第14話:【神鳥視点】灰かぶりの再生、至高のパン屑
神話の時代より、死と再生を司る鳥は、もっとも気高く、そしてもっとも孤独な存在と定められていた。
我は『幻鳥フェニックス』。
天を焦がす原初の浄火をその身に宿し、数百年という気の遠くなるような周期の果てに、自らの放つ業火によって肉体を灰燼へと帰し、その灰の中から再び新たな雛として孵化する、不滅の霊鳥である。
人間どもは詩を編み、我が姿を「永遠の命の象徴」「不滅の吉兆」と讃え、仰ぎ見る。
だが、その輪廻がいかに惨たらしい呪いであるかを、地上を這う矮小な種族が理解できるはずもなかった。
――熱い。骨の髄まで、魂の輪郭すら溶け落ちるほどに熱いのだ。
転生を果たすたび、体内の霊核に幾重にも焼き付けられていく残留熱。自らを焼き尽くしたはずの業火の残り火が、煙となって消えることなく、数百年間にわたって内臓と血管を内側から燻り続ける。
霊峰の頂、万年雪が吹き荒れる氷壁に巣を構えていたのも、外界の冷気でわずかでも体内の灼熱地獄を麻痺させたかったからに他ならない。
冷たい風を胸いっぱいに吸い込んでも、吐き出す息は常に熱砂のように乾き、気管を焼く。羽毛の隙間からは火の粉が零れ、水場に嘴をつければ瞬時に湯気となって蒸発する。
この身が放つ浄化の炎に、己自身が永遠に焼かれ続けるという、終わりのない劫火の牢獄。
前回の転生から三百年。熱の蓄積はすでに限界に達し、我の霊核は激しい火傷の痛みに軋みを上げていた。いっそこのまま狂気に呑まれ、地上の山林をすべて灰に変えてしまおうか――そんな破滅の衝動すら脳裏をかすめていた、ある朝のことだった。
遥か南の山裾から、それは風に乗って届いた。
(……な、なんだ……この気配は……?)
霊峰の冷風の隙間を縫うようにして、我が鼻腔、いや魂の深奥を直接撫でた微かな薫り。
それは、いかなる属性の魔力も帯びていない、純度百パーセントの「無」。
激しい熱を奪い去る冷気でもなければ、何かを押し流す水流でもない。ただそこに存在するだけで、荒れ狂う火の粉をふわりと優しく包み込み、まるで生まれたばかりの静寂の中へと還してしまうような、奇跡的なまでの凪の波動だった。
気付けば、我は巣を蹴っていた。
数百年ものあいだ霊峰の頂きから動かなかった不滅の神鳥が、ただその甘やかな凪の源泉を求め、狂ったように羽ばたいていた。
風を切り、山並みを越え、雲海を突き抜けて急降下する。
近づくにつれ、その気配は濃厚さを増していった。
辿り着いたのは、深い雑木林の裾野にぽつんと佇む、素朴極まりない木造の平屋古民家。
庭の隅に立つ山柿の木の枝に降り立ち、荒い息を整えながら見下ろした先――縁側の飴色の板の上に、一人の人間の娘が腰を下ろしていた。
生成りの質素な衣服に、麻の前掛け。
手元には湯呑みと、竹籠に盛られた乾いたパンの破片。
どこにでもいる、か弱く短い命しか持たぬ人間の雌。
だが、その娘の全身から、あの途方もない「絶対零の浄化波動」が、秋の木漏れ日のようにとめどなく溢れ出していたのだ。
(あのお方が……この波動の主……!? 神か、それとも原初の調停者か……!?)
