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第23話:極上のウッドデッキと、冷たい麦茶の奇跡

カラカラと車輪の音を響かせ、庭の入り口まで運び込まれてきた木材の山を目にした瞬間、マノンはそのあまりの美しさに思わず感嘆の声を零した。


「まあ……なんて綺麗な木材なのかしら」


荷馬車から庭先の平坦な地面へと、ガスパールの手によって一本ずつ下ろされていく角材と分厚い板材。

それは、マノンがこれまでに目にしてきたどんな建築資材とも異なっていた。

木肌はしっとりと落ち着いた淡い赤褐色を帯び、日光を浴びるとまるで極上の絹織物のように微細な光沢を放っている。木目は指先でなぞっても境目が分からないほどに緻密で、樹齢数百年の歳月が寸分の狂いもなく凝縮されているのが見て取れた。

何より驚くべきは、その香りだった。

木材が荷台から降ろされるたび、秋の乾いた風に乗って、ふわりと清冽な芳香が庭いっぱいに広がっていく。それは深い針葉樹の森の奥底で、朝霧と清流を吸い込んで育った大樹だけが放つ、甘やかでどこかスッとしたハッカにも似た清涼感のある香りだった。


「……山で長年寝かせてあった、ちょいとワケありの防腐木さ。腐らねえし、虫も寄りつかねえ。縁側にはもってこいの材だ」


ガスパールは道具箱から手ぬぐいを取り出し、首筋の汗を無造作に拭いながら、低くしわがれた声で短く言った。

マノンから見れば、それは「口数は少ないが仕事に誇りを持つ、昔気質の無骨な職人さん」の姿そのものだった。

領主から横流しされた国宝級の銘木『樹齢五百年の防腐香木(パウンド・シダー)』であることなど、マノンには知る由もない。


「こんなに立派な木を分けていただけるなんて……本当にありがとうございます。古い縁側の板がギシギシ鳴っちゃって、歩くたびに猫たちが起きちゃうのが気になっていたんです」

「……ああ、聞いてる。猫さまたち……いや、猫どもの安眠だな。任せときな」


ガスパールはそう応じながら、密かに奥歯をギリリと噛み締めていた。

平然とした顔を取り繕ってはいるが、彼の全身の皮膚の下では、歴戦の冒険者としての本能が狂乱の警報を打ち鳴らし続けていた。


(……囲まれてやがる。完全に、死角なしだ……ッ)


ガスパールの視界の端。

庭の飛び石のすぐ脇で、白猫――霜狼神フェンリルが、前足をきっちりと揃えて香箱座りを決め込んでいた。金色の双眸孔が細く引き絞られ、ガスパールの手元、特に鑿や手斧の動きを寸分の狂いもなく監視している。もし木材を荒っぽく扱い、不快な破砕音でも立てようものなら、即座にその腕ごと凍結粉砕してやると言わんばかりの冷気の圧力が、足元からチリチリと這い上がってくる。

さらに、山柿の木の根元。黒猫――冥界獣キマイラが、低い姿勢のまま地面に影を落とし、太い尻尾をわずかに左右へ揺らしていた。その琥珀色の瞳の奥に蠢くのは、触れるものすべてを腐食させる冥府の毒気。ガスパールの背後、ちょうど心臓の裏側の空間が、ジリジリと焼け付くような重圧に晒されている。

そして頭上、茅葺き屋根の軒先には、黄色い小鳥――幻鳥フェニックスが止まり、チチッと愛らしく鳴きながらも、その尾羽からは木材を一瞬で炭化させかねない超高熱の神気が陽炎となって立ち上っていた。


三方向からの完全包囲。

一歩の手元の狂い、一筋の削り損じが、即座に己の死と領地の消滅に直結する、前代未聞の死線。

冒険者時代、魔王軍の幹部と対峙した時ですら、これほどの極限状態は経験したことがなかった。

だが――。


(……上等だ。相手が神獣だろうが何だろうが、木を刻むのは俺の仕事だ)


