第13話:庭先の黄色いスズメと、固くなったパンの耳
夜のあいだに降りた濃い朝霜が、庭の雑草の葉先を白く縁取り、朝の柔らかな光を浴びてきらきらと細やかな光の粒を弾いていた。
ここ数日で、山裾の空気は目に見えて季節の歩みを進めていた。
吸い込む息の冷たさは日ごとに鋭さを増し、庭の奥に立つ山柿の葉は、縁から鮮やかな朱赤と橙色へと染まり始めている。見上げれば、吸い込まれそうなほど高い秋空には一片の雲もなく、針葉樹の森の稜線が、剃刀の刃で切り取ったかのようにくっきりと青空を区切っていた。
からり、と心地よい音を立てて縁側の雨戸を開けると、ひんやりとした朝の冷気が一気に居間へと流れ込んできた。
マノンは厚手のウールで編まれた大きなショールをきゅっと肩にかき抱き、小さく息を吐いた。白い息がふわりと宙に漂い、朝陽に透けて静かに消えていく。
「ん……今日もいいお天気ね」
土間のかまどには、すでに細い薪を一本くべてある。
手桶から汲み入れた井戸水が鉄瓶の中でふつふつと鳴り、細い注ぎ口からシュンシュンと真っ白な湯気が立ち上っていた。鉄瓶の底が熱せられる微かなパチパチという音と、土間の古い土の匂いが混ざり合い、家全体に朝の気配を満たしていく。
身支度を整えて居間へ戻ると、すでに二つの毛玉が定位置で待機していた。
「グルルゥ……」
「ふにゃ」
座布団の上から、白と黒の影が音もなく立ち上がり、すり足でマノンの足元へと歩み寄ってくる。
大きな白猫のタマは、相変わらずのんびりとした調子で、マノンの脛にふかふかの純白の胴体を「ゴシゴシ」と力強く擦り付けてきた。米袋のような重みが脚にかかり、マノンは思わず苦笑いをこぼす。
一方、怪我の傷口がカレンデュラ軟膏のおかげですっかり塞がり、白い包帯を外したばかりの黒猫のクロは、少し離れた位置から琥珀色の鋭い瞳でマノンを見つめていた。目つきの鋭さは相変わらずで、耳の先が少し欠けているせいで野武士のような凄みがあるが、その太い尻尾の先端は、嬉しさを隠しきれないようにパタパタと小刻みに左右へ揺れている。
「はいはい、おはよう。タマもクロも、朝から元気ね」
マノンは二匹の頭を交互に撫でてやり、土間から朝食の準備を運んできた。
今朝の二匹の朝食は、昨日のお鍋の残りの出汁でじっくり煮込んだ、白カブと鶏肉のほぐし身だ。薄味に仕立てたそれを人肌まで冷まし、二つの素朴な平皿に分けて土間の隅へ置く。
二匹は並んで前足を揃え、一心不乱にガツガツと皿を舐め始めた。
二大厄災と呼ばれた神獣と凶獣が、並んでお尻を揺らしながら朝食に夢中になっている姿は、どこからどう見ても仲の良い兄弟猫の朝の風景そのものだった。
二匹が満足そうに口の周りをペロペロと毛繕いし始めたのを見届け、マノンは自分の朝食を持って縁側へと移動した。
今朝のマノンの朝食は、少しばかり質素だった。
木のお盆の上に乗っているのは、鉄瓶の湯で淹れた香ばしい野草茶の入った湯呑みと、竹の小籠に盛られた「パンの耳」の山。
昨日の午後、新しく手に入れた薪オーブンの火加減を試そうと、ライ麦と全粒粉を混ぜた丸パンをいくつか焼いたのだが、薪の火力が思いのほか強すぎて、底と端の部分を少しばかり焼きすぎてしまったのだ。
焦げ茶色に硬く締まったパンの皮。捨てるのはあまりにも勿体ない。
マノンは薄刃のナイフで、焦げすぎた表面だけを薄く削ぎ落とし、カチカチに硬くなった端っこの部分を一口大に切り分けておいたのだった。
縁側の飴色に光る板の上に腰を下ろし、足をぶらぶらと宙に投げ出す。
お盆を脇に置き、温かい湯呑みを両手で包み込むと、じんわりとした熱が指先からかじかんだ掌へと伝わってきた。
ふう、と息を吹きかけ、野草茶をすする。野の香りと素朴な苦みが、朝の乾いた喉を心地よく潤していく。