我は枝の上で息を呑んだ。
娘の背後には、世にも恐ろしい光景が広がっていた。
右側には、極北の絶対零度を統べる神獣『霜狼神フェンリル』が、純白の巨体を丸めて娘の太ももに顎を乗せて眠りこけている。
左側には、西の山脈を灰にした凶獣『冥界獣キマイラ』が、漆黒の毛並みを娘の腰に寄り添わせ、静かに目を細めている。
世界を滅ぼす二大厄災が、牙を抜き、爪を隠し、ただの猫の姿に魔力を圧縮して娘の侍女のように侍っているのだ。
狂気の沙汰だった。一歩間違えれば、あの庭に足を踏み入れた瞬間に、二大魔獣の挟み撃ちに遭って魂ごと消滅させられる。
引き返すべきだ。霊峰の氷壁へ戻り、己の運命を受け入れるべきだ。
理性がそう警鐘を乱打する。
しかし――娘が竹籠から取り出した「固くなったパンの耳」を指先でほぐし始めた瞬間、我の理性は跡形もなく消し飛んだ。
パキ、ポロポロと、娘の細い指先から零れ落ちる白いパン屑。
ただの小麦の粉ではない。娘が指の腹ですり合わせるたびに、彼女の体内から滲み出る至高の浄化波動が、余すところなくパンの破片へと練り込まれていく。
立ち上る香ばしい小麦の匂いと、魂を芯から潤す甘やかな気配。
そして、娘が顔を上げ、我のいる柿の木の枝へと優しく視線を向けた。
「おいで。美味しいパンの耳だよ。怖がらなくていいからね」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、我が肉体は自らの意志を離れて枝を蹴っていた。
恐怖など、魂の渇きと飢えの前には塵芥にすぎなかった。
金色の羽毛を広げ、秋の青空を滑空する。
目指すは、あの差し出された小さな手のひら。
パシッ、とマノンの左手の人差し指の背に、我が両足の爪が触れた。
その刹那――我が全身を、天地がひっくり返るほどの衝撃が貫いた。
(――ッ!?)
指先が触れた足裏の皮膚から、冷たい清流のような波動が、ドクンと音を立てて体内に雪崩れ込んできた。
それは、氷のような暴力的な冷却ではなかった。
熱を奪うのではなく、体内に渦巻いていた暴走する炎の波長そのものを、優しく撫でて「平穏」へと調律していく奇跡の力。
数百年間、我が魂を灼き続けていた残留熱の煙が、まるで春風に吹かれた朝霧のように、足元から頭頂部へ向けてスーッと消え失せていく。
痛みが、引いていく。
焼け爛れていた霊核が、乾いた大地に染み込む恵みの雨を浴びるように、しっとりと潤いを取り戻していく。
(あ、ああ……っ! 熱くない……! 我が、燃えていない……ッ!!)
信じがたい安寧。
あまりの心地よさに、足の爪先から力が抜けそうになる。
だが、真の至福は爪の先だけでは終わらなかった。
目の前、マノンの開かれた掌の上には、彼女の指先で細かくほぐされた、純白のパン屑の山が鎮座していたのだ。
我が嘴は、飢えた雛のように反射的に動いていた。
ツツンッ、ツン、ツンッ!
硬い嘴の先でパン屑を挟み込み、口内へと放り込む。
その瞬間、口いっぱいに広がったのは、素朴にして凶悪なまでの美味だった。
(な、なんだ……この滋養は……っ!?)
香ばしい焼き目のついたライ麦の皮と、ふっくらとした全粒粉の甘み。
水分を失ってカチカチに硬かったはずのパンの耳は、マノンの指先で揉みほぐされたことで極上の粉雪のように口の中でほどけ、噛み締める必要すらなく、唾液と混ざり合ってとろりと溶けていく。
そして、嚥下した瞬間――胃の腑に落ちたパン屑から、目も眩むような生命力の光が解き放たれた。
不死鳥の霊核は、本来なら世界中の霊脈から純粋な火属性マナを吸い上げて維持される。だが、このパン屑に含まれているのは、属性の壁を完全に超越した「純粋な生のエネルギー」そのものだった。
傷つき、縮こまっていた金色の羽毛の根元という根元に、瑞々しい霊力が満ちていく。
嘴が止まらない。
ツン、ツン、ツン、ツンッ!
