第26話:胃薬を握りしめる護衛任務
未明の静寂に沈んでいた領主館の廊下に、取り乱した複数の足音が乱暴に響き渡った。
「レオノールはどこだ!? 門番は何を見ていた! 誰が馬車の出立を許可したのだ!!」
普段の怜悧で沈着冷静な仮面をかなぐり捨て、怒号を張り上げていたのは領主代行ローラン・ド・フォレストだった。
濃紺の執務服のボタンは掛け違えられ、銀縁の眼鏡の奥の瞳は血走り、右手に握りしめられた一枚の便箋が、激しい怒りと動揺でクシャリと音を立てて握り潰されている。妹レオノールが自室の机に残していった、あの遺書めいた書き置きだった。
荒々しい足取りで裏手の厩舎へと雪崩れ込んできたローランの背後には、非常召集を受けた辺境警備隊副隊長、セリア・クローデルが必死の形相で追従していた。
「ローラン様、落ち着いてください! まだ遠くへは行っていません、馬の足跡は北の通用門へ向かっています!」
「落ち着いていられるか!! あの子は……あの馬鹿な妹は、自ら『生贄』になるつもりだぞ!? 神獣が巣食うあの魔窟へ、一人で首を差し出しに行ったのだぞ!!」
ローランの声は裏返り、額には青筋が浮き上がっていた。
厩舎の奥、冷たい朝靄が立ち込める通用門の石畳の上。
自ら手綱を引き、小さな一人乗りの軽馬車に足をかけようとしていた人影が、兄の叫び声にピクリと肩を跳ねさせた。
「――レオノールッ!!」
ローランが駆け寄り、妹の細い手首を掴んだ。
朝の薄明かりの中に浮かび上がったのは、装飾を一切削ぎ落とした、死装束のような純白のシルクドレスを纏った少女の姿だった。
外套すら羽織らず、冷気に晒された素肌は青白く透き通っている。しかし、兄に手首を掴まれても、十九歳の令嬢は目を逸らさなかった。
その淡い金色の髪を冷たい朝風になびかせ、凛としたヘーゼル色の双眸で、真っ直ぐに兄の顔を見据え返したのだ。
「……お兄様。お止めにならないでください」
「何を言っているんだ、正気か!?」
ローランは手紙を突きつけ、激しく声を荒らげた。
「神を鎮める生贄だと!? 馬鹿な真似はやめろ! あそこにいるのは、お前のような世間知らずの小娘がどうにかできる相手ではない! 世界を滅ぼす三匹の神獣と、それを手懐ける底知れぬ調停者だぞ!? 門をくぐった瞬間に、骨の一片すら残さず消滅させられるのが関の山だ!」
「分かっております」
レオノールの声は、驚くほど静かで、平坦だった。
「私が無力な小娘であることなど、百も承知でございます。ですが、お兄様……。私にはもう、耐えられないのです。領民のために、そして何より私を守るために、お兄様が夜ごと胃を痛め、命を削ってあの化け物たちへ媚び諂い、恐怖に震え続けている姿を、ただ安全な部屋から眺めていることなど……もう、私にはできません!」
「レオノール……」
「フォレストの血を引く者は、民の盾とならねばならないと教わりました。ならば、その務めはお兄様一人だけのものではないはずです」
レオノールは自らのもう片方の手を、兄の手の上にそっと重ねた。
冷え切った細い指先。だが、そこに込められた力は、決して振り払えないほどの強靭な意志を宿していた。
「領主の直系である私が人質として仕えれば、調停者様も我が領地の誠意を疑うことはなくなります。お兄様がこれ以上、脅える必要もなくなるのです。……私の命一つで領民とお兄様が救われるのなら、喜んでこの身を捧げます」
「馬鹿を……言うな……!」
ローランの唇がワナワナと震えた。
妹の頑固さは、誰よりも兄である自分が知っていた。一度こうと決めたら、たとえ父が生きていようとテコでも動かない。
妹の健気な覚悟が胸に突き刺さり、領主代行としての誇りと、兄としての情愛が激しく衝突して、ローランの喉を締め上げる。
「力ずくで部屋へ連れ戻しても、私は何度でも抜け出します。……どうか、フォレストの娘としての誇りをお許しください」
深々と頭を下げる妹を前に、ローランは天を仰ぎ、絶望的な呻き声を漏らした。
大軍を動かして山を取り囲むことは絶対にできない。そんな真似をすれば、神獣たちが外敵の襲来と見なして領都ごと更地にする。
だが、この無防備な妹をたった一人で送り出すことなど、兄として絶対に容認できるはずがなかった。
「……セリア副隊長」
絞り出すようなローランの声に、背後で直立していたセリアの背筋が跳ね上がった。
「は、はっ!」
「……ついて行け」
「……はい?」
「軍勢は出せん。大勢で踏み込めば即座に滅亡だ。だが……たった一人、現場の地形と神獣たちの恐ろしさを知り尽くし、かつ隠密行動に長けた護衛が一人だけ、影のように付き従うことなら許されるはずだ」
ローランはセリアの肩に両手を置き、鬼気迫る形相で顔を近づけた。
その眼鏡の奥には、血の涙を流さんばかりの必死の懇願が宿っていた。
「頼む、セリア。あの子を一人にするな。……もし、もしも調停者や神獣たちが危害を加える素振りを見せたなら、あの子を担いで……たとえ自らの命を捨ててでも、逃げ帰ってくれ……!」
(無茶苦茶だ……!!)
