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第22話:元冒険者大工ガスパール、決死の現場入り

――断れば反逆罪で一族郎党お取り潰し、行けば神話の化け物に喰い殺されて命の保証なし。


街道沿いに構えた己の木工工房で、領主代行の特使としてやってきたセリア副隊長からその紙切れを突きつけられた時、ガスパールは持っていた愛用の突き鑿(のみ)をへし折る勢いで握りしめた。

「おいおいおい、冗談じゃねえぞ! 俺は確かに昔、王都で冒険者なんぞやってたがな、今はただのしがない町大工だ! なんでそんな自殺志願者みてえな真似をしなきゃならねえんだ!」

怒鳴り散らすガスパールに対し、セリアはいつもの生真面目な顔を真っ青に染め、震える手で胃薬の包みを握りしめながら、ただ一言、掠れた声で返してきたのだ。

『頼む、ガスパール……。あんたの腕だけが頼りなんだ。断れば、領都はおろかこのフォレスト領全域が、明日には地図から消える……!』


領地の滅亡だの神話の神獣だの、馬鹿げたお伽噺を信じる気は毛頭なかった。

だが、その直後に工房の前へと運び込まれてきた「資材」を目にした瞬間、大工としてのガスパールの心臓は跳ね上がり、職人の血が猛烈な勢いで沸騰した。

領主館の地下最深部、国宝級の秘宝蔵から引っ張り出されてきたという、丸太一本で小城が買えるほどの幻の霊木――『樹齢五百年の防腐香木(パウンド・シダー)』。

年輪が寸分の乱れもなく均等に詰まり、刃を当てずとも清涼な森の芳香を放ち、五百年を経ても絶対に狂わず、湿気も吸わず、虫も寄せ付けない至高の銘木。大工を三十年やってきて、こんな神がかり的な材木を刻める機会など、天地がひっくり返っても二度と巡ってこない。


「……チッ。クソ貴族どもめ、人の弱みにつけ込みやがって」


悪態を吐きながらも、ガスパールは山道を踏みしめていた。

先行して運ばせた荷馬車には、精密に荒削りされた防腐香木の板材と角材が積み込まれ、すでに古民家の手前百メートルの木立の陰に待機させてある。

そこから先は、馬すら怯えて泡を吹いて動かなくなったため、ガスパールが自らの二本の足で向かうしかなかった。


肩に食い込むのは、使い古した厚手の牛革製の大工道具箱だ。

中には、鋼と軟鉄を幾重にも鍛え合わせて研ぎ澄ました鉋(かんな)が大小五丁、刃毀れ一つない追入鑿(おいれのみ)の揃い、墨壺に曲尺(かねじゃく)、玄翁(げんのう)。かつて冒険者時代に大剣を振るっていた右腕は、魔獣の毒傷の後遺症で常に重苦しい鈍痛を抱えていたが、道具箱を支える左肩の筋肉は、三十八歳の今も岩のように引き締まっていた。


山道を一歩、また一歩と登るにつれ、ガスパールの首筋の皮膚が粟立ち始めた。

木々の間を吹き抜ける風が、おかしい。

秋の乾いた空気のはずなのに、肺の腑に吸い込む息が、氷の針のように喉を刺したかと思えば、次の瞬間には焦熱の砂嵐を吸い込んだかのように熱く乾く。さらには、舌の奥にピリピリと痺れを残すような、強烈な猛毒の残滓。


(……おいおい、マジかよ……)


元・上位冒険者としての直感が、頭蓋の奥で狂ったように警鐘を乱打していた。

竜の巣窟に足を踏み入れた時ですら、これほどの重圧は感じなかった。まるで、世界の法則そのものを歪めるような圧倒的な質量を持った「何か」が、この先の木立ちの向こうに鎮座している。

