第9話:神々の晩餐と、満腹の寝息
その苦痛は、気の遠くなるような悠久の昔から、途切れることなく魂の芯を灼き続けていた。
我は『霜狼神フェンリル』。
かつて天地開闢の折、極北の果てに生み落とされ、触れるものすべてを絶対零度で凍結させる神話の天災。神々の書に刻まれしその名は、人間にとってはただ畏怖と絶望を呼び起こす象徴にすぎない。
だが、その神格の裏側にどれほどの地獄が巣食っていたかを知る者は、この地上のどこにもいなかった。
――熱いのだ。
氷雪を司るこの身の内で、何千年もかけて澱のように堆積した膨大な過剰魔力。行き場を失ったそれは濁った瘴気熱へと変じ、我が骨を、血を、脳髄を、内側から激しい業火で炙り続けていた。
頭蓋の内側を錆びた楔で乱打されるような、絶え間なき拍動。
喉を掻きむしりたくなるような、乾いた渇き。
かつて我が一つの古代王国を滅ぼしたのも、人間への憎悪などではない。あまりの頭痛に理性を失い、ただこの内なる熱を冷ましたくて暴れ狂った結果にすぎなかった。数千年間、極北の氷壁に我が身を封じていたのも、凍りつく冷気だけが、狂気をわずかに麻痺させてくれたからだ。
だが、目覚めた世界は温暖に傾き、頭痛は限界を迎えていた。
血を吐くような衝動に駆られて霊峰を越えた時、南の山裾からふわりと風に乗って届いたのだ。
あれは、何だったのか。
すべての魔力毒を優しく包み込み、無へと還す、どこまでも清らかな絶対零の気配。
渇きに狂った獣が水場を求めるように、我は理性をかなぐり捨てて山を駆け下り――あろうことか、あの鋭い棘を持つ柊の生垣に頭から突っ込み、身動きが取れなくなった。
無様であった。神獣としての誇りなど微塵も残らぬ醜態。
だが、その我を救い出したのは、なんの防具も魔力も持たぬ、華奢な人間の小娘だった。
小娘の体から放たれる気配は、触れるだけで我の内なる業火を鎮めた。針ブラシによる梳毛は、皮膚に詰まった古い魔力毛をこそぎ落とし、我が魂を蕩けさせた。
そして――今。
我は、古民家の土間の片隅に四肢を揃えて座り、ただひたすらに、かまどの上で揺れる小鍋の湯気を見つめていた。
「タマ、もうちょっとだからね。ちゃんと冷ましてあげるから待っててね」
小娘――マノンが、慈愛に満ちた柔らかな声で我を呼ぶ。
タマ。……かつていかなる神魔も、我をそのような軽薄極まりない音で呼んだことはなかった。だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、その名が彼女の薄い唇から零れ落ちるたび、耳の奥に心地よい風が吹き抜けるような安らぎを覚えるのだ。
マノンは厚手の布で小鍋の柄を掴み、中から湯気を立てる肉の塊を素朴な平皿へと引き上げた。
あの木箱に入っていた、極上の熟成肉。
本来なら塩と香草で強く味付けされているはずのそれを、マノンは真水で何度も茹でこぼし、余分な塩分を完全に抜き去っていた。
作業台の上で、マノンの細い指先が器用に動く。
刃物は使わない。指先で、茹で上がった肉の繊維を一本一本、細かく細かく裂いていく。肉の熱さに「あちっ」と小さく耳朶をつまみながら、それでも妥協することなく、一口大の柔らかな山を作っていくのだ。
「はい、お待たせ。……でも、まだ食べちゃダメよ。猫舌なんだから」
マノンは平皿を土間の床に置くと、自らも床に膝をつき、皿の上に顔を近づけた。
そして、ふっくらとした唇をすぼめると――。
「フーー……ッ、フーー……ッ」
優しく、息を吹きかけ始めた。
立ち上る白い湯気が、マノンの吐息によって柔らかく散り、皿の上の肉を撫でていく。
我が金色の瞳は、その光景に釘付けになった。
(ば、馬鹿な……ッ!?)
我は息を呑んだ。
ただの息ではない。マノンが「フーフー」と吐き出すその吐息には、彼女の特異体質である『波長ゼロの絶対中和波動』が、純度百パーセントの状態で濃縮されていた。
吹きかけられるたびに、肉の繊維に宿る熱のトゲが消え、代わりに世界でもっとも清らかな浄化の霊気が、肉の脂の隙間という隙間に染み渡っていくのが視覚的に見えた。
神獣フェンリルにとって、それはもはや料理ではない。
太古の神々ですら調合し得なかった、魂の解毒剤の精製儀式そのものだった。
「よし、これくらいなら大丈夫ね。お待たせ、タマ。おあがり」
マノンが優しく微笑み、皿を我の足元へと押し出す。
我は喉を一度ごくりと鳴らし、恐る恐る、鼻先を皿へと近づけた。
肉の香りが、鼻腔を打つ。
塩分は抜かれているというのに、熟成牛の深みのある甘やかな脂の香りと、ほんのり移った生姜の清涼な気配。
我は舌先を伸ばし、一片の肉を口の中へと運んだ。
――ッ!!!!
