第16話:山越えのキャラバンと、笑顔の「こんにちは」
ギギ、ギィ……と、分厚い鉄輪を嵌めた大八車の木製車輪が、秋の湿った山土をすり潰しながら悲鳴のような軋み声を上げていた。
フォレスト領の宿場町から北へと伸びる山道は、かつて木こりたちが使っていたきりの、手入れの行き届いていない荒れ道だ。突き出た杉の太い根に車輪を取られるたび、幌馬車の車体がガタガタと大きく揺れ、御者台に座るヴェロニカ・マイヤーの腰に鈍い衝撃を叩きつけてくる。
「まったく……四十五の体に、この山道は骨が折れるねぇ」
ヴェロニカは握りしめた革の手綱をわずかに緩め、前方を歩く二頭立ての頑丈な荷馬の尻を鞭の柄で軽く叩いた。
馬たちは鼻から白い蒸気をフシュフシュと吹き出しながら、必死に太い脚を踏ん張って登り坂を這い上がっていく。荷台に積まれているのは、領主館の地下特級蔵から厳選に厳選を重ねて運び出された、国家予算級の最高級品の数々だ。鉄製の蓄熱オーブン一つをとっても大の男が四人がかりで積み込んだ代物であり、その総重量は馬たちにとっても過酷極まりないものだった。
だが、ヴェロニカが舌打ちを漏らしたのは、坂道の険しさのせいでも、腰の痛みのせいでもなかった。
(……冷たい。いや、冷たいだけじゃないね。この空気の重さは、一体何なんだい)
手袋越しに手綱を握る指先が、じんじんと痺れていた。
山道を登るにつれ、周囲の雑木林の空気が明らかに常軌を逸した変容を遂げていた。
秋の乾いた風の中に、氷河の底から吹き上げてくるような剃刀のごとき冷気が混ざり込んでいるかと思えば、次の瞬間には、肌の表面をチリチリと微かに炙るような焦熱の余波が鼻腔をかすめる。さらには、土の匂いに混ざって、喉の奥を微かに締め上げるような、底知れぬ猛毒の残滓めいた重苦しい気圧。
冷気、業火、そして瘴気。
神話の怪物共が吐き出す霊的波長が、この山裾の空間そのものを目に見えない巨大な擂鉢のようにすり潰し、練り合わせているのだ。
長年、各地の危険地帯を護衛の傭兵と共に渡り歩いてきたヴェロニカの商人としての第六感が、脳天の奥で警鐘を乱打し続けていた。引き返せ。今すぐ馬首を巡らせて逃げ出せ。この先にあるのは人間の踏み入っていい領域ではない、と。
(護衛を連れてこなかったのは正解だったねぇ……)
ヴェロニカは乾いた喉を鳴らし、苦い唾を飲み込んだ。
ローランは当初、腕利きの警備隊員や私兵を護衛につけることを提案してきた。だが、ヴェロニカはその申し出を一蹴した。
相手は国を滅ぼす神獣たちなのだ。武装した兵士をゾロゾロと連れて行けば、それだけで「外敵の襲撃」と判断され、姿を見る前に森ごと消し炭にされるか氷漬けにされるのがオチだ。
丸腰のオバサン商人が、たった一人で幌馬車を駆って御用聞きにやってくる――それだけが、あの絶対強者たちの警戒を解き、懐へ潜り込むための唯一の道だった。
腹を括ったつもりだった。
商売人として、領主からの無制限の公費補填という一生モノの大商いを掴んだのだ。骨を拾ってもらう覚悟など、とうの昔に完了しているはずだった。
だが、肌を刺す殺気の気配が濃くなるにつれ、御者台の下の膝が、情けなくもガクガクと震えそうになるのを止められない。
「しっかりしな、ヴェロニカ。あんたは数々の強欲貴族を口車に乗せてきた女だろうが。相手が神様だろうが魔女だろうが、客は客だ。笑顔を崩した奴から死ぬんだよ」
自分に言い聞かせるように呟き、両手で自らの頬をパン、と乾いた音を立てて張り飛ばした。ピリッとした痛みが、恐怖で硬直しかけていた表情筋を無理やりほぐす。
やがて、傾斜が緩やかになり、鬱蒼とした杉の木立の切れ間から、眩いばかりの秋の陽光が差し込んできた。
木々の回廊を抜けた瞬間、ヴェロニカの視界が一気に開けた。
「……え?」
思わず、手綱を引く手が止まりかけた。
そこに広がっていたのは、ヴェロニカが想像していたような、おどろおどろしい黒魔術の結界でも、血に飢えた獣の骨が転がる魔窟でもなかった。