膝の関節が、己の意志とは無関係に小刻みにガクガクと震え始める。

引き返せ。荷物を放り出して全力で山を駆け下りろ、と本能が叫んでいる。


だが――。

「逃げたら、あんな上等な木を他の三流大工に弄られちまうからな」

恐怖をごまかすように自嘲の笑みを浮かべ、ガスパールは道具箱を担ぎ直した。死ぬなら、最高の木を刻んでから死ぬ。それが職人の意地というものだった。


最後の雑木林を抜けた瞬間、視界がパッと開けた。


そこに広がっていたのは、驚くほど長閑な、絵画のように美しい山裾の平屋古民家だった。

庭の隅には手入れされた古井戸があり、竹竿には真っ白な洗濯物が秋風に揺れている。

だが――その平和極まりない庭先の空気に触れた瞬間、ガスパールの全身の毛穴がキュッと収縮し、呼吸が完全に喉の奥で詰まった。


「――ッ!?」


いた。

遠目には、ただの長閑な日向ぼっこの光景に見えるかもしれない。

だが、数々の修羅場をくぐり抜けてきた元戦士の目には、その輪郭の向こう側に蠢く「本物の地獄」がありありと見えていた。


まず、南向きに張り出した古い縁側。

日だまりの中に寝転がっているのは、中型犬ほどもある巨大な白猫だった。

丸々と太り、のんびりと目を細めているように見える。しかし、その毛並みの奥から滲み出ているのは、大気を物理的に凍結させる白銀の神威――。

ガスパールの脳裏に、かつて極北の文献で目にした挿絵が雷撃のように蘇る。

巨大な角笛をへし折り、氷河の軍勢を率いて一つの古代王朝を消滅させたという、極北の生ける天災『霜狼神フェンリル』。

白猫が前足をわずかに動かしただけで、縁側の板の表面に、パキパキと肉眼で見えるほどの霜の花が這い上がり、絶対零度の冷気が庭一面へと波のように広がっていく。


次に、庭の敷石の隙間、山柿の木の濃い影。

そこに低く蹲っていたのは、片耳の先が欠けた、異様に目つきの鋭い黒猫だった。

琥珀色の双眸が、侵入者であるガスパールの喉元を正確にロックオンしている。その背後には、天を覆う漆黒の巨獅子と、鎌首をもたげる毒蛇の幻影が陽炎のように蠢いていた。

触れるものすべてを腐食させ、大地を不毛の荒野へと変える冥府の厄災『冥界獣キマイラ』。

黒猫が喉を小さく鳴らした瞬間、ガスパールの古傷である右肩の奥が、かつてないほどの激痛でズキリと疼いた。空間そのものが毒に侵されている証拠だ。


そして――古民家の茅葺き屋根の破風(はふ)の先端。

秋晴れの青空を背負って止まっていたのは、雀ほどの大きさしかない黄色い小鳥だった。

愛らしく首を傾げているが、その金糸の尾羽が風に揺れるたび、周囲の大気が激しい陽炎となってゆらめき、木製の屋根瓦が焦げ付く寸前の熱波を孕んでいる。

数百年の周期で自らを焼き尽くし、灰の中から転生を繰り返す不滅の霊鳥『幻鳥フェニックス』。


(おい……おいおいおいおい……!! 冗談だろ……!?)


ガスパールの額から、滝のような冷や汗が吹き出した。

狼、獅子、不死鳥。

神話の時代に世界を二度滅ぼしかけた大厄災が、三竦みとなって、この狭い庭先に集結しているのだ。

しかも、その三つの視線が、いま寸分の狂いもなく、庭の入り口に立ち尽くすガスパールの眉間へと突き刺さっていた。


『……下賤な人間が、鉄の刃物を持って我が主の庭へ踏み込むか』

『一歩でも動けば、その首を噛み千切り、魂ごと毒泥に変えてくれる』

『主の平穏を乱す者は、灰の一粒すら残さず焼き尽くすのみ……』


言葉など発していない。

だが、三匹の魔獣が放つ無言の神威が、巨大な重力波となってガスパールの全身を押し潰そうとしていた。

足が竦む。心臓を直接冷たい万力で締め上げられているような猛烈な圧迫感。

右肩に担いだ道具箱の重みが、まるで鉛の塊のようにずっしりと肩甲骨にめり込んでくる。ここで手元の鑿を一本でも落とし、カランと音を立てようものなら、次のコンマ一秒後には自分の存在はこの世から消滅する――。


(死ぬ……! こんなもん、戦士十万人集めたって勝てるわけがねえ……!!)


ガスパールの足が、恐怖のあまり半歩後退しかけた、その刹那だった。


ガラガラ、ピシャリ。


張り詰めた死の結界の真ん中で、あまりにも長閑で間抜けな、木製建具の擦れ合う音が響き渡った。


「――っ!?」


神獣たちの殺気が、ピクリと止まる。

縁側の引き戸が左右に開け放たれ、奥の薄暗い居間から、一人の女性がひょっこりと姿を現したのだ。


生成りの木綿のワンピースに、白い麻のエプロンをきゅっと胸元で結んだ、小柄な娘。

栗色の髪を後ろで無造作に三つ編みに束ね、手には湯気を立てる素朴な木製のトレイを抱えている。

門柱のところに立ち尽くす厳つい大男――泥まみれの革鎧に身を包み、大工道具を担いで蒼白になっているガスパールの姿を認めた瞬間、娘の丸い瞳がぱっと輝いた。


「あら! 大工さん!」


鈴を転がすような、濁りのない明るい声だった。

娘はエプロンの裾を揺らしながら、トコトコと小走りで縁側から庭の地面へと飛び降りてきた。

武器も持たず、防具も身につけず、魔力障壁の欠片すら纏っていない。

三匹の怪物が殺気の針を張り巡らせているそのど真ん中を、まるで近所の花畑を散歩するかのような無防備な足取りで、まっすぐにガスパールへと向かって歩いてくる。


その瞬間――ガスパールは信じがたい現象を目の当たりにした。


娘が一歩足を踏み出すたびに、庭を満たしていた絶対零度の冷気も、腐食の瘴気も、焦熱の熱波も、まるで春の朝陽を浴びた残雪のように、跡形もなくスゥッと消え去っていったのだ。