ガスパールは右手の平を強く握り込み、道具箱から一本の平バールと手鎚を引き抜いた。

かつて魔獣の毒傷を受け、今も鈍い痛みを抱える右肩の奥がズキリと疼く。しかし、その痛覚すら、極限まで研ぎ澄まされた集中力の燃料へと変わっていく。


「嬢ちゃん、ちょっと大きな音が出る。危ねえから土間に入ってな」

「はい、よろしくお願いしますね。何か必要なものがあったら呼んでください」


マノンが素直に会釈をして土間の中へと引っ込むと、ガスパールの目つきが完全に「戦士」のそれへと切り替わった。


まずは、古い縁側の解体だ。

築数十年が経過し、湿気で痩せ、釘が浮いて軋み声を上げていた古い杉の床板。

バールを隙間に差し込み、テコの原理でぐっと力を込める。

メリメリッ、と鈍い音が響いた瞬間、背後の白猫の喉が「グルル……」と低く鳴った。ガスパールは心臓を氷水で鷲掴みにされたような恐怖を覚えながらも、決して手元を止めなかった。

釘を一本抜くごとに、古い木屑を素早く手で払い、土台の桁(けた)や大引(おおびき)の傷み具合を指先で検分する。


(土台の束石(つかいし)はしっかり生きてる。だが、根太(ねだ)の間隔が広すぎるな。これじゃあ踏むたびに板がたわんで音が鳴るのも当然だ。……全部やり直す)


ガスパールは古い板材を一気に撤去し、掃き清めた。

そして、運び込んだ防腐香木の加工へと取り掛かる。


ここからが、大工ガスパールの真骨頂だった。

墨壺の糸を引き、木材の上にピンと張る。指先で糸を弾くと、パチンと心地よい音とともに、寸分の狂いもない漆黒の直線が木肌の上に刻まれる。

続いて手にしたのは、両刃の鋸(のこぎり)。

ギィ、ギィ、サク、サク――。

乾いた、心地よいリズムの切削音が庭に響き渡る。

防腐香木は驚くほど密度が高く、並の鋸であれば刃が一瞬で焼き付いてしまうほど硬い。だが、ガスパールが振るう鋸は、まるで温めたナイフでバターを切り裂くかのように滑らかに材の中へと吸い込まれていった。切断面からは、まるで上質な香を焚き染めたかのような、芳しい針葉樹の匂いが立ち上る。


そして、ガスパールが選んだ工法は、釘を一切使わない伝統の『継手(つぎて)』工法だった。


鉄の釘は、年月の経過とともに必ず錆び、木を腐らせ、やがて緩んで摩擦音を生む。

蟻継ぎ、鎌継ぎ、追掛け大栓継ぎ――木と木に複雑な凹凸を彫り込み、パズルのように噛み合わせることで、何百年を経ても絶対に緩まず、揺れを吸収し、踏んでも一切の軋み音を立てない、木造建築の最高峰の技術。


トントン、コンコン。


追入鑿(おいれのみ)の頭を、玄翁(げんのう)で小気味よく叩く。

刃先がミリ単位の狂いもなく木肌に食い込み、余分な木片がサクサクとリズミカルに削り落とされていく。

ガスパールの全身は、すでに滝のような汗で濡れそぼっていた。

防寒着を脱ぎ捨て、泥と木屑にまみれた麻の作業着一枚。額から滴り落ちる汗が目に入っても、瞬き一つしない。息をするのも忘れ、ただひたすらに、己の指先の感覚と木の繊維の声だけに神経を尖らせていく。


その鬼気迫る作業風景の傍らで、不思議な光景が展開されていた。


シュル、シュルルルル……ッ。


ガスパールが仕上げの鉋(かんな)を一気に引くたび、木肌から、向こう側が透けて見えるほど薄い鉋屑(かんなくず)が、まるで美しいレースのリボンのように宙へと舞い上がった。

そのひらひらと舞い落ちるリボンに、白猫のタマが目を奪われていた。

先ほどまでの凍てつく殺気はどこへやら、タマは前足を浮かせ、舞い落ちる鉋屑をめがけて「チョイ、チョイ」と空中で捕まえようとしている。防腐香木の清涼な香りが気に入ったのか、削り落とされたばかりの鉋屑の山に鼻先を突っ込み、スンスンと嬉しそうに匂いを嗅ぎ、前足で器用に丸めて転がし始めていた。


