第8話「悪夢の対面」
私は静かにティーカップをソーサーに置き、背筋を伸ばして立ち上がった。
「エドワード、二人を第一客間へ通してください」
迷いのない私の指示に、老家令はわずかに目を見張った。
「よろしいのですか、エレナ様。あのような者たち、門番に命じて憲兵へ突き出せば済む話でございますが」
「構いません。自ら足を運んできたのであれば、ちょうど良い機会です。過去のすべてを、私自身の言葉で完全に清算いたします」
私の横で、ヴィンセント様が低く喉を鳴らした。
「エレナ。君が自ら手を下す必要はない。私が今すぐ近衛と私設騎士を動かし、あの男を叩き出しても構わないのだぞ」
「お気遣い感謝いたします、閣下。ですが……私の技術を侮辱し、出しゃばりと蔑んだあの男に、私自身の口から引導を渡したいのです」
私が真っ直ぐに氷灰色の瞳を見つめ返すと、ヴィンセント様はふっと息を漏らし、口元をわずかに緩めた。
「分かった。君の誇りのままに」
◇
一階の第一客間。 南向きの大きなアーチ窓から柔らかな自然光が降り注ぎ、調和の取れた象嵌細工のテーブルと、座り心地を計算し尽くした絹張りのソファが並んでいる。
空気は澄み渡り、過度な香水ではなく、庭園の白百合のほのかな香りが風に乗って漂っていた。
客間の扉の前で、対峙の時を待つ。 私のすぐ隣に、漆黒の燕尾服をまとったヴィンセント様が静かに並び立った。
その瞬間だった。 緊張からか、私の指先がふらりと動き、無意識のうちにヴィンセント様の燕尾服の裾をきゅっと小さく掴んでいた。
幼子が親を頼るような、あるいは唯一無二の伴侶に縋るような仕草。
自分でも気づかないうちに出たその行動に、ヴィンセント様が微かに視線を落とした。
彼が私の指先に気づく。 ヴィンセント様の端正な口元が、満足げに、そして酷く愛おしそうにふっと綻んだ。
「大丈夫だ、エレナ。私は隣室に監察官と騎士団を待機させておく。何かあれば、すぐに名を呼ぶといい」
低く囁かれたその声の温もりに、私の胸の動悸はすっと静まり、揺るぎない覚悟へと変わっていった。
ヴィンセント様が音もなく隣室へと姿を消すと同時に、客間の扉が重々しく開かれた。
「どうぞ、お入りください」
エドワードの冷ややかな案内とともに、二人の男女が客間へと足を踏み入れてきた。
――あまりの落差に、息を呑みそうになった。
そこに立っていたのは、かつて傲慢に顎を突き出していた名門侯爵家の嫡男の姿ではなかった。
ジュリアンの上着は煤け、襟元は黄ばみ、裾には泥が跳ねている。右頬にはマリアに付けられた生々しい引っ掻き傷が三本、赤黒く腫れ上がっていた。
その後ろに隠れるマリアもまた、けばけばしいドレスのレースが破れ、香水のどぎつい匂いと生ゴミの臭気を微かに漂わせている。
二人は、客間に足を踏み入れた瞬間、その場に縫い止められたように硬直した。
息を呑むほどに洗練された空間。 完璧な光の採光、淀みのない澄み切った空気、寸分の狂いもなく調和した美しい調度品。 そして、その中央に佇む私の姿。
公爵家の筆頭侍女たちが仕立てた、品格あるセルリアンブルーのドレスをまとい、背筋を凛と伸ばした私。
かつて地味で目立たないと見下していた女が、王宮のどの高位貴族よりも眩い気品を放ち、堂々と君臨している。
「あ……あ……」
ジュリアンの喉から、掠れた声が漏れた。 彼自身の薄汚れた姿と、この圧倒的な美の空間との落差。
