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第24話:大工の涙と、最高峰の住処

額から滴り落ちる汗が、首筋を伝って鎖骨のくぼみに溜まり、夕暮れの冷気に冷やされてツゥと肌を刺す。

三十八歳の元・上位冒険者にして、現在はフォレスト領屈指の頑固大工として名を馳せるガスパールは、己の荒い息遣いしか聞こえない耳鳴りの中で、目の前の硝子(ガラス)のコップを凝視していた。


新しく張り終えたばかりのウッドデッキ。

樹齢五百年の防腐香木(パウンド・シダー)の深い木肌の上に、木製のお盆が置かれている。

その上に鎮座する、底の分厚い透明なコップ。

夕陽の茜色の光を吸い込んで、満たされた液体は濁りのない深い琥珀色に輝いていた。

井戸水で極限まで冷やされたその表面には、細やかな水滴がびっしりと浮き上がり、秋の乾いた空気に触れて、ツーと一筋、硝子の肌を滑り落ちていく。

チリン、と水滴がコースターの麻布に吸い込まれた。


「……大工さん、息が上がっていますよ。まずは喉を潤してください」


目の前にしゃがみ込んだマノンが、慈愛に満ちた柔らかな声で促す。

その手には、泥も木屑もついていない清潔な手ぬぐいがあった。マノンは自らの手袋を外し、汗と埃で汚れたガスパールの側頭部に、そっと手ぬぐいを押し当てて汗を吸い取ってくれた。

ふわりと鼻腔をくすぐったのは、日だまりの干し草のような、そして台所で煮出されたばかりの大麦の香ばしい匂い。


ガスパールの喉仏が、乾ききった気管を擦り合わせるように、ゴクリと激しく上下した。

限界だった。

神獣三匹に全方位から殺気の照準を合わせられ、一歩の狂いも許されぬ極限の緊張感の中で、丸一日ノミとカンナを振るい続けたのだ。体内から水分という水分が抜け落ち、血液がドロドロに煮詰まっているような感覚。

ガスパールは震える右手を伸ばした。

指先が小刻みに痙攣し、硝子のコップに触れた瞬間、パチンと微かな冷気の刺激が指の腹を伝ってきた。


持ち上げる。

ずっしりとした硝子の重み。

手のひらに吸い付くような冷たい結露の感触。

ガスパールはコップを口元へと引き寄せ、一気に傾けた。


――ゴキュッ、ゴキュッ、ゴクリッ!


喉が、獣のように鳴った。

冷たい液体が口腔になだれ込んだ瞬間、ガスパールの脳天を、目が覚めるような鮮烈な清涼感が貫いた。


(つ……冷てぇ……! そして……なんだ、この香ばしさは……!?)


ただの水ではない。

深煎りされた大麦の粒から、丁寧に、時間をかけて煮出された本物の麦茶。

雑味や渋みは一滴も存在せず、炒った麦の甘やかな芳香が、冷気とともに舌の上から鼻腔へと突き抜けていく。

氷水のように冷えているのに、胃の腑に落ちた瞬間、内臓を冷えさせるどころか、乾ききった細胞の一つ一つに染み渡るように、じわりと温かい生命力を呼び覚ましていく。

飲む手が止まらない。

ゴクゴク、ゴクゴクと、息継ぎも忘れて喉を鳴らし続ける。

コップ一杯の琥珀色の麦茶は、瞬く間にガスパールの胃袋へと消え去った。


「ぷはぁっ……!」


空になったコップをお盆に置いたガスパールの口から、魂の底から絞り出したような吐息が漏れた。

喉の奥の張り裂けそうな渇きが、完全に癒やされていた。

生き返った。文字通り、死の淵から引き戻されたような劇的な蘇生感。


「ふふ、とっても美味しそうに飲んでくださって嬉しいわ。……お代わりもありますけれど、まずは少しお腹に固形物を入れましょうか。甘いもの、お好きですか?」


マノンが微笑みながら、小皿をガスパールの手元へと差し出した。

皿の上に乗っていたのは、素朴な凹凸を残した、手のひら半分ほどの大きさの焼き菓子――オートミールクッキーだった。

黄金色にこんがりと焼き上げられた表面には、粗く刻まれた胡桃(くるみ)が散りばめられ、端の方は少しだけ濃い焦げ茶色に色づいている。

鼻を近づけると、オーブンの熱で水分を飛ばされた押し麦の香ばしい穀物臭と、きび砂糖の丸みのある甘い匂い、そして微かに上質なオリーブオイルの青い芳香が漂ってきた。


ガスパールは、己の太い指先でクッキーを一枚つまみ上げた。

大工の節くれだった、木屑の挟まった指先。

対して、クッキーは見るからに家庭的で、着飾った貴族の茶菓子のような華やかさはない。

だが、その無骨な佇まいが、職人であるガスパールの琴線に触れた。


口の中へ運び、前歯で思い切り噛み砕く。


――ザクッ、ガリッ、ザクザクッ……!


