第17話:王室御用達シーツが「村のワゴンセール」になる理由
秋のからりと晴れ渡った青空の下、幌馬車の荷台を覆っていた分厚い油布が、バサリと勢いよく跳ね上げられた。
その瞬間、荷台の奥から漏れ出してきたのは、土埃の舞う山道にはあまりにも不釣り合いな、甘く芳醇で、どこか気品に満ちた香気だった。
木樽の隙間に詰められた防虫用の乾燥ラベンダーの香り。
南方の強い日差しを吸い込んだ極上の香辛料が放つ、鼻腔をくすぐるスパイシーな刺激。
そして、新品の鋳鉄と耐火煉瓦が放つ、重厚でどこか安心感を誘う鉱物の匂い。
「さあさあ、遠慮はいらないよ! ゆっくり見ていきな、お嬢さん!」
ヴェロニカは両袖をまくり上げ、逞しい腕を組んで胸を張った。
その威勢のいい掛け声とは裏腹に、彼女の背中にはびっしりと冷や汗が張り付いていた。
何気ないふうを装いながら視線を巡らせれば、縁側の濃い影からこちらを射抜く白猫の鋭い金色の眼光。庭木の根元で低く身を構える黒猫の不穏な殺気。そして柿の木の梢から、小首を傾げつつも熱波の気配をチリチリと漂わせる黄色い小鳥。
三匹の天災の視線が、寸分の狂いもなくヴェロニカの急所を捉えている。
ここで娘を失望させたり、不当な暴利を貪ろうとする卑しい商人だと見なされた瞬間、自分の命は紙屑のように消し飛ぶのだ。
だが、そんな一触即発の緊張感など露知らず、マノンは荷台の中を覗き込み、ぱっと栗色の瞳を輝かせた。
「わあ……っ! すごい……! こんなにたくさんのお荷物を積んできてくださったんですか?」
マノンは思わず両手を胸の前で握りしめた。
王都の下町の市場でも、これほど整然と、丁寧に木箱や麻袋が積み上げられた荷馬車を見ることは滅多になかった。
ヴェロニカは心臓の早鐘を必死に抑え込みながら、商売用の営業スマイルを完璧に張り付け、荷台の木箱から一つの大きな包みを両手で引きずり出した。
「まずはこれだ! 山裾の古民家は、夜になると底冷えがするだろう? 女の一人暮らしに冷えは大敵さね。ほら、触ってみな!」
ヴェロニカが包みを開き、引き出したのは、折りたたまれた純白の布地だった。
マノンはおずおずと手を伸ばし、指先でその表面をそっと撫でた。
「――っ!?」
その瞬間、マノンの指先がピクリと震えた。
柔らかい。
柔らかい、などという陳腐な表現では到底足りない。
まるで、温かいミルクの膜を指先でなぞっているかのような、吸い付くような滑らかさ。手のひら全体を滑らせると、指紋の凹凸にすら引っかかることなく、極上のシルクよりもなお密に、けれど綿特有のふんわりとした確かな温もりを伴って、皮膚に吸い付いてくる。
繊維の一本一本が驚くほど細く、そして長く、寸分の狂いもなく均一な力で織り上げられているのが、触れただけで分かった。
マノンは王都の調剤薬舗で十年間働いていた。
そこでは、高熱に苦しむ患者のための氷枕用リネンや、火傷の患部を覆うための最高級ガーゼなど、繊維製品の品質を見極める目を嫌というほど養わされてきたのだ。粗悪な木綿はすぐに毛羽立ち、患部に張り付いて痛みを呼ぶ。本当に上質な綿布だけが、人の肌を傷つけずに包み込むことができる。
「これ……王室御用達の、ナイルデルタ地方でしか採れない超長綿……それも、一番摘みのエジプト綿のシーツじゃありませんか……?」
マノンの口から正確すぎる鑑定結果が飛び出し、ヴェロニカは一瞬だけ心臓が止まりそうになった。
(げっ……!? なんでこの小娘、触っただけで産地と綿の品種まで言い当てられるんだい!? ただの田舎娘じゃないとは思っていたが、薬舗の助手ってのはそこまで目利きができるもんだったかい!?)
