香ばしい湯気を立てるスコーン。

深いルビー色をした手作りの野イチゴジャムと、雪のように純白の水切りヨーグルト。


「……あたたかい……」


思わず、乾いた唇から掠れた呟きが零れた。

レオノールは両手でカップを持ち上げ、ゆっくりと息を吹きかけた。

ふわりと舞い散った湯気とともに、息を呑むほど芳醇で、優しい香りが鼻腔を満たす。


カモミールと、乾燥させた林檎の皮。

青々とした野の花の甘さと、陽光をたっぷりと浴びて熟した果実の甘酸っぱさが、完璧な調和を保って溶け合っていた。

王宮や大貴族の夜会で供されるような、香料を過剰に効かせた派手な高級紅茶ではない。

土と太陽、そして清らかな山の水に育まれた植物の命を、丁寧に摘み取り、丹念に干し上げて作られた、大地の息吹そのものの香り。


唇をつけ、一口含む。

――スゥッ、と。

熱い液体が喉を通った瞬間、レオノールの胸の奥で、カチカチに凍りついていた何かが音を立てて緩んだ。

口いっぱいに広がる、林檎の自然な甘みと、カモミールの柔らかな苦み。

それは喉を潤すだけでなく、食道を通って胃の腑に落ちた瞬間、身体の内側からぽかぽかとした陽だまりの熱となって、手足の指先の毛細血管の隅々にまで広がっていった。


「外は少し冷えたでしょう。スコーンには庭の野イチゴで作ったジャムと、水切りヨーグルトをたっぷりつけてどうぞ」


目の前にしゃがみ込んだマノンが、エプロンのポケットに手を入れながら、まるで妹を見守る姉のような柔らかな笑顔で微笑みかけてくる。

その瞳には、一握の計算も、身分の貴賎を測る打算も、神獣を使役する者特有の傲岸さも、何一つ存在しなかった。

ただ、山道を歩き疲れて行き倒れかけていた娘を介抱し、温かいお茶と手作りの焼き菓子でもてなす、心優しい田舎の娘の純粋な善意だけが、陽光のように溢れ出していた。


「……いただきます」


レオノールは震える手で、手元の素焼きの皿へと指を伸ばした。

二つに割られたスコーンの断面からは、まだ白い湯気が立ち上っている。

添えられた木のスプーンで、野イチゴのジャムをすくい、惜しげもなく乗せる。透き通るような紅色の果肉の中に、細かな種の粒が散りばめられているのが見える。その上へ、水切りヨーグルトをふわりと重ねた。


指先でつまみ上げ、口元へと運ぶ。

そして、サクッと、小さく前歯を立てた。


――サクッ、ホロッ……。


あまりにも軽やかな、けれど密やかな破壊音。

その瞬間、レオノールの脳裏に、言葉にならない衝撃が走った。


(……っ、なに、これ……!?)


外側は、オーブンの直火でこんがりと焼き上げられ、パイ生地のように香ばしくサクサクと崩れていく。

だが、内側は驚くほどしっとりと、口の中の水分を一切奪うことなく、まるで極上の蒸し菓子のように優しくほどけていくのだ。

地粉の力強い穀物の香りと、発酵バターの芳醇なコク。

そこへ、野イチゴジャムの野性味あふれる鮮烈な酸味と、水切りヨーグルトのフレッシュチーズのように濃厚で爽やかな酸味が、完璧なグラデーションを描いて雪崩れ込んでくる。


甘い。酸っぱい。香ばしい。

そして、何よりも――温かい。

噛み締めるたびに、素材の命のエネルギーが、口内から溢れ出して全身を満たしていく。

飲み込んだ瞬間、胃の底から温かな熱が込み上げ、胸の奥をぎゅっと押し上げてくるような感覚。


(美味しい……。こんなに美味しいものが、この世にあるなんて……)


二口目、三口目と、レオノールは夢中でスコーンを口へと運んだ。

上品に小鳥のようについばむ貴族のテーブルマナーなど、完全に忘れていた。

指先に付いたパン屑すら愛おしく、こぼれ落ちそうになるジャムを唇で受け止めながら、一口ごとにハーブティーをすすり、その滋味を全身の細胞で噛み締める。


隣では、護衛のセリアが直立不動のまま、出されたスコーンを片手で握りしめ、無心で口を動かしていた。

あの生真面目で眉間に皺を寄せていた女性騎士が、両目を白黒させ、咀嚼するたびに「う……うまい……胃が……胃の痛みが完全に消えていく……」と、呆然と呟きながら涙ぐんでいる。