頭蓋骨の奥に、痛快極まりない破壊音が響き渡った。

驚くべき歯ごたえだった。

市販の粉っぽいクッキーとはまるで違う。たっぷりと練り込まれた押し麦の一粒一粒が、オーブンの蓄熱によって芯まで完全に焼き締められており、噛むたびにザクザクと小気味よい音を立てて砕け散っていく。

そして、噛み締めるたびに溢れ出す、素材本来の圧倒的な滋味。

余計な香料など一切ない。大麦と全粒粉の力強い粉の風味、香ばしくローストされた胡桃の脂のコク、そして、それらを優しくまとめ上げるきび砂糖の素朴な甘味。

仕上げにほんの少しだけ振られた天日塩の塩気が、甘さを絶妙に引き締め、噛めば噛むほどに旨味が口いっぱいに広がっていく。


(うめぇ……! なんだこれ……派手な味じゃねえのに、噛むのをやめられねえ……!)


二口、三口と咀嚼し、嚥下した。

ザラリとした穀物の繊維が喉を滑り落ち、胃袋へと収まった、その瞬間だった。


――ドクンッ。


ガスパールの心臓が、大きく跳ね上がった。


「――っ!?」


異変は、胃の腑から始まった。

飲み込んだクッキーの欠片から、目に見えないほど純粋で清らかな、淡い金色の光の奔流が解き放たれたのだ。

それはマノンが丹精込めて捏ね上げ、自らの『波長ゼロの絶対浄化体質』を無意識に練り込んだ、奇跡の滋養だった。

光の奔流は血管を通り、瞬く間にガスパールの右腕へと駆け上がっていく。


ビキビキビキッ――!


ガスパールの右肩の奥で、何かが軋むような音がした。

反射的に左手で右肩を強く押さえる。

そこは――かつて冒険者時代、最前線の迷宮で凶悪な毒蜘蛛の爪を受け、肉を引き裂かれて以来、十数年間疼き続けていた古傷の場所だった。

肉は塞がっていたが、骨の隙間にこびりついた魔獣の壊死毒は完全に抜け切らず、天気が崩れるたびにズキズキと激痛を走らせ、大工として重い木材を担ぐたびに、焼き鏝を当てられたような熱を持っていた呪いの傷。

引退を余儀なくされ、戦士としての未来を奪った、忌まわしき傷痕。


その右肩の奥が――熱い。

だが、それは毒の激痛ではなかった。

まるで、厳冬の吹雪の中で凍えきっていた肉体に、春の柔らかな日差しが一気に注ぎ込まれたかのような、とろけるような温もり。


「あ……あ、ああ……っ!?」


ガスパールの口から、掠れた声が漏れた。

皮膚の下で、固く強張っていた筋肉の筋が、一本一本解きほぐされていくのが分かる。

十数年間、神経を締め上げ、鉛のように重く沈殿していた黒い毒の残滓が、マノンのクッキーがもたらした浄化の光によって、まるで朝霧のように跡形もなく蒸発していく。


痛みが、消えていく。

重みが、消えていく。

疼きが、完全に、消滅していく――。


恐る恐る、ガスパールは右肩から手を離した。

そして、信じられない思いで、自らの右腕を大きく回してみた。


――グルンッ、グルンッ!


