第9話「完全なる断罪」
「動くな。公爵閣下ならびに公爵夫人への加害未遂、および不敬の現行犯である!」
騎士団長の怒号が、客間の空気を震わせた。
開け放たれた扉から雪崩れ込んできたのは、銀の甲冑を纏ったカーライル公爵家専属騎士団と、武装した近衛兵たちだった。
踏み込みと同時に抜かれた白刃が、初夏の光を浴びて冷たく煌めく。
「ぎゃっ……!?」
私へと振り下ろされようとしていたジュリアンの右手は、大股で踏み込んだ騎士団長の剛腕によって空中で捕らえられ、そのまま無慈悲にねじり上げられた。
骨がきしむ鈍い音とともに、ジュリアンのみすぼらしい身体が絨毯の上へ叩きつけられる。
「痛い! 痛いっ! 放せ、無礼者め! 僕はヴァレンタイン侯爵家の嫡男だぞ!」 「黙れ、反逆人」
騎士たちの列を割り、歩み出てきたヴィンセント様の冷徹な声音に、ジュリアンの叫びが喉の奥で引き攣った。
ヴィンセント様の氷灰色の瞳は、絶対零度の冷気を宿していた。 その双眸に射抜かれただけで、ジュリアンは声を失い、恐怖で歯の根をガチガチと鳴らし始める。
上位貴族たる公爵が放つ本物の威圧。 それは、口先だけのプライドで生きてきた下位の男が、決して耐えきれるものではなかった。
「閣下……! ち、違うのです、これは誤解で……!」 「何が誤解だ」
ヴィンセント様はジュリアンを見下ろすことすら汚らわしいとばかりに、冷たく視線を切った。
「監察官、入れ」
ヴィンセント様の合図とともに、廊下から貴族院法務局の監察官と、王宮憲兵隊長が揃って足を踏み入れてきた。
手には、王室と貴族院の二重の封蝋が施された、重々しい羊皮紙が握られている。
「貴族院軍事査問委員会、ならびに法務局監察部より公式の処分を通達する」
監察官の無機質な声が客間に響き渡る。
「ジュリアン・ヴァレンタイン。貴殿が紛失した『近衛機密軍事予算公文書』は、貴殿の邸内にてマリア・ローウェンにより破棄された形跡を確認した。国家機密文書管理法違反、ならびに重大なる職務怠慢により、本日付で近衛文官補佐を【懲戒免職】とする」
「め、免職……っ!?」
「さらに」
監察官は容赦なく言葉を重ねた。
「事前の通告なき公式エスコートの放棄、未婚での下位身分との同棲による家門の品位汚濁。貴族院法務局令第十四条に抵触するこれらの重大な背信行為に対し、ヴァレンタイン侯爵家現当主より、貴殿の【廃嫡届】が受理された」
「は……? は、廃嫡……? 父上が……僕を……?」
ジュリアンは血の気を完全に失い、白目を剥きかけた。 侯爵家の跡取りという、彼を支えていた唯一の足場が、完全に消滅した瞬間だった。
「身分を剥奪された貴殿は王都より追放、北方の寒村への永久幽閉が決定した。また、ランカスター伯爵令嬢に対する名誉毀損および契約不履行の損害賠償として、金貨三千枚の慰謝料支払いを命ずる」
「さ、三千枚……!? そんな金、あるはずが……!」 「払えぬ分は、鉱山での強制労働によって生涯をかけて弁済していただく」
憲兵隊長の冷酷な宣告に、ジュリアンは床に額を擦り付け、ガタガタと震えることしかできなかった。
そして、監察官の視線が、部屋の隅で震えていたマリアへと向けられた。
「ローウェン男爵令嬢マリア」 「ひっ……! わ、私、マリアは何も知りませんわ! 全部ジュリアン様が……!」
「身分統制法違反。下位貴族の身でありながら上位貴族の婚約関係へ不当に介入し、公の場にて誹謗中傷を行った罪。さらには侯爵邸内の財物を損壊・不法占拠した損害賠償責任を認定した」
監察官が冷ややかに告げる。
「貴女を社交界より【永久追放】とする。また、ジュリアン殿への慰謝料請求における連帯債務者として指定された。負債総額はローウェン男爵家の全資産を上回り、同家は本日付で【破産・爵位返上】、平民へと降格の上、王都からの退去が執行される」