マノンの掌の肉を嘴で突くたびに、掌から伝わる母のような温もりと、パン屑の爆発的な旨味が混ざり合い、我の脳髄は快楽で白く染まっていった。
最後の一粒を飲み干し、名残惜しさにマノンの親指の腹をペロペロと舐め上げた時、我の体内からは三百年間蓄積していたすべての苦痛が、完全に消滅していた。
「ピピッ♪」
喉の奥から、自らでも驚くほど愛らしく、澄み切った鳴き声が零れ落ちた。
数百年ぶりに発した、苦痛の呻きではない、純粋な歓喜の歌。
マノンは嬉しそうに目を細め、指先で我が頭のてっぺんを優しく撫でてくれた。
「ピピって鳴くのね。……じゃあ、今日からあなたの名前は『ピピ』よ」
ピピ。
神鳥フェニックスたる我に、あまりにも軽妙で、小鳥じみた名。
だが、その名が彼女の柔らかな唇から発せられた瞬間、我が霊核に刻まれていた古代の真名が、この「ピピ」という愛らしい音によって心地よく上書きされたのを確かに感じた。
我はこの御方の鳥だ。この慈悲深き調停者様の元でなら、永遠の命すら至福の喜びに変わり得る――。
そう確信し、満足げに羽を膨らませた、その時だった。
ゾワリッ――。
背筋の羽毛という羽毛が一瞬で逆立つような、凄絶な悪寒が背後から突き刺さった。
(……ッ!?)
首をぎょっと後ろへ巡らせた我の目に飛び込んできたのは、世界の終末そのものだった。
縁側の右端。
マノンの太ももに顎を乗せていた白猫――霜狼神フェンリルが、片目をギラリと見開き、至近距離から我を射抜いていた。
その瞳の奥には、触れるものすべてを絶対零度で粉砕する、極北の氷河の殺気が渦巻いている。
そして縁側の左端。
マノンの腰に寄り添っていた黒猫――冥界獣キマイラが、唇の端を限界まで吊り上げ、剥き出しの牙の隙間からドス黒い瘴気の糸を垂らしていた。
二匹の神話級の怪物が、揃って我の首元を凝視している。
その眼光に込められた、声にならぬ強烈な神威の圧力が、我の脳内に直接叩き込まれた。
『……羽虫風情が。我らの主の聖なる指先に、気安く泥足の爪を立てたな』
『主の掌の温もりを独占した罪、万死に値する。今すぐその薄汚い金色の羽を一枚残らず毟り取り、黒焦げの焼き鳥にしてくれようか』
ピシリ、と大気が軋む。
フェンリルの絶対零度と、キマイラの猛毒瘴気。
二大厄災の無言の挟撃。その殺気は、全盛期の我であっても正面から受ければ消し炭にされかねない、本物の死の宣告だった。
我の額から、タラリと冷や汗が垂れ落ちる。
(ま、不味い……ッ! この二匹、完全にあの娘を自らの唯一無二の主と定め、過剰なまでの独占欲を燃やしておる……!)
ここで神鳥としての矜持を見せ、炎の威光を放って威嚇し返せばどうなるか。
結果は明白だ。二大魔獣との全面戦争になり、この素朴な平屋は消し飛び、何より――あの慈愛に満ちた調停者マノン様を怯えさせ、怒らせ、この至福の庭から永遠に追放されることになる。
あのパン屑を二度と口にできず、あの優しい指先を失い、再び霊峰の地獄で業火に焼かれる日々へ逆戻り……?
(断じて否……! それだけは絶対に耐えられん……ッ!!)
不死鳥の頭脳が、光の速度で回転した。
力で対抗するのは下の下。愚者のすることだ。
この絶対強者たちの巣窟で生き残り、主の寵愛を勝ち取るための唯一にして最強の戦略――それは。
(――徹底的な、愛嬌だ!!)