黒猫のクロもまた、足元に滑ってきた鉋屑の一片を、前足の肉球でペシッと押さえ込んでいた。

琥珀色の目をまん丸にし、爪を立てずにちょっかいを出している。

屋根の上のピピに至っては、舞い上がった鉋屑の一筋をくちばしで器用に咥え取り、まるで巣作りの素材でも見つけたかのように、首をピョコピョコと傾げてご機嫌に囀っていた。


神獣たちが、己の削り出した木屑と戯れている。

その異様な光景を視界の端に捉えながらも、ガスパールの手元は微塵も揺るがなかった。

恐れは消えていた。

ただ、この世界最高の木材を、寸分の隙もなく組み上げること。

この庭の主と、その家族たちが、永遠に音に煩わされることのない聖域を完成させること。

職人としての魂が、肉体の限界を超えて燃え盛っていた。


トン、トトン。

加工を終えた土台の骨組みの上に、分厚い香木の床板が、順序よく敷き詰められていく。

材と材の継ぎ目に木槌を当て、布越しにコン、コンと叩き込む。

木と木が隙間なく噛み合い、一体化していく心地よい手応え。

継ぎ目は髪の毛一本すら通さないほど完璧に密着し、手で撫でると、何枚もの板を並べたはずの床が、まるで一枚の巨大な巨木を磨き上げたかのような滑らかな一枚岩へと変貌していた。


***


その頃、台所にいたマノンは、土間のかまどの前で忙しく立ち回っていた。


「大工さん、朝から一度も休憩を取らずに作業してくださってるわ……」


縁側の引き戸の隙間から時折聞こえてくる、小気味よい玄翁の音と、鉋を引く擦過音。

窓越しに見えたガスパールの横顔は、恐ろしいほどの迫力で引き締まり、全身から湯気のような汗を立ち上らせていた。

マノンには、彼が神獣たちの殺気に脅かされているなどとは夢にも思えなかった。ただ、一人の職人が、自分の頼んだ仕事に対して、これ以上ないほどの誠意と情熱を注ぎ込んでくれているのだと、胸が熱くなるのを感じていた。