風を切る音が響いた。

引っかかりが、ない。

重い鑿を打つたびに悲鳴を上げていた関節の軋みが、滑らかな油を差された歯車のように、一切の抵抗なく回った。

痛みなど、爪の先ほども残っていない。

それどころか、全盛期の二十代前半、大剣を片手で振り回していたあの頃よりもなお軽く、指先の隅々にまで血潮が力強くみなぎっていた。


「う……腕が……回る……?」

ガスパールは自らの右の拳を握りしめ、呆然と見つめた。

「痛くねえ……? 十何年も疼いてた傷が……嘘だろ……跡形もねえ……!?」


王都の腕利き治癒術士に金貨数十枚を積んでも、「毒が骨まで染み込んでいるから二度と完治しない」と匙を投げられた古傷だった。

それが、いま。

この山奥の平屋で出された、素朴なオートミールクッキーを一口食べただけで、完全に治癒してしまったのだ。


「……大工さん?」


腕を振り回して固まっているガスパールを、マノンが不思議そうに見上げていた。

「肩の調子が悪いのですか? 一日中、重たい鉋を引いていらっしゃいましたものね。お疲れでしょう。……でも、本当に素晴らしい縁側を作ってくださって、ありがとうございました」


マノンは立ち上がり、新しく完成した防腐香木の床を、自らの素足でトントンと軽く踏み鳴らした。

――無音。

まったく、音一つ立たない。

マノンは目を細め、心底から嬉しそうに顔をほころばせた。


「見てください。歩いても、少し跳ねてみても、まったくギシギシ鳴りません! こんなに滑らかで、足の裏に吸い付くように温かくて……木のいい香りがして。私、こんなに素晴らしい縁側、今まで見たことがありません。大工さんの腕は、本当に本物なんですね」


マノンの声には、お世辞も、貴族のような計算も、何一つ混ざっていなかった。

ただ純粋に、職人が己の技術のすべてを注ぎ込んで作り上げた仕事に対する、最大級の賛辞と敬意。


その言葉が、ガスパールの胸のど真ん中を貫いた。


「…………っ」


喉の奥が、熱い塊で塞がれた。

戦士としての道を絶たれ、故郷に戻って大工を継いでから十数年。

偏屈だの、無愛想だのと煙たがられ、貴族どもからは「ただの職人風情」と見下され、理不尽な命令に反発しては工房で一人酒を煽っていた日々。

自分の誇り。自分の技術。自分が木に注いできた情熱。

そのすべてを、目の前のこの娘は、何の後ろ盾もない素朴な笑顔で、真正面から受け止め、最高だと褒めてくれたのだ。


そればかりか――。

一生抱えて生きていくはずだった右肩の呪いを、こんな素朴な菓子ひとつで、何の見返りも求めず、あっさりと洗い清めてくれた。


「う……っ、ぐ……っ」


ガスパールの太い喉から、獣のような嗚咽が漏れた。

視界が、急速に歪んでいく。

三十八歳の筋骨隆々の大男が、泥と木屑にまみれた作業着のまま、両手で顔を覆った。

指の隙間から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、新しく張り終えたばかりの香木の床を、ポタポタと黒く濡らしていった。


「えっ……!? だ、大工さん!?」

マノンが飛び退くようにして驚いた。

「どうされたんですか!? どこかお怪我でも……!?」


「違う……っ、違えんだよ、嬢ちゃん……ッ!!」

ガスパールは顔を覆っていた手を乱暴に拭い、鼻水をすすり上げながら叫んだ。

血走った両目から、とめどなく涙が頬を伝い落ちている。

だが、その表情は苦痛ではなく、魂の底から突き上げてきた激動の歓喜に震えていた。


「うめえんだよ……っ! こんなに美味い茶と菓子は、生まれて初めて食った……!! 身体の芯まで、全部洗われちまったみてえだ……!!」

ガスパールは床に両手をつき、マノンに向かって額を擦り付けるようにして叫んだ。


「姐さん……いや、お嬢さん!! あんたは神様だ! 本物の守護女神だ!! この縁側は俺の魂だ! 俺が命を懸けて組んだ、生涯最高の傑作だ!! 百年経とうが、千年経とうが、絶対に軋ませやしねえ!! もし板が一ミリでも狂ったら、俺の首を刎ねてくれて構わねえ!!」

「ええっ!? く、首だなんてそんな物騒な……!」


「何かあったら、いつでも呼んでくれ!!」

ガスパールは胸を力任せにドンドンと叩き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で叫び続けた。

「屋根の雨漏りだろうが、壁のひび割れだろうが、井戸の枠だろうが、全部俺が直してやる!! フォレスト領一の大工ガスパール、今日からあんたの家の専属工務店だ!! 誰にも手出しはさせねえ、あんたの暮らしは俺が支えてやるよ!!」


