第25話:深窓の令嬢の決意、純白のドレス
領主館の東側に位置する離れの一室は、夜が深まるにつれて静寂の色を濃くしていた。
フォレスト辺境伯家の長女、レオノール・ド・フォレストは、天蓋付きの寝台の縁に腰掛けたまま、暖炉の中で爆ぜる薪の火を微動だにせず見つめていた。
十九歳という年齢は、貴族社会においてはとうに大人の仲間入りを果たし、家と家とを繋ぐ政略結婚の場へと引きずり出される頃合いだ。
だが、病床に伏せる父に代わり領主代行を務める兄ローランは、妹であるレオノールを決して政争の道具にしようとはしなかった。常に温かく、時に過保護なほどに守り、清廉なフォレストの地で健やかに咲く一輪の花であれと願ってくれていた。
その兄の優しさが、今のレオノールにとっては、胸を鋭く抉る棘のように感じられてならなかった。
(……お兄様は、もう限界だわ)
細く白い指先が、膝の上に広がる寝間着の麻布をぎゅっと握りしめる。
ここ数週間の兄ローランの変貌を、妹であるレオノールが見逃すはずもなかった。
執務室の机には常に山のような緊急報告書が積み上がり、連日のように警備隊長のギルバートや副隊長のセリアが青ざめた顔で出入りしていた。夜中に廊下を通りかかれば、兄がこめかみを押さえ、苦い胃薬を噛み砕く微かな音が扉の向こうから漏れ聞こえていたのだ。
数日前、山奥の古民家から奇跡のようなリンゴタルトが届き、兄や警備隊の疲労が一夜にして吹き飛んだという騒ぎがあった。兄の顔色は見違えるほど良くなり、瞳には鋭い知性が戻っていた。
しかし――その瞳の奥底に張り付いていたものは、決して消えてはいなかった。
それは、底知れぬ「恐怖」だ。
世界の理を覆す三匹の神獣――霜狼神フェンリル、冥界獣キマイラ、そして幻鳥フェニックス。
それらを小間使いのように従え、山奥の平屋に鎮座する謎の『調停者』。
兄は領民を守るため、その調停者に対して国家予算級の財宝や至高の食材を「処分品」や「ご近所の挨拶」と偽って貢ぎ続けている。薄氷を踏む思いで、いつその怪物の逆鱗に触れ、領地ごと消滅させられるかという極限の恐怖と隣り合わせの外交を、たった一人で背負い続けているのだ。
昨日も、城が建つほどの価値がある国宝の『樹齢五百年の防腐香木』を蔵から持ち出させ、偏屈大工のガスパールを命がけで送り込んだばかりだった。
(お兄様は、私を巻き込むまいと何も仰らない。でも……私には分かってしまう)
フォレストの血を引く者として、この領地に生まれ育った者として、レオノールは幼少期より厳格な貴族教育を受けてきた。
『貴族とは、特権を享受する者ではない。領民が飢えぬよう飢え、領民が傷つく前にその盾となって血を流す者である』。
父の教え、兄の背中。
それらはすべて、レオノールの心に深く根を下ろしていた。
自分はどうだろう。
剣を握る腕力はない。魔術を操る才能もない。兄のように怜悧な頭脳で領地の財政を切り盛りすることもできない。
ただ守られ、安全な部屋で刺繍を刺し、温かいお茶を飲み、兄が命を削って維持している平穏を貪っているだけ。
無力。無能。足手まとい。
幼い頃から抱き続けてきたその自己嫌悪が、領地の存亡という未曾有の危機を前にして、鋭利な刃となってレオノールの喉元へと突きつけられていた。
(古来より、荒ぶる神や魔獣を鎮めてきたのは……いつだって、欲を持たぬ乙女の祈りだったはず)
レオノールは、かつて書庫の奥で見つけた古い神話の記述を思い出していた。
大いなる天災が大地を揺るがす時、武力による抵抗はただ破滅を早めるのみ。
神の怒りを解くのは、清浄なる魂を持つ乙女が、自らの命を捧げて神の懐へと飛び込む「人質」――あるいは、「生贄」の儀式であると。
もし。
もしも、自分がかの調停者の屋敷へと赴き、生涯を捧げる召使いとして、あるいは機嫌を損ねた時に真っ先に首を差し出す人質として、その身を預けることができたなら。
