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第11話:黒猫の葛藤、そして陥落

屈辱だった。千年に及ぶ我が生涯において、これほどまでの無様を晒したことなど一度たりともなかった。


我が名は『冥界獣キマイラ』。

かつて西の山脈を根城とし、一夜にして一国の国境防衛線を更地へと変えた、神話に謳われる破滅の権化である。

本来の我が姿は、岩山をも砕く剛力を持つ漆黒の獅子、あらゆる呪詛をその角に宿す剛毛の山羊、そして尾の先に猛毒の牙を光らせる双頭の毒蛇――三位一体の異形にして、人間がその影を一瞥しただけで狂気に呑まれる生ける地獄絵図そのものだ。


その我が、なぜこのような矮小な獣の姿に身をやつしているのか。

発端は数日前、西の霊峰群の深部に施されていた古代の封印結界を、内側から力任せに粉砕したことにあった。

自由の天地へと躍り出た我が前に立ちはだかったのは、数千年の歳月をかけて編まれた古代防衛機構の自動迎撃術式群だった。執拗なまでの光属性の神聖杭が我が肉体を貫き、背中に消えぬ呪焼の裂傷を刻み込まれた。

傷口から溢れ出る瘴気熱は、体内の魔力循環を狂わせ、激しい悪寒と高熱が骨の髄を焼き尽くす。追撃を逃れ、傷を癒やすためには、膨大な魔力を極限まで圧縮し、この山林に溶け込む無害な獣――すなわち『黒猫』の肉体へと霊核を押し込めるしかなかったのだ。


冷たい秋の長雨の中、泥水を啜りながら這いずり、ようやく辿り着いたのがこの木造の平屋だった。

張り出した軒下の乾いた板の上に倒れ込み、体温を保つために丸くなっていたところを、あろうことか、あの薄気味の悪い人間の小娘に見咎められたのだ。


(脆弱な人間の雌めが……! 我が霊威を僅かでも取り戻せば、その細い首など一噛みで噛み千切り、内臓を足元にぶちまけてくれるものを……!)


黒猫の姿に押し込められた琥珀色の双眸を吊り上げ、剥き出しの牙で威嚇した。

並の人間であれば、この世の終わりのような気迫に腰を抜かして失禁し、逃げ惑うはずだった。

だが、この娘は違った。

まるで庭先の雑草の茂り具合でも確認するかのような、恐ろしいほど平熱の眼差しで我が傷口を観察し、あろうことか、温めた古布(バスタオル)を頭から被せてきおったのだ。


視界を奪われ、前足を器用に巻き込まれて自由を奪われた。力任せに牙を剥こうとした瞬間、首の後ろの皮――獣の肉体においてもっとも逆らえぬ急所を、絶妙な深さと力加減でぎゅっとつまみ上げられた。

抗えぬ脱力感。母獣に咥えられた子獣のように四肢がだらりと垂れ、全身を小娘の柔らかな胸と太ももの間に完全にホールドされてしまった。

殺される。内臓を抉られ、皮を剥がれる――!

そう覚悟した瞬間、背中の裂傷に、生温かい指先が触れた。


(……ッ!? な、なんだ……これは……っ!?)


叫びは喉の奥で凍りついた。

痛覚が、消えていく。

背中を真紅に裂き、骨まで炭化させかねない勢いで燻っていた神聖術式の呪焼。それが、小娘の指先から塗り拡げられた琥珀色の軟膏に触れた途端、まるで熱した鉄板に冷水を注ぎ込んだかのように、スーッと鎮火していったのだ。

