第28話:木漏れ日の縁側と、焼きたてのスコーン
朝の澄み切った木漏れ日の中、古民家の庭先に立ちすくむ二人を見つけた瞬間、マノン・デュランの脳裏を駆け巡ったのは、王都の薬舗で培った「生活者の観察眼」だった。
(まあ……! なんて綺麗なお嬢さんなのかしら。それに、隣の凛々しい方は護衛の騎士様ね)
マノンは手元の小さな木桶を抱え直しながら、驚きに目を丸くした。
庭の境界に立つ少女は、まだ十代の半ばを過ぎたばかりだろうか。細く波打つ淡い金色の髪を秋風になびかせ、透き通るような白い肌をしている。身に纏っているのは、飾り気こそないものの、一目で極上と知れる純白のシルクドレス。
しかし――その姿があまりにも痛々しかった。
この冷え込む晩秋の山裾だというのに、外套の一枚すら羽織っていない。風が吹き抜けるたび、華奢な肩が小刻みに震え、膝を折るようにしてその場に倒れ込みそうになっている。隣に立つ青灰色の短髪の女性騎士も、革鎧の下で顔面を蒼白に染め、今にも倒れそうな主の体を支えようと必死に腕を伸ばしている。
(どう見ても、道に迷って山奥まで登ってきちゃったのね……! こんな薄着で、朝の寒風の中を歩き通すなんて。足元も泥で濡れているし、きっと靴擦れだってひどいはずだわ)
王都の大通りでも、時折見かけた光景だった。
世間知らずの貴族のご令嬢が、ちょっとした気まぐれや馬車の故障で歩く羽目になり、寒さと疲労で青ざめて薬舗に飛び込んでくる。あるいは、近隣の大きな屋敷に引っ越してきたばかりの家が、ご近所への挨拶回りの途中で道に迷ってしまうパターンだ。
「ちょっと待っててくださいね!」
マノンは抱えていた木桶――朝一番に井戸から汲み上げたばかりの、水仕事用の桶を土間の上がり框へと素早く置くと、エプロンで手を拭きながら、新しく完成したばかりのウッドデッキを小走りに駆け抜けた。
ガスパールが魂を込めて組み上げた樹齢五百年の防腐香木は、マノンの足音を吸い込むように一切の軋み音を立てない。
庭の土を踏み、二人の元へと急ぐ。
***
「……っ!!」
セリア・クローデルの全身の血液が、一瞬で沸騰したかのように逆流した。
平屋の玄関から現れた小柄な娘――至高の調停者マノンが、迷いのない足取りでこちらへと真っ直ぐに向かってくる。
レオノールを守らねばならない。腰の片手剣を引き抜き、我が身を盾にして主を逃がさねば――そう命じる脳の伝達を、セリアの肉体は完全に拒絶していた。
動かない。指先一本、爪先一つ動かせない。
なぜなら、走ってくるマノンの背後。
あの真新しい香木のウッドデッキの上から、三つの神話級の視線が、寸分の狂いもなくセリアとレオノールの眉間へと固定されていたからだ。
白猫が、前足を香木の床に突き立て、わずかに腰を浮かせている。
黒猫が、音もなく身を低くし、影の中から漆黒の牙を覗かせている。
屋根の上の小鳥が、羽を広げ、いつでも業火の帳を広げられるよう神気を凝縮させている。
『我が主が自ら歩み寄られているのだ。……無礼な真似を一つでもしてみろ、塵も残さぬぞ』
声にならない神威の圧力が、森の空気を直接きしませる。
剣を抜けば即座に消滅。逃げ出しても即座に凍結。
セリアの額から、凍りつくような冷汗がツーと顎を伝い、地面へと滴り落ちた。
隣を見れば、レオノールはすでに両膝を泥土につけ、今まさに額を地面へ擦り付けて無条件降伏の平伏を行おうとしている。
終わりだ。
自分たちは今日、ここで、神話の生贄として魂を刈り取られるのだ――。
セリアが唇を強く噛み締め、絶望の中で目を閉じる覚悟をした、まさにその瞬間だった。
「――まあまあ! そんな冷たい地面にお膝をついちゃダメですよ!」
ふわり、と。
晩秋の肌を刺すような冷風が、一瞬にして春の陽だまりのような温風へと変わった。
泥土に膝をつきかけていたレオノールの両脇の下に、柔らかく、けれど驚くほどしっかりとした二つの温かい手が滑り込んできたのだ。
「え……?」
レオノールが驚きに目を見開く。
目の前にいたのは、膝を泥で汚すことすら厭わず、自らの体を支え上げてくれている栗色の髪の娘だった。
生成りの木綿ワンピースに、清潔な白い麻のエプロン。
鼻をかすめたのは、殺気でも、血の匂いでも、禍々しい魔力の気配でもなかった。
それは――天日干ししたばかりの清潔なリネンの匂いと、甘く香ばしい、焼きたての小麦の匂いだった。
「こんなに手足が冷え切っているじゃないですか! 唇も紫色になって……。山道で迷子になってしまわれたのね? 歩き疲れて、お腹も空いているでしょう」
マノンは心底から心配そうに眉を下げ、レオノールの華奢な体を抱き起こした。