娘の体から放たれているのは、魔力などという荒々しい力ではない。

あらゆる興奮を凪がせ、すべての毒気を無力化してしまう、純度百パーセントの「絶対平穏の空気」。

それに触れた途端、縁側の白猫(フェンリル)は「グルルゥ……(にゃーん)」と愛らしい喉鳴らしを漏らしてゴロンと腹を晒し、物陰の黒猫(キマイラ)はスッと耳を伏せて前足を揃えて座り直し、屋根の上の小鳥(フェニックス)は「ピピッ♪」とご機嫌な声で羽を丸く膨らませた。


世界の終末が、たった一瞬で、ただの「昼下がりの庭先」へと巻き戻された。


「遠いところ、重たい道具を持ってわざわざ来てくださって、本当にありがとうございます!」

マノンはガスパールの前まで駆け寄ってくると、深々と頭を下げた。

「ヴェロニカさんからお聞きしました。麓の村の凄腕の大工さんが、親切にも様子を見に来てくださるって! 古いお家だから、あちこちガタが来ちゃってて……本当に助かります!」


「あ……あ、ああ……」

ガスパールの喉から、掠れた声が漏れ出た。

目の前にいるのは、世界を滅ぼす災厄の魔獣たちを素手で手懐ける、至高の調停者。

その本人が、まるで近所の気のいい小娘のように、満面の笑顔で自分を見上げている。

化粧っ気のない素朴な顔立ち、少し日に焼けた健康的な頬、そして前掛けについたわずかな小麦粉の跡。

だが、その娘の体の中心から漂ってくる底知れぬ「凪」の気配に、ガスパールの歴戦の勘が、再び別の意味で激しく警鐘を鳴らしていた。


(……化け物だ)


ガスパールは息を呑んだ。

魔獣たちのような、暴力的な威圧感ではない。

何もない。攻撃魔力も、威圧も、殺気も、爪の先ほども存在しない。

完全なる「無」。

激流を受け流すのではなく、激流そのものを存在しなかったことにしてしまう、絶対的な虚無の深淵。あの神話の怪物どもが、爪を引っ込めて飼い猫の真似事をしている理由が、肌身で理解できた。この娘の前に立てば、いかなる暴虐の力もただの児戯に成り下がるのだ。


「あの……大工さん? お顔の色がとても青いですけれど、山道でご気分でも悪くされましたか?」

マノンが心配そうに小首を傾げ、覗き込んできた。

その邪気のない、心底から人を気遣う瞳を見た瞬間、ガスパールの中で何かがプツンと切れた。


(……へっ、笑わせやがる)


奥歯をギリリと噛み締め、ガスパールは肩に担いだ重たい道具箱を、庭の地面へとドサリと下ろした。

鈍い地響きとともに、使い込まれた黒革の道具箱が土を踏みしめる。

恐怖がないと言えば大嘘だ。今も背中に突き刺さる三匹の魔獣の視線は、一歩間違えれば自分をミンチにできる威力を保っている。

だが――目の前のこの娘は、職人である自分を心から頼りにして、頭を下げてくれたのだ。

そして何より、手前にはあの『樹齢五百年の防腐香木』が待っている。


(ここでビビって手抜きなんぞしてみろ。神獣に喰い殺される前に、大工としての俺の魂が死んじまうわ)


腹を括った。

死ぬなら、世界一の仕事をやり遂げてから死ぬ。

ガスパールは作業着の袖を力任せにまくり上げ、逞しい二の腕を露わにすると、顔に張り付いていた恐怖を豪快な不敵の笑みで塗り潰した。


「……おう、嬢ちゃん! 待たせたな! 麓の村で一番腕の立つ大工、ガスパール様のお出ましだ!」

野太い声で胸をドンと叩く。

「縁側がギシギシ鳴って困ってるって聞いたぜ! 任せときな、この俺が来たからには、蟻一匹通っても音一つ立てねえ、極上の床を組み上げてやるよ!」


「まあ……! 頼もしい!」

マノンはぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに手を叩いた。


ガスパールは道具箱の留め金を外し、蓋を跳ね上げた。

中から取り出したのは、樫の木の台に極上の青紙鋼を仕込んだ、自慢の平鉋(ひらがんな)だ。

刃の出を指の腹で確かめ、木槌でトントンと台の頭を叩いてミクロ単位の狂いを調整する。

その横顔には、歴戦の冒険者としての鋭利な集中力と、三十年間木と向き合い続けてきた職人の矜持が、ギラリと宿っていた。


「おい、嬢ちゃん。先行して運ばせてある極上の材木を、庭先まで引き入れさせてもらうぜ。……今日中に、お前さんとその猫どもが腰を抜かすような、最高の縁側を見せてやる!」


神獣たちの無言の包囲網の中、元冒険者大工ガスパールの、己の魂と領地の存亡を賭けた命がけの施工が、いま幕を開けようとしていた。

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