トン、と軽い音がして、右側に白い影が飛び乗ってきた。
タマだ。満腹になった白猫は、マノンの右側の太ももにどっしりと自らの横腹を密着させ、大きな前足を器用に折り畳んで、早くも二度寝の態勢に入っている。
続いて、シュタッと音もなく左側に黒い影が降り立った。
クロだ。クロはタマのようにべったりと体を預けてはこないが、マノンの左の腰骨にそっと背中の毛を触れさせるようにして座り込み、琥珀色の瞳を細めて庭の木立を眺め始めた。
「ふふ、両脇に湯たんぽがあるみたいで温かいわね」
マノンは竹籠から、固くなったパンの端をひとかけら指先でつまみ上げた。
前歯で小さくかじる。
カリッ、と乾いた鈍い音が響いた。
石のように硬いが、噛み締めていると唾液と混ざり合い、ライ麦特有の甘酸っぱさと香ばしい小麦の風味がじわりと舌の上に滲み出てくる。素朴で、噛めば噛むほど滋味深い。
熱いお茶を一口含み、口の中でパンをふやかしながら、マノンはのんびりと庭へ視線を投げた。
庭の隅、境界の生垣の近くに立つ大きな山柿の木。
葉は半分ほど落ちて、枝の間からは小ぶりだが鮮やかな橙色に熟した柿の実が、いくつも鈴なりになって朝陽を浴びていた。
もうすぐ収穫の時期だろうか。幾つかは渋抜きをして干し柿にし、柔らかくなったものは裏ごししてジャムにでもしようか――そんなことをぼんやりと考えていた、その時だった。
パサリ、と。
柿の木の枝先が、微かに揺れた。
「……ん?」
風の音ではなかった。
マノンはパンを口に運ぶ手を止め、柿の木の枝先へと目を凝らした。
橙色の実のすぐ隣、朝露に濡れた細い枝の先端に、何かがふわりと舞い降りていた。
「……鳥……? ずいぶん変わった色をしているわね」
マノンは思わず瞬きを繰り返した。
そこにいたのは、一羽の小さな鳥だった。
体の大きさは、街の路地裏で見かける丸々としたスズメとほとんど変わらない。ころんとした愛らしい卵型の胴体。
だが、そのまとう色彩が、普通のスズメとはまるで異なっていた。
頭のてっぺんから背中、そして胸元にかけての羽毛は、まるで春の陽光をそのまま紡ぎ取ったかのような、鮮やかで澄んだレモンイエローだった。しかも、ただの黄色ではない。朝露の滴を弾いたその羽毛の一筋一筋が、光の当たる角度によって、まるで熟練の金細工師が鍛え上げた金糸のように、チカチカと神秘的な黄金色の燐光を放っているのだ。
何よりマノンの目を奪ったのは、その尾羽だった。
スズメのような小柄な体躯には不釣り合いなほどに長く、優美に弧を描く三本の飾り羽。風が吹き抜けるたび、その尾羽はまるで薄絹のリボンのようにしなやかにたなびき、淡い虹色の残光を空気に残しているようだった。
「まあ……なんて綺麗な雀さんなのかしら」
マノンの口から、感嘆の吐息が漏れた。
王都の大通りでは、煤煙で羽を黒く汚したハトやカラスばかりを見てきた。こんなにも鮮やかで、息を呑むほど美しい鳥を見るのは生まれて初めてだった。山の奥深くには、図鑑にも載っていないような美しい野鳥が棲んでいるのだろう。
枝の上の黄色い小鳥は、首をピョコピョコと左右に傾げながら、大きな黒い瞳でマノンの手元をじっと見つめていた。
その小さなクチバシが、かすかに開閉している。
朝の冷たい風の中を遠くから飛んできたのだろうか。羽毛が少しだけ乱れ、どこか疲れたように肩で息をしているようにも見えた。
「お腹が空いているのかしら……? こんな山の上まで飛んできて」
マノンは竹籠に目を落とした。
籠の中には、固くて人間でも噛み砕くのに苦労するパンの耳。
鳥の小さなクチバシでは、とてもこのままでは食べられない。
「ちょっと待っててね」