領主の直系である自分が身代わりとなって側に侍れば、調停者もフォレスト領の誠意を疑うことはなくなるのではないか。
兄が、これ以上心労で身をすり減らさずに済むのではないか。
数十万の領民たちが、明日を迎えることに怯えずに眠れるのではないか。
(私の命一つで……お兄様が救われるのなら)
その思考に至った瞬間、レオノールの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
迷いはなかった。
あるのは、長年探し求めていた「自分がこの世に生まれてきた意味」を、ようやく見つけ出したかのような、澄み切った覚悟だけだった。
「……マリア」
レオノールは静かに呼びかけた。
部屋の隅で控えていた専属の若い侍女が、ハッとして歩み寄ってくる。
「はい、レオノール様。何か温かいお飲み物でもご用意いたしましょうか?」
「いいえ。今夜は少し考え事をしたいの。もう遅いわ、下がって休みなさい」
「ですが、まだ髪のお手入れが……」
「一人でできるわ。……下がってちょうだい」
普段の穏やかな令嬢らしからぬ、どこか有無を言わせさぬ凛とした響き。
侍女は戸惑いながらも、深々と一礼して部屋を出て行った。
重厚な扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。
部屋の中に、完全な孤独が訪れた。
レオノールは立ち上がり、姿見の前を通り過ぎて、部屋の奥にある巨大な衣装箪笥の前に立った。
観音開きの扉を押し開けると、そこには貴族令嬢として誂えられた、豪奢なドレスの数々が並んでいた。
薔薇色のシルクに贅沢なレースを幾重にも重ねた舞踏会用のドレス。金糸の刺繍が施された濃緑のベルベット。宝石を散りばめた煌びやかな夜会服。
だが、レオノールはそれらの一切に目もくれなかった。
華美な装飾は、神の前ではただの俗世の驕りにすぎない。
彼女が手を伸ばしたのは、箪笥の一番奥、桐の箱に納められていた一着の衣だった。
――サワリ、と。
滑らかな布擦れの音が響く。
引き出されたのは、装飾という装飾を極限まで削ぎ落とした、純白のドレスだった。
最高級の羽二重シルクだけで仕立てられ、フリルも、リボンも、金銀の刺繍も一つとして施されていない。胸元は慎ましやかに閉じられ、足元まで流れるような直線を描く、無垢なる白。
成人式の折、神殿での祈祷のために一度だけ袖を通した、いわば「神に祈りを捧げるための祭服」。
そして――生贄として命を散らすための、白装束。
レオノールは寝間着を脱ぎ捨て、冷え切った夜の空気に素肌を晒した。
鳥肌が立つほどの寒さが、かえって張り詰めた意識を氷のように研ぎ澄ましていく。
純白のシルクに腕を通す。
衣の裾が床へと滑り落ち、背中の小さな包みボタンを、自らの手で一つずつ、下から上へと留めていく。
誰の手も借りず、ただ一人で己を縛り上げていくその所作は、まるで自らの死を悼む儀式のようでもあった。
最後に、腰の細い白いリボンをきゅっと前で結び、レオノールは大きな姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、見慣れたはずの自分ではなかった。
真紅の絨毯の上に立つ、純白の影。
飾り気のないドレスは彼女の華奢な体躯を余計に際立たせ、豊かに波打つ淡い金色の髪が、蝋燭の頼りない光を浴びて淡く透けている。
そして――その顔は、死人のように蒼白だった。
「……っ」
唇を噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。
指先を見れば、膝の横で小刻みに、カタカタと震えている。
怖い。
怖くないはずがなかった。
