第12話:縁側の縄張り協定(※終末の魔力激突)
秋雨がしとしとと軒先を濡らす薄暗い縁側で、大気の密度が物理的な質量を伴って急激に跳ね上がった。
バリ、バリバリッ――!
何もない空間の裂け目から、乾いた放電現象のような紫色の火花が散る。
木造の平屋を取り囲む大気が、目に見えるほどの二色の奔流となって渦を巻き始めていた。
西側――新入りの黒猫・クロが立つ足元からは、ドス黒い粘性を帯びた『冥界獣キマイラ』の瘴気が、まるでタールのように床板を這い上がっていた。空間を歪ませる猛毒の気配。触れるものすべての魂を腐食させ、冥府の底へと引きずり込む絶対的な終末の波動。
対する東側――居間から音もなく現れた白猫・タマの周囲からは、触れるものすべてを瞬時に結晶化させる『霜狼神フェンリル』の絶対零度が、白銀の冷気となって噴き上がっていた。雨粒が軒先から落ちる軌跡そのものが氷の針となって空中で停止し、ウッドデッキの表面には雪の結晶が幾何学模様を描いて猛烈な速度で増殖していく。
上空を見上げれば、それはもはや局地的な天変地異の領域に達していた。
古民家の真上だけ、雨雲が巨大な渦を巻いて真っ二つに引き裂かれている。
西半分にはドス黒い雷光を孕んだ暗雲が立ち込め、東半分には極北の夜空を彩るはずの白銀と青緑のオーロラが怪しく揺らめいていた。二つの神話級の災厄が放つ魔力波長が、庭先という極小の結界内で正面衝突を起こし、大気をきしませ、空間の位相すら歪めようとしていたのだ。
「グルルルルル……ッ!」
「シャアアアアアッ……!!」
二匹は背中の毛を針のように逆立て、前足を突っ張り、互いの眉間を睨み合っていた。
タマの背後には、大気を凍結させる白銀の巨狼の幻影が牙を剥き出しにして咆哮を上げている。
クロの背後には、天を覆う漆黒の獅子と毒蛇の影が蠢き、大地を腐食させる黒炎を撒き散らしている。
世界を二度滅ぼしてなお余りある二大厄災のプライド。
ここは我の主の領域だ。貴様のような薄汚れた凶獣の居場所ではない。
否、ここは我が見出した極上の安寧の地だ。北の古びた毛玉こそが去るべきだ。
神話の激突は秒読み段階に入り、あと爪先一つ分でも間合いが詰まれば、この山裾の一帯は時空の彼方へと消滅するはずだった。
だが――その世界の終わりを告げる特異点の真ん中に、なんの前触れもなく、素朴な麻エプロンを着た小柄な影が割って入った。
「あらあら、まあまあ。だめよ、喧嘩しちゃ」
マノンだった。
台所から戻ってきたマノンは、両手に乾いた古タオルを持ったまま、大気を引き裂く魔力の激突の真芯へと、まるで近所の路地裏を散歩するかのような気楽さで足を踏み入れた。
ピシ、パキパキッ!
タマの放つ絶対零度の冷気が、マノンの足元をかすめる。
ジュウウウッ!
クロの放つ冥府の腐食瘴気が、マノンのエプロンの裾を撫でる。
普通の人間の肉体であれば、骨まで瞬時に凍りついて粉々に砕けるか、魂ごと溶かされて消滅しているはずの致死結界。
しかし――マノンがそこに足を踏み入れた瞬間、奇跡というのも馬鹿馬鹿しいほどの現象が起きた。
すぅっ……と。
マノンの全身から自然と滲み出ている、あの『波長ゼロの無害気質』。
あらゆる属性を持たず、いかなる興奮も毒気も完全に中和してしまう特異体質が、二匹の激突する魔力嵐に触れた瞬間、真夏の炎天下に打ち水をしたかのように、すさまじい勢いで熱と冷気を吸い込んで無力化してしまったのだ。
「ほらほら、新入りさんも古株さんも、落ち着いて。雨の日は気圧のせいでイライラしやすいのよねぇ。わかるわよ、私も薬舗にいた頃は雨の日のクレーム対応が一番嫌だったもの」
マノンは呑気に呟きながら、身をかがめた。
そして――白銀の巨狼と漆黒のキマイラという、神話の化け物たちが殺気を極限まで高めていたその頭頂部へ向けて、両手を同時に振り下ろした。
――ぽん、ぽん。
あまりにも間抜けな、肉球を叩くような柔らかな音が二つ、縁側に響いた。
マノンの右手掌がタマの白い丸い頭の上に。
マノンの左手掌がクロの黒い尖った頭の上に。
寸分の狂いもなく、同時に、優しく乗せられたのだ。
「こら、仲良く半分こね」
ドクンッ――!!