その瞬間、我の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。
(う、美味い……ッ!! なんだ……なんなのだ、これは……っ!?)
歯を立てる必要すらなかった。
舌の上に乗せた瞬間、ほろほろと繊維がほどけ、濃厚な肉の滋味と甘い脂が、ジュワッと口内いっぱいに広がっていく。
だが、真の衝撃はその後に訪れた。
咀嚼し、嚥下した瞬間――胃の腑に落ちた肉の塊から、眩いばかりの浄化の波動が爆発したのだ。
ドクンッ、と我が心臓が跳ねた。
数千年間、頭蓋の奥で鳴り止まなかったズキズキとした激痛。骨を灼き、魂を狂わせていた濁った瘴気の熱が、まるで真夏の炎天下に降り注いだ奇跡の冷雨のように、一瞬にして洗い流されていく。
スーッと、視界が晴れ渡っていく。
重く濁っていた血液が、清涼な山の湧き水のようにサラサラと全身を駆け巡る。
(頭痛が……消えた……? あ、頭が痛くない……! 体が、信じられぬほど軽い……ッ!!)
我は我を忘れた。
神獣の矜持など、もはや一片の欠片すら残っていなかった。
ガツガツ、ガツガツッ!
皿に顔を突っ込み、夢中で肉を貪り食う。舌を器用に巻き込み、山盛りの肉を掃除機のような勢いで胃袋へと収めていく。美味い、美味い、美味すぎる。ただ腹を満たすだけではない、命そのものが癒やされ、再生していく歓喜。
あっという間に肉を平らげると、皿に残った微かな脂の跡、肉汁の一滴に至るまで、ザリ、ザリと音を立てて舐め尽くした。
陶器の皿は、まるで新品のようにピカピカに磨き上げられていた。
「ふふっ、そんなに急いで食べなくても誰も取らないのに。お腹いっぱいになった?」
マノンの柔らかな笑い声が頭上から降ってきた。
我は皿から顔を上げ、小さく息を吐いた。
ゲフッ、と情けない満腹の音が喉から漏れ出そうになり、慌てて飲み込む。
腹の底から、ぽかぽかとした心地よい温もりが広がっていた。全身の毛並みという毛並みが、生き生きとした霊力を取り戻して輝いている。
だが、その霊力を誇示する気など毛頭起きなかった。
ただ、この満ち足りた幸福感に身を委ね、眠りたかった。数千年ものあいだ、頭痛に怯えることなく眠れた夜など一度としてなかったのだから。
マノンは空になった皿を片付けると、自らのポトフを持って縁側へと移動した。
秋の光が差し込む縁側で、彼女は美味しそうにスープを平らげ、やがて古い麻布を広げて針仕事を始めた。
チク、チク、と針が布を貫く微かな音。
トントンと足をぶらぶらさせる、マノンの規則正しいリズム。
縁側の板の上には、秋の陽だまりがぽっかりと温かい金色の絨毯を作っていた。
我は吸い寄せられるように、縁側へと歩み寄った。
四肢に力を込め、トン、としなやかに縁の上へと飛び乗る。
そして――何のためらいもなく、針仕事をするマノンの膝の上へと、自らの巨大な体をどっしりと預けた。
「わ……っ、ちょっとタマ、重いわよ?」
マノンが驚いたように針を止め、苦笑いを漏らす。
当然だ。我の姿は擬態しているとはいえ、骨格の密度は神獣そのもの。米袋並みの重量が、彼女の細い大腿の上に乗っかっているのだから。
だが、我は退かなかった。
それどころか、前足を器用に折り畳んでマノンの太ももの上にしまい込み、長い白銀の尻尾を自らの体にくるりと巻きつけ、頭をマノンの下腹部にぎゅっと押し込んだ。
マノンの着ている麻のエプロンからは、先ほどまで煮込んでいたポトフの甘い匂いと、日だまりの干し草のような、そして何より我が魂をもっとも安らぎへと導く「無害の芳香」が立ち込めていた。
「もう……甘えん坊さんねぇ」
マノンはあきらめたように息を吐くと、片手で針を持ち直しながら、空いた左手で我の耳の後ろを優しく掻き始めた。
爪の先で、痒いところにピタリと届く絶妙な力加減。
我の喉の奥から、勝手に音が漏れ出してしまう。
「グルルルルル……ゴロゴロゴロゴロ……ッ」
大地を微かに揺らす、満ち足りた重低音。
針仕事の布地が、我の背中の上にふわりと掛けられる。まるで温かい毛布のように。
チク、チク、チク。
頭上で響く、針と糸の規則正しい擦過音。
マノンの胸の鼓動が、背中越しにトックン、トックンと一定のリズムで伝わってくる。
あたたかい。
生まれて初めて知る、絶対的な安全と安らぎ。
金色の双眸が重力に耐えかねてゆっくりと閉じられ、我は深く、どこまでも深い、至福の眠りへと落ちていった。
***
――ズズッ、ズズズッ。
古民家から直線距離で百五十メートル。
鬱蒼とした雑木林の奥、冷たい岩肌に腹ばいになった辺境警備隊の特務斥候兵・カレルは、恐怖のあまり失禁しそうな股間を必死に引き締めながら、軍用遠眼鏡のピントをミリ単位で調整していた。
ギルバート隊長より下された極秘任務はただ一つ。
『早朝に納品した木箱の動向を監視し、調停者の反応を克明に記録せよ』。
もし調停者が貢ぎ物を不快に思い、破棄したならば、領地は即座に滅亡へのカウントダウンを始める。全領民の命運が、カレルのこの双眸にかかっていた。
遠眼鏡の円形視界の中。
カレルが見たのは、常軌を逸した「盟約の儀式」だった。
(ひ、神獣が……食らっている……!)