鼻腔をくすぐるのは、甘く青々としたトウキンセンカの花の香りと、清らかな蜜蝋の匂い。

だが、真に驚くべきは軟膏そのものの薬効ではなかった。

軟膏を伸ばす小娘の指先から、途切れることなく注ぎ込まれてくる『気配』――あらゆる属性を持たず、いかなる魔力の高ぶりも穏やかに凪がせてしまう、絶対零の平穏な波動。

それが傷口から体内の血管へと浸透し、暴れ狂っていた濁った魔力熱を、春の雪解け水のように洗い流していく。


手当てを終えた小娘は、包帯をきゅっと手際よく結ぶと、くるんでいたタオルを優しく解いた。

拘束を解かれた我は、即座に跳躍して距離を取るべきだった。

しかし――身体が動かなかった。

信じられないことに、あれほど我が身を苛んでいた焼け付くような激痛が、完全に消失していたのだ。

背中に触れているのは、清潔な布の感触と、皮膚を柔らかく覆う軟膏の保護膜だけ。


呆然と自らの背中を振り返り、次いで目の前にしゃがみ込む小娘を見上げた。

小娘は栗色の髪を秋風に揺らしながら、少しも威張る風でもなく、ただ「雨に濡れた子猫を拭いてやりました」といった風情で、穏やかに微笑んでいる。

何者だ。この娘は何者なのだ。

太古の神聖呪詛を、平然とハーブの軟膏ひとつで中和してみせるなど、いかなる大賢者、いかなる聖女であっても不可能な神業だ。


底知れぬ恐怖と混乱に毛を逆立てかけた、その刹那――。


――コトリ。


静かな雨音を割って、ウッドデッキの板の上に、素朴な陶器の小皿が置かれた。


「お腹も空いているでしょう? これ、食べてみて」


小娘が差し出した皿。

そこから立ち上る湯気を見た瞬間、我の喉仏が、意志とは無関係に「ごくり」と音を立てて上下した。


(ば、馬鹿な……我を愚弄するか……! このような、人間の残飯など……!)


我は奥歯を噛み締め、小皿から顔を背けようとした。

我は神話の冥界獣キマイラである。生贄として捧げられた処女の血や、戦場で散った勇者たちの肉を喰らってきた孤高の厄災だ。小娘が適当に煮込んだ下賤な餌など、口にするはずがない。毒が仕込まれている可能性すらある。


だが――。

小皿から立ち上る匂いが、尋常ではなかった。


フン、フン、と引き攣るように鼻が動いてしまう。

皿の上にあるのは、粗くほぐされた魚の身――マスと、その頭の付け根、そして濃厚な赤黒い色をした『血合い』の部位だった。

本来、魚の血合いといえば、鉄分が多く生臭さが際立つため、人間には敬遠されがちな部位だ。

しかし、目の前のそれはどうだ。

生臭さなど微塵もなかった。丁寧に血抜きが施され、ひとかけらの生姜とともに絶妙な加減で塩茹でにされたその身からは、魚本来の芳醇で濃厚な脂の甘みと、生姜の爽快な清涼感だけが立ち上っている。

さらに、湯気の奥底から漂ってくるのは、先ほど傷口を癒やしたあの小娘特有の『絶対浄化の波動』。


小娘の胃袋を掴む手腕は、魔獣の本能を狂わせるに十分すぎるものだった。

結界を破り、ここまで逃走する過程で、我の霊核は極限まで飢餓状態に陥っていた。

魔力を圧縮し、黒猫の肉体を維持するだけでも莫大なカロリーを消費している。腹の底はとっくに空っぽで、内臓同士が擦れ合って悲鳴を上げているのだ。


ぐぎゅるるるるるるる……ッ!


ウッドデッキに、地鳴りのような猛烈な腹の虫の音が響き渡った。

小娘が「ふふっ」と優しく吹き出す。

恥辱! これ以上の恥辱があろうか!

だが、目の前で揺れる湯気の甘やかな匂いが、我の理性の最後の防壁をガタガタと揺さぶっていた。


(……毒味だ。そう、これは罠の有無を確認するための、やむを得ぬ毒味にすぎん……!)


己に都合の良い言い訳を脳内で並べ立て、我は屈辱に震えながら、そろりと前足を一歩踏み出した。

背中の包帯が突っ張ることもない。完璧な手当てのおかげで、足取りは驚くほど軽い。

小皿の縁に鼻先を近づけ、もう一度匂いを嗅ぐ。

たまらない。野生の肉食獣のDNAが、今すぐこの肉塊を喉奥へ流し込めと狂乱の命令を下している。


我は覚悟を決め、小皿の端にあった魚の血合いの一片を、舌先で絡め取った。

そして――口の中へと運んだ。


――ッ!!?!?!?!?