その手のひらから、レオノールの凍えきっていた全身へと、信じがたい熱量が流れ込んできた。
それは攻撃的な魔力熱ではない。
あらゆる毒気を凪がせ、張り詰めていた神経を優しく包み込む、マノン特有の『波長ゼロの無害気質』。
触れられた瞬間、レオノールの奥歯のガチガチとした震えが、まるで魔法のようにピタリと収まった。心臓を締め上げていた冷たい恐怖の氷柱が、春の雪解け水のようにスーッと溶け去っていく。
「あ……あの……わ、私は……」
レオノールの口から、掠れた声が漏れ出た。
生贄として名乗りを上げねばならない。
フォレスト辺境伯家の娘として、自らの命を捧げる口上を述べねばならない。
頭ではそう分かっているのに、目の前の娘の、あまりにも温かく慈愛に満ちた眼差しを見つめていると、用意していた悲壮な言葉が喉の奥で溶けて消えてしまう。
「いいの、いいの、お話は後でゆっくり聞きますからね」
マノンは屈託のない笑顔を浮かべ、レオノールの背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「いらっしゃいませ。ちょうど今、朝のお茶の準備をしていたところなんです。どうぞ、縁側に上がって温まっていってくださいな!」
マノンはレオノールの手を取り、当たり前のように歩き出した。
その後ろで、セリアは完全に顎が外れそうな顔で硬直していた。
(……え? いらっしゃいませ……? お茶……?)
騎士としての理性が、目の前で展開される光景を処理しきれずにショートを起こしていた。
生贄として平伏しようとした領主令嬢が、まるで行き倒れ寸前の近所の子供のように介抱され、手を取られて平屋へと連れて行かれる。
そして――。
ウッドデッキの上で待ち構えていた三代厄災たち。
マノンが近づいた瞬間、白猫はスッと腰を下ろし、「グルルゥ……(また客か)」と小さく欠伸を噛み殺した。
黒猫も影から出てきて、香木の床に前足を揃え、「ふにゃ」と短く喉を鳴らした。
屋根の上の小鳥は、「ピピッ♪」と可愛らしく囀りながら羽を整えている。
世界を滅ぼす殺気など、爪の先ほども残っていなかった。
「ほら、騎士様も! ぼうっと突っ立ってないで、早くこちらへどうぞ! あなたも手が真っ白ですよ!」
マノンに振り返って手招きされ、セリアは魂が抜けた人形のように、ふらふらとその後を追うしかなかった。
***
案内されたのは、庭に面した広々としたウッドデッキの上だった。
「はい、お嬢さんはここへ座ってくださいね。床も冷たくないですから」
マノンが居間から手早く運んできたのは、古い麻布を幾重にも縫い合わせて綿を詰めた、ふかふかの座布団だった。
レオノールはおずおずと、その座布団の上に腰を下ろした。
足裏と臀部に伝わってくるのは、樹齢五百年の防腐香木が蓄えた、驚くほど柔らかな弾力と、日だまりの温もり。
そして――鼻腔を満たす、清冽な木の香りと、奥の台所から漂ってくる猛烈に甘く香ばしい匂い。
セリアはウッドデッキの端、レオノールの斜め後ろに直立し、油断なく周囲を警戒……しようとしたが、無理だった。
すぐ手の届く距離――座布団のすぐ脇に、あの白銀の神獣フェンリルが、大きな白い毛玉となってドサリと横たわっていたからだ。
触れれば指が凍りつくはずの神獣が、レオノールの純白のドレスの裾に、巨大な頭をすり寄せるようにして丸くなっている。
セリアの胃がキリキリと引き絞られたが、もはや胃薬を取り出す気力すら湧かなかった。
「お待たせしました! 外は冷えたでしょう、まずはこれを飲んで温まってくださいね」
からり、と引き戸が開き、マノンが木製のお盆を抱えて戻ってきた。
お盆の上には、素朴な白い陶器のカップが二つ。
そこから立ち上っていたのは、白い柔らかな湯気と、かつて嗅いだことのないほど優しく、どこか懐かしい甘い香りだった。
「ハーブティーです。裏庭で育てていたカモミールの花を乾燥させたものに、マルタおばあちゃんから貰った林檎の皮を刻んでブレンドしたんですよ。林檎の甘い香りがカモミールの苦みを消してくれるから、とっても飲みやすいんです」
コトリ、とレオノールの前にカップが置かれた。
続いて、セリアの前にも。
「騎士様もどうぞ。立ちっぱなしじゃ疲れちゃいますよ」
「あ……か、感謝……いたします……」
セリアは掠れた声で礼を言い、震える手でカップを受け取った。
レオノールは両手で、目の前のカップをそっと包み込んだ。
じんわりとした温もりが、かじかんでいた指先から手のひらへ、そして腕の血管を通って全身へと広がっていく。
透き通るような淡い黄金色の液体。