ヴェロニカの背筋を冷たいものがツーと伝う。
だが、百戦錬磨の豪商は眉一つ動かさず、むしろ呆れたように大きなため息をついてみせた。
「なんだいお嬢さん、詳しいじゃないか! そうさ、元々は王都の大貴族の旦那様が特注した、王室御用達の最高級シーツさね! ……だけどねぇ、よく見てごらんよ」
ヴェロニカはシーツの端っこを乱暴に引っ張り出し、縁の縫い目を指差した。
マノンが目を凝らすと、シーツの端、敷いてしまえば布団の裏側に隠れてしまうような場所に、三ミリほどのわずかな糸の引きつれがあった。虫眼鏡で見なければ気づかないような、極小の傷だ。
「これだよ、これ! 運搬の途中で、木箱の角にちょいと引っかけちまったのさ! 大貴族の気取り屋どもは潔癖だからねぇ、こんな爪の先ほどの織り傷一つで『いらん!』と受取拒否しやがったんだ! おかげで納品期限は過ぎるわ、倉庫の場所は食うわで、あたしゃ頭を抱えていたのさ!」
ヴェロニカはこれ見よがしに額に手を当て、肩を怒らせて愚痴をこぼしてみせた。
マノンは申し訳なさそうに眉を下げた。
「まあ……そんな些細なことで……。でも、端っこを少し縫い直せば、使う分にはまったく問題ありませんのに、勿体ないですね」
「そうだろう!? あんた、話がわかるじゃないか! どうだい、こんな傷物の型落ち品、持って帰るのも馬鹿馬鹿しいからね。……銀貨二枚で引き取ってくれないかい?」
「――は?」
マノンの時が止まった。
耳を疑うとはこのことだった。
銀貨二枚。
それは、王都の下町で中流家庭が一週間に使う食費とほぼ同等。屋台で庶民的な定食を四、五回食べれば消えてしまう程度の端金だ。
王室御用達の超長綿シーツといえば、王都の高級ブティックのショーウインドウに恭しく飾られ、金貨十枚――銀貨にして百枚以上を積まなければ触ることすら許されない、貴族階級の特権階級品のはずである。
「ぎ、銀貨二枚……!? そ、そんなの冗談でしょう!? いくら小さな傷があるからって、桁が二つも三つも違います! 私、退職金で暮らしている身ですけれど、そんな法外なお値段で買い叩くような真似は……!」
「法外なのは突き返してきた貴族の野郎だよ!」
ヴェロニカはマノンの抗議を、怒鳴りつけるような勢いで遮った。
「あたしゃ商人だよ! 売れない不良在庫をいつまでも馬車に積んでおくくらいなら、価値のわかる別嬪さんに二束三文で譲って、とっとと荷台を空にした方が百万倍マシなんだよ! それともかい? あたしにこの重たい布の塊を、また山道揺られて宿場町まで持ち帰れってのかい!? この四十過ぎの痛む腰に鞭打って!?」
「うっ……そ、それは……」
「決まりだ! シーツ二枚組で銀貨二枚! 文句は言わせないよ!」
ヴェロニカは有無を言わさず、純白の極上シーツの包みをマノンの胸元へと押し付けた。
腕の中に収まったシーツは、羽毛のように軽く、けれどずっしりとした豊かな厚みを持ってマノンの腕を包み込んだ。日だまりのようにほんのりと温かい。
マノンが呆然とシーツを抱きしめている隙に、ヴェロニカは電光石火の素早さで次の獲物――もとい、特級物資へと手を伸ばした。
「さあさあ、次はこれだ! お嬢さん、あんた元は薬舗にいたんだろう? なら、これの価値もわかるはずだね!」
ゴトリ、と荷台の縁に置かれたのは、小さな木箱だった。
中には、濃緑色の遮光硝子瓶が二つ。
ヴェロニカが硝子の栓をキュッと捻って抜いた瞬間――。
「――っ!!」
マノンの鼻腔を、鮮烈にして気品ある芳香が貫いた。
一つは、甘く濃厚でありながら、後味にどこか柑橘を思わせる爽やかな清涼感を秘めた、極上のシナモンの香り。樹皮を粗く砕いた安物ではない。南方の秘境でしか採れないセイロンニッケイの最薄の内皮だけを、幾重にも巻き上げて乾燥させた、琥珀色に輝く本物のシナモンスティック。
そしてもう一つは、「香りの女王」と称されるグリーンカルダモン。殻を割ったばかりの粒からは、樟脳のような鮮烈な鋭さと、甘いエキゾチックな香気が立ち上り、一瞬で庭の空気を南方諸国のオアシスへと変貌させていた。
「こ、これは……南方直輸入の原産地指定カルダモンと、特級シナモン……!?」
マノンの声が上ずった。