その瞬間、我の全身の毛という毛が、稲妻に打たれたように逆立った。


(な……な、なんなのだ……この……この旨味は……ッ!?)


咀嚼した瞬間、ほろりと繊維がほどけ、舌の上いっぱいに濃厚なコクが爆発した。

パサつきなど欠片もない。絶妙な火加減で下茹でされた魚肉は、しっとりと水分を含み、噛み締めるたびに凝縮された魚の旨味と脂がジュワリと滲み出てくる。

そして後味を駆け抜ける、生姜の鮮烈な香り。

微かな辛みが脂のくどさを綺麗に断ち切り、何口でも貪り食いたくなるような凶悪な食欲の連鎖を生み出していた。

さらに、胃の腑に落ちた一口から、温かな滋養の波が血管を通って全身へと広がっていく。傷つき、擦り減っていた霊核の隅々にまで、極上のエネルギーが満ち満ちていく感覚。


「ガツッ……! ガツガツッ、ハフッ、ハフッ……!」


もはや、プライドも警戒も、影も形も残っていなかった。

我は我を忘れ、狂ったように皿へ顔を突っ込んだ。

粗くほぐされた血合いの肉を、まるで親の仇を討つかのような勢いで口内へ掻き込む。美味い。美味すぎる。数千年生きてきて、これほどまでに細胞の一つ一つが歓喜に打ち震える食事を口にしたことがあっただろうか。否、断じてない!

喉を鳴らし、咀嚼もそこそこに飲み干していく。

あっという間に山盛りの魚肉が消え去った。

だが、止まらない。

皿の表面に残ったわずかな煮汁、油の膜、微細な肉の繊維――その一分子たりとも残すまいと、ザリ、ザリ、ザリと舌のヤスリで陶器の皿を削り取らんばかりに舐め回した。

お皿がウッドデッキの上をズリズリと前へ滑っていくのを、両前足で必死に抱え込みながら、ピカピカに磨き上げるまで舐め尽くした。


「ぷはっ……!」


息を継ぎ、ようやく顔を上げた。

腹の底から、じんわりと満ち足りた熱が立ち上っていた。

傷の痛みは完全に消え、体内の魔力循環はかつてないほど清らかに整っている。

満足だ。これ以上の幸福がこの世にあるだろうか。

我は大きく息を吐き、濡れていた前足の甲をペロリと一舐めした。


その時だった。


「ふふ、お皿までピカピカにしてくれてありがとうね。美味しかった?」


頭上から降ってきた柔らかな声とともに、影が落ちた。

ハッとして見上げると、小娘が目の前に膝をつき、愛おしそうな目を細めてこちらを見つめていた。

そして――何気ない手つきで、小娘の素手が伸びてきたのだ。


(しまっ……避けねば……!)


頭ではそう命じた。相手はいかに傷を癒やし、美味い飯をくれたとはいえ、得体の知れぬ人間なのだ。安易に触れさせてはならない。

だが、満腹になり、完全に脱力した肉体は、我が命令を拒絶した。


――コショ、コショ、コショ。


小娘の細く柔らかい指先が、我の顎の下――自分では絶対に毛繕いできない、もっとも痒い喉仏のあたりへと滑り込んできた。

指先を少し丸め、爪の先で皮膚を優しく掻き立てる、絶妙極まりない手技。


(ひゃ……っ!? や、やめろ……! 無礼者め、我が神聖なる肉体を気安く触るな……っ!)


心の中で猛然と抗議の声を上げた。

しかし、肉体の反応はあまりにも無様だった。

指先が動くたびに、全身の関節がとろりと溶け、首が勝手にぐうっと上を向いてしまう。顎を突き出し、もっと掻け、そこをもっと強く擦れとばかりに、自分から小娘の手のひらに喉元を押し付けていた。


そして――我が喉の奥から、裏切りの音が響き始めた。


――ゴロゴロゴロゴロゴロ……ッ。


低い、大気を細かく震わせるような、連続した重低音。

猫の喉鳴らし。極上の安心と快楽に浸った獣だけが漏らす、絶対的服従と幸福のサイン。


(ば、馬鹿な……!? なぜ鳴る!? 止まれ、止まるのだ我が喉よ……! 我がこのような小娘に喉を鳴らすなど、千年の恥辱……っ!!)