セリアの脳内で、絶叫が木霊した。
相手は霜狼神フェンリル、冥界獣キマイラ、幻鳥フェニックスの三竦みである。
危害を加える素振りを見せた時点で、すでに自分たちの肉体は絶対零度で粉砕されるか、猛毒で溶かされるか、業火で炭化しているのだ。逃げられるはずがない。人間が生きて帰れる場所ではないのだ。
数日前のリンゴタルトのおかげで、奇跡的に完治したはずのセリアの胃が、再びキリキリと引き絞られるように悲鳴を上げ始めた。
だが――目の前には、決死の覚悟で白装束を纏う十九歳の令嬢と、妹を想って取り乱す若き主君の姿。
王国騎士として、フォレスト領の守護を誓った者として、ここで背を向ける選択肢など最初から存在しなかった。
「……承知、いたしました」
セリアは青白い唇を引き結び、右手を左胸に当てて深々と敬礼を返した。
「我が命に代えましても、レオノール様のお側をお守りいたします」
セリアは素早く身支度を整えた。
重厚な金属鎧は脱ぎ捨て、音を立てない革製の軽装インナーに、魔力を極限まで遮断する草木染めのクロークを羽織る。腰には愛用の細身の片手剣。
そして――何よりも重要な装備として、彼女は胸ポケットの奥深くに、領都の腕利き薬師から緊急で買い集めた『超強力特注胃薬』の包みを、指が白くなるほど強くねじ込んだ。
***
早朝の薄暗い霧の中を、一台の簡素な幌馬車が北の山道へと吸い込まれていった。
御者台に座り、手綱を握っているのはセリア自身だった。
余計な従者を連れて行くことはできないため、馬の扱いにも長けたセリアが一人で馬車を操っている。
後方の幌の隙間から、客車の中の様子が微かに見えた。
板張りの硬い座席に、背筋をピンと伸ばして腰掛けているレオノール。
その膝の上には、白く細い指先が固く組み合わされ、純白のドレスの布地をきつく握り締めている。窓の外を流れる木々を見つめる横顔は痛々しいほどに蒼白で、時折、その華奢な肩が寒さではない恐怖によって小刻みに震えていた。
(健気な……あまりにも健気で、哀れな方だ……)
セリアは手綱を握る手に力を込め、奥歯を噛み締めた。
この十九歳の少女は、本気で死ぬ覚悟なのだ。
生贄として怪物の胃袋に収まるか、あるいは一生を冷たい牢獄のような場所で人質として過ごす覚悟で、ここに座っている。
だが、現場の真実を知るセリアからすれば、事態は別の意味で狂気に満ちていた。
あそこには、神獣をスリッカーブラシでガシガシ梳き、頭に抜け毛玉を乗せて「タマったら換毛期すごいわねぇ」と笑い飛ばす、得体の知れぬ調停者マノンがいるのだ。
生贄などという悲壮な覚悟が、あの素朴で長閑な平屋の空気と正面衝突した時、一体何が起きるのか――セリアの知性では到底予測がつかなかった。
馬車が高度を上げるにつれ、周囲の景色は目に見えて異様な変貌を遂げていった。
初冬の冷気とはまるで違う、肌の表面をピリピリと刺すような、研ぎ澄まされた静寂。
雑木林の木々の葉は、なぜか青々とした瑞々しさを保ったまま、触れればガラスのように砕け散りそうなほどの冷気圧を帯びている。
風が吹くたびに、遠くから微かに漂ってくるのは、清冽な針葉樹の香り――昨日、大工のガスパールが命がけで施工したという『樹齢五百年の防腐香木』の芳香だった。
だが、その清らかな香りの奥底に、確かに混ざり合っているのだ。
触れるものを凍らせる絶対零度の残滓。
空間を腐食させる猛毒の気圧。
そして、空気をチリチリと陽炎のように歪ませる焦熱の神気。
三代厄災が同じ屋根の下に息づいているという、世界の法則を無視した特異点。
その神威の重圧が、馬車の車体を包み込むようにして、重く、重く圧し掛かってくる。
ヒヒィンッ……!