あまりの気迫に、マノンは目を白黒させながらも、やがて困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

「ふふ……ありがとうございます、ガスパールさん。じゃあ、また何か困ったことがあったら、相談に乗ってくださいね」


「おうよ!! 任せときな!!」


***


夕陽が完全に西の山並みへと沈み、空が群青色から藍色のグラデーションへと染まる頃。

ガスパールは道具箱を担ぎ、山裾の古民家の門柱の前に立っていた。


涙を拭い去ったその顔には、山を登ってきた時の絶望と恐怖は、欠片も残っていなかった。

あるのは、己の人生で最高の仕事をやり遂げた男の、晴れやかな誇りと充実感だけだった。

右肩は驚くほど軽く、道具箱の重みすら心地よい。


門柱の前で振り返り、ガスパールは古民家へ向けて深々と、直角に頭を下げた。

庭のウッドデッキの端から、白猫のタマ、黒猫のクロ、屋根の上のピピが、静かにその背中を見送っていた。

神獣たちの瞳に、もはや外敵への殺気はない。

主の住処を最高峰の領域へと整えた「専属の職人」として、ガスパールの存在を認めた静かな眼差しだった。


「……へっ。神獣どもの主の専属大工か。悪くねえ肩書きだ」


ガスパールは不敵に笑うと、大股で山道を下り始めた。

領主館で待つローランやセリアが、どんな顔をして報告を待っているか。

『安心しな、お前らの首は繋がったぜ』と、あの気取った領主代行の鼻を明かしてやるのが、今から楽しみで仕方がなかった。


***


職人が去り、山裾には再び心地よい夕暮れの静寂が戻ってきた。


新しく生まれ変わった、広々としたウッドデッキ。

防腐香木が放つ清冽な針葉樹の香りが、夜の帳が下り始めた庭先を優しく満たしている。


「グルルルルル……」

「ゴロゴロゴロゴロ……」


デッキの中央。

夕暮れの余熱を残した滑らかな板の上に、白猫のタマと黒猫のクロが、並んで大の字になって転がっていた。

タマは純白の腹を惜しげもなく夜空へと晒し(ヘソ天)、前足を宙でフミフミと掻きながら、至福の喉鳴らしを響かせている。

クロもまた、背中の毛を香木の床にゴシゴシと擦り付け、心地よさそうに目を細めていた。

そして手摺の上では、黄色い小鳥のピピが、羽毛をまん丸に膨らませ、小さなくちばしを背中に埋めて、早くもウトウトと微睡み始めている。


歩いても、寝返りを打っても、床は一切の軋み音を立てない。

神獣たちを苛んでいた微細なストレスは、完全に消滅していた。


マノンは手摺にそっと寄りかかり、手元に残った冷たい麦茶を一口すすった。

西の空には、一番星が白く瞬き始めている。

山並みを吹き抜ける夜風が、マノンの栗色の前髪をふわりと揺らした。


「ふふ……田舎の大工さんは、本当に義理堅くて温かいなあ」


マノンは嬉しそうに目を細めた。

あんなに汗だくになって床を直してくれて、麦茶とクッキーを出しただけであんなにボロボロ泣いて喜んでくれるなんて。

都会では誰もが自分の利益ばかりを追いかけ、他人の事情に立ち入ることを恐れていた。

けれど、この土地の人たちは違う。

早朝に極上の食材を届けてくれるシャイな警備隊の人たち。

最高級の品々を型落ち処分として格安で譲ってくれた豪快な行商のヴェロニカさん。

そして、魂を込めて絶対に音の鳴らない床を作ってくれた、大工のガスパールさん。


「家もどんどん住みやすくなって……本当に、ここへ引っ越してきてよかったわ」


周囲の過剰な恐怖と、領主館の国家予算級の忖度によって、この素朴な平屋古民家が、王宮すら足元に及ばない最高峰の快適さを誇る「絶対不可侵の聖域」へと着実にグレードアップしていることなど、マノンは露ほども疑っていなかった。


「さ、みんな。夜風が冷たくなってきたから、お家に入りましょう。今夜は、ガスパールさんが褒めてくれたクッキーの残りと、温かいスープにしましょうね」


マノンが声をかけると、タマとクロは弾かれたように起き上がり、足音一つ立てずにマノンの足元へと駆け寄ってきた。

ピピがパタパタと肩の上へと飛び移る。


からり、と引き戸を開け、マノンは三匹の家族とともに、暖かなランプの光が灯る我が家へと足を踏み入れた。

山奥の古民家の夜は、どこまでも深く、そしてどこまでも穏やかに更けていくのだった。

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