第15話:【周囲視点】領主ローランの頭痛と、敏腕商人ヴェロニカ
領主館の最上階、領主代行執務室の窓ガラスを、小刻みに震わせる重苦しい風が吹き抜けていた。
机の上に山と積まれた決算書や防衛予算の書類の脇に、小さな陶器の薬瓶が二つ、空になって転がっている。
フォレスト領の全政務を若くして背負うローラン・ド・フォレストは、銀縁の眼鏡を外し、指の腹でこめかみを強く圧迫していた。眉間に刻まれた深い縦皺は、ここ数日のあいだ一度として解けたことがない。二十七歳の青年貴族の顔には、本来なら戦場に数年間放り込まれなければ浮かばないはずの、濃密な疲労の色が張り付いていた。
「……セリア副隊長。もう一度、確認させてもらえますか」
ローランは掠れた、けれど極めて平坦な声で言った。感情を込めれば、その瞬間に自らの理性が音を立てて砕け散ることを知っている者の声だった。
机の前に直立不動で立つ辺境警備隊副隊長、セリア・クローデルは、青白い顔のまま唾を飲み込んだ。
その両手には、山頂の第一監視所から今朝届いたばかりの、封蝋で厳重に封じられた緊急魔導観測記録が握られている。
「はっ。……本日午前七時十五分、霊峰天嶺の主峰より、超高密度の神聖火属性マナを帯びた生体反応が南下。時速三百キロを超える速度で我が領内の防空警戒網を突破し、北の山裾へと降下いたしました」
「……形状は」
「全幅およそ三十センチメートル。全身に黄金色の燐光を放つ金糸の羽毛、三条の優美な長尾羽。体温は周囲の大気を歪めるほどに高く、その霊的波長は……王立魔導図書館の禁書指定古文書『熾天の天翔記』に記された挿絵および魔力紋様と、完全一致いたしました」
セリアはそこで言葉を切り、胸ポケットから取り出した特注の胃薬を、水もなしに奥歯で噛み砕いた。苦い粉末が口腔を満たすが、喉の奥の引き攣れは収まらない。
「神話の霊鳥……『幻鳥フェニックス』。……間違いありません。数百年に一度、自らを業火で焼き尽くして灰の中から転生するという、あの不死の神鳥です」
カラン、と。
ローランの指先から、黒檀の万年筆が零れ落ち、書類の上に転がった。
藍色の瞳が、眼鏡の奥で虚空を見つめている。
静まり返った室内に響くのは、壁に掛けられた古時計の振り子の音だけだった。チク、タク、チク、タク。破滅への秒読みを刻むかのような、冷酷で乾いた音。
「……フェンリル」
ローランが、ぽつりと呟いた。
「極北の永久凍土を統べ、触れるものすべてを絶対零度で粉砕する、霜狼神フェンリル。それがまず、あの古民家の庭に住み着いた」
「はっ」
「次に、キマイラ。西の山脈を更地にし、あらゆる物質を溶かす猛毒と瘴気を撒き散らす、冥界獣キマイラ。手傷を負って逃げ込み、あの娘に手当てされて膝の上を占拠した」
「はっ。現在、二大魔獣は縁側にて行儀よく並び、仲良く喉を鳴らしております」
「そして今度は――フェニックスだ」
ローランは両手で顔を覆い、深々と息を吐き出した。
吐息というよりは、肺腑の底に溜まった絶望の澱をすべて吐き出すような、長いため息だった。
「狼、獅子、そして不死鳥。……神話の厄災が三竦みとなって、あろうことか、人里離れた木造平屋の縁側に一堂に会している。……セリア、私は歴史の教科書を読んでいるのか? それとも、三文作家が酔っ払って書いた終末喜劇の台本を読まされているのか?」
「……現実であります、ローラン様。遠方観測班の報告によれば、フェニックスは調停者マノン様の人差し指の上に止まり、固くなったパン屑をついばんだ後、あろうことかマノン様のウールショールの隙間、首筋のくぼみにすっぽりと潜り込み、日向ぼっこを決め込んでいるとのことです」
「首筋に、フェニックスを……」
ローランの唇が、小さく痙攣した。