タマとクロ、二大魔獣の全身を、かつて経験したことのない絶対的な脱力感が貫いた。
マノンの手のひらから、頭蓋の骨を透過して脳髄へ、そして霊核の最深部へと直接流れ込んできたのは、純度百パーセントの『絶対平穏波動』だった。
逆立っていた毛先が、まるでアイロンを当てられたかのようにシュルシュルと寝かしつけられていく。
背後に立ち上っていた白銀の巨狼の幻影も、漆黒の獅子と毒蛇の幻影も、マノンの手のひらの温もりに触れた瞬間、朝露が陽光に蒸発するかのように、ぷしゅんと音を立てて跡形もなく霧散した。
上空の暗雲とオーロラが一瞬で掻き消え、ただの静かな秋雨の空へと戻る。
庭先に充満していた殺気は消え失せ、代わりに漂ったのは、台所のかまどから流れてくる、香ばしい麦茶の匂いだけだった。
「フニャ……ッ!?」
「グル……ッ!?」
二匹は同時に間抜けな声を漏らし、マノンの手のひらの下で目を白黒させた。
何が起きたのか。自分たちの放った必殺の神威はどこへ消えたのか。
そして、なぜ自分たちの頭頂部は、これほどまでに蕩けそうに心地よいのか。
マノンは二匹の頭をそのまま、くしゃくしゃと同時に揉みほぐした。
「タマは先に来てたんだから、お兄ちゃんらしくしてあげなさいね。クロはまだ怪我人……怪我猫なんだから、無理に威張っちゃダメよ。ふたりとも、ちゃんと私の言うこと聞けるわね?」
頭を撫でられながら、タマ(フェンリル)とクロ(キマイラ)の視線が、至近距離でカチリと交錯した。
二匹の魔獣の脳内で、人知を超えた神速の損益計算が繰り広げられる。
(おい、黒猫……貴様、理解しているのか? この主の恐ろしさを)
(黙れ、白毛玉……言われるまでもない。我が数千年生きてきて、この我の全魔力を一撃で『無』に還した存在など、神話の創造神ですらあり得ん……!)
(そうだ。そして何より――この主を怒らせ、機嫌を損ねてこの庭から叩き出されたらどうなると思う?)
(……あの、骨までトロトロに煮込まれた魚の血合いの生姜煮が食えなくなる……)
(我とて同じだ。あの極上の出汁が染みた茹で肉と、痛みの消える金属ブラシの快楽を奪われてみろ。正気を保てる自信がない……!)