一面に広がる、長閑で素朴な里山の風景。
綺麗に落ち葉を掃き清められた黒土の庭。南向きの風通しの良さそうな平屋の古民家には、新しく拭き上げられたばかりの縁側が飴色に光り、柔らかな日だまりを湛えている。庭の片隅の古井戸からは、汲みたての清らかな水が跳ねたような湿り気が漂い、秋の爽やかな風が、庭の山柿の木の葉をカサカサと優しく揺らしていた。
そして――庭先の中央に渡された二本の竹竿の前で、一人の女性が背中を向けて立っていた。
生成りの質素な木綿ワンピースの上に、胸当てのついた白い麻のエプロン――まるで王都の下町で見かける割烹着のようなそれを身にまとった、小柄な娘だった。
栗色の豊かな髪を後ろで緩く三つ編みに束ね、洗い桶から取り出したばかりの濡れた洗濯物を、両手でパン、パン、とリズミカルに叩いている。
パーン、パーン。
小気味よい音が、秋の青空へと抜けていく。
叩くたびに、繊維のシワが綺麗に伸び、太陽の光を浴びた微細な水滴がキラキラと宙に舞い散る。
竹竿に干されたのは、丁寧に手洗いされた麻のシーツや手ぬぐいだった。風が通るたびに白い布がふわりと膨らみ、そこから漂ってくるのは、上質な植物性石鹸の清潔な香りと、井戸水の匂い、そして太陽の匂いそのものだった。
あまりにも、生活の匂いがしていた。
地に足をつけ、日々の丁寧な家事を愛し、自らの手で暮らしを慈しんでいる者にしか纏えない、温かく澄み渡った空気。
ギィ……と、馬車の車輪が最後の小石を踏んで止まった。
その微かな音に、洗濯物を干していた娘の手が止まった。
娘が、竹竿の白いシーツの向こうから、ひょっこりと顔を覗かせた。
馬車の姿を認めた瞬間、その丸い栗色の瞳が驚きに見開かれ――次いで、まるで春の蕾が一気にほころぶかのように、ふわりと満面の笑顔が咲きこぼれた。
「あら、こんにちは!」
鈴を転がすような、濁りのない明るい声だった。
娘はエプロンで濡れた両手をさっと拭いながら、駆け足で庭先の生垣の切れ目――門柱のところまで小走りでやってきた。
何の武器も持たず、防具も身につけず、魔力障壁の欠片すら纏っていない。
見知らぬ巨大な幌馬車と、厳つい四十路の女商人に対面しているというのに、その表情には警戒の色など爪の先ほどもなかった。あるのは、ただ純粋な、心からの歓迎の光だけだった。
「行商の方ですか? まあ、こんな山奥まで来てくださるなんて! 道中、大変だったでしょう。坂道も険しかったのに、よく登ってきてくださいましたね!」
マノンは両手を胸の前で合わせ、心底から嬉しそうに目を輝かせていた。
王都から移住してきて以来、訪ねてくる者といえば、早朝に黙って干し肉を置いていくシャイすぎる近所の人(※警備隊)か、裏山で野菜を分けてくれるマルタおばあちゃんくらいのものだった。
まさか、日用品や食材を山ほど積んだ本物の行商人が、こんな僻地の自分の家まで足を運んでくれるなど、夢にも思っていなかったのだ。
「……あ、ああ……」
ヴェロニカは御者台の上で、完全に毒気を抜かれていた。
用意していた数々の営業トーク、相手を怒らせぬための慎重な敬語、命乞いの算段――そのすべてが、娘のあまりにも無防備で邪気のない笑顔を前にして、頭の中から綺麗さっぱり消し飛んでしまった。
(なんだい……この娘は……)
二十八歳と聞いていたが、化粧っ気のない肌は陽光を浴びて透き通るように白く、笑うと目尻が下がって実に愛嬌がある。
王都の薬舗で十年も働いていたというから、もっと神経質でやつれた女を想像していた。だが、目の前にいるのは、日々の暮らしを心から楽しみ、温かいご飯を食べてよく眠っている、健やかそのものの村娘にしか見えなかった。
この娘が? あの領主館を震撼させ、王国騎士団の猛者たちを恐怖で失禁させた、至高の調停者……?
だが――ヴェロニカが息を呑み、安堵の息を漏らそうとした、まさにその刹那だった。
ゾクッ――――!!!!
