第10話:雨の日の闖入者と、目つきの悪い黒猫
ぽつ、ぽつ、と杉の葉を打つ静かな雨音が、やがて庭の砂利と下草を濡らすしとやかな重奏へと変わっていった。
山裾に訪れたのは、冷たい秋の長雨だった。
晴れた日の青空と鮮やかな木々の緑は、乳白色の深い雨霧の向こうへと姿を消し、古民家の周囲はまるで世界から切り離されたような深い静寂に包まれていた。
軒先から等間隔に落ちる雨垂れが、手水鉢の張られた水面を小さく揺らし、波紋を広げている。庭の土は黒々と湿り気を帯び、立ち上る濡れた草木の青臭い匂いが、秋の冷え込みとともに縁側をかすめていく。
「急に冷え込んできたわねぇ」
マノンは厚手のウールで編まれた大きなショールを肩に羽織り、きゅっと胸元を合わせた。
土間のかまどには熾火が残され、鉄瓶がシュンシュンと細い湯気を上げている。居間の畳の上では、昨晩のポトフを平らげてすっかり満腹になったタマが、座布団の真ん中に丸まって大きな白いアンモナイトのようになっていた。マノンが足を滑らせて近づいても、耳の先をピクリと動かすだけで、規則正しく腹を上下させて幸せそうな寝息を立てている。
午前中のうちに乾物や調味料の整理を終えたマノンは、温かい白湯をすすりながら、縁側の木製引き戸を少しだけ開けた。
雨の日の匂いは嫌いではない。王都の薬舗にいた頃の雨といえば、泥跳ねで汚れる靴や、湿気で固まる粉薬の管理、雨宿りを口実に店先でくだを巻く客の対応など、憂鬱な思い出ばかりだった。
けれど、この静かな平屋で聞く雨音は、張り詰めた神経を優しく撫で下ろしてくれる心地よい子守唄のように響く。
雨足が少し強まり、軒先がサーッと白く煙った。
雨風が吹き込まないよう、引き戸を閉めようと手をかけた――その時だった。
――ふすっ、と。
濡れた小石が擦れ合うような、微かな異音が縁側の端から聞こえた。
「……ん?」
風の悪戯かと思い、マノンは引き戸の隙間からそっと外を覗き込んだ。
平屋の南側に広がるウッドデッキ。その西側の端、ちょうど張り出した軒下で雨露をしのげる、畳半畳ほどの乾いた板張りのスペース。
そこに、「黒い塊」がうずくまっていた。
最初は、風で飛ばされてきた濡れ雑巾かと思った。
しかし、その塊は浅く、けれど激しく波打つように呼吸を繰り返していた。
マノンは目を凝らし、息を呑んだ。
「……猫……?」
それは、一匹の黒猫だった。
だが、その有様はあまりにも痛々しく、見るに忍びないものだった。
秋の冷たい氷雨に打たれた毛並みは、泥と枯れ葉がこびりついてボロ布のように束になり、本来の艶やかな黒さを完全に失っていた。骨が浮き出るほどに痩せ細り、寒さのせいか、それとも苦痛のせいか、全身が小刻みにガタガタと震えている。
何より酷かったのは、その身体に刻まれた傷痕だった。
左耳の先端は何か鋭利なもので引き裂かれたように欠損し、乾きかけの黒い血がこびりついている。
そして、背中から腰にかけて、何かに深く抉られたような三本の太い裂傷が走っていた。傷口は赤く腫れ上がり、冷たい雨水に洗われて白くふやけ、いまにも化膿しそうな危険な状態だった。
(ひどい……! なんて大怪我……!)