二匹の狡猾にして誇り高き災厄の魔獣たちは、ほんの一瞬のアイコンタクトで、世界の命運を左右する重大な協定を結んだ。
『結論:この主の前で喧嘩をしてはならない。追い出されたら死ぬ』
ピタッ。
あれほど一触即発だった二匹の空気が、嘘のように凪いだ。
タマはすっと座り直すと、何事もなかったかのように前足を揃え、澄ました顔で「にゃーん」と喉を鳴らした。
クロもまた、鋭い目つきのままではあったが、耳をペタリと寝かせ、不器用そうに「……ふにゃ」と短い猫撫で声を絞り出した。
「ふふ、よろしい。いい子たちね」
マノンは満足げに微笑むと、縁側の板の上に腰を下ろした。
土間から持ってきたばかりの、熱い麦茶を注いだ素朴な湯呑みを傍らに置く。
そして、自らの膝の上をポンポンと両手で叩いた。
「ほら、おいで。外は雨で寒かったでしょう」
その瞬間、二匹の間に無言の電光石火の攻防が走った。
膝の上の特等席は一つ。しかし、どちらかが独占しようとすれば再び諍いが起き、主の怒りを買う。
二匹が導き出した妥協案は、完璧だった。
トン、とタマが飛び乗り、マノンの右側の太ももの上に、前足を綺麗に揃えて陣取った。
続いて、シュタッとクロが飛び乗り、マノンの左側の太ももの上に、包帯を巻いた体を丸めて収まった。
右に白猫、左に黒猫。
二匹は背中同士をぴったりと密着させ、互いの温もりを分け合いながら、マノンの下腹部へと同時に顎を乗せたのだ。
「わ……っ、ちょっと、これはさすがに重たいわねぇ!」
マノンは思わず嬉しい悲鳴を上げた。
合計で二十キロ近い重量。両足の大腿筋がずっしりと押し潰されるような圧迫感がある。
けれど、右足からは白銀の極上の毛並みを通したじんわりとした熱が、左足からは包帯越しに黒猫の柔らかな体温が、隙間なく伝わってきた。
二匹はマノンのエプロンの裾に交互に鼻先を擦り付け、競い合うように喉を鳴らし始めた。
「グルルルルル……」
「ゴロゴロゴロゴロ……」
二重奏となって響く、大音量の喉鳴らし。
マノンは両手をそれぞれの背中に置き、交互に優しく撫で下ろした。
指先を動かすたびに、二匹の魔獣はトロンと目を細め、完全に脱力してマノンの膝の上に体重を預け切っていく。
マノンは湯呑みを取り、温かい麦茶を一口すすった。香ばしい麦の香りが、喉を心地よく潤していく。
「ふふ。猫が二匹になると、膝の上がぽかぽかで……暖房いらずねえ」
雨音の響く静かな平屋で、マノンはどこまでも幸せそうに目を細めるのだった。
***
その頃。
平屋から数里離れた、フォレスト辺境伯領の首府・領主館の執務室は、文字通りの阿鼻叫喚に包まれていた。
「――ローラン様ッ!! 緊急事態! いえ、世界の破滅でありますッ!!」
執務室の重厚な扉が叩き割らんばかりの勢いで開かれ、警備隊長ギルバートと副隊長セリアが雪崩れ込んできた。
執務机で領内の予算案を精査していた領主代行ローラン・ド・フォレストは、飛び込んできた二人の形相を見た瞬間、持っていた羽根ペンを机に落とした。
二人の顔面は、もはや土気色を通り越して真っ青を通り越し、蝋人形のように白く硬直していたからだ。
「……何事ですか、ギルバート。フェンリルが再び暴れ出したとでもいうのですか?」
ローランが努めて冷静を装いながら問う。
だが、ギルバートの手から差し出された、山頂監視所からの緊急魔導速報を受け取ったセリアの手は、痙攣するように小刻みに震えていた。
「ち、違います……! フェンリルだけではありません……! 本日正午、西の山脈の古代封印を破り逃走中であった第二の厄災……『冥界獣キマイラ』が、フォレスト領内に侵入いたしました!」
「キマイラだと……!?」
ローランの理知的な瞳が、驚愕に見開かれた。
「数千年前、一夜にして王国の防衛線を更地にしたという、あの猛毒と瘴気の化身か!? なぜそれが我が領地に――」
「侵入先が……あの平屋なのです!」
ギルバートが絶叫に近い掠れ声を上げた。