背骨の芯に、氷の杭を力任せに打ち込まれたかのような、凄絶な戦慄が走った。
馬車の二頭の馬が、悲鳴すら上げられずに全身の筋肉を硬直させ、カタカタと蹄を震わせている。
マノンの背後。
長閑な庭の、それぞれの「特等席」から。
三つの異形なる神威が、音もなくヴェロニカの喉元へと照準を合わせていた。
まず、縁側の端の濃い影の中。
横たわっていた白猫――霜狼神フェンリルが、すうっと音もなく顎をもたげていた。
その金色の双眸は極限まで細く引き絞られ、一歩でもマノンに害をなす素振りを見せれば、この馬車ごと一瞬で絶対零度の氷河の底へと沈めてやると言わんばかりの、凍てつく殺気を放っている。
次に、庭の敷石の隙間、日陰の植え込みの奥。
身を潜めていた黒猫――冥界獣キマイラが、音もなく立ち上がり、鋭い爪を一本だけ土に突き立てていた。
琥珀色の瞳の奥に蠢くのは、触れるものすべてを腐食させる冥府の毒気。馬車の車軸を溶かし、女商人の魂を生きたまま引き裂くための照準が、寸分の狂いもなくヴェロニカの眉間に固定されている。
そして――平屋の柿の木の梢。
鮮やかな橙色の実の隣に止まっていた、小さな黄色い小鳥――幻鳥フェニックスが、首をピョコッと傾げながらも、その金糸の羽毛の隙間から、大気を陽炎のように揺らす原初の浄火の圧力をチリチリと漏らしていた。
(ひっ……!!)
ヴェロニカの全身の毛穴から、滝のような冷汗が吹き出した。
本物だ。
記録水晶の映像など比べ物にならない、本物の天災たちの生々しい気配。
狼、獅子、不死鳥。
三竦みの怪物が、前掛け姿の娘の背後で、完璧な迎撃陣形を敷いてこちらを品定めしているのだ。
もし自分が手綱から手を離し、懐の短剣に触れでもしようものなら――あるいは、あの娘に向かって少しでも威圧的な声を上げようものなら、次のコンマ一秒後には、自分の存在はこの世から塵一つ残さず抹消される。
逃げ場はない。距離はおよそ十メートル。
神話の処刑台の上に、首を乗せられているのと全く同じ状況だった。
だが――ヴェロニカ・マイヤーは、並の商売人ではなかった。
極限の恐怖が頭蓋を突き抜けた瞬間、彼女の中で四十数年間培ってきた「豪商の意地」が、猛然と目を覚ました。
(……上等じゃないかい)
奥歯をギリリと噛み締め、震えそうになる唇の端を、力尽くで釣り上げる。
ここで怯えて引き返せば、領地が滅びる。何より、商人ヴェロニカの名が廃る。
相手が神獣を従える調停者だろうが何だろうが、いま目の前にいるのは、自分の馬車を心待ちにしてくれた大切なお客さまだ。笑顔を向けられた商人が、笑顔を返さずにどうする!
「――ハッハァ! まいどありぃっ!」
静まり返った山裾に、腹の底から響くような、豪快極まりない大音声が轟き渡った。
ヴェロニカは御者台から軽やかに飛び降りると、革の長靴を景気よく鳴らして土を踏みしめた。
背中に突き刺さる三匹の魔獣の殺気を、張り付かせた完璧な営業スマイルの力だけで力づくで跳ね除け、大股でマノンへと歩み寄る。
「こんにちは、お嬢さん! こんな山奥に、王都から別嬪さんが一人で越してきたって噂を聞きつけてね! 宿場町を牛耳る敏腕商人ヴェロニカ様が、わざわざ車を仕立ててお邪魔させてもらったよ!」
胸をドンと叩き、豪快に笑ってみせる。
額に滲む冷汗は、手拭いでグッと乱暴に拭い去り、何事もなかったかのように腰に手を当てた。
「まあ……! 私の噂を? ふふ、お恥ずかしいわ。王都を逃げ出してきただけの、ただの元・薬舗員なんですよ」
マノンは照れたように頬を染め、パタパタと手を振った。
「でも、本当に助かりました。古いお家だから、買い足したい日用品がたくさんあって……でも麓の町までは遠いし、どうしようかと思っていたところなんです」
「そうかい、そうかい! そいつは渡りに船ってもんだ!」
ヴェロニカは満面の商売人スマイルを輝かせながら、心の中で胸を撫で下ろした。
第一関門突破だ。敵意のない商人として、完璧に認識された。
背後をチラリと見やれば、縁側の白猫と黒猫が、相変わらず鋭い眼光を崩さないまでも、マノンの嬉しそうな声を聞いて、わずかに身を引いたのが分かった。屋根の上の小鳥も、パタパタと羽を整え直している。
(よし……! ここからが本番だよ)
ヴェロニカは幌馬車の後部へ回り、厚手の覆い布の留め紐に手をかけた。
領主館の蔵から持ち出された、国家最高峰の機密物資の数々。
これを、この素朴で心優しい娘に、いかに「怪しまれずに」「自然な形の大安売り」として売りつけるか。
領地の平和と数十万人の命運を賭けた、前代未聞の「赤字覚悟・爆安セール商談」の幕が、いま切って落とされようとしていた。
「さあてお嬢さん、驚くんじゃないよ! 今日はあたしの気まぐれで、町じゃ絶対に手に入らないような『掘り出し物のワケあり品』を、山のように積んできたんだからね!」
ヴェロニカが力任せに幌を跳ね上げると、秋の陽光の下に、眩いばかりの財宝――もとい、極上の生活物資たちがその姿を現したのだった。