マノンは反射的にサンダルを履き、縁側から身を乗り出した。
刺激しないよう、できる限り気配を消し、抜き足差し足でその黒い影へと近づく。
だが、相手は極限の野性を生き抜いてきた獣だった。
三歩手前まで近づいた瞬間、濡れそぼった黒い塊が、弾かれたように顔を跳ね上げた。
「――ッ!!」
マノンは思わず足を止めた。
泥まみれの顔の中央、爛々と光る双眸。
それは、タマの穏やかな黄金色とは似ても似つかない、鋭く研ぎ澄まされた冷酷な琥珀色だった。
瞳孔は極限まで細く引き絞られ、眉間には深い皺が刻まれている。
目つきが悪い、という言葉では到底足りない。この世のすべての生けるものを憎悪し、自らの死角に入った者を例外なく皆殺しにすると言わんばかりの、凄まじい凶刃のような眼光。
「フシャアアアアアアッ……!!」
黒猫はボロボロの身体蓋を軋ませ、背骨を弓なりに曲げて威嚇した。
束になった全身の毛を無理やりに逆立て、唇の端を限界まで吊り上げて、剥き出しの白い牙をマノンへ向ける。
喉の奥から絞り出されたのは、猫の鳴き声とは思えないほど低く濁った、地獄の釜の底から湧き上がるような唸り声だった。
いまにも飛びかかり、喉笛を食いちぎろうとする構え。
普通の人間の娘であれば、その異様な気迫と殺気に腰を抜かし、悲鳴を上げて逃げ出していたはずだった。
だが――マノン・デュランは、十年間王都の大手調剤薬舗の最前線で、修羅場をくぐり抜けてきた元・調剤助手である。
「……野良猫同士の縄張り争いかしら。それとも、大きな野犬にでも襲われたのね」
マノンの声には、恐怖の色など微塵もなかった。
あるのは、傷口の深さと経過時間を冷静に見極める、プロフェッショナル特有の平熱の観察眼だけだった。
(耳の欠損は数日前。でも、背中の裂傷は比較的新しいわね。昨晩から今朝にかけて負ったものだわ。泥と雨水が入って、この寒さ……このまま放置したら、傷口から熱が出て、今夜の冷え込みを越えられない)
マノンは黒猫の鋭い威嚇の目を真っ向から見据えることなく、視線を斜め下へと静かに外した。
両手をだらりと下げ、手のひらを外側に向けて「敵意はない」ことを無言で示す。
「痛かったわね。寒かったでしょう。大丈夫よ、何もしないから」
静かに、低く落ち着いた声で語りかける。
黒猫の威嚇の声が一瞬だけ途切れ、金色の瞳が困惑するように揺れた。
マノンの身体から漂う、あらゆる毒気や興奮を優しく凪がせる「波長ゼロ」の無害な空気。それに触れた黒猫の鼻先が、かすかにピクリと動く。
だが、長年裏切りと闘争の中に身を置いてきた獣の警戒心は、そう簡単には解けない。黒猫は再び「グルルル……」と低く喉を鳴らし、前足の鋭い爪をウッドデッキの板に深々と突き立てた。一歩でも近づけば、その目を切り裂くと言わんばかりに。
「威嚇する元気があるなら、まだ大丈夫ね。……ちょっと待ってて。今、手当の準備をしてくるから」
マノンは黒猫に背を向けず、ゆっくりとすり足で後退し、土間の中へと戻った。
***
台所へ入ったマノンは、即座に行動を開始した。
王都の薬舗で急患が運び込まれた時と同じ、淀みのない無駄のない動き。
まず手にしたのは、脱衣籠から引っ張り出してきた、古い大判のバスタオルだった。
長年の洗濯で表面のパイル地は擦り切れているが、そのぶん柔らかく、吸水性と保温性に優れている。清潔な井戸水で一度固く絞り、かまどの熾火の熱でほんのりと人肌に温めておく。
次に、引っ越しのトランクの底から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな平たい木製の丸容器だった。