「嘘……嘘よぉぉぉっ!」
マリアが絶叫した。 贅沢な暮らしを夢見て侯爵嫡男に寄生した末路が、自らの実家をも道連れにした完全な破滅。
その時、客間の窓の外から、けたたましい怒号が聞こえてきた。
『マリア・ローウェンを出せ! ドレス代の金貨五十枚を今すぐ払え!』 『宝石の代金はどうした! 男爵家が破産したそうじゃないか! 耳を揃えて返せ!』
公爵邸の正門の外に押し寄せていた、高級商店の債権者たちの叫び声だった。 逃げ場のない現実を耳にした瞬間、マリアの顔から表情が抜け落ちた。
「あ……あ、あ……」
マリアの股間から、じわりと液体が絨毯へと染み出していく。 耐え難い恐怖と絶望に失禁した彼女は、白目を剥いてその場にバタリと卒倒した。
「マリア……!? う、嘘だろ……!?」
憲兵の手によって冷たい鉄の手錠をはめられたジュリアンが、床を這いずりながら、狂ったように私を見上げてきた。
「エレナ! エレナ、僕が悪かった! 頼む、許してくれ!」
かつての傲慢な面影は微塵もなく、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにした男が、私の足元にすがりつこうと手を伸ばす。
「僕が悪かった! 君の言う通りだ、屋敷を片付けてくれ! あの書類を探してくれ! 君がいなきゃ駄目なんだ! 何でもする、君の奴隷にでもなるから、僕を元に戻してくれぇぇっ!」
見苦しい絶叫が客間に木霊する。 だが、その濁った瞳の中にあるのは、私への謝罪などではない。ただ自らの破滅から逃れたいという、浅ましい自己保身だけだった。
「連れて行け」
ヴィンセント様の低く冷徹な命令が下る。
「エレナ、エレナぁぁぁっ!」
号泣し、暴れるジュリアンは、屈強な憲兵たちに両脇を抱えられ、引きずられるようにして連行されていった。
卒倒したマリアもまた、憲兵の手によって無造作に運び出されていく。
バタン、と重厚な樫の扉が閉ざされた。 耳障りな狂乱が消え去り、部屋には再び、穏やかな静寂が戻ってきた。
◇
南向きの窓から、柔らかな風が吹き込んできた。 カーテンが優しく揺れ、庭園の百合の香りが部屋を満たしていく。
悪意と澱みが完全に排除され、空間は本来の澄み切った調和を取り戻していた。
胸の奥に澱んでいたすべての重荷が、綺麗に溶け去っていくような感覚。 私の技術を踏みにじった者たちは、法と自らの愚かさによって、例外なく裁かれたのだ。
すっ、と。 背後から温かな気配が近づいてきた。
振り返る暇もなく、逞しい両腕が私の身体を後ろからそっと包み込んだ。
「……エレナ」
ヴィンセント様の低く掠れた声が、私の耳元に落ちる。 彼は私の肩に顔を寄せ、その首筋へと深く顔を埋めた。
はぁ、と。 温かく熱い吐息が、私の肌を震わせる。 まるで、宝物を奪われかけた子供が、ようやくそれを取り戻した時のような、深い深い安堵の吐息。
「怖くはなかったか」 「……閣下がいてくださると、信じておりましたから」
至近距離で伝わってくる彼の心臓の鼓動。 私を守るために激しく脈打っていたその熱は、いまや穏やかに私の背中を温めていた。
この人は、私の技術だけでなく、私という存在のすべてを命がけで守ってくれた。 その真実が、私の心の最後の鍵を、カチャリと開けた。
私は躊躇うことなく、自らの腕を持ち上げた。 背後から抱きしめてくる彼の腕の上に、そしてその広い背中へと、そっと手を回す。
ぎゅっ、と。 初めて、私の方から、彼を抱き締め返した。
「エレナ……?」
驚いたように息を呑むヴィンセント様の背中に、私は顔を寄せ、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます、ヴィンセント様。……私を、救ってくださって」




