第21話:【周囲視点】過熱する信奉と、ギシギシ鳴る縁側
奇跡の味がもたらした衝撃は、一夜が明けても領主館の空気を支配し続けていた。
領主代行執務室の窓から差し込む朝の光は、いつもと同じはずだった。しかし、執務机を挟んで向かい合うローラン・ド・フォレストと、副隊長セリア・クローデルの佇まいは、数日前とはまるで別人のように変貌を遂げていた。
ローランの顔から、あの鉛を塗りたくったような土気色の隈が完全に消え失せていた。徹夜続きで充血していた藍色の瞳は、驚くほど清らかに澄み渡り、銀縁の眼鏡の奥で鋭く、冴えわたる光を湛えている。背筋は定規を当てたように美しく伸び、指先一つ動かす所作にも、淀みのない力が漲っていた。
それはセリアも同様だった。常に胸ポケットの胃薬をまさぐり、脂汗を滲ませていた彼女の頬には、健康的な桜色の血色が戻っている。長年悩まされていた慢性的な胃の鈍痛が嘘のように消失し、軍服の襟元をきっちりと留めた立ち姿には、王国騎士としての凛とした気品が満ち満ちていた。
「……信じられん」
ローランは手元の決算書類からふと目を上げ、自らの両手を広げて握り直した。
「昨晩、あれほど膨大な軍事予算の組み替えを行ったというのに、頭痛薬どころか一杯の白湯すら口にしていない。頭脳の回転が、普段の三倍近い速度で維持されている……。疲れを……まったく感じないのだ」
「私の胃も、です」
セリアが感動を噛みしめるように、静かに自らの下腹部に手を当てた。
「朝食の硬いライ麦パンと脂っこいソーセージを、胃薬なしで完食できました。何年ぶりでしょうか……食事が純粋に『美味い』と感じられたのは。これもすべて、あのリンゴタルト……マノン様が下賜された、奇跡の霊薬の御力です」
毒味を務めた老兵バルツの回復ぶりは、領主館の警備隊員たちの間でも瞬く間に伝説と化していた。
十数年動かなかった右腕で分厚い訓練用の丸太を軽々と担ぎ上げ、嬉し泣きしながら素振りをする姿を目撃した隊員たちは、山奥の古民家の方角へ向けて朝夕の敬礼を欠かさなくなっていた。
もはや領主館陣営において、マノン・デュランに対する認識は「恐るべき調停者」という警戒の枠を完全に踏み越えていた。
触れるものすべてを浄化し、傷ついた魂を救済する、現世に舞い降りた至高の守護聖女。
世界を滅ぼす三匹の神獣たちを侍らせながらも、人知れず山奥で慎ましい暮らしを営む、慈悲深き神託の巫女――。
「だが、浮かれてばかりはいられん」
ローランは引き締まった表情で、机の中央に広げられた分厚い羊皮紙の束――商人ヴェロニカから提出された『マノン邸最新動向調査報告書』へと視線を落とした。
豪商ギルドの敏腕であるヴェロニカが、持ち前の観察眼を総動員して書き上げた極秘文書だ。マノンが発した言葉、視線の動き、表情の機微、果ては庭の草木の揺れ方に至るまで、克明に記録されている。
「セリア。もう一度、報告書の内容を検証するぞ」
「はっ」
セリアが姿勢を正し、報告書の該当箇所を指し示した。
「まず、蓄熱オーブンの件ですが……マノン様は大変ご満悦の様子とのことです。『火の回りが均一で、煙も全く逆流しない』と、満面の笑みを浮かべておられたと。ヴェロニカの証言によれば、あのお方は我が領主館からの間接的な献上を、心から喜んで受け入れてくださったと見て間違いありません」
「うむ。オーブンの火入れに神獣たちが怒り狂うこともなく、むしろ薪の暖かさに身を寄せていたというのは重畳だ。我らの誠意は、確かに通じたのだ」
ローランは安堵の息を漏らし、羽根ペンで羊皮紙の該当箇所に合格の印を書き加えた。
だが、問題はその先だった。
報告書の一番最後、ヴェロニカが去り際の雑談として書き残した、わずか数行の追伸。
ローランの視線がそこに留まった瞬間、彼の眉根がピクリと跳ね上がった。
『――追伸。
マノン様、タルトを下賜された後、大変ご機嫌な足取りで屋敷へ戻られたが、縁側の引き戸に手をかけられた際、床板を踏むたびに「ギシッ、ギシッ」と耳障りな軋み音が山裾に響いておりました。
その際、縁側で丸くなっておられた白猫様が煩わしそうに耳を伏せ、黒猫様が微かに目を開けて唸り声を漏らされております。
マノン様は困ったように眉を下げ、自らの足元を見下ろしながら、以下のように独り言をこぼされておりました。
――「縁側の板がギシギシ鳴るから、踏むたびに猫たちが起きちゃうのよねぇ」――以上』
執務室の空気が、急激に凍りついた。
窓の外を吹き抜ける秋風の音すら掻き消えるほどの、重苦しい沈黙。
ローランは微動だにしなかった。
ただ、眼鏡の奥の瞳が、見開かれたまま報告書の文字に釘付けになっている。
隣に立つセリアの顔から、先ほどまでの健康的な桜色が急速に引いていく。治ったはずの胃のあたりが、幻痛のようにキュッと縮こまった。
「……セリア」
ローランの口から零れ落ちたのは、氷柱のように冷え切った、地を這うような低音だった。
「この一文を……どう読む」
「は……っ」
セリアは乾いた喉を鳴らし、震える声で絞り出した。
「マノン様が……歩かれるたびに、縁側の板が軋み……その音によって、眷属たる神獣たちの安眠が……妨げられている、と……」
「そうだ」
ドォンッ――!!
