第19話:オーブンの試運転と、黄金のリンゴタルト
土間の引き戸の隙間から差し込む朝の光が、新しく据え付けられた漆黒の鉄塊を鈍く照らし出していた。
昨日、豪商ヴェロニカの手によって運び込まれた、最新式の蓄熱密閉型オーブン。
高さはマノンの胸元まであり、どっしりとした四本の猫足が土間の踏み固められた土に深く根を下ろしている。エナメル質の黒漆で焼き付けられた分厚い炉壁、磨き抜かれた真鍮の温度計と取っ手。手で触れてみると、鉄特有のひんやりとした硬質な冷たさが手のひらに伝わってくるが、その奥には分厚い耐火煉瓦が幾重にも組み込まれており、一度火を呑み込めば半日は熱を逃がさないという頑固な気骨が感じられた。
「よし……今日はいよいよ、この子の火入れね」
マノンは袖を二回折り返して腕まくりをし、麻のエプロンの紐をキュッと締め直した。
王都の調剤薬舗で働いていた頃は、正確無比な薬の調合と同じくらい、休日に素朴な焼き菓子を作ることが何よりの息抜きだった。けれど、あの大通りの狭苦しい共同下宿には小さなアルコールランプとかまどしかなく、本格的なオーブンを使った焼き菓子など夢のまた夢だったのだ。
こんなに立派な調理器具が、まさか自分の台所に鎮座する日が来ようとは。料理好きとしての血が、朝から静かに、けれど熱く沸き立っていた。
まずは火床の準備だ。
焚口の扉を開け、底に敷いた鉄格子の隙間に、裏山で拾い集めてしっかり乾燥させておいた杉の葉と細い小枝をふんわりと敷き詰める。
その上に、薪割りで細く割っておいた楢の薪を三本、空気が通るよう井桁に組む。
火打ち金をカチカチと打ち鳴らすと、乾いた火花が杉の葉の繊維に落ち、チロチロと赤い火種が生まれた。マノンが唇をすぼめてふう、ふうと息を吹きかけると、煙が立ち上り、パチッ、パチパチッと小枝が爆ぜる心地よい音が響き始める。
ゴオオォォ……。
煙突の吸気弁を開いた瞬間、鉄の筒の奥へ向かって空気が力強く吸い込まれる低い音が土間に反響した。
排気効率が驚くほど優れている。古いかまどのように煙が部屋の中に逆流して目を痛めることもなく、炎はまっすぐに吸い上げられ、分厚い楢の薪を瞬く間に舐め上げていく。
太めの薪を二本足して重い鉄の扉を閉じると、炉の正面に取り付けられた丸い真鍮枠の温度計の針が、ゆっくりと右へ傾き始めた。
鉄が熱を抱き、土間の空気がじんわりと温まりだす。
その心地よい熱気に誘われるように、トコトコと足音が近づいてきた。
「グルルゥ……」
「ふにゃ」
白猫のタマと、黒猫のクロだった。
二匹は火の粉が飛ばない絶妙な距離――オーブンから二メートルほど離れた土間の上がり框の上に並んで腰を下ろし、四肢を揃えて、パチパチと薪が爆ぜる音にじっと耳を澄ませている。
タマのふかふかの純白の毛並みが、熾火の反射光を浴びて淡い茜色に染まり、クロの引き締まった黒い毛先は艶やかに光を弾いている。
そして、居間の鴨居の上からは、黄色い小鳥のピピが音もなく舞い降りてきて、タマの大きな丸い頭のてっぺんに、ちょこんと足指を絡めて着地した。
タマは頭の上に小鳥が乗っても怒るどころか、重みを感じて耳をペタリと伏せ、目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
三匹が薪の暖かさに蕩けていくのを見届けて、マノンは台所の木製作業台へと向かった。
「さあ、生地から作りましょう」
今朝作るお菓子は、秋の王道――リンゴのタルトだ。
マノンは、粉をこねる前に両手を古井戸の冷たい水に浸し、しっかりと冷やした。手の体温でバターが溶けてしまうのを防ぐためだ。清潔な麻布で水気を拭き取り、大きな素焼きの捏ね鉢を引き寄せる。
鉢の中に、粗挽きの地粉と少しの塩をふるい入れ、冷暗所でキンキンに冷やしておいた発酵バターの塊を投入する。