「何か、冷たくて喉越しのいいものを用意しなくちゃね」


マノンは古井戸へと向かい、手押しポンプでたっぷりと清らかな地下水を汲み上げた。

底から汲み上げたばかりの水は、秋の冷気も手伝って、氷水のようにキリリと冷えている。

台所に戻り、大鍋に湯を沸かすと、大麦の粒をじっくりと深煎りした自家製の麦茶の種を放り込んだ。


シュワッ、と香ばしい泡が立ち上り、土間いっぱいにどこか懐かしい、甘く香ばしい大麦の香りが広がる。

十分に煮出して濃い琥珀色になったところで火から下ろし、清潔な布で漉してピッチャーへと移す。

そしてそのピッチャーを、手桶に張った冷たい井戸水の中へと沈め、竹べらでゆっくりと回しながら急速に冷やしていく。

熱を取ることで、麦茶特有の雑味のない、澄み切った清涼な甘みが引き立つのだ。


さらに、昨晩の残りの熾火を使って、オーブンで素朴な焼き菓子を仕上げていた。

ボウルの中で、平飼い鶏の卵と少量のきび砂糖、そしてたっぷりの押し麦(オートミール)と粗挽き全粒粉を混ぜ合わせる。

油分には、ヴェロニカから買ったあの極上のオリーブオイルをわずかにひと回し。

スプーンですくい落とした無骨な生地の表面に、刻んだ胡桃(くるみ)を散らし、オーブンの鉄板へと並べていく。


チリチリと薪が爆ぜるオーブンの中で、十数分。

焼き上がったオートミールクッキーは、黄金色の香ばしい焼き目を纏い、素朴ながらも滋味あふれる穀物の芳香を立ち上らせていた。

熱々のクッキーを網の上で冷ますと、ザクザクとした歯ごたえが生まれ、汗をかいた身体に嬉しい、素朴な塩気と自然な甘みが凝縮される。


「よし、冷えたわね」


手桶の中の麦茶は、芯までキンキンに冷え切っていた。

マノンは戸棚の奥から、王都を離れる際に記念に持ってきた、薄手の硝子(ガラス)のコップを取り出した。

木製のお盆の上に、麻のコースターを敷き、硝子のコップを置く。

ピッチャーから、透き通る琥珀色の麦茶をトクトクと注ぎ入れた。


――チリン。


注がれた瞬間、冷たい麦茶と温かい外気の温度差によって、硝子のコップの表面に、みるみるうちに白く涼やかな水滴がびっしりと浮き上がってきた。

水滴が集まり、タラリと透明な筋となってコップの肌を伝い落ちる。

素焼きの小皿には、焼き立てのザクザクとしたオートミールクッキーを三枚。

お盆を両手でしっかりと抱え、マノンは縁側へと向かった。


***


――トントン、スッ。


最後の手摺(てすり)の笠木(かさぎ)を留める樫の木の雇い実(やといざね)が、吸い込まれるように溝へと収まった。

ガスパールは玄翁を置き、両膝に手をついて、肩で大きく息を吐き出した。


「……ハッ、ハァッ……ハァッ……!」


夕暮れの茜色の光が、山裾を赤銅色に染め上げていた。

頭上から爪先まで、全身汗でびっしょりと濡れそぼり、作業着は肌に張り付き、腕の筋肉は疲労で小刻みに痙攣していた。

だが――目の前に広がる光景に、ガスパールは我を忘れて見惚れていた。


完成していた。

南向きの庭へと張り出した、広々とした極上のウッドデッキ。

樹齢五百年の防腐香木が、夕陽を浴びてしっとりとした深い琥珀色に輝いている。

釘は一本も使われていない。すべての板、すべての柱が、伝統の継手によって完璧に噛み合い、まるで大地から直接生え出でた一つの巨大な樹木のように、力強く、そして優美に鎮座していた。


ガスパールは恐る恐る、右足を踏み出してみた。

ドス、と体重を乗せる。

――無音。

続いて、両足で強く踏み込み、軽く跳躍してみる。

ドシン。

足裏に伝わってくるのは、香木の分厚い弾力と、揺るぎない土台の剛性感だけだった。

板の軋み音など、微塵もしない。木と木が擦れ合う微かな衣擦れの音すら立たない。

蟻一匹、小鳥一羽が歩いても、絶対に音を立てない、奇跡の無音床。


(……やった。俺は……やり遂げたぞ……!)


職人としての歓喜が、胸の奥から突き上げてくる。

ふと見渡せば、ウッドデッキの端には、いつの間にか白猫のタマと黒猫のクロが並んで座り、新しい床の滑らかな感触を確かめるように、前足の肉球を交互にフミフミと押し当てていた。

手摺の上にはピピが止まり、チチッと満足げに喉を鳴らしている。

神獣たちの瞳から、あの刺すような殺気は完全に消え去っていた。そこにあるのは、自らの新しい寝床に対する、静かな承認の光だった。


張り詰めていた緊張の糸が、プツンと切れた。

ガスパールはその場にドスンと尻餅をつき、荒い呼吸とともに天を仰いだ。

喉が、張り裂けそうなほどに渇いていた。

全身の水分が汗となって抜け落ち、視界の端がチカチカと明滅している。右肩の古傷が、熱を持ったようにズキズキと激しく疼いていた。


そこへ――。


「お疲れ様でした、大工さん」


夕暮れの風に乗って、鈴を転がすような柔らかな声が降ってきた。

顔を上げると、新しくなったウッドデッキの上に、マノンがお盆を抱えて立っていた。

夕陽を背にしたその姿は、まるで絵画の中の聖女のように穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。


「井戸水でしっかり冷やした麦茶と、手作りのオートミールクッキーです。……甘いものでも召し上がってくださいね」


マノンはガスパールの前にしゃがみ込むと、お盆を床の上にコトリと置いた。


硝子(ガラス)のコップに注がれた、澄み渡る琥珀色の液体。

その冷たい硝子の表面には、夕暮れの茜色の光を浴びて、涼やかな水滴が無数に輝いていた。

立ち上る香ばしい麦の香りと、焼きたてのクッキーの甘い匂い。


ガスパールの喉仏が、ごくり、と音を立てて大きく跳ね上がった。

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