十九歳の、温室で育てられてきた小娘なのだ。虫の一匹すら殺したことがなく、暗闇の物音にすら怯えていた自分が、世界を滅ぼす神獣たちの巣窟へと、たった一人で乗り込もうとしている。
喰い殺されるかもしれない。
絶対零度の氷に閉じ込められ、永遠の氷像にされるかもしれない。
黒い毒に溶かされ、骨の一片すら残らず消滅するかもしれない。
死の恐怖が、黒い泥のように足元から這い上がり、心臓を冷たい指先で握り潰そうとする。
膝の震えが止まらない。奥歯がガチガチと音を立てそうになり、レオノールは自らの両腕を胸の前で強く抱きしめた。
(怖い……。行きたくない……。お兄様……助けて……)
本能が、情けない悲鳴を上げる。
温かいベッドに潜り込み、毛布を頭から被って、すべてを忘れ去ってしまいたい。
だが――目を閉じれば、浮かんでくるのは兄のやつれた横顔だった。
領民たちの安寧を守るため、胃を痛め、夜を徹して机に向かい、いつ滅びるかも知れぬ恐怖に耐え続けている兄。
街で笑い合う子供たち。畑を耕す農夫たち。
彼らの日常を守るために、誰かが血を流さねばならないのなら。
その血は、フォレストの恩恵を受けて育った、自分の血でなければならない。
「……大丈夫」
レオノールは鏡の中の自分に向かって、声を出して呟いた。
震える指先をぎゅっと握り込み、爪が手のひらに食い込む痛みに耐えながら、背筋をすっと垂直に伸ばす。
恐怖は消えない。けれど、その恐怖の底から、凛とした誇りの炎が静かに立ち上っていた。
「私は、フォレストの娘。……決して、無様に逃げ出したりはいたしません」
鏡の中の少女の瞳に、揺るぎない覚悟の光が宿った。
レオノールはドレッサーの前に進み、乱れた髪を銀のブラシで丁寧に梳き整えた。髪留めは使わず、自然に肩へと流す。
そして、執務机へと向かった。
引き出しから上質な便箋を一枚取り出し、インク壺にペン先を浸す。
兄ローランへ宛てた、最後の言葉。
『敬愛するお兄様へ。
突然の不実をお許しください。
お兄様が日々、領民とこのフォレスト領を守るためにどれほどの重圧に耐えておられるか、妹として見て見ぬ振りをすることはできませんでした。
山奥の調停者様のもとへ参ります。
古来より、荒ぶる神を鎮めるのは清き乙女の役目と聞いております。
私の命が、フォレスト領の安寧の礎となり、お兄様の肩の荷を少しでも下ろすことができるのなら、これ以上の本望はございません。
どうか、私の軽挙を怒らないでください。
そして、どうか健やかであってください。
お兄様の妹として生まれたことを、心より誇りに思っております。
――レオノールより』
インクを吸い取り紙で丁寧に乾かし、便箋を二つに折る。
机の中央、一番目立つ場所へとそっと置いた。
時計の針は、深夜の三時を指そうとしていた。
館のすべてが寝静まり、警備の交代の合間を縫うならば、今しかない。
足音を立てぬよう、靴底の薄い外出用の革靴に足を入れる。防寒用の外套すら羽織らない。生贄が身を飾るなど、神獣に対する無礼にあたるからだ。
ただ一着の純白のドレスを纏い、レオノールは部屋の扉の取っ手に手をかけた。
冷たい金属の感触が、手のひらを刺す。
振り返ると、温かな暖炉の火が、住み慣れた自分の部屋を名残惜しそうに照らしていた。
二度と、この部屋に戻ることはないだろう。
二度と、兄と笑い合ってお茶を飲むこともないだろう。
けれど、レオノールの足元は、もう一歩も揺らがなかった。
「……行ってまいります」
小さく、部屋の空気に別れを告げ、レオノールは音もなく扉を開けた。
暗い廊下へと、純白の裾を翻して一歩を踏み出す。
山奥に潜むという絶対の災厄、そして世界を統べる至高の調停者の待つ地獄へと向かって、十九歳の令嬢は、誰にも知られぬ決死の旅立ちを果たしたのだった。