ローランは両手を激しく机に叩きつけ、弾かれたように立ち上がった。
黒檀の分厚い天板が悲鳴を上げ、インク壺が激しく跳ねる。
「一大事だ……!! 我々は何という致命的な不手際を見過ごしていたのだ!!」
ローランの形相は、敵国の軍勢が領都の城門を破った時以上の切迫感に染まっていた。
「床が軋むだと!? ただでさえ気難しい神獣フェンリルとキマイラが、人間の粗悪な床板の騒音によって、眠りを浅くされているのだぞ!? 睡眠不足が獣に与えるストレスを考えたことがあるのか!?」
「ひ……っ」
セリアの背筋に、冷たい汗が滝のように流れ落ちる。
「もし……もしも軋み音の苛立ちによって、フェンリル様が不意に冷気を暴発させれば……!」
「冷気だけではない! キマイラが猛毒の爪を床に突き立て、平屋が倒壊する恐れもある! そして何より――マノン様ご自身が『猫たちが起きちゃう』と、眉をひそめて不快感を示しておられるのだぞ!!」
ローランは部屋の中を狂ったように pacing(行ったり来たり)し始めた。
彼の怜悧な頭脳が、最悪の破滅シナリオを瞬時に何千通りもシミュレートしていく。
「あのお方は、我々が差し上げたオーブンの返礼として、国宝級の霊薬たるタルトを下賜してくださった。それほどの深き慈悲を示してくださった直後に、あのお方の愛する猫たちが、住処の粗末な床のせいで安眠を奪われているのだ! これを放置するなど、領主として万死に値する怠慢! 『お前たちの領地は、私に心地よい昼寝の場所すら提供できぬのか』と見限られたらどうする!?」
「ローラン様、お気を確かに……! 今すぐ、今すぐ対策を講じねばなりません!」
セリアが必死に叫んだ。
「工兵部隊を派遣しますか!? それとも、領都の大工ギルドを総動員して、平屋の縁側を丸ごと建て替えさせますか!?」
「馬鹿者、大工を大勢送り込んでどうする!」
ローランは踵を返し、セリアの肩を万力のような力で掴んだ。
「大勢の人間が鋸や金槌を持ってドタドタと庭へ踏み込んでみろ! 神獣たちが『敵の包囲』と誤認して、瞬時にこの領地を雪原と毒泥に変えてしまうわ! 必要なのは大部隊ではない! たった一人……神獣たちの殺気に当てられても失禁せず、気絶せず、完璧な仕事を完遂できる、真の『手練れ』だ!!」
「た、たった一人で……あの魔窟の縁側を直せる職人……!?」
セリアは絶句した。
あそこは、百戦錬磨の王国騎士十名が這いつくばって逃げ帰った場所なのだ。並の職人など、庭の生垣の前に立っただけで気絶するか、腰を抜かして一生廃人になるのが目に見えている。
神獣の威圧に耐えうる強靭な精神力。
魔力酔いに抗うだけの頑強な肉体。
そして何より、歩いても、飛び跳ねても、絶対に寸分の狂いもなく軋まない、神技のごとき床を作り上げる超一流の腕前――。
そんな都合の良い人材が、この辺境の地に存在するはずが――。
セリアの思考がそこまで至った瞬間、ローランとセリアの視線が、室内の空気の中でカチリと交錯した。
二人の脳裏に、同時に、ある一人の男の顔が浮かび上がっていた。
「……あいつしか、いないな」
ローランが、苦々しく奥歯を噛み締めながら呟いた。
「……ガスパール、ですか」
セリアもまた、眉をひそめてその名を口にした。
ガスパール。三十八歳。
麓の開拓村に工房を構える、腕利きの村大工。
だが、その正体はかつて王都の最高ランク冒険者パーティで前衛を務め、数々の高位魔獣をその剛腕で叩き伏せてきた歴戦の元・冒険者だった。
ある過酷な討伐任務で右肩に魔獣の毒傷を負い、現役を引退。故郷であるフォレスト領へ戻り、実家の大工仕事を継いだ男だ。
その腕前は折り紙付きで、木の癖を素手で撫でただけで見抜き、釘を一本も使わずに数百年狂わない建具を組み上げると言われている。
しかし――性格が、最悪だった。
極めて偏屈、頑固、無愛想。貴族だろうが富豪だろうが、気に入らない依頼は「木が泣く」と言い捨てて門前払い。領主館からの改修依頼すら、「くだらねえ見栄っ張りの仕事なんぞに使う木はねえ」と鼻で笑って断った前科があるほどの問題児だった。
