第27話:山道の果て、静寂の聖域への足音
ざく、ざくと、湿り気を帯びた黒土と敷き詰めた落葉を踏みしめる音だけが、朝の静寂に沈む山林に響いていた。
雑木林の木々の間から差し込む朝の光は、淡い黄金色の筋となって斜めに木立を貫き、森の冷たい空気を幾筋にも切り分けている。風がそよぐたびに梢が擦れ合い、葉先から落ちた朝露が、陽光を弾いてきらきらと細やかな光の粒を散らしていた。
あまりにも清らかで、あまりにも美しい、山裾の朝の風景。
だが、その木漏れ日の回廊を一歩進むごとに、レオノール・ド・フォレストの足取りは、まるで鉛の足枷を嵌められたかのように重く軋んでいた。
(……足が、震えているわ)
レオノールは自らの太ももを、純白のドレスの上からそっと押さえた。
装飾を削ぎ落としたシルクの裾は、歩みを進めるたびに道端の下草をかすめ、冷たい朝露を吸ってほんの少し黒ずみ、重みを増していた。防寒の外套すら身につけず、露出した首筋と手首には、容赦のない晩秋の冷気が鋭利な刃物のように触れてくる。
だが、寒さなど問題ではなかった。
全身の皮膚という皮膚が粟立ち、心臓が肋骨を内側から突き破らんばかりに狂乱の早鐘を打っているのは、外界の寒さのせいではない。
この山道を満たしている「気圧」のせいだった。
一歩前へ進むたびに、大気の密度が目に見えて跳ね上がっていく。
鼻腔から吸い込む空気は、まるで氷河の底から直接汲み上げてきたかのように凍てつき、喉の奥をツンと刺す。それと同時に、舌の奥底には、焼け爛れた鉱物を舐めたかのような微かな痺れが残る。
気圧。重力。あるいは、人知を超えた高密度の神聖な魔力波長。
それらが幾重にも折り重なり、まるで水深数千メートルの水底を歩かされているかのような、強烈な圧迫感が全身に圧し掛かっていた。
「……レオノール様、歩幅を狭めてください。足元が濡れて滑りやすくなっております」
半歩前を行くセリア・クローデルが、抑えきれない緊張を孕んだ低音で囁いた。
セリアの右腕は、常に腰の片手剣の柄頭に置かれていた。革の手袋の隙間から、じわりと脂汗が滲み出ているのが見える。
辺境警備隊の副隊長として、数々の荒くれ者や魔獣と対峙してきた生真面目な騎士。そのセリアが、首筋の血管を怒張させ、青白い顔で周囲の笹薮を油断なく見回していた。
時折、胸ポケットのあたりを左手でぎゅっと押さえ、先ほど噛み砕いた胃薬の苦い残滓を飲み下すように、喉仏を激しく上下させている。
歴戦の騎士ですら、正気を保つために薬にすがらざるを得ない場所。
自分たちは今、まさにその「神話の爪先」へと踏み込もうとしているのだ。
(しっかりなさい、レオノール。怯えてどうするの。……私は、自ら望んでここへ来たのではないの)
レオノールは奥歯を強く噛み締め、震えそうになる膝に力づくで命令を下した。
兄ローランのやつれた顔。
フォレスト領の民の穏やかな暮らし。
それらを守るための盾となる。自らを人質として、生贄として差し出す。昨夜、自室の鏡の前で固く誓った覚悟が、恐怖で濁りそうになる意識の底で、小さな、けれど確かな灯火となって燃えていた。
やがて、小道を取り囲んでいた鬱蒼とした杉の木立が途切れ、前方の視界が一気に白く開けた。
「……っ」
セリアが息を呑み、歩みを止めた。
レオノールもまた、セリアの背中越しに、その光景を瞳に映した。
そこに広がっていたのは――レオノールが想像していたような、おどろおどろしい魔境ではなかった。