蓋を開けると、ふわりと甘く青々とした、野の花と蜜の香りが広がった。
琥珀色に透き通る軟膏――薬舗を退職する際、売れ残りとして特別に譲り受けてきた、特製の『カレンデュラと蜜蝋の傷軟膏』だ。
太陽の光をたっぷり浴びたトウキンセンカ(カレンデュラ)の花弁を純良なオリーブ油に漬け込み、有効成分をじっくり抽出した浸出油。そこに未精製の蜜蝋を溶かし込み、微量のラベンダー精油を垂らして固めたものだ。
カレンデュラには強力な創傷治癒作用と抗菌・抗炎症作用があり、蜜蝋は傷口を水気から保護して皮膚の再生を促す。刺激が極めて少なく、万が一動物が舐めてしまっても無害な、マノンにとってもっとも信頼のおける万能軟膏だった。
「よし。あとは……」
マノンは台所の隅の壺に目を留めた。
昨晩、自分の夕食用に作った魚料理の残り。麓の川で獲れたマスを香草焼きにした際、切り落として残しておいた「頭の付け根と血合いの端肉」が、冷暗所で一切れ保存してあったのだ。
小さな手鍋に少量の井戸水を沸かし、皮を剥いた生姜を一片、包丁の腹で軽く潰して放り込む。
そこへ、一口大に切った魚の血合いを投入した。
ジュワッ、と微かな音とともに、生姜の爽やかな芳香が魚の生臭さを綺麗に包み込んでいく。
ぐらぐらと沸騰させず、沸騰直前の微温湯で優しく火を通す「ポシェ」の技法。
身が硬く締まりすぎるのを防ぎ、魚本来の濃厚な鉄分と脂の旨味を閉じ込める。
表面が白く色づき、芯まで火が通ったところで、小網ですくい上げて小皿に移した。
箸の先で粗くほぐし、人肌までしっかりと冷ます。魚の濃厚なコクと、生姜の微かな清涼感が混ざり合った、動物の本能を強烈に刺激する匂いが立ち上った。
「準備完了ね」
マノンは左腕に温めたバスタオルを抱え、右手に軟膏の容器と、小さな木べらを持った。
居間を通り抜ける際、座布団の上で丸くなっていたタマがふっと顔を上げ、マノンの手元を金色の瞳で見つめてきた。
「タマ、大人しく寝ててね。新しいお友達の手当をしてくるから」
そう耳元で囁くと、タマは何かを察したように耳を伏せ、「ふにゃ」と短く喉を鳴らして再び丸くなった。
***
縁側へ戻ると、黒猫は先ほどと同じ場所で、油断なくこちらを睨みつけていた。
雨足はさらに強まり、風に乗った飛沫が黒猫の濡れた背中を容赦なく打ち据えている。限界だった。前足の踏ん張りが利かなくなり、時折ガクガクと関節が折れそうになっているのが見て取れた。
「寒かったね。もう大丈夫よ」
マノンは腰を深く落とし、黒猫の正面ではなく、斜め後方の死角へと回り込むようにじりじりと距離を詰めた。
黒猫が首をねじり、再び「シャーーッ!」と牙を剥く。
その瞬間だった。
マノンは両手に広げた温かいバスタオルを、躊躇うことなく、黒猫の頭の上からふわりと覆い被せた。
「フギャアアアッ!?」
視界を奪われた黒猫がパニックを起こし、タオルの下で猛烈に身悶えする。
鋭い爪がタオル越しにマノンの腕を引っ掻こうとし、牙が空を噛む。
だが、マノンの手つきは驚くほど冷静だった。
王都の薬舗には、暴れる大型犬やパニックになった猫の投薬を頼まれることが日常茶飯事だった。力任せに押さえつけるのではない。関節の構造を熟知した者だけができる、動物の自由を奪いつつ骨を傷つけない「保定」の技術。
マノンはタオルの端を素早く首の後ろで交差させ、黒猫の身体を両脇から前足ごとしっかりと巻き込んだ。いわゆる「ミノムシ」の形だ。
