第18話:ふかふかの綿と、猫たちの取り合い
カラカラと軽快な車輪の音を響かせ、山道を下っていくヴェロニカの幌馬車を見送ったあと、庭先には再び静謐な秋の静寂が戻ってきた。
土間の隅には、大人の胸の高さほどもある漆黒の蓄熱オーブンが、まるで太古の神殿の守護石のように堂々たる存在感を放って鎮座している。その脇には、木箱に収められた特級シナモンとカルダモンの遮光瓶。
そしてマノンの腕の中には、折りたたまれた純白のシーツが二枚。
腕に抱えただけで、驚くほどの量感と、羽毛のようにふわりと空気をはらむ軽やかさが伝わってきた。
銀貨二枚で手に入ったとは到底信じられない、至高の綿布だ。
「……ふふ。まずは、水通しをしなくちゃね」
どんなに上質な布であっても、仕立てられたばかりの新しい生地には、埃や糊、あるいは運搬中の微細な汚れがついているものだ。そのまま敷いて寝るのではなく、一度清らかな水で洗い、太陽の光と風に当てて繊維の目をふっくらと目覚めさせる。
それが、祖母から教わった、布を長く愛するための最初の手順だった。
マノンは腕まくりをすると、古井戸の脇に置いてある大きな杉板の洗濯たらいを引っ張り出した。
手押しポンプのレバーを力強く上下させる。
ギィ、ギィ、と小気味よい音が秋の山裾に反響し、ごぼりと地下水がせり上がってくる。木桶を満たした水は、手の甲を浸すとピリリと引き締まるほど冷たく、底の木目がくっきりと透けて見えるほど濁りがない。
たらいの中に、折りたたまれたエジプト綿のシーツを、惜しげもなく沈めた。
じゅわっ、と。
乾いた布が勢いよく水を吸い込む、微かな呼吸のような音が響く。
極細の繊維が瞬時に冷水を含み、純白の布地はしっとりと重みを増していった。
石鹸は使わない。ただ清冽な地下水の中で、両手のひらを底に押し当て、ぐっ、ぐっと体重をかけて丁寧に押し洗いをする。
ぎゅっ、ぎゅっ、と掌の下で布が鳴く。
水の中で揺れる布地を指先でなぞると、濡れているにもかかわらず、ザラつきが一切ない。まるで極上の絹糸の帯を水底で泳がせているかのような、滑らか極まりない手触りだ。水を通したことで、眠っていた綿花の純粋な植物の香りが、微かに立ち上ってくる。
二度、水を張り替えてしっかりとすすぎ、仕上げに両腕で抱え上げるようにして水から引き上げた。
ずっしりとした水の重みが腕にかかる。
布を雑巾のように力任せに絞ると、繊細な長繊維が傷んでしまう。マノンはたらいの縁に布を折り重ね、上から両手でぐいぐいと押して水を切ったあと、厚手の乾いた木綿布で挟み込んで余分な水分を吸い取った。
庭先に張った、青竹の物干し竿へ。
水気を含んで重たくなったシーツの両端を持ち、ふわりと大きく空へ掲げる。
バサァンッ!