バターの表面には、まだ冷気による白い粉が吹いている。
マノンは金属のスケッパーを両手に持ち、トントン、サクサクとリズミカルに刃を打ち下ろした。
バターを賽の目に刻み、粉をまぶしながらさらに細かく刻んでいく。大豆ほどの大きさになったところで、指先を開き、粉とバターをすり合わせるようにしてサラサラと擦り混ぜていく。
シャッ、シャッ、シャッ。
乾いた粉と冷たい油脂が擦れ合う微細な音が、静かな台所に響く。
手のひらの熱を伝えないよう、指先だけで手早く、けれど決して練らないように。
やがて鉢の中は、黄色みを帯びた粗い砂のような、ポロポロとしたそぼろ状に変わっていった。バターの濃厚でミルキーな甘い香りが、粉の素朴な香ばしさと溶け合って立ち上る。
そこへ、冷たい井戸水を大さじ二杯、円を描くように回し入れる。
木べらで切るように混ぜ合わせ、水分を行き渡らせると、ボロボロだった粉が一つの塊へとまとまり始めた。
「よし、手早くね」
粉をまとめた生地を素早く二つ折りにし、手のひらの付け根でグッと一度だけ押し潰す。これを二、三度繰り返すだけで、層を壊さずに滑らかな一つの平たい円盤状に整える。
清潔な濡れ布巾で包み、土間のひんやりとした日陰の棚に置いて、生地を休ませる。
こうしてグルテンの緊張を解き、冷やすことで、焼き上がった時にハラハラと崩れるような軽やかなサクサク感が生まれるのだ。
生地を寝かせているあいだに、本日の主役の仕込みに入る。
木箱から取り出したのは、先週、裏山の薬草摘みの古老・マルタおばあちゃんの畑へ遊びに行った際に分けてもらった、小ぶりの紅玉リンゴだった。
大人の握り拳よりも一回り小さく、深い真紅の皮をまとったそのリンゴは、王都で売られている大味で見栄えだけの高級果実とはまるで違っていた。実が引き締まり、鼻を近づけると、朝露の鋭い酸味と野性味あふれる芳醇な甘い香りがツンと鼻腔をくすぐる。
「マルタおばあちゃん、いいリンゴを育ててるわぁ」
マノンはよく研いだ小刀を手に取り、リンゴの皮を剥き始めた。
シュルシュルと、途切れることなく真紅の皮が螺旋を描いて剥ぎ取られていく。
皮の下から現れたのは、淡いクリーム色の瑞々しい果肉。刃を当てるたびに、プシュッと微細な果汁の飛沫が弾け、まな板の上に甘酸っぱい香りの雫が散った。
芯をくり抜き、縦に四等分、さらにそれを二ミリほどの薄切りにしていく。
トントントントン、と軽快な包丁の音が刻まれる。
薄くスライスされたリンゴの断面は、朝の光を透かしてまるで薄い琥珀の板のように美しく並んでいった。
次に、小さな片手鍋をかまどの弱火にかける。
ひとかけらのバターを落とすと、ジュワッと泡を立てて溶け広がり、ナッツのような香ばしい香りが立ち上った。
そこへ、薄切りにしたリンゴの半分を投入する。
タルトの底に敷き詰めるための、下煮のソテーを作るのだ。
鍋肌からチリチリと小気味よい音が響き、リンゴの水分がバターと混ざり合って白濁したシロップになっていく。
ここで、マノンは昨日ヴェロニカから買ったばかりの、あの濃緑色の小瓶を手に取った。
蓋を開けた瞬間、部屋の空気が一変する。
南方の特級シナモンスティック。
おろし金の細かな目で、スティックの先端をサッサッと二、三度軽く削り落とす。
ハラハラと鍋の中に落ちた琥珀色の粉末から、甘く、けれどどこか柑橘の爽やかさを秘めた、息を呑むほど高貴な芳香が弾け飛んだ。
さらに、きび砂糖を木のスプーンに一杯だけパラパラと振りかける。砂糖は最小限。紅玉リンゴが自ら持っている鋭い酸味と豊かな甘みを、極上のシナモンが上品に引き立てていく。
木べらで優しく返し、リンゴの角が少し透き通るくらいで火から下ろす。
煮崩してペーストにしてしまわず、シャキッとした果肉の歯ごたえをわずかに残すのが、マノン流のこだわりだった。