馬が前足を止め、恐怖に喉を鳴らして首を激しく振った。
泡を吹き、これ以上先へ進むことを本能で拒絶している。
古民家まで、残りおよそ三百メートル。木立の合間から、あの素朴な木造平屋の茅葺き屋根が、朝陽を浴びて微かに見え隠れする距離だった。
「……ここまでです」
セリアは手綱を引き、馬車を太い楢の木の陰へと滑り込ませた。
馬を木立にしっかりと繋ぎ止め、自らの胸ポケットに手を突っ込む。
紙包みを取り出し、中に入っていた茶色い大粒の丸薬を二粒、水もなしに口の中へ放り込んだ。
ガリッ、ボリッ。
凄まじい苦味が舌の上から喉の奥へと広がる。胃の腑がギュッと縮み、薬効がじわじわと痛みを麻痺させていく。この苦味だけが、恐怖で吹き飛びそうなセリアの正気を辛うじて繋ぎ止めていた。
客車の扉を開けると、レオノールが静かに立ち上がった。
純白の裾を踏まぬよう、慎重に地面へと降り立つ。
その瞬間、森の奥から吹き抜けてきた神獣たちの微細な神気圧に触れ、レオノールの華奢な体がグラリと揺れた。
「くっ……」
「レオノール様!」
セリアが咄嗟にその肩を支えた。
触れた肩は、氷のように冷たく、小鳥のように震えていた。
セリアは周囲の木立を油断なく警戒しながら、絞り出すような切迫した声で囁いた。
「レオノール様……今なら、今なら引き返せます! 馬車を回せば、領都へ戻れます!」
「セリア……」
「お願いです、お聞き入れください! あそこは……あの平屋は、人間の常識や、貴族の誇りなどというものが一切通用する場所ではないのです! 神話の時代から蘇った歩く天災が、三匹も群れを成して日向ぼっこをしているような魔境なのです!」
セリアの必死の訴えに、レオノールは青ざめた唇を震わせながらも、首を横に振った。
「通用しなくて……結構です」
「なっ……」
「常識が通じぬ相手だからこそ、誰かがその身を投げ出さねばならないのです。お兄様を……フォレスト領の民を救うためなら、私の命など、惜しくはありません」
レオノールはセリアの手をそっと外し、自らの力でしっかりと土を踏みしめた。
その瞳に宿るのは、狂気と紙一重の、あまりにも純粋で高潔な自己犠牲の光だった。
「セリア。あなたは、ここで待っていてください。……いえ、馬車に乗って、領都へお逃げなさい。私の我が儘に、あなたまで巻き込むわけにはまいりません」
「そんな真似ができるはずがありません!!」
セリアは思わず声を荒らげた。
「私はフォレスト辺境警備隊副隊長、セリア・クローデルです! 主君の妹君を見殺しにして逃げ帰るくらいなら、ここで腹を切った方が百万倍マシです!」
セリアは腰の片手剣の柄に、ぎゅっと右手をかけた。
手袋越しに伝わる鋼の冷たさ。
神獣相手に、こんな剣など爪楊枝ほどの役にも立たないことは分かっている。
けれど、守るべき主の前に立つ戦士として、剣を握る右腕の震えだけは、意地でも力づくでねじ伏せた。
「お供いたします。……たとえ地獄の底までであろうと」
「……ありがとう、セリア」
レオノールは微かに、けれど心からの感謝を込めて微笑んだ。
二人は並び、木漏れ日の揺れる小道を前へと歩み始めた。
一歩進むごとに、空気の密度が増していく。
防腐香木の清涼な芳香が、鼻腔を強く満たしていく。
そして――最後の木立を抜けた先。
視界が開けた瞬間、二人の目の前に、秋の柔らかな光を浴びて佇む、あの「地獄の平屋」の全貌が姿を現したのだった。




