第10話「光の満ちる家」
硝子張りの温室テラスに、初夏の柔らかな陽光がたっぷりと降り注いでいた。
白大理石の床には、木枠の幾何学模様が涼やかな影を落としている。
南側の引き戸から吹き込むそよ風が、テラスに並べられた鉢植えの白薔薇とラベンダーを優しく揺らしていた。
過剰な熱気を逃がす天窓の角度、心地よい風の抜け道、そして植物の葉擦れの音。 すべてが人の神経を鎮め、呼吸を深くするために計算され尽くした空間だった。
かつて冷え切り、光を拒絶していたあの幽霊屋敷の面影は、いまやどこにもない。 屋敷の隅々にまで清らかな風が巡り、温もりと安らぎが満ちていた。
「閣下、エレナ様。王都より公報が届いております」
銀のトレイを携えた家令のエドワードが、晴れやかな足取りでテラスへと現れた。 トレイの上には、貴族院の公式印が押された日報が載せられている。
「中央広場の掲示板に、先の査問結果が正式に貼り出されたとのことです。ジュリアン殿の侯爵家廃嫡ならびに北方寒村への幽閉、およびローウェン男爵家の破産と爵位剥奪、王都追放……」
エドワードの報告に、私は静かに耳を傾けた。
「広場には多くの貴族や市民が集まり、口々に『自業自得だ』『国家の要職にありながら私欲に溺れ、機密を破棄した男の当然の末路だ』と嘲笑していたそうでございます。また、男爵令嬢に媚びて屋敷の管理を怠った侯爵邸の使用人たちも、全員が懲戒解雇となり、ギルド推薦状を剥奪されたため二度と貴族邸へは雇われないとのことです」
完璧なまでの因果応報だった。 私を冷遇し、その誇りを踏みにじった者たちは、法と自らの過失によって完全に社会から退場させられた。
胸の中にあった冷たい澱みは、初夏の風に吹かれて綺麗に消え去っていた。
「下がってよい、エドワード」
ヴィンセント様の静かな声に、エドワードは深く頭を下げてテラスを退出していった。
◇
温室テラスには、私とヴィンセント様の二人だけが残された。
白く塗られた鋳鉄のテーブルの上。 そこには、二通の書類が置かれていた。 一通は、あの王宮夜会の夜に交わした、黄ばみかけた羊皮紙――「契約結婚の合意書」。
そしてもう一通は、先ほど貴族院法務局より届けられたばかりの、金箔で縁取られた「正式な婚姻誓約書」だった。
風が吹き抜け、羊皮紙の端をカサリと揺らす。
「エレナ」
テーブルを挟んで向かい合っていたヴィンセント様が、私の名を呼んだ。 その氷灰色の瞳には、吸い込まれそうなほどの深い慈しみが宿っている。
「君のおかげで、この屋敷は生まれ変わった。……いや、屋敷だけではない。暗闇の中で頭痛に苛まれ、人を拒絶し、ただ耐えるだけだった私の人生そのものが、君の光によって救われたのだ」
ヴィンセント様は、自らの手元にあった「契約結婚の合意書」を指先で引き寄せた。
「あの夜、私は君の才を求め、君をあの男から守るために契約を結んだ。だが……今の私の心にあるものは、利害の一致などという冷たい言葉ではない」
彼の長い指先が、契約書の両端を掴む。
びり、と。 乾いた音が、静かなテラスに響いた。 私を縛り、同時に守ってくれていた契約の紙が、二つに引き裂かれる。
「ヴィンセント様……」
「私は、君を愛している」
迷いのない、剥き出しの言葉だった。 至近距離から注がれる熱い告白に、私の心臓が激しく跳ね上がる。
「契約の妻としてではなく、私の生涯唯一の伴侶として、私の隣にいてほしい。……君を、一人の女性として、私のすべてを懸けて愛し抜きたいのだ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。 かつて受けた「出しゃばり悪女」という罵倒。 尽くしても報われず、成果を奪われ、捨てられたあの夜の痛み。
それらの古傷が、彼の言葉によって、今度こそ完全に癒やされていくのを感じた。
私なんかが公爵夫人に相応しいのだろうかという躊躇いは、もうどこにもなかった。
この人は、私の技術を信じ、私の誇りを守り、何より私自身を心から必要としてくれている。
「……喜んで、お受けいたします」
私の唇から、確かな微笑みとともに言葉が零れ落ちた。
「私も、貴方をお慕いしております。ヴィンセント様」
ヴィンセント様が目を見張り、それから泣き出しそうなほど愛おしげに顔を綻ばせた。
私は羽ペンを手に取り、金箔の婚姻誓約書へと向かい合った。 インクを浸し、迷いのない筆跡で、自らの名を署名する。
続いてヴィンセント様がペンを受け取り、私の名前のすぐ隣に、力強い筆跡で自らの名を書き添えた。
二つの名前が並び、貴族院の魔法ならぬ、法と愛による永遠の誓いが完成した。
◇
誓約書に署名した、まさにその直後だった。
すっ、とヴィンセント様の指先が伸びてきた。 硬質な革手袋のない、温かな指の腹が、私の顎を優しく持ち上げる。
「あ……」
視線が絡み合う。 テーブルを回り込んできたヴィンセント様が、私の目の前へと膝を屈めていた。 互いの吐息が混ざり合うほどの、逃げ場のない距離。
彼の氷灰色の瞳の奥に、私だけの姿が鮮明に映り込んでいる。
「エレナ……」
囁くような呼びかけとともに、彼の影が重なった。
そっと、触れ合うだけの優しい感触。 慈しむように、慈雨が乾いた大地を潤すように、ヴィンセント様の唇が私の唇へと重ねられた。
甘く、深い口づけ。 ヴィンセント様の逞しい腕が私の腰へと回され、身体が引き寄せられる。
薄いドレス越しに、私の胸の早鐘のような鼓動が、彼の力強く脈打つ胸へとダイレクトに伝わっていく。
互いの心臓が、同じ速さで、同じ熱さで響き合っていた。
唇が名残惜しそうに離れた時、二人の視線が再び交わった。 ヴィンセント様は、朱に染まった私の頬を見つめ、蕩けるような甘い笑みを浮かべた。
私もまた、恥ずかしさに胸を熱くしながら、自然と笑みを返していた。
「ようこそ、私の愛する妻」 「ただいま戻りました、私の大切な旦那様」
ガラス越しに差し込む陽光が、寄り添う二人の影を温かく包み込んでいく。 澄み渡る風が庭園の花の香りを運び、新緑の梢が祝福するように鳴っていた。
ここはもう、冷たい幽霊屋敷ではない。 誰もが健やかに息をし、心から安らぐことのできる、光の満ちる私たちの家だった。
(完)
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