「いい香り……これだけでもスプーンですくって食べちゃいたいわね」
冷ましているあいだに、休ませておいた生地を取り出す。
作業台に打ち粉を薄く振り、麺棒で生地を中央から外側へ向けて均一に延ばしていく。
ゴロゴロと麺棒が転がるたびに、冷えて締まった生地がしなやかに広がり、厚さ三ミリほどの綺麗な円形になっていく。
素焼きのタルト型に生地をふわりと乗せ、親指の腹で型の隅へと優しく密着させていく。余分な縁の生地をナイフで断ち落とし、底一面にフォークの先でピケ――小さな穴をプチプチと無数に開けていく。底が蒸気で浮き上がるのを防ぐための、大切な一手間だ。
タルト型の底に、冷ましておいたシナモンソテーのリンゴを平らに敷き詰める。
そして、その上へ。
生のまま残しておいた、もう半分の薄切りリンゴを並べていく。
マノンの指先が、流れるように動いた。
外側から内側へ向けて、薄切りリンゴを少しずつ重ね合わせながら、同心円状に並べていく。
一枚、また一枚。
薄い果肉の端が重なり合い、中心に向かうにつれて少しずつ立ち上がっていくその姿は、まるで咲き誇る大輪の薔薇の花のようだった。
仕上げに、表面に冷たいバターの極小の角切りをパラパラと散らし、きび砂糖をひとつまみだけ雪のように降らせる。
「よし。行ってらっしゃい」
マノンは厚手の綿手袋をはめ、オーブンの前に立った。
真鍮の温度計の針は、ちょうど理想的な中火の目盛りを指している。
重い鋳鉄の扉の取っ手を握り、手前へ引いた。
――ボワッ!
扉が開いた瞬間、耐火煉瓦が蓄え込んだ圧倒的な熱風が、マノンの前髪をふわりと揺らした。
薪の火が赤々と熾火になり、炉内全体が柔らかく均一な熱の揺らぎで満ちている。
マノンは鉄格子の真ん中の段へと、タルト型を滑り込ませた。
ガチャン、と重厚な鉄の扉を閉め、閂を落とす。
あとは、時間と火の神様に任せるだけだ。
***
十分が経過した頃、平屋の空気は、甘く香ばしい夢のような香りで満たされ始めていた。
チリチリ、パチパチ。
炉の中で薪が小さく爆ぜる音に混ざって、タルト型の中でバターが沸き立ち、パイ生地を揚げ焼きのように膨らませていく微細な音が聞こえてくる。
オーブンの上部の小さな蒸気抜き穴から、細い白い煙とともに、耐えがたいほど食欲をそそる匂いが噴き出していた。
焼き縮むリンゴの甘酸っぱい果汁の匂い。
焦げ目を帯び始めたきび砂糖のカラメル香。
そして、部屋の隅々まで染み渡っていく、シナモンとバターの濃厚な芳香。
土間の上がり框にいた毛玉たちの様子が、目に見えてソワソワし始めていた。
「グルル……」
「ふにゃあ……」
タマとクロが、同時に立ち上がった。
普段の威厳などどこへやら、二匹は前足を揃えて首を限界まで長く伸ばし、オーブンの蒸気穴に向けて鼻先をピクピクと激しく動かしている。
タマの口元からは、ぽた、ぽたと涎が垂れ、土間に小さな染みを作っていた。
タマの頭の上に止まっていたピピも、パタパタと羽を震わせ、首を傾げながら「ピピッ! ピピピィ♪」と興奮したように高い声で囀っている。
神獣フェンリルも、冥界獣キマイラも、幻鳥フェニックスも、焼き上がっていくリンゴタルトの凶悪な香りの前には、ただの腹を空かせた居候たちにすぎなかった。
「ふふ、もうちょっとよ。焦げ茶色のいい色がつくまで我慢ね」
マノンは笑いながら、小さなガラス窓から炉内を覗き込んだ。
薄切りリンゴの端がキュッと反り返り、縁のパイ生地が何層もの薄い層となってぷっくりと持ち上がっている。表面のきび砂糖が溶けてリンゴの果汁と混ざり合い、黄金色の照りとなってブツブツと泡立っていた。
さらに五分。
香ばしい焼き色が完璧な頂点に達した瞬間、マノンは厚手の手袋で扉を開け放った。
――ふわぁぁぁぁぁっ!