「天を焦がす原初の浄火を宿す神鳥を、襟巻きの防寒具代わりに使っているというのか……」
「結果として、そうなっております。さらに、白猫と黒猫がその首筋のポジションを巡って凄まじい嫉妬の殺気を放ちましたが、マノン様が両者の頭を『ぽんぽん』と優しく撫でただけで、三竦みの神威は一瞬で霧散。現在、平屋の庭先は、小春日和の楽園のような長閑さに包まれているとのことです」
「もういい、それ以上言うな」
ローランは机に突っ伏しそうになるのを、貴族としての意地だけで辛うじて踏みとどまった。
頭脳派として領地を治めてきた彼の明晰な頭脳が、完全に思考停止の警報を鳴らしている。
討伐? ありえない。
神話の厄災が一匹いるだけでも国家存亡の危機なのだ。それが三匹。しかも、それぞれが冷気、猛毒、業火という、互いの弱点を補い合って余りある最強の属性陣陣を形成している。
軍を差し向ければどうなるか。一瞬で、フォレスト領の三千の兵など消し炭と氷塊と毒泥に変えられ、領都ごと地図の上から消滅する。討伐などという言葉を口にした瞬間、その発言者が領地を滅ぼす大罪人となるのだ。
「戦うという選択肢は、天地が逆転しても存在しない」
ローランは顔を上げ、冷たい光を取り戻した瞳でセリアを射抜いた。
「我々にできるのは、ただ一つ。あの平屋に住まう至高の調停者――マノン様の平穏を、何があっても守り抜くことだ。あのお方が機嫌良く縁側でお茶を飲んでおられる限り、あの三匹の歩く天災は、ただの毛玉と小鳥のままでいてくれるのだからな」
「御意にございます。……しかしローラン様、警備隊からの『お中元』作戦は成功いたしましたが、我々軍人がこれ以上頻繁に出入りすれば、いくら気配を殺して早朝に荷を置くだけとはいえ、神獣たちの警戒を招く恐れがございます」
「わかっている。武官の介入は最小限に留めねばならん。それに、あのお方が真に必要としているのは、兵士の干し肉だけではあるまい」
ローランは引き出しから、あらかじめ用意してあった特別通行証と、金文字で記された領主極秘特命状を取り出した。
「呼んである。領内でもっとも図太く、もっとも鼻が利き、そしていかなる修羅場でも笑顔で商品を売り捌く怪物をな」
コン、コン。
遠慮というものを微塵も感じさせない、重たく小気味よいノックの音が扉を叩いた。
「ローラン様、お呼び出しの商人ヴェロニカ・マイヤー、参上いたしましたよ」
通された扉から入ってきたのは、仕立ての良い真紅のビロードの上着に、実用的な革のズボンを合わせた豊満な体躯の女性だった。
四十五歳。フォレスト領の宿場町を取り仕切り、王都から東方諸国まで独自の交易網を持つ豪商ギルドの重鎮、ヴェロニカ・マイヤー。
豊かな琥珀色の髪を後ろで無造作に束ね、日焼けした健康的な肌には、百戦錬磨の商談をくぐり抜けてきた者特有の逞しい艶がある。その切れ長の鳶色の瞳は、部屋に入るなり、机の上の空になった胃薬の瓶と、直立不動のセリアの引きつった表情を一瞬で値踏みしていた。
「やあやあローラン様、急な呼び出しで何事かと思えば……ずいぶんと景気の悪そうな顔をしておいでだねぇ。隣のセリア副隊長なんて、まるで今から絞首台に登る罪人みたいな青さじゃないかい」
ヴェロニカは豪快に笑いながら、促されもしていないのに客用の革張り長椅子へとどっかり腰を下ろした。
「前置きは省きます、ヴェロニカ」
ローランは一切の社交辞令を削ぎ落とし、机の上に特命状を滑らせた。
「あなたに、領地の存亡を賭けた特命を下します。報酬は望むだけ出しましょう。領地の公費から、全額を無制限に補填します」
「……ほほう?」
ヴェロニカの眉が、ぴくりと跳ね上がった。
豪商としての勘が、即座にただならぬ事態を察知する。『無制限の公費補填』。そんな言葉は、大飢饉が起きるか、隣国との全面戦争が始まる時くらいしか領主の口から出るものではない。