天を突く骨の山も、どす黒い怨念が渦巻く結界の防壁も、生贄を縛り付けるための冷酷な祭壇も、そこには何一つ存在していなかった。
ただ、広大な空の下に、ぽつんと佇む素朴な平屋の古民家。
庭の隅には、丁寧に掃き清められた黒々とした土が広がり、手入れの行き届いた柊の生垣が、柔らかく敷地の境界を区切っている。
生垣の足元には、秋の野山に咲く淡い紫色の野菊や、凛として天を仰ぐ竜胆、そして朱色の実を鈴なりにつけた野茨が、朝露に濡れながら誇らしげに咲き乱れていた。
井戸の脇に置かれた手水鉢の水面は鏡のように澄み渡り、軒下に吊るされた干し柿が、朝の風に揺れてかすかな甘い匂いを漂わせている。
どこまでも長閑で、どこまでも丁寧な、慎ましい山裾の暮らし。
あまりの落差に、レオノールの思考が一瞬、空白に包まれた。
(ここが……あの、恐ろしい調停者様の館……? まるで、絵本に出てくる優しい木こりの家のような……)
だが、その安らぎの錯覚は、次の瞬間に打ち砕かれた。
「――っ、レオノール様、動かないで……!」
セリアの掠れた、悲鳴に近い囁き声が耳朶を打った。
セリアの右腕が、レオノールの前に庇うように突き出される。その腕が、甲冑の留め具を鳴らすほどにガチガチと激しく震えていた。
レオノールは、視線を古民家の正面へと向けた。
平屋の南側に張り出した、出来立ての真新しいウッドデッキ。
昨日、大工の手によって施工されたばかりだというその床は、朝陽を浴びてしっとりとした深い赤褐色に輝いていた。樹齢五百年の防腐香木。釘を一本も使わずに組み上げられたというその極上の舞台の上に――。
世界の破滅が、確かに横たわっていた。
「……あ……」
レオノールの喉から、声にならない吐息が漏れた。
呼吸が、止まる。肺腑の中の空気が一瞬にして凍りつき、吐き出すことすらできなくなる。
ウッドデッキの中央。
朝の柔らかな木漏れ日の中に、純白の巨躯を丸めていたのは、一匹の猫――否、神話の生ける天災。
『霜狼神フェンリル』。
中型犬ほどに魔力を圧縮しているはずのその姿の背後に、天を衝くほどの巨大な白銀の巨狼の幻影が、陽炎のように立ち上っていた。
触れるものすべてを絶対零度へと叩き落とす神威。
白猫が前足をわずかに動かしただけで、真新しい香木の床の表面に、パキパキと肉眼で見えるほどの純白の霜が這い広がり、朝の空気がガラス細工のように鋭く張り詰めていく。
そして、その金色の双眸が、ゆっくりと開かれた。
瞳孔が針のように細く引き絞られ、森の出口に立つレオノールとセリアの姿を、正確に、冷酷に捉えていた。
それだけではなかった。
ウッドデッキの西側の隅、香木の柱が落とす濃い影の底。
そこに、もう一つの漆黒の影が音もなく立ち上がっていた。
片耳の先が裂けた、異様に目つきの鋭い黒猫――『冥界獣キマイラ』。
琥珀色の瞳は爛々と底知れぬ光を湛え、足元からは床を腐食させかねないドス黒い瘴気の煙が、かすかに揺らめき立っている。大地を更地へと変える猛毒の化身。その背後には、虚空を噛み砕く獅子と毒蛇の幻影が蠢き、侵入者の喉笛を食いちぎる瞬間の予兆を放っていた。
さらに、見上げれば。
茅葺き屋根の破風の先端に、一羽の黄色い小鳥――『幻鳥フェニックス』が止まっていた。
金糸の羽毛を朝露に濡らしながら、首をピョコピョコと傾げている。だが、その小さなクチバシの隙間から漏れ出す熱気は、大気を陽炎のように揺らし、屋根の上の空気を一瞬にして砂漠の正午のような焦熱へと変えていた。
狼、獅子、不死鳥。
世界を二度滅ぼしてなお余りある三代厄災が、真新しいウッドデッキの上で、完璧な三竦みの布陣を敷いて侵入者を値踏みしている。