「ですがローラン様、あの偏屈親父が、素直に命令を聞くでしょうか……? 領主の強制徴募令を出せば、へそを曲げて山へ逃げ出しかねません」
「命令ではない」
ローランは執務机へ戻ると、最高級の羊皮紙に素早く筆走らせた。
「これは、フォレスト領の存亡を賭けた『最高難度の特級依頼』だ。冒険者ギルドの最高位規約に基づき、全権委任の特命として発注する。……拒否すれば領地追放、受ければ一生遊んで暮らせる報酬を積む。だが、そんな金や脅しで動く男ではないことも知っている」
ローランは筆を置き、印章を朱肉に押し当てて力強く封印を施した。
「あいつの職人としての誇りを突くのだ。『世界でもっとも神聖で、もっとも凶悪な主たちの前で、絶対に軋まない究極の床を作ってみせろ』とな。……そして、材料だ」
ローランは懐から、領主館の最深部にある秘宝蔵の鍵を取り出した。
真鍮の鍵が、カチャリと冷たい音を立てる。
「地下蔵の第三区画を開放しろ。あそこに眠る『樹齢五百年の防腐香木』を、すべて切り出してガスパールの工房へ運べ」
「なっ……!?」
セリアは耳を疑った。
「防腐香木ですって!? 王宮の大聖堂の床板に使われる、あの国宝指定の霊木ですか!? 一坪分で小さな城が建つほどの家宝ですよ!?」
「城など、領地が消し飛べば灰燼に帰すわ!」
ローランは一喝した。
「五百年狂わず、害虫を寄せ付けず、湿気で歪むこともなく、触れるだけで微かな清涼な香りを放つ至高の銘木だ。神獣たちの爪にも耐え、あのお方の繊細な足腰を支えるには、あれ以上の木材はこの世に存在しない! 釘を一本も使わぬ伝統の継手工法で、極上のウッドデッキを組み上げさせるのだ!」
ローランの決断に、迷いは微塵もなかった。
リンゴタルトの一片で、老兵の十数年の古傷を完治させ、自分たちの疲労を瞬時に消し去ってみせた調停者マノン。
あのお方がほんの少し眉をひそめただけで、領地を揺るがす国家規模の公共事業が即座に決定される。
過剰な信奉。狂気じみた忖度。
だが、当事者たちにとっては、これこそが生き残るための唯一絶対の正道だった。
「セリア。直ちにガスパールの工房へ向かえ」
ローランは特命状をセリアの手へと手渡した。その眼差しには、戦場へ向かう友を見送るかのような、重々しい祈りが込められていた。
「あいつに伝えろ。『相手は神獣フェンリル、キマイラ、フェニックスの三体。しくじれば、お前の魂ごとフォレスト領は消滅する。だが成功すれば、お前は世界で唯一、神々の眠る床を作った伝説の大工となる』とな」
「……ははっ!!」
セリアは特命状を胸元に収め、踵を返して執務室を飛び出していった。
***
その頃。
秋の爽やかな陽光が降り注ぐ、山奥の平屋古民家。
「――ギシッ」
縁側の引き戸を開け、洗濯物の籠を抱えて庭へ出ようとしたマノンの足元で、乾いた床板が小さく軋んだ。
その音に反応して、縁側の端で日向ぼっこをしていた白猫のタマが、ピクンと片耳を動かした。
横で丸くなっていた黒猫のクロも、薄く琥珀色の目を開けて「ふにゃ」と小さく欠伸をこぼす。
柿の木の上のピピが、パタパタと羽を整え直した。
「もう……ごめんね、起こしちゃったわね」
マノンは苦笑いしながら、爪先立ちでそっと縁側の端を歩いた。
「古いお家だから、あちこちガタが来てるのは仕方ないけれど……歩くたびにギシギシ鳴っちゃうと、せっかく気持ちよさそうに寝てるみんなに申し訳ないわねぇ。板の間に油でも差せば、少しは音が静かになるかしら」
マノンは竹竿にシーツを干しながら、呑気に首を傾げていた。
まさか自分のその小さな独り言が原因で、城が一つ建つほどの国宝級の銘木が蔵から引っ張り出され、元凄腕冒険者の偏屈大工が「命がけの特攻任務」として自分の庭へ送り込まれようとしているなどとは、夢にも思わずに。
「よし、今日のお昼は、昨日のお裾分けのお礼にマルタおばあちゃんから貰ったサツマイモで、ふかし芋でも作ろうかしらね」
秋空の下、マノンの穏やかな鼻歌が、どこまでも長閑に庭先を揺らしていた。