自らが泥沼の底に沈んでいる現実をまざまざと見せつけられ、ジュリアンは屈辱と絶望に全身をガクガクと震わせた。
「お久しぶりですね、ジュリアン様。ローウェン男爵令嬢も」
私は一切の感情を交えず、氷のように滑らかな事務的敬語で告げた。
「カーライル公爵邸の客間へようこそ。どのようなご用件でしょうか」
私の落ち着き払った態度に、ジュリアンは我に返ったように顔を真っ赤に染めた。
彼は震える手で乱れた前髪を掻き上げ、必死に昔のような高圧的な見下し口調を取り繕おうとした。
「エ、エレナ……! 探したぞ! 公爵邸に匿われていると聞いて飛んできたんだ!」
ジュリアンは身を乗り出し、早口でまくし立てた。
「お前、いい加減にしろ! 婚約者の僕を放り出して、こんな屋敷に入り浸るなど、出しゃばり悪女にも程があるぞ! だが……安心しろ。僕は寛大な男だ。今すぐ屋敷に戻り、僕の執務室の書類を探し出し、家政を元通りにするなら、お前の数々の無礼を特別に許してやる!」
耳を疑うような言葉だった。 夜会をすっぽかし、不貞を働き、貴族院から契約不履行を突きつけられた男が、どの口で「許してやる」などと言えるのか。
隣のマリアも、私のドレスや装飾品を嫉妬に狂った目で見つめながら、甘ったるい声を張り上げた。
「そうよ、エレナ様! 公爵様のお情けで置いてもらってるだけのくせに、いい気にならないでくださる!? ジュリアン様は侯爵家の跡取りなのよ! 早く帰って、マリアのお部屋を片付けなさいよ!」
二人の醜悪な叫び声が、美しく整えられた客間に反響する。 呆れを通り越し、もはや哀れみすら湧いてこなかった。
「お断りいたします」
私の静かな一言が、二人の喚き声を断ち切った。
「な、何だと……? 僕の慈悲を断るというのか!?」 「慈悲? 勘違いも甚だしいですね」
私は一歩、ジュリアンへ歩み寄った。 私の射抜くような冷徹な視線に、ジュリアンが怯んだように半歩後ずさる。
「ジュリアン様。貴方は空間を管理することを『小賢しい出しゃばり』と嘲笑いましたね。ですが、現実をごらんなさい。空気の澱みは思考を奪い、散らかった動線は判断を鈍らせ、物の乱れは生活を崩壊させる。貴方が今、機密文書を失い、職務停止に追い込まれ、泥にまみれているのは、すべて貴方自身の傲慢と無能が招いた自滅です」
「ぐっ……な、何を……!」
「私はただ、あるべきものをあるべき場所へ戻しただけ。貴方が捨てた私の技術の価値を、今さら身をもって知ったところで、もう手遅れなのです」
私は怜悧な笑みを浮かべ、はっきりと宣告した。
「貴方との婚約契約は、貴族院法務局令第十四条に基づき、すでに正式に破棄・消滅しております。今の私は、カーライル公爵家の全権を委ねられた者。――二度と、私の視界に入らないでください」
冷酷なまでの拒絶。 完全な決別の言葉に、ジュリアンの顔が土気色から一気に怒りの赤黒さへと染まった。 プライドを木っ端微塵に粉砕された男の、浅ましい逆上。
「こ、この……出しゃばり悪女が調子に乗りやがってぇぇっ!」
ジュリアンは血走った目で叫び、獣のような形相で右手を大きく振り上げた。
剥き出しの暴力で、私を床に叩き伏せようと――その平手が私の頬へ振り下ろされようとした、まさにその瞬間。
バンッ――!
隣室の扉が凄まじい勢いで蹴破られた。
「――私の妻に、その薄汚れた手で触れる気か」
大気を凍てつかせる、地獄の底から響くような公爵の冷徹な一喝が、部屋全体を震撼させた。