そのまま、暴れる黒猫を自分の胸と太ももの間に優しく引き寄せ、全体重ではなく、腕の内側の柔らかい肉で包み込むようにしてホールドする。
頭部だけをタオルの隙間から少し出し、首の後ろの皮膚を、親指と人差し指で痛くない程度に広く、深くつまみ上げた。
母猫が子猫を運ぶときに噛む部位――スクラフィング。
その急所を的確に圧迫された瞬間、あれほど激しく暴れていた黒猫の四肢から、ふっと力が抜けた。
「グル……ッ、ニャ……ッ!?」
金色の瞳が信じられないものを見るように見開かれ、口元がワナワナと震えている。
動けない。爪も出せない。噛みつくこともできない。
完全に動きを封じられた黒猫の温もりと、小刻みな心臓の鼓動が、タオル越しにトク、トク、トクとマノンの胸へとダイレクトに伝わってくる。
「よしよし、偉いね。怖かったね。痛いことはしないからね」
マノンは黒猫の額に自分の額を軽く寄せ、温かい息を吹きかけながら優しくささやいた。
そして、空いた右手で素早くタオルの背中側をめくる。
露わになった、三本の痛々しい裂傷。
まずは乾いたガーゼで、傷口の周囲にこびりついた泥と雨水を、擦らずにポンポンと叩くようにして吸い取った。傷口に触れるたび、黒猫の全身がピクンと痛みに跳ねる。
「ごめんね、すぐ終わるからね」
マノンは木製の丸容器から、指先の熱でとろりと溶けたカレンデュラ軟膏をたっぷりとしのばせた。
そして、その指先を、裂傷の溝へと躊躇なく滑り込ませた。
――スゥッ……。
体温で滑らかに伸びた蜜蝋の油膜が、剥き出しの赤い肉を空気から遮断する。
ハーブの清らかな香りが、雨の匂いを押し流すように立ち込めた。
マノンは薬舗時代に培った職人の指先で、傷口の縁を寄せるようにしながら、奥深くまで均一に、分厚く軟膏を塗り込んでいく。
傷口に触れられているはずなのに、激痛は走らなかった。
それどころか、マノンの指先から放たれる絶対零の浄化波動が、カレンデュラの薬効と溶け合い、傷口で燻っていたズキズキとした灼熱感を、まるで冷たい清流で洗い流すかのように鎮めていったのだ。
「グル……ル……?」
黒猫の喉から漏れる唸り声が、次第に低く、弱々しいものへと変わっていく。
耳の先端の欠損部にも丁寧に軟膏を塗り込み、最後に清潔なリネン布を細長く裂いた包帯を、胴体に二重に優しく巻きつけて結んだ。
手当てにかかった時間は、わずか二分足らず。
完璧な処置だった。
「はい、おしまい。よく頑張ったわね」
マノンは保定を解き、黒猫をくるんでいたバスタオルをゆっくりと緩めた。
自由になった黒猫は、即座に飛び退くかと思われた。
しかし――黒猫は動かなかった。
タオルの上に前足を揃えて座り込んだまま、自らの背中を信じられないといった様子で振り返り、そして、ゆっくりとマノンを見上げたのだ。
痛みが、ない。
骨まで灼けつくようだった裂傷の痛みが、跡形もなく消え去っていた。
黒猫の金色の瞳が、驚愕と、底知れぬ混乱に大きく見開かれている。
そこへ――。
「お腹も空いているでしょう? これ、食べてみて」
マノンが台所から持ってきたばかりの小皿を、黒猫の目の前の板の上に、コトリと置いた。
湯気がふわりと立ち上る。
生姜と一緒にさっと塩茹でされた、マスと魚肉の血合い。
人肌に冷まされたその小皿から漂うのは、極限まで血抜きされた澄んだ魚のコクと、野生の獣の胃袋を芯から鷲掴みにする、暴力的なまでに芳醇な「命の匂い」だった。
黒猫の鼻先が、ピクンと激しく跳ね上がった。
喉の奥から、ごくり、と唾液を飲み込む重たい音が、雨音に混ざって響いた。