薬舗時代、これらのスパイスは鍵付きの厳重な金庫に保管され、高貴な身分の者が重い病に倒れた際の特効薬や、王族の祝宴用リキュールを調合する時にしか使われない超高級生薬だった。一握りで平民の一ヶ月分の給金を吹き飛ばすほどの価値がある。
「あの……ヴェロニカさん、これ、本当に私が買っていいものじゃありません。こんな貴重なスパイス、王都の宮廷料理人か大薬問屋に卸せば、金貨何十枚にもなるはずです……!」
マノンは慌てて手を引っ込めようとした。
だが、ヴェロニカは「ハッ!」と鼻で笑い飛ばした。
「金貨何十枚だあ? そんな悠長なこと言ってられるかい! よく見てごらん、この瓶のラベルを!」
ヴェロニカは硝子瓶の腹に貼られた羊皮紙をバンと指差した。
「輸入の検査印が半月前なんだよ! 南方の香辛料ってのはね、香りが命だ! この山奥の湿気にあてられて香りが抜けちまったら、ただの枯れ木の皮と雑草の種になっちまうんだよ! あたしはね、賞味期限が切れる前に、ちゃんと料理に使ってくれる人に売り切りたいんだよ!」
「で、でも……まだ香りは完璧ですし、一粒も湿気てなんて……」
「湿気る寸前なんだよ! あたしの商売人の勘がそう言ってるんだ! ほら、二瓶まとめて銅貨五枚! お釣果はいらないから、とっとと持ってきな!」
「ど、銅貨五枚……!?」
マノンは卒倒しそうになった。
銅貨五枚といえば、市場で硬いライ麦パンを一個買うのと同じ値段だ。道端に生えている雑草を買い取るような値段で、王宮の宝物庫に収まるべき至高のスパイスを叩き売ろうとしているのだ。
「田舎の仕入れって……こんなに無茶苦茶なの……!?」
マノンの常識が音を立てて崩壊していく。
王都の大店舗で、一グラムの粉末をミリグラム単位で天秤にかけ、法外な薬価を患者から巻き上げていたあの日々は何だったのか。この豪快なおばさんは、商売の損得勘定というものをどこかに落としてきたのではないだろうか。
だが、ヴェロニカの猛攻はまだ終わらなかった。
むしろ、ここからが真の難関――領主ローランから「何が何でも押し込んでこい」と厳命されていた、最重量の目玉商品だった。
「さて、本日の真打ち登場だよ! ……よい、しょっとぉぉぉぉぉッ!!」
ヴェロニカは掛け声とともに、荷台の奥に鎮座していた巨大な物体を覆う麻布を力任せに引き剥がした。
ズゥゥゥン……と、馬車の車体が軋む。
現れたのは、漆黒の鈍い光沢を放つ、巨大な鋳鉄製の塊だった。
「……っ!! な、何ですか、これは……!?」
マノンの目が点になった。
それは、薪オーブンだった。
しかし、古民家の土間に元からあった、薄い鉄板で作られた煤だらけのオーブンとはまるで次元が違っていた。
高さはマノンの胸ほどまであり、幅も奥行きも大人の腕を広げたほど。
表面には耐熱性の高い黒漆のようなエナメルが美しく焼き付けられ、扉の取っ手と温度計の枠には、錆びないよう磨き上げられた真鍮の金具が使われている。
二重構造になった分厚い炉壁の隙間には、極上の耐火煉瓦がびっしりと敷き詰められ、一度温まれば薪の火が消えた後でも半日以上熱を逃がさないという、最新式の蓄熱密閉型オーブンだった。扉を開ければ、内部には三段の頑丈な鉄格子が備え付けられ、一度にパンなら十数個、丸鶏なら二羽を同時にローストできるほどの広大さがある。
「これ……王都の最高級レストランの厨房に導入されたばかりの、最新型オーブンじゃ……」
料理好きのマノンは、王都にいた頃、料理雑誌の片隅でこの新型オーブンの特集記事を指をくわえて眺めたことがあった。煙突の排気効率が完璧で、室内が煙にまみれることもなく、炉内の温度を均一に保てる夢のような調理器具。お値段は、金貨五十枚。一生かかっても手が出ない雲の上の存在だった。
「その通り! 王都の工房で打たせた最新型さ!」
ヴェロニカは腰を叩きながら、わざとらしく顔をしかめて見せた。
「だがねぇ、見ての通り、馬鹿みたいに重たいんだよ! 山越えの途中で馬車が軋んで、車軸が折れるかと思ったわ! 麓の貴族屋敷に納品するはずだったんだが、あそこの旦那が急に『サイズが大きすぎて台所に入らん』だの何だのと我儘を言い出しやがってね! 持って帰るにも重すぎる、捨てていくわけにもいかない! 頼むよお嬢さん、あんたの家の広い土間に、これを引き取ってくれないかい!?」