我は瞬時に、神鳥としての数千年のプライドをゴミ箱へと投げ捨てた。
まずは、全身の筋肉を限界まで脱力させる。
金色の羽毛の隙間に空気をめいっぱい吸い込み、ボフッ、と音を立てて羽を丸く丸く膨らませた。
尾羽の優美な長さを巧みに隠し、胴体を極限まで球体に近づける。首をすくめ、黄色い毛玉のようなフォルムを完成させた。
そして、黒真珠のような瞳を潤ませ、マノンを見上げながら、小刻みに首を右へコテン、左へコテンと傾げる。
「ピ……ピピィ〜♪(私はただの、無力で無害な、手のひらサイズの愛らしい小鳥です)」
喉の奥から絞り出したのは、あざとさの極致とも言える鈴の音のような甘えた鳴き声。
さらに我は、人差し指の上からパタパタと短い羽を羽ばたかせ、マノンの胸元へと飛び移った。
狙うは、マノンの首筋と、彼女が肩に羽織っている厚手のウールショールの隙間。
あの、ほんのりと人肌の温もりが溜まり、日だまりの匂いがする至高のくぼみ!
スチャッ。
我はマノンの鎖骨のくぼみへと滑り込み、ショールの柔らかいウールの毛並みの奥へと、お尻からすっぽりと潜り込んだ。
外に出すのは、丸い黄色い頭部と、小さな黒い瞳だけ。
マノンの首筋の柔らかな皮膚に、我がふかふかの胸毛をぴったりと押し当てる。
「あらあら、ピピったら。ショールの中に入ってきちゃったの? 寒がりさんねぇ」
マノンの柔らかな笑い声が頭上から降ってきた。
マノンはショールの端を優しく整え、我の体を外気から守るように包み込んでくれた。
首筋から伝わる、トックン、トックンという主の心臓の鼓動。
ウールのチクチクしない滑らかな肌触りと、マノンの体温。
そこはまさに、神話の神殿すら足元に及ばぬ、世界最高の安全地帯だった。
ショールの隙間から、我はそっと外を覗き見た。
縁側の両端で、白猫と黒猫が、信じられないものを見るような顔で呆然と固まっていた。
あろうことか、新参の黄色い小鳥が、主の首筋という最上級の密着ポジションを、愛嬌ひとつで掠め取っていったのだ。
二匹の眉間に、先ほど以上の青筋が浮かび上がる。
『き、貴様……なんというあざとい真似を……!』
『神鳥の誇りはどこへ行ったのだ、この黄色い偽スズメめが……!』
二匹の怒りのテレパシーが突き刺さる。
だが、主の首筋のくぼみにすっぽり収まった我は、もはや無敵だった。
我はショールの陰から、二匹の魔獣へ向けて、小さなくちばしをクイッと上に向けてみせた。
(フン……力しか能のない獣どもめ。主が求めておられるのは、血生臭い闘争ではなく、この穏やかで愛らしい日常なのだ。悔しければ、貴様らもその図体を縮めて首筋に潜り込んでみるがよい)
二匹が「グヌヌ……」と歯噛みし、今にも飛びかからんとした、その瞬間。
「タマもクロも、見て。可愛いスズメさんが来てくれたのよ。二人ともお兄ちゃんなんだから、脅かしたり追いかけ回したりしちゃダメよ。仲良くするのよ?」
マノンの温かい両手が、二匹の頭頂部へと同時にぽんと置かれた。
純度百パーセントの絶対平穏波動が注ぎ込まれ、二大魔獣の全身から、ぶしゅぅぅぅ……と音を立てて殺気が強制排出されていく。
タマは虚脱したように目を細めてマノンの太ももにへばりつき、クロは忌々しそうにそっぽを向いて縁側の板を尻尾で叩くしかなかった。
(勝った……!)
我はショールの温もりの中で、歓喜のあまり小さく身震いした。
主の庇護のもと、この地上の楽園に居場所を勝ち取ったのだ。
もう霊峰の凍てつく風に耐える必要もない。業火の熱に苛まれることもない。
朝になればあの極上のパン屑を賜り、昼にはこの縁側で主の首筋に寄り添って日向ぼっこをし、夜には温かい屋敷で眠るのだ。
「ピピ……」
満ち足りた吐息を漏らし、我はマノンの首筋に頬をすり寄せた。
マノンの指先がショールの上から、我が小さな頭をそっと撫でてくれる。
秋の爽やかな風が縁側を吹き抜けていく中、我――ピピは、生涯をかけてこの主の平穏を守り抜くことを、小さな胸の奥で固く誓うのだった。




