第7話「破綻の足音」
「貴殿が、近衛文官補佐ジュリアン・ヴァレンタイン殿でお間違いありませんな」
氷のように冷え切った男の声が、荒れ果てた屋敷の玄関ホールに響き渡った。
正面に立っていたのは、王宮査問委員会の正装に身を包んだ筆頭査問官だった。
その後ろには、抜刀こそ禁じられているものの、威圧感のある軍靴の音を鳴らす近衛兵たちが四名、厳しい表情で控えている。
「う……あ、は、はい……僕が、ジュリアンですが……」
ジュリアンは震え上がる膝を必死に抑えながら、掠れた声で答えた。 数日前の傲慢な態度は跡形もなく消え失せていた。
不眠と頭痛に苛まれた顔は土気色に濁り、目の下には黒々とした隈が張り付いている。整えられていない無精髭と乱れた襟元が、彼の生活の荒廃をそのまま物語っていた。
「……信じ難いな。これが由緒あるヴァレンタイン侯爵邸の現状か」
査問官は玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、眉を著しくひそめ、懐から取り出した白の麻ハンカチで口元を覆った。
屋敷の玄関ホールには、耐え難い生ゴミの腐敗臭と、饐えたカビの臭気が淀んでいた。
窓はすべて閉ざされ、換気が完全に滞っている。
大理石の床には、数日前に割れた高価な花瓶の破片がそのまま放置され、その上をマリアが脱ぎ散らかしたけばけばしいドレスや、食べ散らかした果物の腐乱した皮が覆い隠していた。
サクッ、と査問官の磨き抜かれた長靴が、床に転がっていた汚れた手紙と枯れた花を踏み潰す。
「足の踏み場もない。……侯爵家の名代として近衛文官補佐の任に就く者が、このような汚泥の中で暮らしているとは。職務規程以前に、貴族としての正気を疑わざるを得ない」
容赦のない査問官の言葉に、ジュリアンは屈辱で顔を歪めた。 だが、言い返す言葉など一言も持ち合わせていない。
「査問官殿、そ、それより本日のご用件は……! 我が家は代々、王家に忠誠を尽くしてきた侯爵家です! このような無礼な立ち入りは――」
「戯れ言はそこまでにしていただこう」
査問官は感情を交えない冷酷な目で、手元の羊皮紙をジュリアンへ突きつけた。
「本日正午までに近衛司令部へ提出される手はずとなっていた『近衛機密軍事予算公文書』の原簿が、いまだ提出されておりません。期限はとっくに過ぎている。今すぐ原簿を引き渡し願いたい」
「ひっ……!」
ジュリアンの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。 まさに先ほど、血眼になって探しても見つからなかった、あの赤い封蝋の書類だ。
「そ、その書類なら……今、書斎で最終確認を行っておりまして……! す、すぐに持ってまいりますので、少々お待ちを!」 「必要ありません。同行します」
査問官はジュリアンの言い訳を遮り、ズカズカと二階の執務室へと足を進めた。
開け放たれた執務室の惨状を目にした瞬間、近衛兵たちですら小さく息を呑んだ。
机の上は、未払いの高額な請求書、マリアの私物、化粧水の瓶、食べかけのパンが雪崩を起こし、床にまで書類の山が崩れ落ちている。
どこに何があるかなど、もはや神でも判別できないゴミの山だった。
「どこにあるのですか、原簿は」 「あ、あれ……? ここにあったはずなのに……な、ない……どうして……!」
ジュリアンは狂ったように紙屑を掻き分けた。 爪の間に埃が入り込み、手の甲が擦り切れるのも構わず漁るが、目当ての書類はどこにも見当たらない。
「ジュリアン様ぁ、何の騒ぎですのぉ? うるさくてお昼寝ができませんわ」
そこへ、寝起きのマリアがのそのそと姿を現した。 手入れのされていない乱れ髪に、襟元の崩れた薄手のガウン。手には高級な焼き菓子が握られている。
その顔を見た瞬間、ジュリアンの脳内で何かがプツリと音を立てて切れた。
「マリア! お前だ、お前が僕の机の上の書類をどうにかしたんだろう! 赤い封蝋の重要書類だ! どこへやった!」
「はぁ!? 何言ってるんですの!? マリアがそんな小汚い紙束知るわけないでしょう!」
「嘘を吐くな! さっき、暖炉の火種にしたと言ったじゃないか!」
「あれは冗談に決まってるじゃない! 自分の管理不足を女のせいにするなんて、本当に甲斐性なしの無能ね!」
「無能だと……!? この泥棒女が! お前の浪費のせいで屋敷中がゴミ溜めになったんだぞ! 少しは片付けたらどうなんだ!」
ジュリアンがマリアの腕を乱暴に掴もうとした、その時だった。
「キーッ! 触らないで、汚らわしい!」
マリアが甲高い叫び声を上げ、鋭い爪をジュリアンの顔面へ振り下ろした。
ピシャリ、と肉の裂ける生々しい音が響く。 ジュリアンの右頬に、真っ赤な三本の筋が刻まれ、鮮血がツーと垂れ落ちた。