「手傷を負ったキマイラが、調停者マノン様の屋敷の縁側に逃げ込みました! 直後、屋敷の庭先でフェンリルとキマイラが正面から遭遇! 遠方観測班の報告によりますと、上空の雨雲が真っ二つに裂け、局地的なオーロラと暗黒の雷雲が激突……大気がきしみ、今にも領地全域が消滅するかという終末の魔力衝突が観測されました!」
ローランの額から、滝のような冷汗が噴き出した。
二大厄災の激突。それは神話の最終戦争そのものだ。
もしそれが爆発していれば、フォレスト領など一瞬で地形ごと消滅し、巨大なクレーターに変わっていたはずだった。
「そ、それで……!? 被害は!? 迎撃部隊は間に合ったのか!?」
「いいえ……迎撃など、近づくことすら叶いませんでした。ですが……」
セリアが、もはや正気を保てないといった虚ろな目で、懐から取り出した観測班の克明な記録書を読み上げた。
『速報:二大厄災の衝突の極致において、調停者マノン様が両者の間に平然と割って入るのを確認。
マノン様は、天変地異を引き起こす二大魔獣の頭頂部を、素手で軽く「ポン、ポン」と叩かれました。
直後、二大厄災の全魔力衝突は一瞬にして霧散。
神獣フェンリル、冥界獣キマイラの両名は即座に闘争を放棄し、完全なる服従の姿勢を表明。
現在――両魔獣は調停者マノン様の右膝と左膝にそれぞれ行儀よく前足を乗せ、喉を鳴らして丸くなっております。
調停者様は二大厄災を両脇に侍らせたるまま、縁側にて優雅に麦茶を啜っておられます』
静寂が、執務室を完全に支配した。
針の一本が落ちても響くような沈黙。
ローランは書類を持ったまま、ピシリと固まっていた。
数秒後、彼の整った顔立ちが、微かにピクピクと痙攣し始めた。
「……フェンリルと、キマイラを……」
ローランの口から、掠れた、力のない声が漏れ出た。
「両膝に乗せて……麦茶を……?」
「はっ」
ギルバートが、泣きそうな顔で頷いた。
「頭を軽く叩いて、調伏されたとのことです。……あのお方にとって、世界を滅ぼす二大厄災の衝突など、近所の野良犬と野良猫の小競り合い程度にしか見えていないのでしょう。……次元が、違いすぎます」
ローランは無言で立ち上がった。
そして、執務机の奥にある鍵付きの引き出しを開けた。
取り出したのは、普段は決して人前で口にすることのない、領内最高峰の薬師に特別に調合させた『超強力胃薬』の特大ガラス瓶だった。
ローランは震える手で蓋を開けると、水もなしに茶色い大粒の丸薬を三粒、口の中へ放り込み、ガリガリと噛み砕いた。
強烈な苦味が口腔を満たしたが、彼の精神が受けた衝撃に比べれば、真水のように淡白なものだった。
「……我が領地は」
ローランは執務室の窓辺へと歩み寄り、冷たいガラスに額を押し当てた。
眼鏡の奥の藍色の瞳には、底知れぬ疲労と、途方もない諦観が浮かんでいた。
「我がフォレスト領は……いったい何と隣り合っているのだ……?」
窓の向こう、雨霧に煙る北の山裾。
あそこには今、世界を一夜にして更地にできる二大厄災が、一人の素朴な娘の膝の上で、行儀よく丸まって喉を鳴らしているのだ。
手を出せば、国が消える。
怒らせれば、世界が終わる。
ローランは深く、深く、魂の底からため息を吐き出すと、背後のギルバートとセリアに向かって力なく命じた。
「……至急、商人のヴェロニカを呼べ。……あのお方の屋敷へ、さらに最高級の綿シーツと、極上の魚と、上質な茶葉を納品させるのだ。……機嫌を損ねてはならん。絶対に、あのお方の平穏な日常を邪魔してはならんのだ……」
「「ははっ……!!」」
領主館の首脳陣が胃を痛め、必死の貢ぎ物計画に奔走していることなど露知らず。
山裾の古民家では、雨露に洗われた縁側で、マノンが両膝の重みに心地よいため息をついていた。
「ふふ、タマもクロも、すっかり仲良しさんね。……よし、今夜は二匹のために、お魚とお肉を半分ずつ入れた特製のご飯を作ってあげましょうね」
マノンが優しく微笑みかけると、右膝の白猫と左膝の黒猫は、示し合わせたように同時に「にゃーん」と甘えた声を上げ、マノンの温かい手のひらに額をすり寄せるのだった。