澄み渡る秋空の下、純白のシーツが大きな帆のように風を孕み、高く鳴り響いた。
竹竿の上に均等に広げ、両手で端を引っ張ってシワを伸ばしていく。
手のひらでパン、パン、と叩いて生地の目を整えるたび、弾け散る微細な水滴が朝陽を浴びて虹色にきらめいた。
「よし、これで完璧ね」
風が吹き抜ける。
秋の冷涼で乾いた風が、純白の大幕を優しく膨らませていく。
日差しは柔らかく、けれど山の上特有の鋭い紫外線を含んでいて、濡れた布を乾かすにはこれ以上ない絶好の洗濯日和だった。
竹竿のすぐそばの草むらでは、白猫のタマが前足を揃えて座り、風にはためく大きな布を金色の瞳でじっと見つめていた。
時折、シーツの裾が風でふわりと揺れると、タマの前足がピクッと反応し、爪先を引っ込めたまま「チョイ、チョイ」と空を叩く。まるで白いカーテンと戯れる子猫のような仕草だ。
その少し後ろ、柿の木の根元の日陰では、黒猫のクロが香箱座りを決め込んでいた。相変わらず目つきは鋭いが、その琥珀色の瞳は穏やかに細められ、風が運んでくる濡れた綿の匂いを、フンフンと鼻をひくつかせて確かめている。
そして頭上の柿の木の枝では、黄色い小鳥のピピが、尾羽をパタパタと揺らしながら「ピピッ、チチッ♪」とご機嫌な声で喉を鳴らしていた。
マノンは縁側の端に腰を下ろし、冷えた指先をショールの下で温めながら、白く揺れるシーツをぼんやりと眺めた。
王都にいた頃は、シーツを洗う時間など月に一度あるかないかだった。薄暗い共同下宿の狭い部屋干しで、生乾きの嫌な匂いに顔をしかめながら、疲れ果てて泥のように眠るだけの日々。
けれど今、自分の手で汲み上げた井戸水で洗い、青空の下で風に揺られる白い布を見つめている。
ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりと満たしていく。
陽が高く昇り、南の空を越えて、西の山並みへと傾き始める頃。
風の気配が少しずつ冷たさを帯びてきた。
マノンは立ち上がり、竹竿へと歩み寄った。
布に触れてみる。
朝の冷たい水気は完全に飛び散り、代わりに太陽の熱を芯まで吸い込んだ生地が、驚くほどふっくらと温まっていた。
「わあ……っ」
思わず、両手でシーツを抱きしめ、顔をうずめた。
――ふわり。
鼻腔を満たしたのは、天日干し特有の、あの香ばしい日だまりの匂いだった。
焼きたてのパンの皮にも似た、甘く乾いた、世界でもっとも安心する匂い。
そして、頬に触れる繊維の感触。
洗う前よりもなお一段と柔らかく、起毛した綿毛の一本一本が空気をたっぷりと抱え込んで、まるで温かい雲の塊に顔を埋めているかのようだった。摩擦など微塵も感じない。触れていることすら忘れてしまうほどの、極上の滑らかさ。
竹竿から外し、角と角を綺麗に合わせてパタパタと折りたたむ。
畳むたびに、閉じ込められていた太陽の温もりが吐息のように漏れ出し、マノンの胸元を暖めた。
***
古民家の奥、北東に位置する六畳の寝室。
板張りの床の上に敷かれているのは、マノンが移住初日に敷いた、素朴な藁布団だった。
干し草と藁をみっちりと詰め込んだ布団は、寝心地こそ少し硬めだが、湿気を吸ってくれる昔ながらの実用的な寝具だ。だが、元から掛けてあった麻の敷布は、長年の使用で少しゴワつき、肌の弱いマノンにとっては時折チクチクとした刺激を感じるのが難点だった。
「今日からは、極楽ね」
マノンは古い麻布を剥ぎ取り、折りたたんだばかりのエジプト綿シーツを、藁布団の端から端へと広げた。
シュルリ、と滑らかな音を立てて純白の布が広がる。
布団の角に手を回し、シーツの端を敷布団の底へとしっかりと折り込んでいく。
角を三角に整え、ピンと引っ張ってシワを伸ばす。手のひらで中央から外側へ向けて空気を押し出すように撫でると、一筋の歪みもなく、平らで美しい純白のベッドが出来上がった。
思わず、マノンは両膝をついてシーツの上に身を乗り出した。
手のひらを滑らせてみる。
「……んんっ、すごい……!」
感嘆の声が漏れた。
下にある藁布団の硬さを、分厚く密に織られた超長綿のクッションが優しく受け止め、表面はまるで最高級のシルクサテンのようにさらさらと指先を滑っていく。
手のひらから伝わるのは、まだ残っている太陽の微かなぬくもり。
顔を近づければ、香ばしい陽光の香りと、マノンが洗い上げた清らかな水の気配が立ち上る。
その時だった。
パタパタパタパタッ――!
