第八話 メモは、だいたい一日を狂わせる
朝から妙に落ち着かなかった。
理由は自分でもわかっている。
昨日の帰り道。
副部長との会話。
あの「今さら?」が頭から離れない。
そのせいで、教室に入った瞬間、僕は完全に油断していた。
「……あ」
席に着こうとして、止まる。
僕の机の上に、小さなメモが置いてあった。
放課後、少し時間ある?
短い字。
でも綺麗な筆跡。
差出人の名前はない。
けれど、なんとなくわかった。
視線を上げる。
窓際。
今村さんが外を見ていた。
……たぶん。
たぶん、これだ。
心臓がうるさい。
絵島が横から覗き込む。
「何だそれ」
「……メモ」
「見ればわかる」
「……」
絵島は窓際をちらりと見た。
「ああ」
「何その反応」
「ようやく来たなって感じ」
「何が」
「お前、ほんと鈍いな」
「お前までそれ言うのか」
そこへ、ナールが教室へ入ってくる。
眼鏡の位置、今日も完璧。
「おはようございます」
僕の机のメモを見る。
「進展ですね」
「お前は黙ってろ」
「統計的には自然です」
「だから分析やめろって」
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
今村さんのメモ。
何の話だろう。
昨日のこと?
視線のこと?
まさか怒ってる?
いや、怒ってる可能性はある。
でもメモで呼ぶほど?
いろいろ考えすぎて、三時間目の数学で一度も黒板を見なかった。
ナールに
「竹内さん、本日の集中率は通常比四十パーセント低下です」
と小声で言われた時は、さすがに少し腹が立った。
放課後。
第九話 今村さんの本音は、だいたい短い
指定されたのは、旧校舎裏の小さな渡り廊下だった。
人が少ない。
静か。
窓から夕方の光が入る。
こういう場所ばかり、この学校はやけに絵になる。
そこに、今村さんがいた。
窓際に立って、外を見ている。
僕が近づくと、ゆっくりこちらを向いた。
「……来た」
「う、うん」
沈黙。
僕の方が先に耐えられなくなる。
「……何か、怒ってる?」
今村さんが目を丸くした。
「何で」
「いや……」
言いづらい。
「なんか、見られてる気がして」
一瞬の沈黙。
それから。
今村さんが、少しだけため息をついた。
「……やっぱり」
「え?」
「そう思ってたんだ」
「……うん」
今村さんは窓の外を見た。
校庭。
夕方の木。
金色の鳩が二羽。
もう日常の景色になりつつある。
「怒ってない」
小さな声だった。
「じゃあ」
「見てたのは」
一拍。
「……見てた」
僕の心臓が止まりそうになる。
「……え」
今村さんは視線を逸らした。
「だって」
その言い方が、少しだけ拗ねたように聞こえた。
「最近、ずっと副部長といるから」
完全に思考が止まった。
「……え?」
「朝も」
「……」
「帰りも」
「……」
「写真も」
「……」
これは。
これは。
どういう意味だ。
僕が固まっていると、今村さんが眉を寄せた。
「……やっぱり鈍い」
その瞬間、後ろから声。
「竹内さんは鈍いですから」
「うわ!」
振り返る。
ナールがいた。
何でいる。
「何でいるんだよ!」
「旧校舎の夕方の光量変化を観測しています」
「絶対違うだろ」
ナールは平然と言う。
「今村さんは、竹内さんが外を見ている時の横顔を見ていました」
沈黙。
今村さんがナールを見る。
頬が赤い。
「……言わないで」
「事実です」
「ナール!」
僕が叫ぶ。
今村さんは俯いて、それから小さく言った。
「……綺麗だったから」
また思考が止まった。
「……え」
「外、見る時」
「なんか、ちゃんと見てるから」
それだけ言って、今村さんは視線を逸らした。
夕方の光が横顔に当たって、少し赤く見えた。
僕はたぶん、何か言うべきだった。
言葉が出てこない。
その時。
渡り廊下の向こうから、副部長の声。
「竹内ー?」
終わった。
僕は振り返る。
副部長がこちらへ歩いてくる。
今村さんが一瞬だけ表情を引き締めた。
空気が変わる。