マノンは固いパンの耳を一切れ手に取り、親指と人差し指の腹を使って、ぎゅっと力を込めた。
ミシミシ、と音を立ててパンの破片が崩れていく。
薬舗で十年間、硬い生薬の根や樹脂を指先で検分し、乳棒で粉砕し続けてきたマノンの指先は、見た目の華奢さからは想像もつかないほどに器用で力強かった。
カチカチのパンの耳を、爪の先で米粒大の大きさに削り落とし、さらに指先ですり合わせるようにして、細かく細かく揉みほぐしていく。
パラパラ、ポロポロ。
白く小さなパン屑の粉が、マノンの左の掌の上へとこんもりと積もっていく。
焦げた部分は綺麗に取り除かれ、香ばしい焼き目のついた小麦の甘い粉だけが集められていく。
マノンの掌の熱で温められたパン屑からは、ふわりと素朴で豊かな小麦の芳香が立ち上った。
そしてもちろん――マノン自身は全く自覚していなかったが、彼女が指先で丹念にほぐしたそのパン屑には、彼女の身体から絶え間なく滲み出ている『波長ゼロの絶対浄化波動』が、余すところなく染み込んでいた。
「よし、これなら食べられるわね」
マノンは左手をそっと前へと伸ばした。
掌を開き、白いパン屑の小山を青空の下へと差し出す。
急な動きをして驚かせないよう、息を潜め、体全体の動きを静かに止める。
「おいで。美味しいパンの耳だよ。怖がらなくていいからね」
マノンは、子供や小動物に語りかけるときの、あの柔らかく澄んだ低めの声で優しく呼びかけた。
柿の木の枝の上で、黄色い小鳥がピクンと反応した。
黒真珠のような丸い瞳が、カチリとマノンの差し出した掌へと焦点を結ぶ。
小鳥は首を右へ四十五度、左へ四十五度と小刻みに傾げた。
迷っているようだった。
野生の警戒心が、人間に近づくことを躊躇わせているのだろうか。細い両足を踏み替え、枝の上をチョン、チョンと横歩きしながら、じっとマノンの掌を見つめている。
だが、風に乗って運ばれてくるパン屑の匂いは、小鳥の理性を狂わせるに十分すぎるものだった。
ただのパンではない。魂の芯を焼き尽くす苦痛を冷まし、涸れ果てた生命力を一瞬で満たす奇跡の滋養が、あの小さな掌の上に山盛りになっているのだ。
ピピッ、と短く愛らしい声が鳴った。
意を決したように、黄色い小鳥が枝を蹴った。
バササッ、と金色の羽毛が朝陽を浴びて閃く。
黄金の光の尾を引くようにして、小鳥は空を滑空し――そして、吸い寄せられるように縁側へと舞い降りてきた。
パシッ。
マノンの差し出していた左手の人差し指の背に、小さな小さな衝撃が走った。
「……あ」
マノンは思わず息を止めた。
人差し指の第二関節のあたりに、二つの小さな、細い足がちょこんと止まっていた。
指の皮膚に触れる爪先は、驚くほど細く、そして朝露に濡れていたせいか、かすかにひんやりとしていた。まるで小さな金属のワイヤーで軽くつままれたような、儚くも確かな感触。
だが――その冷たさを感じたのも一瞬のことだった。
爪先のすぐ上、小鳥のふっくらとした胸元の羽毛が、マノンの指の甲にふわりと触れたのだ。
(……温かい……!)
マノンの胸の奥に、言葉にならない感動が込み上げてきた。
綿毛よりも柔らかく、シルクよりも滑らかな、極上の黄色い胸毛。
その極小の羽毛の奥から、トックン、トックン、トックンと、人間の何倍もの速さで打たれている小さな心臓の鼓動が、ダイレクトにマノンの皮膚へと伝わってきた。
指先を通して感じる、あまりにも小さく、けれど懸命に生きている確かな命の熱気。
小鳥は指の上でバランスを取るように、長い尾羽を上下にツン、ツンと揺らした。
そして、マノンの顔を一度だけ見上げたあと、目の前に広がるパン屑の小山へと、クチバシを勢いよく突き刺した。
ツツンッ、ツン、ツンッ!