廊下を激しい勢いで爪立てて走ってくる、猛烈な足音が二重奏となって響いた。
「えっ……!?」
マノンが振り返る間もなかった。
寝室の引き戸の隙間から、白い影と黒い影が、まるで砲弾のような勢いで飛び込んできたのだ。
「グルルゥッ!」
「ふにゃあああっ!」
タマとクロだった。
二匹は廊下を猛ダッシュで駆け抜け、敷きたてのシーツの上へ向けて、示し合わせたようにダイブした。
ズササササァッ――!
純白のシーツの上を、二匹の体が滑り込む。
タマは右側へ、クロは左側へ。
敷き詰めたばかりの美しいシーツが、二匹の勢いで一瞬にしてくしゃりと波打った。
「こ、こらっ! 二人とも、せっかく綺麗に敷いたのに……!」
マノンがたしなめようとしたが、二匹の耳には飼い主の声など届いていなかった。
シーツの上に滑り込んだ瞬間、二匹の神獣の動きがピタリと止まったのだ。
金色の双眸と、琥珀色の双眸が、同時にカッと見開かれる。
鼻先をシーツの布地に強く押し当て、スンスン、スンスンと猛烈な勢いで匂いを嗅ぎ始めた。
二匹の魔獣にとって、そのシーツは単なる上質な綿布ではなかった。
王室御用達として作られた純粋な超長綿の繊維に、マノンの「波長ゼロの絶対浄化波動」を帯びた清冽な地下水がたっぷりと染み込み、さらに太陽の恵みによってその波動が何倍にも活性化されていた。
霜狼神フェンリルの冷気も、冥界獣キマイラの猛毒も、触れた瞬間に心地よくほどけていくような、至高の神聖結界がその布一面に広がっていたのだ。
そして――次の瞬間、二大魔獣は完全に我を忘れた。
――ふみ、ふみ。
――ふみ、ふみ、ふみ。
寝室の静けさの中に、リズミカルで柔らかな摩擦音が響き始めた。
右側で、白猫のタマが前足を交互に踏み出していた。
太くたくましい白い腕の先、黒褐色の肉球をシーツに深く押し込み、体重をかけて「ぎゅっ、ぎゅっ」と沈み込ませる。押し込んでは引き、押し込んでは引く。
猫が幼少期、母猫の乳房からミルクを飲むときに無意識に行う行為――いわゆる『ふみふみ(ミルクトレッド)』だった。
タマの表情は、完全に蕩けきっていた。
首を前に突き出し、細めた金色の瞳はトロンと焦点を失い、口元からはツゥと透明な涎が垂れ落ちそうになっている。
前足のふみふみに合わせて、純白の分厚い頬をシーツの表面に「ゴシ、ゴシ、ゴシ」と力任せに擦り付け、自らのフェロモンを塗りたくり始めている。
驚くべきは、左側の黒猫・クロだった。
普段は鋭い目つきで警戒を怠らず、孤高の気取り屋を気取っていたあのクロが――。
ふみっ、ふみっ、ふみっ……!