「ええっ!? そ、そんなこと言われましても、うちにも古いオーブンがありますし、何よりこんな高価なもの……!」
「高価なもんかい、ただの鉄の塊だよ!」
ヴェロニカはマノンの肩をがっしりと掴み、必死の形相で顔を近づけた。その目には、領地の平和と自らの命を懸けた、真剣そのものの光が宿っていた。
「あたしゃもう、こいつを馬車に乗せて山を下りたくないんだよ! 馬たちが可哀想で見てられないんだ! お願いだ、銀貨五枚でいい! いや、なんなら馬車の荷台を空にしてくれた手間賃として、あたしがお金を払ってもいいくらいだ! 銀貨五枚で、この邪魔っけな鉄屑を引き取っておくれよ!!」
「て、鉄屑だなんてそんな……! こんなに素晴らしいオーブンを……!」
マノンは激しく葛藤した。
王室御用達のふかふかシーツ。
極上の香りを放つ希少なスパイス。
そして、料理好きなら誰もが喉から手が出るほど欲しい、夢の蓄熱オーブン。
どれもこれも、喉から手が出るほど欲しい。
けれど、提示された価格は、あまりにも狂気じみていた。
シーツ二枚で銀貨二枚。
スパイス二瓶で銅貨五枚。
最高級オーブンが銀貨五枚。
合計しても、銀貨七枚と銅貨五枚。
退職金で質素に暮らすつもりだったマノンの革袋の中身からすれば、痛くも痒くもない、ただの端金だった。
(……でも、ヴェロニカさんは本当に困っているみたい……)
マノンはヴェロニカの顔を見上げた。
大粒の汗を額に浮かべ、必死の形相で自分を見つめる女商人。
(※ヴェロニカ視点:断られたら神獣に消されるという恐怖の汗)。
だが、マノンの目には、重たい不良在庫を山奥で押し付けられ、泣きそうになりながら処分に困っている、心優しいおばさんの姿にしか見えなかった。
(田舎の商人さんって、義理堅くて、融通が利きすぎて……なんだか放っておけないわね。それに、こんな山奥まで重たい荷物を運んできてくださったんだもの。私がお役に立てるなら……)
マノンは小さく息を吸い込み、決意を込めて頷いた。
「わかりました、ヴェロニカさん! その条件で、すべて私が買い取らせていただきます!」
「――本当かいっ!?」
ヴェロニカの顔が一気に輝いた。
(※ヴェロニカ視点:生き残った! 首が繋がった! 領地が救われた!)。
「はい! ただし、オーブンが銀貨五枚なんてあまりにも申し訳ないですから、銀貨十枚お支払いします! シーツとスパイスも合わせて、銀貨十五枚で受け取ってください!」
マノンは腰の巾着から、ずっしりと重い銀貨を十五枚取り出し、ヴェロニカの手のひらへと押し付けた。
ヴェロニカは、手渡された銀貨を見つめ、次いで目の前で「私が助けてあげなきゃ」と言わんばかりの誇らしげな笑顔を浮かべるマノンを見つめた。
金貨百枚以上の価値がある品々を、銀貨十五枚で買い取りながら、本気で「自分が助け舟を出してあげた」と信じ切っている素朴な娘。
(……なんて娘だい)
ヴェロニカの胸の奥に、恐怖とは全く別の、温かいおかしみが込み上げてきた。
神獣を従える絶対の調停者。
世界を滅ぼす力を持つ存在。
だがその正体は、ちょっとお人好しで、買い物が大好きで、美味しいご飯を愛する、ただの心優しい女の子じゃないか。
「……ハッハァ! まいどありぃっ!」
ヴェロニカは銀貨を懐に放り込むと、豪快にマノンの背中をバシッと叩いた。
「あんた、最高のお客さんだよ! 気に入った! さあて、そうと決まればさっさと土間に運び込もうじゃないか! あたし自慢の怪力を見せてやるよ!」
「ふふ、私も手伝いますね!」
マノンは極上シーツとスパイスの小箱を大事そうに抱え、満面の笑顔で土間へと駆け出していった。
その背中を見送りながら、マノンは心の中で両手を合わせていた。
(田舎の物価って、なんて優しくて温かいのかしら……! こんなに素晴らしい品々が、こんなに安く手に入るなんて。やっぱり、この山奥へ引っ越してきて本当によかったわ!)
庭の隅では、白猫のタマが「グルルゥ……」と欠伸を噛み殺し、黒猫のクロが前足を揃えて座り直し、柿の木のピピが「ピピッ♪」と楽しげに囀っていた。
山奥の古民家に、王宮すら凌駕する最高峰の贅沢品が、誰の疑念も抱かせることなく、平和そのものの形で運び込まれていくのだった。