(……本物だわ)
レオノールの全身の血が、一瞬で足元へと抜け落ちていくようだった。
書庫の古い文献で読んだ、神話の挿絵そのままの威容。
言葉など交わすまでもない。
彼らがほんの僅かでもその気配を解放すれば、自分たち二人の肉体など、瞬き一つの間に凍結粉砕され、毒泥に溶かされ、灰となって散るのだ。人間が軍隊を組織しようが、名剣を構えようが、何の意味もなさない。絶対的な神の領域。
ズズズズ……と、大気が低く唸りを上げた。
神獣たちが放つ無言の圧力が、森の境界線を越えて二人へと押し寄せてくる。
セリアの足が、目に見えてガクガクと震え、膝の関節が耐えきれずに折れそうになっていた。
腰の剣にかけたセリアの指先は、恐怖のあまり完全に感覚を失い、白く硬直している。抜剣することすら許されない。刃に触れた瞬間に、敵意と見なされて消滅させられることを、歴戦の直感が理解していたからだ。
「レオノール……様……」
セリアの唇から、血の泡のような掠れ声が零れ落ちた。
「ここまで……です……。これ以上……一歩でも……踏み込めば……神威を損ねます……」
セリアは脂汗で濡れた顔を歪め、絶望的な瞳でレオノールを見上げた。
「平伏を……。武器を捨て……額を地に擦り付け……敵意なきことを……示さねば……全滅いたします……ッ!」
平伏。
それは、神獣の前に命乞いをする唯一の作法。
敗者が、あるいは生贄が、絶対強者の前に命を明け渡すための、無条件降伏の姿勢。
「……はい」
レオノールは静かに頷いた。
不思議なほど、恐怖の嵐の奥底で、心は澄み渡っていた。
逃げ道はない。交渉の余地もない。
ただ、自らの命をここに差し出すだけ。
フォレスト領の民の命を背負い、兄ローランの重圧を肩代わりするために、自分はこの純白のドレスを纏ってここへ来たのだ。
泥に濡れることなど、命を散らすことに比べれば何ほどのこともない。
レオノールは自らの両手を、胸の前で静かに重ねた。
そして、純白のシルクの裾が湿った土に触れるのも厭わず、ゆっくりと、優雅に、両膝を大地へと折ろうとした。
神の前に、平伏するために。
己の生涯を捧げる、生贄の儀式を完遂するために――。
まさに、その刹那だった。
からり。
張り詰めた死の静寂を打ち破って、あまりにも場違いな、長閑な木の擦れ合う音が響き渡った。
「――っ!?」
ウッドデッキの向こう側。
平屋の玄関の格子戸が、何気ない、日常の手つきで引かれたのだ。
白猫のタマが、ピクリと耳を動かした。
黒猫のクロが、すうっと毒気の幻影を霧散させた。
屋根の上のピピが、「ピピッ♪」と愛らしい鈴の音のような声を上げた。
張り巡らされていた終末の神威が、潮が引くように一瞬で収縮し、消え失せていく。
そして、開け放たれた戸口の薄暗がりから、朝の光の中へと姿を現したのは――。
手元に小さな木桶を抱え、白い麻のエプロンをきゅっと結んだ、一人の小柄な娘だった。
栗色の髪を後ろで緩く三つ編みに束ね、秋の陽光に透き通るような素朴な横顔。
手入れされたばかりの防腐香木のウッドデッキを、音一つ立てずにトコトコと歩き、ふと庭の入り口へと視線を向けたその娘――マノン・デュランが、丸い瞳をぱちくりと瞬かせた。
朝の澄み切った木漏れ日の中。
白装束を纏って膝を折りかけている美しい貴族令嬢と、剣の柄を握りしめて青ざめる女性騎士。
その二人を認めた瞬間、マノンの顔に、ふわりと春の陽だまりのような、どこまでも屈託のない笑顔が咲きこぼれたのだった。