ヴェロニカは笑みを消し、背筋を伸ばしてローランの目を真っ直ぐに見返した。
「儲け話は大好物だけどね、領主代行様。タダで美味い肉が食えるほど、世の中甘くないってことは知ってるよ。……何を仕入れて、どこへ運べばいいんだい? 王都の貴族連中に、領民の血税を横流しする裏工作かい?」
「違います。運ぶ先は、北の山裾にある古民家です」
「北の山裾……? あんな深い雑木林の奥に、誰が住んでいるってんだい。あそこは昔の木こりの小屋か、廃屋しかなかったはずだが」
「王都から移住してきた、二十八歳の女性です。名を、マノン・デュラン様とおっしゃる」
ローランは指を組み、声音を一段低く落とした。
「あのお方の元へ、生活に必要な最高級の日用品、食材、家具、調理器具のすべてを納品しなさい。……ただし、絶対に彼女に『特別扱いされている』と悟られてはならない」
「はあ……?」
ヴェロニカは呆気にとられたように口を開けた。
「最高級品を、怪しまれずに納品しろ? 小娘一人に? どういうことだい、そのマノンってのは、ローラン様の隠し子か何かなのかい? いや、年齢的に無理があるねぇ。大公家の落胤か、あるいは王都の大貴族の愛人でも匿っているのかい?」
「そんな生易しい存在なら、どれほど神に感謝したことか」
ローランは苦笑を漏らし、セリアに目配せをした。
セリアが無言で歩み寄り、執務机の上に一枚の幻影投影魔導板を置く。起動印に触れると、青白い光が空中に浮かび上がり、克明な記録映像が再生された。
ヴェロニカの目が、その映像を捉えた。
「……は?」
百戦錬磨の豪商の口から、間抜けな声が漏れた。
映像の中。
秋の木漏れ日が差す素朴な縁側で、素朴なワンピースを着た栗色の髪の娘が、縁側に腰を下ろしてお茶を飲んでいる。
その右膝の上には、白銀の巨狼フェンリルが腹を晒して涎を垂らし、頭に毛玉を乗せられている。
その左腰には、冥界獣キマイラが前足を揃えてすり寄り、喉をゴロゴロと鳴らしている。
そしてその首筋のショールの隙間からは、黄金に輝くフェニックスがちょこんと顔を覗かせ、愛らしく首を傾げていた。
「な……っ!?」
ヴェロニカの顎が外れそうになった。
豪商としての教養、各地の神話や危険地帯の知識が、彼女の脳内で警鐘を連打する。
「フェンリル……キマイラ……それに、フェニックス……!? ちょ、ちょっと待ちな、ローラン様! 冗談だろ!? 幻術のからくり人形か何かの見世物かい!?」
「本物です」
セリアが、自らの胃薬の包みを強く握りしめながら、冷徹に告げた。
「我が警備隊が直接冷気を受け、魔導探知儀を三台焼き切られ、死の淵を覗いて確認した本物の神獣・凶獣・霊鳥であります。……あのお方は、素手でこの三匹の頭を軽く叩いて従え、現在、ペットとして飼育しておられます」
ヴェロニカは息を呑んだ。
長年、荒くれ者の傭兵や強欲な貴族たちを相手に、眉一つ動かさずに渡り合ってきた豪商の額から、タラリと冷たい汗が伝い落ちる。
映像の中の少女――マノンは、あまりにも無防備で、あまりにも穏やかに微笑んでいた。
その周囲に侍る三匹の怪物が、もし一歩でも街へ踏み出せば、一国の軍隊など紙屑のように消し飛ぶ。それを、彼女はまるで縁側の日向ぼっこの相棒のように扱っているのだ。
「……理解できたかい、ヴェロニカ」
ローランの静かな声が、静寂に沈む部屋に響いた。
「彼女は、世界の均衡をその指先一つで握る至高の調停者だ。もし彼女がこの土地の暮らしに不満を持ち、機嫌を損ねればどうなる? もし彼女が『この街の人間は不親切だ』と呟き、眷属たちに一言命じればどうなる?」
「……この領地どころか、王国ごと更地になるね」