足元を見れば、あの白銀の神獣フェンリルが、レオノールの純白のドレスの裾に大きな頭をちょこんと乗せ、細めた金色の瞳で穏やかにこちらを見上げていた。

日だまりの匂いのする、柔らかい毛並み。

触れるものを凍らせるはずの怪物が、まるで炉端の飼い犬のように、レオノールの足元で静かに温もりを分け与えてくれている。


なぜだろう。

こんなにも満ち足りて、こんなにも温かいのに。

レオノールの喉の奥が、熱い塊でせり上がってくるように痛かった。


(……私、ずっと……)


視界が、急激に滲み始めた。

スコーンを持つ指先が、小刻みに震え始める。


思い返せば、十九年間の人生の中で、自分は一度として「息を抜く」ことを許されてこなかった。

フォレスト辺境伯家の娘。

常に完璧で、従順で、気品に満ちた淑女であらねばならなかった。

母を早くに亡くし、病弱な父を支え、若くして領主代行の重責を背負った兄ローラン。

兄の苦労を誰よりも近くで見ていたからこそ、レオノールは自らに厳しすぎる掟を課し続けてきたのだ。


――お兄様の足を引っ張ってはならない。

――フォレストの名を汚すような弱音を吐いてはならない。

――領民の模範となるべく、常に美しく、常に微笑んでいなければならない。

――何の役にも立たない無力な妹なのだから、せめて我儘を言わず、感情を押し殺さねばならない。


ドレスのコルセットを限界まで締め上げ、息が詰まりそうになっても、笑顔を崩さなかった。

領地の財政が逼迫し、兄が夜ごと頭を抱えていた時も、「私にできることはありませんか」と口にすることすら躊躇われた。無力な自分が口を出せば、かえって兄に気を遣わせ、負担を増やしてしまうと知っていたから。

自分は無能だ。守られるだけの足手まといだ。

誰の役にも立てず、ただ兄の命を削った平穏の上に胡坐をかいて生きているだけの、恥ずべき存在だ――。

その冷たい自責の刃で、自らの心を毎日、少しずつ切り刻み続けていた。


だからこそ、神獣の噂を聞いた時、心のどこかで安堵すらしていたのだ。

ようやく、役に立てる。

この無力な命を差し出すことで、兄を救い、領民を守る盾になれる。

生贄になることこそが、自分が生まれてきた唯一の存在価値なのだと――そう信じ込むことでしか、押し潰されそうな孤独と重圧に耐えられなかった。


なのに。

目の前の娘は。

この世界を統べる至高の調停者は。


「……お嬢さん?」


マノンの声が、すぐ目の前から降ってきた。

レオノールが顔を上げると、マノンはしゃがみ込んだまま、泥で薄汚れてしまったレオノールの純白のドレスの裾を、そっと自分の手で払ってくれていた。

そして、レオノールの顔を覗き込み、眉を八の字に下げて、心からの慈愛を込めて言ったのだ。


「――よく頑張って、ここまで登ってきたわね」


ドクンッ、と。

レオノールの心臓が、激しく跳ね上がった。


「こんなに険しい山道を、一人で……ううん、騎士様と二人だけで、一生懸命歩いてきたんでしょう? 足も痛かったでしょうに。怖かったでしょうに。……本当に、よく頑張ったわね。偉かったわね」


その瞬間。

レオノールの胸の中で、十九年間張り詰めていた見えない糸が、ぷつりと音を立てて千切れ飛んだ。


(あ……っ)