タマ以上の凄まじいピッチで、前足を交互にシーツへとめり込ませていたのだ。
傷口の塞がったばかりの細身の体を弓なりにし、前足をリズミカルに踏み鳴らしながら、喉の奥から「グルルルルル……ゴロゴロゴロ……ッ」と、大気を微震させるほどの地鳴りのような喉鳴らしを響かせている。
耳をペタリと真後ろに寝かせ、目を限界まで細めて、黒い鼻先を極上のエジプト綿に埋めている。
誇り高きキマイラの矜持など、太陽の匂いを吸い込んだふかふかの綿の前には、一片の塵芥すら残っていなかった。
「ピピッ♪」
そこへ、開け放たれた窓から黄色い閃光が舞い込んできた。
ピピだ。
ピピはシーツの上で狂乱のふみふみを繰り広げる二匹の猫を一瞥すると、まったく動じることなく、藁布団の頭元――マノンの枕の端っこへと、ちょこんと軽やかに着地した。
金糸の羽毛をふわりと膨らませると、小さなくちばしを背中に回し、日向の匂いに包まれながら、幸せそうに羽繕いを始めた。
「まあまあ……」
マノンは呆気にとられ、次いで吹き出してしまった。
右で巨大な白猫が涎を垂らしながらふみふみ。
左で目つきの悪い黒猫が必死の形相でふみふみ。
枕元では黄色い小鳥がご機嫌に羽繕い。
「そんなに気に入ってくれたの? よかったわぁ。やっぱり、安物買いの銭失いにならなくて本当によかった」
マノンは心から安堵した。
あまりに安すぎる買い物だったため、もしかしたら一度洗ったら生地が縮んでゴワゴワになってしまうのではないかと、心のどこかで少しだけ心配していたのだ。
けれど、動物たちの正直すぎる反応が、何よりの証明だった。
こんなに気持ちよさそうに全身を擦り付けているのだから、本当に肌触りの良い、極上の品だったのだ。ヴェロニカの言う通り、ただの型落ちのワケあり品を、親切心から破格で譲ってくれたのだろう。
シーツの表面には、二匹が丹念にふみふみしてほぐした跡が、ふっくらと丸い窪みとなって残っていた。
太陽の熱と、二匹の体温が混ざり合い、寝室全体に温かな陽だまりの空気が満ちている。
トックン、とマノンの胸の奥が緩んだ。
朝からシーツを洗い、重たいオーブンを運び込み、あれこれと立ち回った疲れが、心地よい脱力感となって手足にじんわりと広がってくる。
「……ちょっとだけ、お昼寝しようかしら」
誰の目を気にする必要もない。
処方箋の山もなければ、怒鳴り込んでくる客もいない。
眠たくなったら、好きな時に横になっていいのだ。それが、この平屋でマノンが手に入れた、何物にも代えがたい自由だった。
マノンは膝立ちのまま、二匹の猫の間――敷き布団の中央にある、ちょうど一人分だけ空いたスペースへと、そっと体を滑り込ませた。
掛け布団を胸元まで引き上げる。
「――ぁ……っ」
思わず、甘いため息が漏れた。
背中を包み込むシーツの滑らかさは、まるで温かい水の上に浮かんでいるかのようだった。
下からじんわりと押し上げてくる太陽の匂い。
そして――。
モゾ、モゾモゾ……。
両脇から、温かい毛玉たちが自然と擦り寄ってきた。
右側からは、タマの大きな純白の体が。マノンの右腕の隙間にすっぽりと入り込み、太い前足をマノンの二の腕に抱きつくように乗せて、ふかふかの顎をマノンの脇腹へと埋めてきた。
左側からは、クロの引き締まった黒い体が。マノンの左脇にぴったりと背中の毛を密着させ、包帯の取れた柔らかな肉球を、マノンの左の手のひらの上にそっと重ねてきた。
そして枕元からは、ピピがトコトコと歩み寄り、マノンの耳元の髪の毛の隙間へと、小さな黄色い頭を潜り込ませてきた。
右に白猫の柔らかな重み。
左に黒猫の確かな温もり。
耳元に小鳥の微かな寝息。
敷き布団を伝って、二匹の猫が同時に響かせる「ゴロゴロゴロ……」という重低音の振動が、マノンの骨髄を心地よく揺らす。
「ふふ……あったかい……」
マノンは二匹の背中にそれぞれ腕を回し、指先を柔らかな毛並みへと埋めた。
目を閉じると、吸い込まれるような深い安らぎが、瞼の裏を暗く染めていく。
香ばしい日だまりの匂いと、大好きな家族たちの温もりに包まれて、マノンは心地よい至福の微睡みの中へと、どこまでも、どこまでも深く沈み込んでいくのだった。