小さなくちばしが、リズミカルにマノンの手のひらを叩く。
くすぐったい。
硬いクチバシの先が掌の肉を小突くたびに、心地よい微細な振動が走り、思わずマノンの口元がふにゃりと緩んでしまう。
小鳥はまるで何日も飢えに苦しんでいたかのように、夢中でパン屑をついばんでいた。
小さなクチバシでパンの粒を挟み、首を上に向けてゴクリと飲み込む。飲み込んではまたついばみ、ついばんでは飲み込む。
喉元が忙しなく上下し、黄金色の羽毛が歓喜に震えるように細かく波打っていた。
「ふふっ……くすぐったいわ。そんなに急いで食べたら喉に詰まっちゃうわよ」
マノンが囁くように声をかけると、小鳥はついばむ手を止め、首をかしげてマノンを見上げた。
そして、満足げに喉を鳴らすように、「ピピッ♪」と鈴を転がすような高い美声で短く鳴いた。
まるでお礼を言っているかのようなその仕草に、マノンの心は完全にノックアウトされた。
「ピピって鳴くのね。……じゃあ、今日からあなたの名前は『ピピ』よ」
ピピ。
タマ、クロに続く、マノンお得意の直感による命名だった。
黄色い小鳥――ピピは、自分の新しい名を気に入ったのか、それともパン屑のあまりの美味しさに気を良くしたのか、もう一度「ピピッ!」と鳴いて羽をパタパタと震わせた。
その時。
マノンの両脇から、二つの不穏な気配が同時に持ち上がった。
右側で丸まっていたタマが、片目だけをスッと薄く開けた。
金色の双眸の奥に、絶対零度の冷徹な光が宿る。
左側に座っていたクロが、低く喉を鳴らした。
琥珀色の瞳孔が針のように細く引き絞られ、唇の端がピクリと吊り上がる。
(おい……北の毛玉。見ろ、あの小鳥……)
(言われるまでもない、黒猫……あれは霊峰の頂に棲まう不死の怪鳥……『幻鳥フェニックス』だ……)
(我らの主の指先に、気安く爪を立ておって……)
(主の手のひらの特等席を、あのような鳥風情が独占するなど……万死に値する……)
白猫と黒猫の間で、無言の恐ろしいテレパシーが交錯していた。
二匹の背後から、目に見えないほどの微細な殺気の針が、ピピへ向けてチリチリと放射される。
だが、マノンはそんな二匹の殺気立つ視線に気づくはずもない。
空いた右手で、タマの大きな白い頭と、クロの黒い背中を、同時に優しくぽんぽんと撫でた。
「タマもクロも、見て。可愛いスズメさんが来てくれたのよ。二人ともお兄ちゃんなんだから、脅かしたり追いかけ回したりしちゃダメよ。仲良くするのよ?」
マノンの温かい掌が触れた瞬間、二大魔獣の背中に立ち上りかけていた殺気は、ぷしゅんと音を立てて跡形もなく消え去った。
タマは「グルルゥ……(チッ)」と不承不承に目を閉じ、再びマノンの太ももに顎を埋めた。
クロもまた「ふにゃ……(忌々しい)」と短く鼻を鳴らし、そっぽを向いて尻尾で縁側の板をペシペシと叩いた。
ピピは掌の上で最後のパン屑を綺麗に平らげると、小さなくちばしをマノンの親指の腹にチョン、チョンと擦り付けて油分を拭った。
そして、すっかり警戒を解いた様子で、マノンの人差し指の上で器用に羽繕いを始めた。
小さな頭をくるりと背中に回し、金糸のような羽毛を丁寧に整えていく。
秋の柔らかな朝陽が、縁側を黄金色の温もりで満たしていた。
右足に大きな白猫の重み。
左腰に引き締まった黒猫の温もり。
そして、左手の人差し指の上に止まる、愛らしい黄色い小鳥の吐息。
「ふふ……なんだか、どんどん賑やかになっていくわね」
マノンは湯呑みを取り、冷めかけた野草茶を一口すすった。
丁寧にご飯を作り、縁側でお茶を飲み、可愛い動物たちに囲まれて過ごす、誰にも邪魔されない穏やかな一日。
王都で心身を削り、泥のように働いていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思える。
「今日も、いい一日になりそうだわ」
マノンは幸せそうに目を細め、指の上のピピを愛おしそうに見つめながら、どこまでも高く澄み渡る秋空に向かって、深々と息を吸い込むのだった。