ヴェロニカは掠れた声で答えた。乾いた喉が、ごくりと鳴る。
「そうだ。だからこそ、あなたの商魂が必要なのだ」
ローランは机に両手をつき、身を乗り出した。
「彼女は王都の激務に疲れ、静かなスローライフを求めてこの山奥へ移住してきた。大金や領主の権力を押し付ければ、警戒され、嫌悪される恐れがある。必要なのは、自然な『お買い物』だ。あなたが山奥まで行商に赴き、彼女が欲しがりそうな最高級の品々を、彼女の納得する『破格の安値』で売り渡すのだ」
「破格の安値……?」
「そうだ。王室御用達の綿シーツも、最新式の蓄熱オーブンも、南方の最高級スパイスも、すべて『ちょっと傷がついた型落ちの処分品』『場所を取るからタダ同然で引き取ってほしいワケあり品』として売りつけろ。差額の損失は、すべて領主館が金貨で即日補填する。あなたのギルドへの特別優遇措置も約束しよう」
ヴェロニカは長椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。
頭の中で、猛烈な損益計算と、それ以上に巨大な生存本能が火花を散らしている。
公費無制限の買い取り。商人冥利に尽きる青天井の予算。
だが、その納品先は、神話の厄災が三匹も群れをなす、世界でもっとも危険な火薬庫なのだ。
もし相手の娘の逆鱗に触れれば、骨も残さず消される。
しかし――ヴェロニカは、映像の中のマノンの顔をもう一度じっと見つめた。
栗色の髪。少し擦り切れた麻の前掛け。
猫たちに囲まれながら、少し照れくさそうに、けれど心底幸せそうに目を細めてお茶をすするその横顔。
酸いも甘いも噛み分けてきた四十路のオバサンの直感が、ふと別の感情を呼び起こした。
(……なんだい。恐ろしい魔女かと思えば……王都で散々すり減らされて、逃げてきただけの、ただの働きすぎた娘じゃないか)
王都の大店舗で若い助手たちがどれほど過酷に使い潰されているか、ヴェロニカは商売柄よく知っていた。
あの娘の手のひらにあるペンだこと、指先の小さな傷跡。
あれは、必死に生きて、自分の居場所をようやく見つけた人間の手だ。
ヴェロニカの口元に、いつもの不敵で豪快な笑みが戻ってきた。
ポン、と自らの逞しい太ももを叩いて立ち上がる。
「……ふん。要するに、怒らせたら国が滅びる『山奥の神様』のところへ、機嫌を損ねないように御用聞きに行けってことだね」
「引き受けてくれますか」
ローランが、すがるような光を瞳に宿して見上げる。
「当たり前だろうが! あたしを誰だと思ってるんだい、フォレスト領一の商人ヴェロニカ・マイヤーだよ! 美味い飯と、あったかい布団と、使い勝手のいい鍋釜を嫌いな女がこの世にいるもんかい!」
ヴェロニカは腰に手を当て、胸を張った。
「任せときな、ローラン様。あの娘――マノン様が、一生この山奥から出たくなくなるくらい、極上の暮らしを整えてみせるさ。蔵の最高級品を全部引っ張り出しな! あたし自ら幌馬車を仕立てて、最高の『大安売り』を届けてやるよ!」
「……感謝します、ヴェロニカ。領民数十万の命が、あなたの商談にかかっている」
ローランは深く、深く頭を下げた。
領主館を後にしたヴェロニカは、秋の冷たい風を浴びながら、首筋を軽く鳴らした。
恐怖がないと言えば嘘になる。相手は神獣を侍らす謎の調停者だ。
だが、同時に商人としての血が、かつてないほど熱く沸き立っていた。
「神様だろうが魔女だろうが関係ないね。……待ってな、マノンちゃん。おばちゃんが、王宮より快適なパラダイスを作ってやるからね!」
豪商ヴェロニカの号令のもと、領主館の地下蔵から最高級の品々が次々と運び出され、山奥の古民家へ向けた前代未聞の「赤字大売出しキャラバン」が、着々と準備を整え始めていた。