「痛っ……! 貴様、何をする……!」 「マリアを怒鳴るような最低の男、こっちから願い下げですわ! 慰謝料をよこしなさい!」
床に散乱するゴミと腐敗臭の中で、互いに責任を擦り付け合い、罵詈雑言を喚き散らす侯爵令息と男爵令嬢。
かつて愛を語り合っていた二人の姿は、どこまでも醜悪で浅ましい獣の争いそのものだった。
「……茶番はそこまでだ」
査問官の冷え切った一喝が、狂乱の執務室を切り裂いた。 ハンカチで鼻を押さえた査問官は、ゴミを踏みつけながら、ゴミを見るような視線をジュリアンへ投げかけた。
「国家機密公文書の紛失、および重大なる職務怠慢。さらには邸内の管理破綻による職務執行不能と判断いたします。――ジュリアン・ヴァレンタイン近衛文官補佐」
査問官は懐から紫の封蝋が施された正式な辞令書を取り出した。
「王宮総務局および近衛総司令部の名義に基づき、本日ただいまを以て、貴殿の近衛文官補佐の職務を即時停止と処す。身柄は追って開かれる貴族院軍事査問委員会にて処分を決定する。それまで王都からの退去を禁ずる」
「しょ、職務停止……!? そ、そんな……僕の、僕の将来が……!」
ジュリアンはその場にへたり込んだ。 名門侯爵家の嫡男として約束されていた輝かしい出世の道が、足元から音を立てて崩れ去っていく。
査問官と近衛兵たちは、吐き気を催すような部屋から一刻も早く立ち去るべく、背を向けて足早に出て行った。
残されたのは、悪臭と埃、そして泣き喚くマリアの声だけだった。
「……頭が、割れる……息が、できない……」
ジュリアンは両手で頭を抱え、床の紙屑の中にうずくまった。 換気がなされない重苦しい空気は、呼吸をするたびに肺を圧迫する。
夜になっても強い香水の臭いと生活騒音で一睡もできず、昼間は頭痛と吐き気で身体が動かない。生活環境の崩壊が、彼の肉体と精神を確実に蝕んでいた。
その濁りきった瞳の奥に、ふと、ある一つの姿が浮かび上がった。
――エレナだ。
エレナがいた頃、この屋敷はいつも澄んだ風が通り抜けていた。 書類は常に完璧に整理され、彼が何一つ苦労することなく仕事を進められるようになっていた。
美味い茶が用意され、静かで完璧な夜が約束されていた。
「そうだ……エレナだ……! あいつが戻れば、すべて元通りになる……! あの書類だって、あいつならすぐに見つけ出せるはずだ!」
自らの身勝手な裏切りも、彼女に浴びせた無数の罵倒も、すべて都合よく忘却の彼方へ放り投げた。
ジュリアンは血の滲む頬を押さえながら、狂気じみた笑みを浮かべて立ち上がった。
「僕が直々に迎えに行ってやるんだ……! 出しゃばりのお前を、許して連れ戻してやる……!」
身勝手な妄信だけを杖にして、ジュリアンは千鳥足で屋敷を飛び出していった。
◇
その頃、光と風の巡るカーライル公爵邸のテラスでは、王宮からの使者がもたらした公文書がテーブルの上に広げられていた。
「ジュリアン・ヴァレンタイン近衛文官補佐……重要機密文書紛失による、即時職務停止処分……」
私は手紙に記された公式の記録を読み、小さく眉を寄せた。 私が手を引けば、いずれ屋敷の家政が滞るとは思っていた。
だが、まさかこれほど短期間で、国の根幹に関わる機密文書を紛失し、職務停止にまで追い込まれるとは想像していなかった。
空間を管理できない人間は、自らの人生すら管理できない。 前世で幾度となく見てきた破滅の典型例が、この世界でも寸分違わず再現されていた。
「……不安そうな顔色だな、エレナ」
背後から、音もなく低く穏やかな声が落ちてきた。 振り返る間もなく、大きな影が私の背中をそっと覆う。
ヴィンセント様が、私のすぐ背後に立っていた。 肌が触れ合うか触れ合わないかの、わずか一寸の距離。
彼の上質な外套の裾が、私のドレスのレースを微かに撫でている。
まるで私を外敵から完全に遮断し、その広い胸の内に包み込むかのように、彼の涼やかな影が私の上に落ちていた。
「閣下……」 「何も案ずることはない。あの男が自らの無能によって自滅しただけの話だ。君が心を痛める必要は欠片もない」
ヴィンセント様の声音には、絶対的な守護の意志が宿っていた。 私の肩越しに伸びた彼の手が、テーブルの上の公文書を軽蔑するように端へ除ける。
至近距離から伝わってくる彼の体温と、清らかな森の香気に、私の強張っていた心が一気に解けていくのを感じた。
その時、テラスの扉が控えめにノックされ、家令のエドワードが慌ただしい足取りで姿を現した。 その表情には、明らかな不快感と警戒が浮かんでいた。
「閣下、エレナ様。……正門前に、みすぼらしい身なりの不審者が押し寄せております。ヴァレンタイン侯爵家の嫡男と、ローウェン男爵家の令嬢と名乗っておりますが……」
エドワードの報告に、ヴィンセント様の氷灰色の瞳が、冷徹な刃のように鋭く細められた。