立ち上る白い蒸気と熱風とともに、部屋中を満たした香りの密度が跳ね上がった。
鉄格子から引き出された丸いタルト。
「……できた……!」
マノンの口から、感嘆の吐息が零れ落ちた。
素焼きの型の中で、パイ生地はこんがりと濃い狐色に焼き上がり、幾重にも重なった層がサクサクとした軽やかな質感を主張している。
花びらのように並べられたリンゴは、余分な水分が飛んで旨味が凝縮し、表面は透き通るような深い黄金色に輝いていた。縁の少し焦げたカラメルの濃い茶色と、中央の柔らかな琥珀色のグラデーション。熱せられたシナモンが放つスパイシーな香気が、部屋の空気を幸福な温もりで満たしていく。
作業台の上の網に乗せると、パキ、パキリと、冷えゆくパイ生地が空気を吸って微かに鳴る音がした。
熱が落ち着くにつれ、表面の果汁シロップが固まり、まるで宝石細工のような艶やかな光沢を放ち始める。
「大成功ね。さすが最新式のオーブンだわ……火の回りが均一で、焼きムラが全然ない」
マノンは愛おしそうにタルトを見つめ、それから土間の隅のオーブンをポンと優しく撫でた。
これほどの道具を、あんな捨て値で譲ってくれたのだ。
ヴェロニカは「重くて邪魔だから」と笑っていたけれど、山道を一人で馬車を駆り、こんな重たいものを運ぶのがどれほど大変だったか。腰を痛めながら、自分のような山奥の新入りに親切にしてくれた、あのおばさんの顔が思い浮かぶ。
「次に行商に来てくれたら、絶対にお礼をしなくちゃ」
マノンは完全に冷めたタルトを、よく研いだ包丁で手際よく切り分けた。
ザクッ、サクッ、と刃が入るたびに、驚くほど軽やかな、心地よい破壊音が響く。
八等分に切り分けたうちの半分――四切れを、清潔な油紙を敷いた深めの竹籠の中へと、崩れないよう丁寧に並べ入れた。
上から、洗い立ての真っ白な麻布をふわりと被せ、隙間風が入らないよう籠の縁にきゅっと押し込む。
「これなら、明日ヴェロニカさんが麓から戻ってくる時まで、しっかり美味しく保てるわね」
竹籠を涼しい食料棚の特等席へと収め、マノンは残りのタルトの一切れを、小さな素朴な平皿へと乗せた。
もちろん、自分の味見用だ。
フォークを刺すと、ザクリと心地よい音がして、パイ生地がハラハラと零れ落ちた。
ソテーした下のリンゴと、香ばしく焼き上がった上のリンゴ、そしてサクサクのパイの三層を一度にすくい取り、口の中へと運ぶ。
「――んんっ……!」
思わず、両手を頬に当てて目を閉じた。
サクサク、ハラハラとしたパイ生地の香ばしさと、バターの豊かなコク。
その直後に押し寄せる、紅玉リンゴの鮮烈な酸味と、凝縮された果汁の濃厚な甘み。
奥底から鼻へ抜けていくシナモンの気品ある香りが、口に残る甘さをすっきりと引き締め、噛み締めるたびに至福のハーモニーが広がっていく。
口いっぱいに広がる美味と、温かい紅茶を一口。
喉を通るたびに、身体の芯から幸福な溜息がこぼれ落ちていく。
ふと視線を下ろすと、足元ではタマとクロが、おこぼれを期待するように前足をマノンの靴の上に乗せ、じっと見上げていた。
ピピは肩の上へ飛び移り、マノンの頬に柔らかな黄色い胸毛をすり寄せてくる。
「ふふ、ごめんね。これはお砂糖とバターがいっぱい入っているから、あなたたちには毒なのよ。その代わり、今夜は美味しいお魚を焼いてあげるからね」
マノンは三匹を順番に撫でてやりながら、秋の青空が広がる縁側へと目を向けた。
新しいオーブンがもたらしてくれた、温かな火と甘い香り。
そして、明日の再会を待つ竹籠のタルト。
山奥の古民家の暮らしは、周囲の温かい善意に支えられながら、また一つ、優しく豊かな彩りを深めていくのだった。