副部長は僕と今村さんを見て、すべてを察したような顔をした。
「……ああ」
その“ああ”やめてほしい。
「邪魔した?」
「いえ」
今村さんが先に答えた。
「ちょうど終わったところ」
そう言って、静かに去っていく。
すれ違いざま。
ほんの少しだけ。
今村さんが僕を見た。
その視線の意味は、たぶん昨日までとは少し違っていた。
今村さんが去ったあと、渡り廊下には妙な静けさだけが残った。
夕方の光。
窓に映る校舎。
遠くで鳴る部活の声。
そして。
副部長――桐島先輩の、ものすごくわかりやすい視線。
「……何ですか」
「別に?」
「その“別に”は絶対別にじゃないですよね」
副部長は腕を組んだ。
「で?」
「……はい?」
「何話してたの」
また直球だ。
この人はたまに、変に遠回しな僕と正反対すぎる。
「えっと」
言いづらい。
でも言わないと、たぶんもっと面倒になる。
「……見てたって」
「何を」
「僕を」
副部長の眼鏡の奥の目が少しだけ細くなる。
「へえ」
来た。
この“へえ”は危険なやつだ。
「いや、そういう意味じゃ」
「どういう意味?」
「それがわかんないんですよ」
「でしょうね」
即答だった。
ナールが横から小さく言う。
「竹内さんの処理能力には限界があります」
「お前はいつまでいるんだよ」
「光量変化の観測中です」
「絶対違う」
副部長は笑った。
「まあ、でも」
一拍。
「よかったじゃない」
「何がです?」
「あんた、ちゃんと見られてたのね」
その言い方が、意外だった。
「……先輩」
「何」
「怒らないんですか」
副部長は一瞬だけ目を丸くして。
それから吹き出した。
「何で私が怒るのよ」
「いや……」
「何、私が嫉妬すると思った?」
心臓が止まりかけた。
「……」
「その顔」
「……」
「図星ね」
「違います!」
違うとも言い切れない。
副部長は少し歩き出した。
僕も自然についていく。
この流れも、もう当たり前になってきている。
「ねえ」
「はい」
「あんた、誰が好きなの」
今度こそ心臓が止まった。
「……え」
「今村さん?」
「……」
「七瀬さん?」
「……」
「それとも」
一瞬。
副部長がこちらを見る。
「私?」
言葉が出ない。
ナールがぼそっと言う。
「竹内さん、完全停止しました」
「実況するな!」
副部長は少しだけ笑った。
でも。
その笑い方が、ほんの少しだけいつもと違う気がした。
柔らかいのに、どこか探るような。
僕は正直に答えるしかなかった。
「……わかりません」
副部長は数秒黙っていた。
「……そう」
それだけ。
でも、その“そう”の中に、少しだけ寂しさみたいなものが混じった気がした。
気のせいだろうか。
昇降口を出る。
空はもう夕焼けだった。
街路樹の枝に、金色の鳩がまた一羽増えている。
その下で。
「竹内様!」
コンロボ型インフラ管理ロボが待機していた。
「お前は本当に何なんだよ」
「精神的支援です!」
「インフラやれ」
「完了済みです!」
副部長が小さく笑う。
「ほんと、あんたの周りは退屈しないわね」
「望んでないです」
「でも」
一拍。
「私も、結構好きよ」
思考が止まる。
「……え」
「この感じ」
そう言って、先輩は空を見上げた。
金色の鳩。
銀色の点。
コンロボ。
僕。
「何か起きそうで、でも大したこと起きない感じ」
「……」
「でも」
少しだけ、先輩の声が柔らかくなる。
「あんたがいると、なんか、ちゃんと日常になる」
胸の奥が少し熱くなる。
何か言いたい。
また言葉が出てこない。
その時。
コンロボ型が胸ランプを明滅させた。
「竹内様の心拍数が急上昇しています」
「お前は黙ってろ!」
副部長が吹き出した。
その笑い声が、夕方の風の中に少しだけ長く残った。
僕はふと思った。
世界では、黄金の鳩だとかUFOだとかで騒いでいる。
でも今の僕にとって大事なのは。
その全部より、この帰り道の方かもしれない。
そんなことを考えてしまった。
その週の土曜日。