カレルは震える手で、懐から取り出した羊皮紙の野戦記録帳に木炭の鉛筆を走らせた。芯が震えて、文字が波打つ。
『状況報告:早朝納品せし白毛牛の熟成肉、調停者の手により素焼きの祭壇(※ただの深皿)へ供出さる。調停者は神獣の前に跪き、肉に謎の吐息結界(※冷ますためのフーフー)を吹きかけ、不可侵の呪を定着せしむ』
遠眼鏡の先では、あの世界を滅ぼす災厄の神獣が、飢えた悪鬼のように肉を貪り食っていた。
神獣が人間の差し出した肉を、血の一滴、肉汁の一筋すら残さず舐め尽くしている。
これは何を意味するのか。
古代の契約術式において、供物を完食することは「供出者の誠意を受け入れ、休戦協定を一時的に承認した」ことを意味する。辺境領主館の蔵から差し出された最高級肉は、神獣の胃袋へと無事に納められたのだ。
(受け取られた……! 領主代行ローラン様の策は当たったのだ……!)
カレルは安堵のあまり涙ぐみそうになった。
だが、その直後に繰り広げられた光景に、カレルの血管は再び凍りついた。
供物を平らげた神獣が、素朴な衣服を纏った調停者の後を追い、縁側へと跳躍。
そして――調停者の膝の上へと、その白銀の巨躯を鎮座させたのだ。
「なっ……!?」
カレルは思わず遠眼鏡から目を離しかけた。
調停者は眉一つ動かさず、膝の上の神獣を軽くあしらうと、何やら布に呪詛の針(※ただの針仕事)を打ち込み始めた。
そして神獣は――。
調停者の下腹部に顔を埋め、背中に呪布を被せられ、喉から地響きのような低周波を響かせながら、丸くなって眠りについたのだ。
時折、調停者の細い指先が神獣の耳の裏を撫でる。
そのたびに神獣の口元からツゥと涎が垂れ、完全に脱力した寝息が森の奥まで微かに響いてくる。
カレルの背筋を、氷のような戦慄が駆け抜けた。
(神話の天災が……膝の上で眠っている……!? あのような無防備な姿を、人間の前で晒すことなどあり得ない……! 完全に魂を明け渡している……! あれは……契約完了の証だ……!!)
カレルは狂ったように木炭鉛筆を走らせた。筆圧が強すぎて、羊皮紙が破れそうになる。
『至急報! 至急報!
霜狼神フェンリル、我らが献上せし肉の供物を完食。
直後、調停者の膝上へと身を委ね、絶対服従の盟約を締結せり。
現在、フェンリルは調停者の膝の上にて完全なる休眠状態に移行。調停者は神獣を膝に乗せたるまま、平然と呪具の縫製を継続中。
繰り返す、契約は完了せり。我らの領地は、紙一重のところで神の怒りを免れたり――!』
カレルは記録帳を胸元に叩き込むと、神獣の安眠を絶対に乱さぬよう、息を殺して地面を這いずり、後方へと後退を始めた。
秋の柔らかな日差しが、縁側を穏やかに包み込んでいる。
マノンは、膝の上のずっしりとした重みと、規則正しい温かな寝息に口元を綻ばせながら、チクチクと針を動かし続けた。
「ふふ、タマったら、本当によく寝る子ねぇ」
世界を揺るがす絶対の契約など露知らず、マノンは幸せそうに目を細め、どこまでも長閑な山裾の空に、小さくあくびをこぼすのだった。




