第6話「溢れる甘情」
契約という名で結ばれたはずの絆が、いつの間にか私の心を甘く締め付けていた。
あの日、王宮の夜会で交わした約束。
それは冷遇された私を救い出し、不眠に苛まれる公爵に安らぎの空間を提供するという、互いの利害が一致しただけの契約関係だったはずだ。
感情を交えず、ただ職人として全力を尽くす。 そう自らに言い聞かせてきたはずなのに、私の胸は日々、激しい動悸に揺さぶられていた。
図書室で無理をした私を、叱るように抱き上げて自室へと運んだ彼の腕の強さ。
私の指先が冷えていればすぐに暖炉の火を強め、少しでも疲れた顔をすれば執務の手を止めて寄り添ってくる、あの過剰なまでの優しさ。
――私はただの、空間を整えるための契約妻なのに。
彼が向けてくれる眼差しを、そのまま受け取ってしまっていいのだろうか。
高位の公爵であり、国を背負う彼に対して、一介の伯爵令嬢に過ぎない私が特別な感情を抱くことなど、許されるはずがない。
そう頭では理解していても、彼の気配を感じるだけで、私の肌は熱を帯びてしまうのだった。
◇
夕暮れの柔らかな琥珀色の光が、本館二階のプライベートリビングを染め上げていた。
この部屋も、私が徹底的に手を加えた空間の一つだ。 西日の強すぎる刺激を和らげるため、生成りのリネンカーテン越しに拡散光として取り込んでいる。
家具の角は丸みを帯びたものを選び、身体を深く預けられる低座の布張りソファを配置した。
テーブルの上には、鎮静効果のあるカモミールと上質なベルガモットをブレンドした特製の紅茶から、湯気がふわりと立ち上っている。
「……美味いな」
向かいのソファで、ヴィンセント様がふっと口元を緩めた。
公務の厳しさを感じさせる軍服の上着を脱ぎ、薄手のシャツ一枚になった彼は、驚くほど無防備な空気を纏っていた。
国を動かす冷徹な公爵の姿はそこにはない。ただ、安らぎに満たされた一人の青年の顔だった。
「お口に合って良かったです。閣下の神経を鎮め、今夜も深い眠りにつけるよう調合いたしました」
「ああ、君の淹れてくれる茶を飲むと、身体の芯から強張りが解けていくのが分かる。……君が来てからというもの、私は夢すら見ずに熟睡できているよ」
ヴィンセント様はカップを置くと、氷灰色の瞳をじっと私に向けた。 その瞳の奥にある熱に射抜かれ、私は思わず視線を泳がせてしまう。
沈黙が落ちる。 けれど、以前のような息苦しい沈黙ではなかった。 お互いの吐息と、かすかな衣擦れの音だけが響く、甘やかな静寂。
――聞きたい。でも、聞いてはいけない。
この人は、私の技術を必要としているだけなのか。 それとも、私という存在そのものを……。
契約という境界線が、互いの踏み込みを阻む見えない壁となって立ちはだかっていた。
動揺を隠すため、私は残りの紅茶を飲み干し、カップをソーサーに戻そうと手を伸ばした。
その時だった。
すっ、とヴィンセント様の大きな手が伸びてきた。 カップの持ち手を握る私の白く細い手の上に、彼の温かな手のひらが、吸い付くように重なる。
「閣、下……?」
息が止まった。 引こうにも、彼の指がそっと滑り込み、私の指の隙間を埋めていく。 手を引くどころか、ヴィンセント様は自らの指を私の指へと深く絡ませた。
指と指が隙間なく噛み合う、完全な恋人繋ぎ。
「あ……」
私の唇から、微かな吐息が漏れた。 触れ合っている手のひらから、彼の熱が波のように押し寄せてくる。
ヴィンセント様の手は、力強いはずなのに、壊れ物に触れるようにかすかに震えていた。
「エレナ」
見上げた先で、ヴィンセント様の氷灰色の瞳が、潤んだように揺れていた。 普段の毅然とした響きはどこにもない。
掠れ、震えるような声音が、至近距離で私の耳朶を打った。
「君がいない空間には……もう、戻れない」
胸が、激しく跳ねた。 空間コーディネーターとしての仕事への賛辞ではない。
彼が求めているのは、部屋の美しさではなく、そこに私がいることそのものなのだと、その瞳が雄弁に語っていた。
「私の世界は、君が来るまで暗闇と頭痛に満ちた牢獄だった。……だが今は、君のいるこの場所だけが、私の生きる世界のすべてだ」
ヴィンセント様は絡めた手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。 テーブルを回り込み、私の座るソファのすぐ隣へと腰を落とす。
ぐっと距離が縮まり、彼の甘い体温と香気が私の全身を包み込んだ。 逃げ場のない近さに、私の心臓は早鐘を打ち、息をすることすら忘れてしまう。
「閣下……私、は……」
震える声で紡ごうとした言葉は、彼の長い指先によって遮られた。 ヴィンセント様の指が、私の頬を滑り、耳元へと流れる髪をすくい上げる。
艶やかな髪の束を愛おしそうに指に巻きつけ、彼は自らの唇を、私の髪へとそっと押し当てた。
柔らかな感触と、熱い吐息が髪越しに頭皮へと伝わってくる。
「……私の、唯一の光だ」
祈るような、深い愛を込めた口づけ。 凍りついていた私の心の奥底が、跡形もなく甘く溶かされていくような、底知れぬ幸福感が全身を満たしていった。
◇
一方その頃、王都の反対側に位置するヴァレンタイン侯爵邸の執務室は、破滅の様相を呈していた。
「ない……! どこだ、どこへ行ったんだ!」
ジュリアンは狂ったように机の上の書類を掻き乱していた。
マリアが買い漁ったドレスや装飾品の未払いの請求書、食べかけの菓子の皿、開け放たれたインク瓶が散乱し、机の上は見るも無惨な雪崩を起こしている。
床にも足の踏み場がないほど紙屑が散らばり、窓が閉め切られた部屋には埃とカビの臭いが充満していた。
「見つからない……嘘だろ……あれがないと、僕は……!」
青ざめたジュリアンの額から、滝のような冷や汗が流れる。 探しているのは、本日正午までに王宮の近衛司令部へ提出しなければならない「期限付きの近衛機密文書」だった。
近衛文官補佐としての彼の職務における、最重要書類である。
以前であれば、エレナが重要度と提出期日ごとに書類を分類し、施錠された棚に完璧に保管していた。ジュリアンは指定された場所から書類を取り出し、サインをするだけで済んでいたのだ。
だが、その管理体制を「男の仕事への出しゃばり」と罵って破壊した結果、どこに何が紛れ込んだのか、彼自身にもまったく判別がつかなくなっていた。
「おい、マリア! お前、僕の机の上にあった赤い封蝋の書類を知らないか!」
ジュリアンが血走った目で扉の向こうへ叫んだ。
「知りませんわぁ! そんな汚い紙束、マリアのお化粧の邪魔だったから、暖炉の火種にでもしたんじゃありませんことぉ?」
遠くのサロンから返ってきた呑気な声に、ジュリアンの全身の血が凍りついた。
「だ、暖炉……? 国家機密を……火種に……?」
膝から崩れ落ちそうになったその時だった。
ドンドン、と。 屋敷の玄関ホールから、重々しく、一切の容赦のない足音が響いてきた。
カチャリと金属が擦れ合う冷たい音。
近衛の制服を着た兵を従え、王宮からの査問官が、無断で侯爵邸の廊下を歩み進んでくる音が、ジュリアンの耳に絶望の鐘のように鳴り響いていた。