必死に止めようとすればするほど、小娘の指先から流れ込む浄化の温もりが心地よく、ゴロゴロ音は音量を増していく。

耳は幸せそうに後ろへ倒れ、琥珀色の瞳はトロンと細まり、口の端からは微かにピンク色の舌先がペロッと覗いてしまっていた。


「偉かったねぇ、痛いのによく我慢できたね。とってもいい子ね」


小娘は我の頭を両手で優しく包み込み、額の毛並みに自分の額をこつんと当てた。

人肌の温もり。雨の冷たさを完全に忘れさせる、陽だまりのような匂い。

マノンは嬉しそうに目を細め、我の濡れた黒い耳の付け根を親指で撫でながら、鈴を転がすような声で言った。


「こんなに黒くて、目つきがちょっと鋭くて格好いいんだもの。……今日からあなたの名前は『クロ』ね」


クロ。

またしても、あまりに安直で素朴な響きの名。

冥界獣キマイラたる我に、クロだと……?

だが、小娘の掌から伝わるあまりの心地よさに、反論の言葉など一文字も湧いてこなかった。

もう、どうでもよかった。

傷が痛まず、あのような極上の美味を腹いっぱい食わせてもらえるのなら、クロでも何でも好きに呼ぶがいい。

我は「ふにゃ……」と情けない声を漏らし、マノンのエプロンの裾に自らの頭をすり寄せた。


だが――平和な時間は、唐突に破られた。


スウッ……。


縁側の奥、居間へと続く木製の引き戸が、音もなく数寸ほど開いたのだ。


空気が、一瞬にして凍りついた。

先ほどまでの長閑な雨の気配など消し飛ぶほどの、絶対零度の冷気が、部屋の奥からスッと這い出してくる。


(……ッ!?)


我――クロは、弾かれたようにマノンの膝から飛び退き、身を低くした。

背中の包帯の下で、全身の毛が針のように逆立つ。

この冷気。この肌を切り裂くような神話の波動。

知っている。何百年も昔、極北の霊峰の頂きで一度だけ遠目に見かけたことのある、あの厄災の気配――!


薄暗い居間の隙間から、のっそりと姿を現したのは、純白の毛並みを持つ巨大な猫だった。

金色の双眸。額には気高い神性が宿り、足元からは目に見えるほどの白い霜霧がゆらゆらと立ち上っている。


(き、貴様は……!? 極北の絶対零度を統べる神獣……『霜狼神フェンリル』……ッ!?)


クロの脳内に、警鐘が乱打された。

なぜだ。なぜ北の覇王たるフェンリルが、このような南の山裾の平屋にいるのだ!?

しかも、その姿はどう見ても――我が擬態と同じ、ただの猫の姿に魔力を圧縮しているではないか!


白猫――タマは、縁側へと歩み出ると、冷酷な黄金の瞳でクロを上から見下ろした。

その背後には、大気を凍結させる白銀の巨獣の幻影が、陽炎のようにゆらめいて立ち上っている。


『……新参の野良犬が。我が主の膝元に、泥足で上がり込むか』


言葉など発していない。だが、絶対の冷気を帯びた神獣の意志が、クロの魂へと直接突き刺さる。

クロもまた、負けじと唇を吊り上げ、喉の奥から漆黒の瘴気を滲ませた。


『フン……先に来ていたのが北の毛玉野郎とはな。貴様こそ、その無様な首輪をつけられて調伏されたのか? ここは我の寝床だ、消え失せろ』


白と黒。

極北の天災と、冥界の凶獣。

かつて地上の半分を滅ぼしかけた二大厄災の視線が、古民家の狭い縁側の空間で、バチバチと音を立てて激突した。


その緊迫した空気を破ったのは、割烹着のようなエプロンをつけたマノンの、呑気な声だった。


「あらタマ、起きてきたの? ちょうどよかったわ、雨宿りに来た新しいお友達よ。仲良くしてね」


マノンは二匹の間に割って入ると、両手を広げて屈託のない笑顔を浮かべた。

一触即発の終末の戦場は、彼女の何気ない一言によって、一瞬にして「雨の日の縁側の縄張り争い」へと引き戻されようとしていた。

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