誰も、言ってくれなかった。

領主の娘として、立派に振る舞うことを褒められたことはあっても。

淑女としての完璧な礼儀作法を称えられたことはあっても。

ただの一人の人間として、自分がどれほど耐えてきたかを、どれほど必死に歩んできたかを、こんな風に認めてくれた人はいなかった。

兄を助けたい一心で、震える膝を叩きながら、死ぬほどの恐怖に耐えて登ってきたこの山道を、「よく頑張ったね」と肯定してくれた人など、この世のどこにもいなかったのだ。


「う……っ、ぁ……」


喉の奥から、押し殺していた嗚咽が漏れ出た。

止めようとした。

淑女として、人前で取り乱すなどあってはならない。ましてや神威の宿る聖域の前で、無様に泣き崩れるなど万死に値する無礼だ。

そう思って唇を噛み締めようとしたが、もう、決壊した感情の濁流を押し留める術は残っていなかった。


「……ぅ、ぐすっ……ひっ……」


ポロポロと、大粒の涙が瞳から溢れ出した。

一粒、二粒と零れ落ち、やがてそれは止めどない雨となって、レオノールの頬を濡らし、膝の上の純白のドレスへと黒い染みを作っていく。

手元のスコーンを皿へと戻し、レオノールは両手で顔を覆った。


「うわあああぁぁぁん……っ!!」


子供のように、声を上げて泣きじゃくった。

十九年分の重圧。

兄を想うあまりに自らを呪い続けていた苦しみ。

生贄として命を散らす恐怖。

それらのすべてが、濁った涙となって、目から、鼻から、口から、とめどなく噴き出していく。

肩を激しく上下させ、しゃくりあげ、ドレスの胸元を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡らしながら、レオノールはただひたすらに泣き続けた。


セリアが息を呑み、狼狽えて手を伸ばしかけた。

しかし、そのセリアの腕よりも早く、動いた影があった。


――ぎゅっ。


レオノールの小さな体が、ふわりと温かな腕の中に包み込まれた。


「……っ!?」


マノンだった。

マノンはウッドデッキの上に両膝をつき、泣きじゃくるレオノールの体を、自らの胸元へと優しく引き寄せていた。

抱きしめられた胸元からは、洗い立てのリネンの香りと、かまどの薪の匂い。

そして、マノンの細く、けれど温かい手のひらが、レオノールの華奢な背中へとそっと当てられた。


――トントン、トントン。


一定の、まるで母が幼子を寝かしつけるような、穏やかなリズム。

マノンは何も聞かなかった。

なぜそんな薄着で山へ来たのかも。

なぜ泣いているのかも。

あなたの身分は誰なのかも。

何一つ詮索することなく、ただ無言のまま、泣きじゃくる少女の背中を、優しく、優しく撫で続けた。


「いいのよ。泣いていいのよ」


耳元で、囁くようなマノンの声が響く。

「全部吐き出しちゃいなさい。いっぱい我慢してきたんでしょう。……もう大丈夫だからね。ここは誰もあなたを怒ったりしないわ。ゆっくり、全部泣いちゃいなさい」


マノンの手のひらから、レオノールの背骨を通って、純度百パーセントの『絶対浄化の波動』が注ぎ込まれていく。

それは魔術の回復ではない。

傷ついた心をそのまま丸ごと受け止め、魂の棘を一本ずつ抜いていくような、無償の愛と慈悲の手当て。

背中を撫でられるたびに、レオノールの胸の奥底で燻っていた自己嫌悪の毒が、涙とともに体外へと洗い流されていく。


「うっ……ううぅ……っ、お、お兄様……っ、わたし……わたし……っ!」

「ええ、ええ。頑張ったわね。偉かったわね」


レオノールはマノンのエプロンに顔を埋め、子供のように縋り付いて泣いた。

高貴な血筋も、辺境伯家の誇りも、何もかも脱ぎ捨てて。

ただの一人の傷ついた娘として、マノンの温もりに全身を委ね、心の底から叫び、涙を流し続けた。


秋の爽やかな風が、新しくなったウッドデッキを吹き抜けていく。

庭先では、山柿の木の葉がカサカサと優しく音を立て、屋根の上では黄色い小鳥のピピが、静かにその光景を見守っていた。

足元にいた白猫のタマも、黒猫のクロも、二人の邪魔をすることなく、ただ静かに前足を揃え、穏やかな眼差しで泣きじゃくる少女の足元に寄り添っていた。


澄み渡る秋の青空の下。

張り詰めていた少女の魂の呪縛が、素朴なハーブの香りと焼きたてのスコーン、そして名も知らぬ娘の温かな手のひらによって、いま、完全に解き放たれようとしていた。

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