顔を近づけると、カモミールの青く甘いリンゴに似た香りと、本物の乾燥リンゴの皮が放つ甘酸っぱい果実の芳香が、湯気とともに鼻腔を優しく撫で上げた。
(温かい……。毒など、何一つ入っていない……)
一口、唇をつける。
滑らかな温かい液体が、舌の上を転がった。
優しい甘み。砂糖のくどい甘さではなく、天日干しされたリンゴの自然な滋味と、野の花が持つ大地の温もりが、喉を通るたびに胸の奥の冷たい塊を溶かしていく。
薬舗で十年間、生薬の調合を極めたマノンならではの、心身を芯から解きほぐす奇跡のブレンド。
胃の腑に落ちた瞬間、レオノールの胸の奥底で、何かが静かに震えた。
「そして――今朝焼いたばかりなんですけれど、お口に合うかしら」
マノンが嬉しそうに差し出した素焼きの平皿。
その上に乗っていたのは、黄金色に焼き上げられた、手のひらサイズの四角い焼き菓子――スコーンだった。
「――っ!!」
セリアの目が、皿の上の物体に釘付けになった。
先日のリンゴタルトと同じ、あの暴力的なまでの美味の予感が、皿の上から湯気となって立ち上っていたからだ。
スコーンの表面は、オーブンの強火でこんがりと香ばしい焼き色がつき、中央には「オオカミの口」と呼ばれる美しい亀裂がパッカリと真横に走っている。完璧な火加減と生地の織り込みがなされた証拠だ。
小麦とバターの濃厚な香りが、秋の冷気の中で弾け飛んでいる。
さらに、皿の脇には小さな素焼きの小鉢が二つ添えられていた。
一つは、深いルビー色に輝く、裏山で摘んできたばかりの野イチゴをきび砂糖で煮詰めた手作りジャム。
もう一つは、雪のように白い、清潔なガーゼで一晩かけて井戸水で水分を抜いた、濃厚な水切りヨーグルト。
「手で真ん中からパカッと割ってね、ジャムとヨーグルトをたっぷり乗せて食べるのが一番美味しいんですよ。冷めないうちにどうぞ召し上がれ」
マノンの屈託のない声に促され、レオノールは震える指先を伸ばした。
まだ熱いスコーンを手に取る。
指先に伝わるのは、カリッとした表面の硬さと、内側の確かな弾力。
亀裂に親指を差し込み、左右に開く。
――サクッ、ふわぁ……っ!
小気味よい音とともにスコーンが二つに割れ、内側から閉じ込められていた真っ白な湯気と、芳醇極まりない発酵バターの甘い香りが一気に溢れ出した。
断面は、しっとりとした淡いクリーム色の気泡を抱えている。
レオノールは小さなスプーンを取り、ルビー色の野イチゴジャムをたっぷりと、そしてその上から水切りヨーグルトをこんもりと乗せた。
黄金色のスコーンの上に、赤と白が美しく重なる。
生贄の覚悟など、この瞬間のレオノールの意識からは完全に消え去っていた。
ただ、目の前の温かな恵みに引き寄せられるように、レオノールはその端を、小さな口で一口かじった。
――サクッ、ホロッ……。
静かな山裾に、極上の軽やかな音が響いた。
(――ぁ……っ!?)
レオノールの瞳が、大きく見開かれた。
外側は、サクサクと香ばしく砕け散るパイのような歯ごたえ。
だが、内側は驚くほどしっとりと、口の中の水分を奪うことなく、まるで極上の蒸しパンのように優しく舌の上でほどけていく。
粗挽きの地粉の素朴な香ばしさと、バターの濃厚なコク。
そこへ、野イチゴジャムの鮮烈で野性味あふれる酸味と、水切りヨーグルトのまるでフレッシュチーズのように濃厚で爽やかなクリーミーさが雪崩れ込んでくる。
甘酸っぱさとコク、そして温かさと冷たさの絶妙な調和。
噛み締めるたびに、素材の命のエネルギーが、口内から溢れ出し、細胞の一つ一つへと染み渡っていく。
「……っ、おい……しい……」
レオノールの唇から、震えるような吐息が零れ落ちた。
貴族の夜会で供される、砂糖をこれでもかと使った豪奢な菓子とはまるで違っていた。
大地で育った麦の力。
朝摘みの果実の瑞々しさ。
そして――何よりも、食べる人の体を芯から気遣い、丁寧に作られた料理だけが持つ、圧倒的な優しさ。
一口、また一口と、レオノールは無我夢中でスコーンを口へと運んだ。
喉を通るたびに、体内の冷え切っていた芯が、ぽかぽかと温かい光で満たされていく。
木漏れ日が、ウッドデッキを柔らかく照らしていた。
目の前には、優しく目を細めて自分を見守ってくれる、前掛け姿のマノン。
足元には、静かに息を整える白猫の温もり。
そして、手の中には、温かいスコーンとハーブティー。
あんなにも恐ろしかったはずの山奥の平屋が、いま、世界で一番安全で、世界で一番温かな場所に感じられていた。
レオノールの胸の奥で、張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて解け始めていた。




